第27話 モンスターの恥へ ‐藤嶋百合香‐
わたしは今、かなり機嫌が悪かった。
あまりのムカつきに、恐怖すら遠のいたくらいだ。
ちなみに数秒前まで、わたしは泣く寸前だった。いかに原因の特定が出来ようと、誤魔化すための手段を得たと言っても、やはり怖いものは怖いのだから仕方がない。どうあっても、暗いのが苦手なことは変えようがなかった。
煙に巻かれて視界が閉ざされた瞬間には、あまり恐怖を感じなかった。確かに景色は暗くなり、仲間の姿も見えなくなったけど、側にいることは感じられたし、その時はゴールすることに対して夢中だったから、忘れられていたのだろうと思う。
しかしふと気付いた時、背後にいる筈の気配はどこにもなくて、煙の只中にいないというのに視界は晴れず、四方を壁に――特に背後と天井を閉ざされたのである。状況の激変に驚くと同時に、独りになった不安感から、わたしはパニックに陥った。叫び声を上げ、その声が反響し、耳の奥で増幅されたように響き渡る。多分、しばらくは動くことも出来ずに立ち尽くしていたのだろうと思う。思う、というのは、どれだけの時間を失っていたのかがわからなくなるほどに記憶が曖昧だからだ。そして次に自らを取り戻した時、わたしはもう、考えることも思うことも拒絶して、唯一視界に入った光へと駆け出していた。もしその先に罠が仕掛けられていたら簡単に引っ掛かったことだろうし、外から覗き込んでいた『彼女』の姿に気付くのが遅れていたなら、転落によって怪我の一つでも負っていたかもしれない。ともかく、洞窟内に罠が仕掛けられていなかったことも、そこから出る直前に彼女――十河さんの姿に気付いたのも、幸運と称すべき偶然だった。
いや、あるいは後者は、そのまま落ちていた方が良かったのかもしれない。
今も微かに聞こえてくる悲鳴というか絶叫というかだけを残して、十河さんは土煙と共に走り去っていく。向かっている方向はゴールから少し外れているようだが、多分彼女的にはゴールへ向かっているという感覚すらないのだろう。そのあまりに直線的な走りは、目標に向かっているというよりも、むしろ天敵から巣穴へと逃げていくネズミかウサギのようだ。いや、彼女のちんまりした容姿を考えれば、本人の中でもそんな風にイメージされているのかもしれない。
ということは、わたしは猫科の肉食動物か鷹などの猛禽類といったところだろうか。
「ふざけるなー!」
わたしは叫んだ。心から絶叫した。
「大体、何でわたしの姿を見た瞬間に悲鳴を上げながら一目散に逃げ出すワケ? わたしゃモンスターかっ!」
化け物とか魔物とか、あのバ完児には散々言われてきたけど、こんな風に逃げられたことはない。そう考えると、アイツは口では色々と言いながら、わたしのことを一人の人間として見てくれていたのだとわかる。
いや、もちろん微妙に嬉しくないんだけど。
とにかく、わたしのような臆病で繊細な『女の子』を見ての反応が一目散に逃げ出すというのは、あまりに間違った選択肢だと思うのですよ。というか独りにしないで!
しかも、だ。
足元へと視線を下ろし、慌てて正面へと戻す。その視界の下部で、森と平野の境界線が遥か彼方にまで伸びている。長く長く続いた遠足、森と山を渡り歩くわたし達の旅も、いよいよ終幕へと近付きつつあるということだ。ゴールはすぐそこ、それは間違えようのない事実である。
だけど困った。
わたしは色々と怖いものがあるけど、やはりというか高い所も苦手だった。とはいえ背後は暗い洞窟、戻ることも進むこともできず、ただただ立ち尽くすしかない。でも、このままでは駄目だ。誰かが助けてくれるなんて期待を持つことはできない。そもそも、他のメンバーだって、それこそみどりだって、こういった苦難の中に放り込まれているに違いないのだ。かつて独りになった時、彼女は何も出来ずにわたし達が助けてあげた。でも、今はきっと違う。例え独りになっても、今のみどりなら自分の足でゴールへと向かうことだろう。
何も出来なかった彼女が自力でゴールを果たし、その努力をわたしが無駄にするなど、絶対にあってはならない。そう、そんなことは許されないのだ!
わたしは目を閉じ、まずは意識を落ち着かせる。何事も冷静さを取り戻してからでなければ上手くは運ばないだろう。とりあえず周囲の状況を忘れ、完全にリセットしてからこれからのことを一つ一つ考えていくべきだ。
目蓋の作り出す暗闇、その中にあって、囁くような音と優しく撫でるような感触だけを残して去っていく穏やかな風だけが、意識を次第に落ち着かせていく。と同時に、わたしは奇妙な事実に気が付いた。
この闇も、少し前に叫びながらくぐり抜けた闇も、同じ闇であることに変わりはない。しかし一方はわたしに恐怖を、もう一方はわたしに落ち着きを与えてくれる。この滑稽なまでの違いは何なのだろうか。いや、考えるまでもない。それは単純な、わたし自身のワガママなのだろう。自分で作ったものなら良くて、誰かに押し付けられたものは嫌い、そんな子供染みた意識による身勝手な感情に過ぎないのだ。もっとも、それがわかったところで怖いものは怖いのだけど。
ただ、ヒントには行き着いたような気がする。
わたしはそのまま、足元どころか前方すら見ることなく無造作に一歩を踏み出した。ほんの一瞬、全てを忘れて前に出るという行為である。その先に何が待っているのかがわからなければ、恐怖を感じる余裕もない。
ある筈の地面を失ったわたしの足は、吸い込まれるように下へと向かい、突然のように勢いを増した風と共に意識が無意識へと移行を始める。咄嗟に開かれたわたしの視界には、迫る緑が襲い掛かるように近付いていた。
落ち着いて歩ける地面に生還を果たしてからは、順調な行程だった。目を閉じたまま落下という無謀なチャレンジの末に掠り傷一つなかったことは、単に運が良かっただけだと思う。決して化け物染みた身体能力の賜物なんかではない。そう、間違いない。
そもそも、上からだと目も眩むような高さに見えた洞窟の出口だけど、下から見れば大した高さでもなかった。垂直跳びで届くかどうかという程度の高さだ。多分三メートルくらいだと思う。いくら目を閉じていたとは言っても、その程度の高さから落ちて怪我をするほど人間はヤワじゃない。手から着地して前方宙返りと共に体勢を整えるくらいは常識的な範囲だろう。
うん、わたしは普通の女の子だからね。
ともかく、暗闇と断崖絶壁という二重の苦難を乗り越えてきたわたしは、意気揚々とゴールへ向けての遊歩道を歩いていた。一目散に走り去った十河さんの行方が少しばかり気にならなくもなかったけど、一応は敵対する班のメンバーには違いないワケで、そこまで心配してあげる義理もないだろう。それにあの足の速さだ。少し進路がずれた程度なら、さほど時間を要することなく戻ってくるに違いない。
幸いと言うべきか、森を抜けた視界は思っていた以上に広く、遥か遠くからでもゴール地点を望むことが出来る。だからこそ、わたしも安心してゴールに向かえるのだ。もちろん、油断をするつもりはない。十河さんが洞窟の出口に居たように、要の班のメンバーがゴール前で待ち構えている可能性は極めて高かった。というより、あの子なら間違いなく――
「やっぱりね」
溜め息と共に、そんな言葉が漏れる。
「やっぱり?」
ゴールを主張するアーチの片方に背中を預けていた要が、わたしの溜め息に不満そうな視線を返してきた。その視線を受け止めて、やや呆れつつ口を開く。
「居ると思ったってこと」
「勝つためには必要なことだもの。当然でしょ」
「まぁ、わからなくもないけどね」
だからこそ予想していたワケだし。
それにしても、要の勝利に対する執念というか心意気には頭が下がる。何より凄いのは、その思いを目に見える形になるよう実行できていることだ。こうして優勝争いをしているわたしがこんなことを思うのも何だけど、優勝という出来事をリアルに実感し始めたのは、せいぜい四区に入ってからだろう。それ以前は、口ではとやかく言いながら、どこか絵空事のような印象を持っていたと思う。少なくとも、わたしはそうだった。
でも、要は違うだろう。他のメンバーはともかく、要だけは今の状況をリアルに想像していたような気がする。これが途中でリタイアでもしていたら滑稽な話なのだろうけど、それでも今この状況にあるのは、単なる偶然の産物ではないハズだ。
そういう点では、要という女の子は本当に凄い。素直に感心させられるというのが本音だ。
「で、そこで番を張っているということは、ゴールしようとするわたし達を片っ端から――」
彼女の真意を問いただそうと口を開いたところに、背後から獣の雄叫びみたいな声が聞こえてくる。いや、近付いてくる。ゴールラインの向こう側は数多くのギャラリーでごった返しており、かなり賑やかな様相だ。にもかかわらず、その喧騒に負けないだけの声量と気迫が、こちらへ向けて猛烈なスピードと共に移動していた。
それも二つだ。
もちろん、どちらも聞き覚えがある。少なくとも一つは聞き飽きているほどの声だ。
「馬鹿二人か」
要の発言は極めて端的であり、辛辣であり、正確だった。
むろん、わたしも同感だ。
二人は勢いそのままにわたしを追い抜き、ゴールアーチをくぐる一歩手前で急停止した。あのアーチをくぐってしまったら、最終決戦も単なる私闘のチャンバラである。その辺りは当人達も心得ているのだろう。ここが見せ場とばかりに互いの得物を構えて向き直った。
「行くぞオラァ!」
「来やがれコラァ!」
言葉の勢いは強いけど、その構えに力強さは感じられない。単に走ってきたからというだけでもないのだろう。ここに来るまでにも何度か木刀を交えてきたことは聞くまでもなかった。もうスタミナも限界なのか、息も荒く足元も踏ん張りが利いていないように見えた。それこそ、突風の一つでも吹けばゴールに押し流されるのではないかと思えるほどだ。
「オレは……いや、オレ達は負けん!」
最早声しか武器のなくなった完児の強がりに、観衆がどよめく。正直、そういう反応は馬鹿が調子付くから止めて欲しいところなんだけど、ゴール前の盛り上がりに水を差すのも野暮だろうし、わたし一人の発言で静まったりはしないだろう。仕方ないけど、見守るしかない。
「何言ってやがる。勝つのは俺達だっ」
売り言葉に買い言葉という増田くんの言葉に、またもや観衆がどよめいた。よくよく聞かなくても大した発言じゃないんだけど、こういう場ではシンプルな言葉の方が受けが良いのかもしれない。
「よく考えてみろ。ウチには百合香がいるんだ。実力から人気まで、ここまでのキャストはそういないぜ?」
もう……バ完児ったら変なこと言わないでよ。
照れるじゃない。
「それならコッチにだってお嬢がいる。総合力では上だし、女子の人気なら絶対に上だね」
まぁ確かに。事実、この発言に黄色い声援が上がっている。それにしても『お姉さま』って、要は下級生女子に人気があるのは知ってたけど、どの程度親密なのか今度問いただしてみようか。
「あのなー、お嬢はレズなんだから女に人気あるのは当たり前だろーが!」
あの馬鹿。公衆の面前で何てことを……あー、要が凄い顔で睨んでるよー。知らないからね。
「何言ってんだ。藤嶋の腐女子っぷりを知れば人気なんかガタ落ちだろーがよ!」
なっ!
だ、誰が腐女子だっ。
いや、確かにレンくんとか好きだけどさ!
でもあのくらい普通でしょ。カップリングとかまで踏み込んでないもん。断固ノーマルだもん!
というか、どうして増田くんがそんなことを知ってるの?
まさか、バ完児がしゃべったんじゃ……。
「浅はかだな、広樹。女ってのは少しくらい欠点があった方が可愛いもんだ。その点ウチの百合香なんぞ、暗いのとか怖いのとか高いのとか虫とか爬虫類とか両生類とか、とにかく苦手な欠点が一杯なんだぞ!」
「そんなの女子なら普通だろーが。ウチのお嬢なんか男が苦手なんだぞっ。全人類の半分は苦手だ!」
「そんなんホントにタダのレズじゃねーか。ウチの百合香なんぞ、何でも出来るような顔をして壊滅的な料理を作るんだぞ。これこそ理想的なギャップ萌えというヤツだ!」
「ギャップならお嬢も負けてねーぞ。こんなお嬢様みたいなナリをしてるクセにメチャメチャ貧乏しょ――」
増田くんの台詞は途中で途切れた。いや、遮られたと言うべきか。鋭く身を翻した要の掌底――勢い良く踏み込んだ左足への体重移動を見事に突き出す力へと変換した一撃によって、文字通り吹っ飛んだからである。ちなみにその隣では、わたしの拳を横っ面に貰った完児が同様に吹っ飛んでいた。もっとも、わたしの一撃は要のそれほど美しくはない。どちらかというと力任せの一撃だ。
まぁ、怒らせた完児が悪いんだけど。
いずれにせよ、うるさい二人の馬鹿共はゴールに叩き込んだ。
「誰が貧乏だ。失礼な」
あ、やっぱりそっちの方が気になるんだ。昔っから、その手のプライドは高かったからなー、要は。ちなみに貧乏性=貧乏じゃないからね、要。
「さてと……」
さして汚れてもいないのに手をパンパンを叩きながら、鋭いままの視線をこちらへと向けてくる。挑んでくるような、久しぶりに見る攻撃的な顔だ。凛とした雰囲気と相まって、余計にピリピリとした雰囲気を纏っているように見える。
「私達も、ここで最後に一勝負する?」
観衆が一段とどよめいた。
その反応に少し驚いてゴール方向へと向けた視線の先に、落ち着いた表情でこちらを見守っている二階堂くんの姿があった。こちらに対して何も言わないのは、恐らくルールだからというだけではないのだろう。彼は自分の足でゴールラインを跨いだ。それがどういうことを意味するのか、もちろんわかった上での決断であった筈だ。
「……やめとくよ」
「そう、期待に応えるのも一興かと思ったけど、百合香がやる気ないんじゃ仕方ないわね。でも良いの?」
肩の力を抜き、いつもの少し冷めた穏やかな表情で元の位置、ゴールアーチの片方へと戻っていく。それは少しだけ残念そうではあったけど、どこか予想していた動きにも感じられた。
「良いって、何が?」
「そっちの残りはあと一人、例の転校生だけよ?」
「そうね……」
少しだけ考えながら、再び二階堂くんへと視線を送る。彼は何一つ表情を変えようとはしない。焦りも後悔も、それどころか期待すら感じられなかった。多分、わたしがここで要と戦うことは、彼の中にはないのだと思う。そして、そうまでして期待するみどりという存在に、興味が湧いた。
「わたしの相手はもうゴールしてるし、要の相手はみどりでしょうから、後は任せることにする」
十河さんは二階堂くんの斜め後ろに隠れている。
そんなにわたしが怖いのだろうか。
まぁ、無事にゴールしてたみたいで何よりだけど。
「……後で文句言わないでよ?」
「言わないって。完児じゃないんだから」
恨みっこなしはお互い様だ。多分、みどりは一筋縄ではいかないだろう。少なくとも山岸くんが一緒の筈だ。それに、あの二階堂くんがこれほど落ち着いているというのも気になる。何か策があるのか、それとも単純に信じているだけなのか。
これからは観衆の一人として、見せてもらいましょう。
わたしは最後の一歩を踏み出して待望のゴールラインを跨ぐ。
と同時に気付いた。
あれ、わたしって、あんまり格好良い見せ場がなかったんじゃない?
もちろんそれは、後の祭りでしかなかったんだけど。
あと一人です。
次回は盛り上がるといいなぁ(オイ)