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第26話 思い出の蜘蛛へ ‐二階堂義高‐

思えばそれは初恋でした。


 視界に変化が起きた瞬間、僕は走ることをやめた。

 今の状況が罠の只中にあることは、考えるまでもない。それがわかっている上で渓谷に飛び込んだのだ。恐らくは班の誰一人、この事態に慌てている者は居ないと思う。そして多分、この最後の試練の目的は各個人の力量を測るためのものだ。仲間にすがらず、自立した意志を持って自らの足でゴールへ向かって進める者でなければ、乗り切ることは難しい。しかも、前方に障害となる競合者が居るとなれば尚のことだ。

 僕は、一歩一歩を踏み締めるようにして暗い視界――洞窟の中を慎重に進んでいく。やがて、鮮やかな緑と共に陽光の輝きが視界に飛び込んでくる。取り立てて長くもなく、怪しげな罠も見られない。後戻りが出来ないこと以外は、どうやら良心的な造りのようだ。

「……ずいぶん陽が傾いてきたな」

 表に足を踏み出した瞬間、右手で影を作って太陽を隠す。こちら側は渓谷の南側にあたるようだ。陽の光がダイレクトに降り注いでいる。視界は良好だ。付近に木や草はもちろん存在しているが、森や林というほどのレベルにはない。通学路の周囲に広がるありきたりな茂みと似たような雰囲気だ。つまり、それだけ山地から里へ近付いたとも言えるだろう。

 と、一旦止めていた歩みを再会させようと足を踏み出しかけたところで、僕は頭の上に違和感を覚える。何やらもぞもぞと動いている感じのソレを摘んで下ろしてみると、一匹の大きな蜘蛛が脚をバタつかせていた。日本に危険な毒蜘蛛はほとんどおらず、このオニグモも危険ではないが、さすがにこの大きさだと咬まれたら痛いので、手の平に載せて茂みの上へと放してやる。

 そろそろ夏も近い。オニグモの大きくて綺麗な巣が見られるのも、もうすぐだろう。

 そういえばと、不意に思い出す。

「お~い!」

 彼女、安田海鳥という転校生に、僕は当初何一つ興味を惹かれることはなかった。都会という場所に対する興味も、都会人に対する興味も希薄だったからだ。そして、彼女にはそれ以上の記号的価値を見出すことが出来なかった。だから、新学期早々の挨拶を耳にして以降、彼女に関する情報は左から入って右へと抜けて行った。実際、女子は新しい仲間として交流を進めていたが、男子のほとんどは野暮ったい都会人というのが共通の認識で、藤嶋さんという橋渡しが存在した杉浦のような例外を除いては、どんな女の子であるのかすら知らない者が大半であったのだ。今にして思えば、何と見る目のない野郎共だと罵りたくなる。もちろん、当時の自分も含めてだ。

「聞こえてないんですか~」

 そんな感じで半月ほど経ったある日、僕は偶然にも校舎裏で独りの彼女を目撃する。まぁ、見かけるだけならクラスも一緒な訳で毎日見ているのだが、独りで人気のない場所を、それもゴミ箱を抱えて歩いているという奇妙な状況に、僕の興味が湧いたのだ。しかも彼女は、かなり歩いたのか疲れたような溜め息と共にゴミ箱を下ろすと、突然横を向いて何者かに話し掛けたのである。

 それは、自らの迷子を吐露するものだった。彼女はあろうことか、掃除当番のゴミ捨ての最中に焼却炉へ向かう途中で迷子になったのである。ちなみに焼却炉は校舎を挟んで反対側だった。迷うにも程あろうというものだ。しかし、その時の僕を驚かせたのは、その原因ではなく対象であった。

「無視ですか? 虫だけに無視するんですか?」

 彼女が話し掛けていたのは蜘蛛だった。それもまだ若干小さいながらも、それなりに立派な体躯をしたオニグモだった。彼女は、敷地の片隅に巣を張った蜘蛛に話し掛けていたのである。当然のことながら、蜘蛛は何も答えてくれない。焼却炉の場所など知っていよう筈もなかった。彼女は仕方なく溜め息を吐き、オニグモに手を振って別れを告げた。それからどうやって彼女が焼却炉に辿り着いたのか、あるいは辿り着けなかったのかはわからない。僕はただ、彼女の意外に思える言動に魅せられ、自分を恥じていた。

 虫を見ても騒がない女子は居る。でも、あんな風に接する女子は見たこともなかった。しかもそれが、都会から来た女の子であったことが更に驚きだった。僕は彼女に対する認識を改め、その翌日から新たな気持ちで彼女の観察を開始し、気付けば好きになっていた。

 本当に不思議だと思う。

「おーい、もしもーし!」

「……うるさいんだけど?」

 やや気分を害しつつ、左後方へと視線を飛ばす。そこにはナラの木を背負うようにして立ち竦んだ眼鏡の優等生、平岡が立っていた。周囲には特に危険な物も見当たらないけど、彼は何かに囲まれてでもいるかのように腰を引き、明らかに怯えている。そしてその理由を、彼の足元を見て理解する。

 そこには、彼を中心とした放射状に蜘蛛が居座っていた。それぞれにもそもそ動いているが、その場から動いていない。固定されているのか、それとも精巧に出来た玩具なのか、いずれにしても不自然な包囲網に見えた。彼はその中心で、ナラの木に背中を預けて立ち竦んでいるようである。

「も、申し訳ありませんが、その正面の一匹、そいつをほんの少しで構いませんから左に寄せて下さいませんか?」

 良く見れば、満遍なく見える包囲網にも僅かながら隙が見える。彼から見て十一時の方向が、かなり大きな隙間を構築しつつあった。確かに、彼の正面に居る一匹を左に少しでも寄せれば、この包囲網は崩れることだろう。

 僕は先程放したオニグモを再び手の平に載せて、十一時に配置した。

「ちょっ、何で増やすんですかっ!」

「え、だって敵だし」

「いや、そりゃそうですけど……」

「真面目な話、平岡君の足止めはしておきたかったんだよ。正直、対処の一番しにくい相手だと思っていたからね」

 僕は真面目に答える。もちろん、そうしたいと思ってはいたものの、こんな形で実現出来ようとは思っていなかった。

「そんな言葉で誤魔化されると思っているんですか?」

 視線は鋭いが、こういう誉められ方は嫌いでもないようだ。もちろん、彼が喜ぼうが疑おうが、足止めをすることに変わりはない。僕達が優勝を果たすためには、どうしても必要な措置だ。ただそれも、万能でもなければ永遠でもない。どんな形であれ、いずれは包囲網が崩れ、彼はゴールへと向かうだろう。そして一度ゴールへと歩き始めたら、迷ったり躓いたりすることはない。他のメンバーがどうなっているのかわからない以上、一人でも時間稼ぎの要員を確保しておくことは無駄にならない筈だった。

「そういう訳で、悪いけど先に行かせてもらうよ」

 彼が解放されては不都合、というのは事実だ。お世辞ではない。

 彼らしい妙に丁寧な罵詈雑言を背中に浴びながら、僕はゴールへの道筋を歩き始めるのだった。



 渓谷の出口が見える。

 もちろん、そこへ戻るつもりはない。僕が進むべきはその反対、ゴールに向かって伸びている穏やかな道だ。これまでずっと続いていた山道とは明らかに違う。起伏もなく、幅も広い。それは里が近くなり、遠足という非日常が終わろうとしている証しであるとも言えた。

 他の皆は、すでにこの場所を通っただろうか。順調に道を辿れば、恐らくこの辺りが合流地点となりそうである。とはいえ、ここでただ待つことは得策ではない。仲間を信じればこそ、一人でゴールを目指すべきだと判断した。

「失礼、二階堂殿」

 と、一歩を踏み出した途端に待ったがかかる。この妙に礼儀正しいというか、時代錯誤的な呼び掛けをする人物は、一人しか思い当たらなかった。そして巡らせた視線の先に、予想した通りのコミカルな犬が現れる。

「山岸君か」

「すいません。安田様を見失ってしまいました」

 あの煙と大掛かりな罠の中で追いかけるなど、至難というより不可能だ。間近に居て手でも繋いでいたのならともかくとして……いや、それはむしろ僕的には許し難いので却下するとして――いずれにしても見失ったこと自体は仕方のないことだろうと思う。彼のことだ。身軽さを生かして渓谷の周囲も探し回ったのだろう。それでも見付けることが出来ず、だからこそここを合流地点と踏んで先回りしていたに違いない。

「仕方ないさ。山岸君のせいじゃない」

「いえ、主君を見失うなど不覚の極みです。それで、どの辺りを探せば良いのか見当もつかなかったもので、是非二階堂殿の意見をお聞かせ願いたいと思いまして」

 そう問われ、渓谷の構造と走っていた順番を思い出し、それを慌てて打ち消すようにして首を横に振る。今の彼に、いや今の安田さんに必要なのは安易な手助けではない。彼女はきっと、そんなものなど望んでいない筈だ。今も間違いなく、ゴールに向かって懸命に歩いているものと思う。

 その努力、心意気を無駄にしたくない。

「山岸君はここで待機してくれ」

「しかしそれでは――」

「彼女は必ずゴールに向かうし、ここを通る。その時を待って、現れたら合流して欲しい。ただ、影ながらという形にしてもらいたい。自分の足で歩く彼女の意志を、汲んで欲しいんだ」

「むろん、心得ております」

「ありがとう。でもこの先で、ここからゴールまでの間に何かあったら、その時はヨロシクお願いするよ。精一杯彼女のために頑張って欲しい」

「それこそ、私の望みです故」

 これで良い。もう僕に出来ることなど何もない。信じて待つ程度が精々だ。もちろん、何もなく穏やかなゴールが達成されるのなら一番良いのだろうけど、相手はあの志道さん達だ。平岡の動きを封じたと言っても、それだけでどうにかなるような甘い相手ではない。

 勝負は多分、これからだろう。

「ところで、どのくらい前からここにいたの?」

「五分ほど前からです」

「その間に誰か通った?」

「いいえ、誰も」

 五分前というタイミングからすると微妙だけど、とりあえず僕のすぐ前で誰かが待ち構えているということもないようだ。もっとも、あのメンバーが隠れて不意打ちをしてくるとも思えない。勝負を挑んでくるとしても、正々堂々と仕掛けてくるだろう。もし唯一の例外があるとしたら十河とがわさんだけど、彼女はそもそも仕掛けてくるようには思えない。争うくらいなら逃げるという選択肢を選びそうだ。

「そうか、ありがとう。じゃあ安田さんとの合流、改めてヨロシク頼むよ」

「了解しました」

 その頷きに迷いはない。それは心強く、同時に少しだけ悔しくもある。出来るなら僕自身が、彼女のすぐ傍で守りたいとも思う。もっとも、そんな力を持たない僕が居たところで、励ましにはなっても役には立てないだろう。僕の望みは彼女の願いを叶えることだ。そして彼女の願いは、この遠足の優勝にこそ最大の価値がある。

 可能なことはした。だからこそ、出来ないことをするべきではない。仮にそれが、僕自身の願望に反することであったとしてもだ。

 僕は再び歩き始める。

 ゴールはもうすぐだ。穏やかで平坦な道の先に、それらしいアーチが見え始めている。そろそろ人も集まり始めている頃合だろう。二年生の時にもかなりの人が出迎えてくれたけど、三年生の遠足はお祭騒ぎになることが知られている。それほどの祝福が待っている筈だ。

 ふとけたたましい声に気付いて空を見上げると、ヒバリがゴールに向かって飛んでいる。まるで騒ぎを聞きつけて、祭に参加しようとしているかのようだ。

 いや、僕もそうなのだろう。

 喧騒は苦手だけど、彼女と楽しむ喧騒であるなら、それは違う意味を持つような、そんな気がした。



 ざわめきが一歩を踏み締めるごとに迫る。

 すでにゴールは見えている。たくさんの人が、その向こう側で待ち構えていた。屋台も軒を並べており、まさしくお祭という様相である。単純に見物をしたいという者も居ないことはないだろうが、お祭騒ぎに便乗している連中も少なくはないだろう。自分がそうしたいとは思わないが、そういった者達を悪く言うつもりもない。中には遠足の準備に奔走した人達も居るだろう。いや、この遠足というイベントの規模を考えるなら、この村の大人全てが何かしらの形で関わっていたとしても驚くには値しないのかもしれない。今は素直にそう思えた。

「ようこそ、麗しのゴールへ」

 そんな言葉で出迎えてくれたのは、志道さんだった。彼女はゴールを示すアーチに寄りかかって、腕を組んでいる。その艶のある漆黒の長髪も、どこか挑戦的に見える切れ長の眼差しも、何一つ変わっているように見えない。スタートした直後のような、鋭くも張り詰めた緊張感を保っていた。

 どうしてここまで来て、などという野暮な発言をするつもりはない。彼女の立ち位置を見れば、その意味は明白だ。アーチがあるのは彼女の向こう側、すなわち志道さんは、未だゴールを果たしていないのである。

「やはり、仁志川班を破ってきたのね。予想はしてたけど」

「それは光栄だね。でも偶然だよ。ところで、そこで待っているということは、ひょっとして、ゴールに来た人を片っ端から叩きのめすつもりとか?」

「そんな面倒なことしません。抑えるのは最後の一人で十分だもの」

 なるほど、利口な選択だ。そして何より、僕としても助かった。彼女と僕では実力に差が有り過ぎる。強行突破なんて話になったら、間違いなくのされていたところだろう。

「それはそうと、ウチのメンバーとは会わなかったの?」

「平岡君に会ったよ。蜘蛛に怯えていたね」

「蜘蛛か……去年を思い出すかな」

「去年? 何かあったの?」

 という僕の質問に、彼女は唖然と口を開く。驚いているというより、信じられないとでも言いたげな表情だ。もちろん、僕には心当たりなどない。

「……まぁいいわ。余計燃えてきたし」

 何だかわからないが、彼女は機嫌を損ねたようだ。触らぬ神に崇りなしという言葉もある。僕は彼女の横を擦り抜けるようにしてゴールへと足を踏み出した。

「ちょっと」

「え?」

 そんな僕を、驚いたように彼女が止める。

「ゴールするつもりなの?」

「そうだけど?」

 達人の小筆で描かれたかに見える綺麗な眉が更に寄った。

「まさかとは思うけど、わかっているんでしょうね?」

 彼女の危惧するところはわかっている。そして、だからこそ志道要という人物の優しさが感じられた。

「一度ゴールを果たした者は、どんな理由があろうと手や口を出してはならない、でしょ。もう僕の役目は終わったよ。出来ることは何もない」

 そういう理由があるからこそ、彼女はゴールラインを割らずにいるのだ。最後の最後まで勝利に執着する、その姿勢はまさしく天晴れと言えるだろう。

 でも僕は、一歩を踏み出す。

 それはもちろん、信じているからだ。

「……恨まないでね」

 視界の右端を志道さんの憂いた表情が掠る瞬間、小さな呟きが耳に届く。彼女の言わんとしていることは、よくわかっている。僕だって、安田さんが傷付くところを見たいわけではない。それでもやはり、僕はこの瞬間にゴールラインを跨ぐ必要があった。

 恨まないよ、志道さん。

 だって、勝つのは僕達なんだからね。


彼がゴールを果たした最初の一人目です。

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