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第28話 栄光のゴールへ ‐杉浦完児‐

とうとうここまで来ました。


 遠のいた意識を取り戻した時、オレの目の前には百合香が立っていた。その足はすでに、ゴールのこちら側にある。つまり、オレも百合香もすでにゴールを果たしているってことだ。

「あ、杉浦が起きた」

 そんな言葉をかけてきたのは義高である。そして周囲を見る限り、歓喜に沸いている様子はない。それはすなわち、まだ決着が着いていないことを意味していた。

 ということは何だ、あと残っているのは……。

 少し考えて、オレは慌てて立ち上がる。

「あと、海鳥ちゃんだけじゃねーかっ」

「そうよ」

「何で落ち着いてんだよ。お前がこっちにいてお嬢が向こうにいたらマズいだろうが。どーして道連れにしてゴールしなかったんだよ、このバカ百合香!」

「馬鹿?」

 当然の指摘に返される視線が、とてつもなく怖い。理由はよくわからないが、大層機嫌が悪いように見えた。こういう時は目を合わせないようにして別のことへと目を向けた方がいいだろう。うかつなお世辞などを並べて機嫌を取ろうとすると大抵失敗する。オレは小さい頃からの経験から、それを学び取っていた。

 都合よくと言うべきか、人垣から大きな歓声が上がる。オレはできる限り自然を装って、視線を観衆の向けている方向へと動かしてみた。その先に、小さな影が見える。頼りなさそうなシルエットだ。こちらに山を成しているように見える観衆に怯えているようでさえある。

 まぁ、いかにも海鳥ちゃんらしい反応だ。

 二年間こちらでの遠足を経験し、ある程度予想しているオレですら、この圧倒的な人数には驚いた。海鳥ちゃんなど、何事かと思っているだろう。ましてそれが自分を待っているなどとは、夢にも思っていないハズだ。

 だけど、待っているのは温かい仲間や熱狂する観衆ばかりじゃない。

 お嬢はゴールのアーチから背中を離し、一歩一歩を踏み締めるようにして近付いていった。しばらく進み、やがて立ち止まる。大して広くはない道だが、その中央に仁王立ちする姿は、通せんぼと呼ぶにはあまり厚い壁に見える。こちらからでは表情がわからないが、その背中はどこか浮かれているような、最後まで取っておいたケーキのイチゴでも頬張っているような、そんな風にも見えた。

 やべぇ。これは絶対にやべぇよ。

 お嬢は断然やる気だ。というより、むしろこの時を待っていたかのようでさえある。一方の海鳥ちゃんが、どれだけの気構えを持ってここに近付いているのだろうか。しかも残念だが、気持ちだけでどうにかなる相手じゃない。

 勝算なんてあるのか?

 もちろん、ルールから考えればお嬢が一方的に海鳥ちゃんを痛めつけるような展開にはならないだろう。二人の実力差は誰が見たって歴然としている。むしろうかつに技を披露したら、お嬢が止められる可能性が高いだろう。そしてもちろん、お嬢がそんな手段に出るハズがない。勝利することに執着しているからこそゴール前で待ち構えていたんだ。そういう展開は期待できない。

 とはいえ、海鳥ちゃんに勝機があるとするなら、その部分をおいて他にはないだろう。天然臭い彼女だが、頭が悪いワケじゃない。それに独りになってもここまで歩いてきたんだ。勝ちたいという意志があることも明白だった。オレ達の姿だって見えている。自分がゴールすれば勝利をつかめることくらいは、わかっているハズだ。

 と、海鳥ちゃんが奇妙な行動に出る。背負っていた黄色いリュックを下ろして、道の脇に広がっている藪に立てかけたのだ。何をしているのだろうと不思議に思ったが、改めてゴールへと向けられた瞳を見て、彼女の決心を悟る。どうやら受けて立つつもりのようだ。確かに逃げたところで事態は好転しない。少しでも身を軽くして対処しようという判断も間違ってはいない。だが、それはむしろ危険じゃないのか?

 一方のお嬢は、笑っているように見えた。少なくとも喜んではいるだろう。むしろ一方的に怯えていた方がやりにくかったハズだ。それが自ら準備を整え、やる気が感じられるのだから、手を出しやすくなったことは間違いない。失策だ。

 くそ、どうして百合香も義高も、ゴール前で待機してなかったんだ。これじゃあ手も足も出せないじゃないか。いや、それどころか口だって出せない。

 どうするんだよ、おい。

 オレは右に立つ百合香と、左に立つ義高を交互に見る。だが二人の表情はやけに落ち着いていて、良く言えば余裕があるように見えた。まるで優勝することを確信しているような、あるいはすでに諦めているような、極端だがどちらにも映る。

 何だよ、焦ってるのはオレだけみたいじゃないか。

 もっとも、ここでオレが焦ったところで何がどうなるワケでもない。むしろ二人の対応の方が正解だろう。ゴールしちまった者は、もう見守ることしかできないんだから。

 オレも覚悟を決めて正面へと向き直る。

 風が、緑の草原を走り抜けた風が、睨み合う二人の間にタンポポの綿毛を舞い躍らせる。平和と言えばあまりに平和な光景だ。春という季節であることを改めて思い出させてくれるような、そんな情景の中に二人はいた。そして最後の綿毛が二人の間を通り過ぎた瞬間、影が動く。

 先に動いたのはお嬢だ。

 基本的に彼女は待つべきだろう。目的からしても、状況からしても、自分から動くのは得策じゃない。どちらかというと守るべき立場にいるのだから、その方が妥当だ。

 だが、オレは驚かない。

 いかにもお嬢らしい選択だと思ったからだ。アイツは運や状況で何とかなるような勝利を好まない。あくまで自分の力で、実力でもぎ取ってこそ価値があると思えるような奴だ。そして恐らく、何かしらの勝算があると思っているからこそ仕掛けている。もちろん、この実力差で襲い掛かればケチがつくだろう。そうならないためには……捕まえるつもりだな!

 シンプルだが、逃がさなければお嬢の方が圧倒的に有利だ。手の内に納まってしまったら、それこそどうすることもできなくなるだろう。

 マズい。逃げろ、海鳥ちゃん!

 うっかり叫びそうになる口を必死に閉じつつ、心の中で激しく念じる。だが心の声までは届かないのか、海鳥ちゃんの足は地面に張り付いたように動かなかった。いや、この雰囲気とお嬢の気迫に圧されて動けなかったのか。いずれにしても、今の彼女にはなす術などないように見えた。

 もう駄目だと、顔を逸らして目を閉じかけた瞬間、左脇の茂みから一陣の風が走り出てくる。

 それはさっきの穏やかな風とは違い、木枯らしのような、春という季節には似つかわしくない鋭さと速さを伴っていた。だが同時に、この状況にあっては望ましい激しさでもある。

「チッ!」

 お嬢の手が、不意に目標を失って宙を掻く。

 突然現れた一陣の風――山岸は呆然と立ち尽くしていた海鳥ちゃんを突き飛ばすようにして右側の藪へと消え去る。誰もが、ここにいる観衆のほとんどが、奴の存在を忘れていたオレを含めて唖然としていた。何が起きているのか、正確にはわかっていないだろう。わかっているハズのオレですら混乱しているんだ。

 ただ、これで一方的な展開でなくなったことは間違いない。

 山岸頼む。お前だけが最後の望みだ!



「……今のは山岸?」

 突然の乱入に、さすがのお嬢も驚いているようだが、それも一瞬のことだった。

「まさか、あの人間国宝が姫以外の護衛をするなんてね」

 落ち着きを取り戻し、冷静に事態を分析している。相変わらず、ここぞという時の対応には一分の隙もない女だ。だから男にもてないんだろうな。

 まぁいいか、レズだし。

 一方の海鳥ちゃん達は、茂みに飛び込んだまま動きがない。隠れるには都合がいいものの、周囲が森に囲まれているワケじゃない。そのままコッソリとゴールなどという芸当は不可能だった。そしてもちろん、このまま時間を待ったところで状況は好転しない。お嬢の目的は海鳥ちゃんの動きを封じることだ。強引に押さえ込んでも、海鳥ちゃん自らが茂みに留まったとしても、結果に大きな違いはなかった。

 いずれにしても、彼女があの茂みから出てゴールに飛び込まない限り、オレ達の勝利はない。そして、そのことをわかっているからだろう。お嬢は油断なく茂みを睨みつけたまま、動こうとはしなかった。茂みを自分から襲えば、その隙をつかれて二人が飛び出し、ゴールへ向かわれると踏んだのだろう。海鳥ちゃん一人ならともかく、相手は二人いる。同じ青ジャージを着た二人が同時に飛び出したら、それだけでも混乱を生む可能性はある。その対応が遅れることを、お嬢は警戒しているんだろう。

 正解だ。ホント、憎らしいと思えるほど正解だぜ。

 さぁどうする、海鳥ちゃん。待っていてもお嬢は動かない。一か八かで飛び出すか、それとも何か別の――

 パスッという微かに掠る音と共に、茂みから何かが発射される。もし至近距離に近付いていたら確実に虚をつかれていただろう。だが、この程度の攻撃はお嬢の予想の範囲内だ。アイツは射出された小さな塊――おそらくはかんしゃく玉を見切ったように最小限の動きでかわす。そして、同時に飛び出してきた二つの影へと視線を走らせた。

 マズい。お嬢の対応が速すぎる。あれじゃあ意表をつくなんてことはできっこないぞ。いくら別方向に飛び出したからといって……あ、一瞬お嬢が逆をつかれた。

 これはオレも驚いた。ゴールを目指すべきは言うまでもなく海鳥ちゃんである。つまり、山岸は囮でしかない。だから、セオリーから考えれば海鳥ちゃんがゴール側、山岸はその反対に飛び出すべきところだろう。それなのに、このギリギリの状況で、二人は真逆のことをしてきたのだ。つまり山岸がゴール側、その反対に海鳥ちゃんが飛び出したことになる。その予測に反する行動が一瞬ながらお嬢の判断を鈍らせ、行動を半歩遅らせた。

 しかも更に驚いたことに、海鳥ちゃんが何やら火薬玉のような物を振りかぶっている。本来の攻撃主である山岸ではなく、人畜無害に見える海鳥ちゃんからの不意打ち、これはイケる。間違いなく成功――

 しなかった。

 流れるような動きで間を詰めたお嬢が、頭上にあった二つの不審物ごとその手を左手で払いのける。勢いの方向を変えられた火薬玉は彼女の手を離れ、茂みすら越えた草地の真ん中で炸裂した。瞬間的に煙が広がり、その周囲を包んで光を奪うものの、誰もいない場所で広がった煙に意味はなく、すぐに走り抜けた突風によって流されていった。

 この展開に、場が停止する。千載一遇のチャンスがこの瞬間に失われたことを、オレを含む誰もが実感していた。しかも、それだけじゃない。今まで何とか保っていた二人の距離が、最悪の体勢でゼロになっている。お嬢はニヤリと笑みを浮かべ、ここぞとばかりに掌底を鳩尾に叩き込んだ。仕掛けたのは残念ながら海鳥ちゃんの方だ。いかに実力差があるといっても、ここで反則を主張することはできない。そもそも、そんな勝ち方なんて興ざめだ。

 終わったか……いやっ。

 崩れ落ちる海鳥ちゃんを見下ろすお嬢の背後から、山岸が襲いかかった。背後からの不意打ち、しかも二対一という戦力差、こちらこそ反則スレスレの際どい攻撃だ。もっとも、山岸とてそのくらいは承知の上だろう。そもそも奴はそれほど格闘が得意じゃなかった。華奢だしパワーもない。総合力からしても、お嬢が劣るところはないだろう。正面切って勝てる相手じゃない以上、一か八かは必要な賭けだ。

 だが、そのためには海鳥ちゃんが寝たままでは意味がない。この僅かな隙をついてゴールに向かわなければ、どんな犠牲も単なる犬死だ。

 慌てていたのだろう山岸の大振りな不意打ちを巧みなサイドステップでかわし、お嬢が体勢を整える。

 駄目だ。海鳥ちゃんは起き上がれない。うつ伏せに倒れたまま動けそうもなかった。後頭部にのっている小さなポニーが、輝きを放つことなくしおれている。

 万事休す、そんな言葉が頭の中で木霊する。

「アンタは先にゴールで――」

 もはやヤケクソにすら見える山岸の突きをかいくぐって、お嬢が渾身の一歩を踏み出す。

「待ってなさいっ!」

 山岸の胸の真ん中に、回転力と体重の全てを乗せた一撃が突き刺さった。元々軽い山岸は腕と脚を前方に投げ出したような格好のまま弾き飛ばされ、着地してからも勢いが衰えることなく転がった。

 やべぇ、山岸踏ん張れ!

 オレは願う。心の中で叫ぶ。

 だが、その声にならない声は、どこにも届くことはなかった。

 奴がその勢いを止め、大の字になって伸びていた場所は、すでにゴールのこちら側、つまりもう助けに戻ることのできない場所だった。最後の望みは海鳥ちゃん自身だが、すでに彼女は一撃を喰らっており、多分動くことすら満足にできない。

 負けた。

 完敗だ。

 悔しいが、海鳥ちゃんはよくやったよ。頑張った。

「くっくっくっくっ……」

 この展開に場が静まる中、不自然とも思える忍び笑いが響く。その主に全員の視線が集中し、そして驚愕した。

 笑っていたのは、海鳥ちゃんだった。

 どうして笑うんだろうか。理由が全くわからない。だが、その疑問を一番に突きつけるべき存在、お嬢はどういうワケか、自分の右手を見詰めたまま呆然としていた。笑いを気にするどころか、聞こえてすらいないような素振りだ。

「……やられた、か」

 穏やかな笑みと共に、彼女はそんな呟きを漏らす。

 何がどうなっているのかわからないとばかりのざわめきが起き始めると同時に、誰かがゴールラインに走り寄ってくる。いや、向かっているのはゴールじゃない。大の字になって寝ている山岸に向かってだ。

 その下級生を思わせるほどに小さく、頭の右で揺れている鮮やかな黄色いリボンが、彼女の地味な外観とは少し不釣合いだった。だが、山岸の首へと飛びつくその姿を見た瞬間、オレは気付く。

 高く掲げられた右手に、黄色い星が輝いていることに。

 抱きついて泣きじゃくる女子――確か美波とか言ったか、彼女をなだめながら上半身を起こすと、白黒の犬という奇妙な仮面が剥がれるように落ちていく。そこには間違いなく、ポニーテールを解いた海鳥ちゃんの笑顔があった。

 この瞬間、オレ達の勝利が確定する。

 ゴールは、歓喜に包まれた。


次回が最終回となります。

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