第25話 未知の別離へ ‐安田海鳥‐
いよいよ最終区突入です。
ゴールはすぐそこ、目の前ですよ。
ゼェゼェと乱雑な呼吸が木霊する。ユリちゃんですら息を切らしているのだ。私なんか意識を保つことすら難しい。油断したら倒れてしまいそうですらある。
でも、弱音なんて吐いていられない。例え僅かでも優勝できるチャンスが残っているのなら、諦めるワケにはいかないからだ。前にいるのは志道さんの班一つ、それをかわすことができれば、私達は先頭でゴールすることができる。しかも、四人全員を抜く必要はない。班のゴールはメンバー全員がゴールをした瞬間、つまり四人目のメンバーがゴールラインを跨いだ瞬間に確定するものだ。
問題なのは最初の一人じゃなくて最後の一人、それが優勝するための最重要事項になる。
うーん、何だか燃えてきたよー!
「みどり、ちゃんと付いてきてる?」
背後を振り返るだけの余裕があるユリちゃんの言葉に、私は辛うじて頷く。声は出せないけど、気持ちを眼差しに込めて送り返した。負けたくなんかない。勝ってさつきちゃんに会いたい。それが今、私の心を支配している全てだったから。
そして、私達は到着する。
巨大な絶壁に挟まれるようにして伸びる、渓谷の道へと。
細く曲がりくねったその道は、果てどころか僅かな先の景色すら遮断している。その先にはこの道を作り上げた巨大な蛇か何かが口を開けて待ち構えているようにも思えて、踏み込むことを躊躇わせてくれる。
「こりゃまた、ラストに大袈裟な仕掛けが出てきたもんだ」
袖で汗を拭いながら、杉浦君が呆れたように言い放つ。
「仕掛け?」
「これほど罠を設置しやすい状況もそうそうないからね。素通りできるとは確かに思えない」
私の疑問に、すぐさま二階堂君が応じてくれる。
確かに言われてみればもっともだ。狭い一本道に登ることなんて到底できそうにない絶壁、その上更に曲がりくねっているせいで前後の視界すら利かないときている。こんな状況で罠がないなんて思える方がどうかしている。
まぁスタート直後の私なら、そんな風に考えることなんてなかったと思うけど。変われば変わるもんだと、自分でも少し感心している。
「どう思う? 連中は迂回したと思うか?」
「可能性は低いだろうね。少なくとも志道さんはそういうタイプじゃない」
「まぁ、お嬢が迂回とかありえねーよな」
杉浦君は楽しそうに笑う。こんな時だけど、決して余裕があるワケじゃないけど、班の雰囲気は悪くなかった。いや、むしろとても明るくて、誰一人勝負を諦めたり面倒だなんて思っていなかった。楽しいって感じる、この場にいることを誇りに思えるほどに、楽しんでいる自分がいる。
見上げれば、済んだ空がずっとずっと遠くに広がっている。
涙が溢れるほどに、今この場に自分がいるという事実が嬉しかった。このメンバーと一緒に戦っていることを、本当に心の底から感謝している自分がいた。
「安田さん?」
「どうしたの、みどり?」
「野糞だったらアッチのしげみだごばぁっ!」
久しぶりに見たなぁ、ユリちゃん達の野糞コント。
でもお陰で、奇妙な感傷が薄れたような気がする。ついさっきまで泣きそうですらあった目蓋の奥が、落ち着きを取り戻していく。こんな所で泣いていられる余裕なんて私達にはない。どうせ泣くならゴールで、それも勝って泣きたい。
「いずれにしても、今のわたし達に選択肢なんてないでしょ。要達の背中を追いかけて、追いついて追い越す。そのための最短ルートを辿って、突き進む。それだけのことでしょ?」
「ま、そりゃそうだわな」
茂みから華麗に復活して、杉浦君が同意した。私と二階堂君も顔を見合わせて、小さくだけど明確に頷き合う。
「どんな罠が待っていたとしても、止まる理由は微塵もナシ!」
熱いなぁ、ユリちゃんも。
とにかく、こうして覚悟を決めた私達は縦一列に並んで狭すぎる渓谷へと足を踏み入れた。渓谷なんて言ったけど、そこは自然にできた感じの場所なんかじゃ全然なくて、不自然なくらい狭くて同じ幅が続いている。歩くなら何とか二人が並べる程度だけど、並んで走るには狭すぎる。上下左右には曲がりくねっているけれど、その狭い幅だけはほとんど変化がなかった。
「よし、一気に抜けるからね!」
先頭を走るユリちゃんに続いて、私が背中を――目立つ真紅のリュックを追いかける。私の後ろには二階堂君が続き、最後尾から杉浦君が追いかけてくる。そういえば、山岸君の姿を見ていないけど、どうしただろうか。影ながら付いてくるようなことを言っていたから居ないことはないと思うんだけど、これだけ狭い通路だ。並走できるような余裕はもちろんないし、さすがの山岸君でもこの断崖絶壁を登るのは簡単じゃないだろう。普通に考えれば少し遅れて付いてくるというところだろうか。いずれにしても、一人でも多くの味方がいるというのは心強い。
四区の直接対決では役に立てなかったと嘆いていたけど、応援してくれたってだけでも十分にありがたい話だ。少なくとも私は、あのクラッカーに勇気付けられたのだから。
「気を抜くなよ。絶対に何かあるのは間違いねーんだ!」
「完児こそ後ろに気を付けてなさいっ」
厳しい声が飛ぶ。普段なら身を縮ませるようなやり取りかもしれない。でも今は、そんな厳しいコミュニケーションが心地良くすら感じられた。その中にあって仲間と認められている今の自分が、本当に誇らしい。
と、私も一声上げようかと口を開きかけたところで、視界が霞んでくる。意識に何か異常が起きた、という感じじゃない。これは煙か、あるいは霧――
そんな思いを抱いた瞬間、何もかもが灰色のスモークによって閉ざされる。自然に噴出したものなんかじゃあり得ない。つまり、仕掛けられた罠が発動したということなんだろう。
視界が全く利かず、立ち止まるべきかと思ったけど、確認しようと口を開きかけて慌てて閉じる。前後から激しく咳き込む音が響いてきたからだ。うかつに口を開ければ私もそうなる。それどころか、こんな所に立ち止まったりしたら危険なのかもしれない。さっさと走り抜けるのが正解だろう。
しばらく進むと煙の濃度が上がったのか、視界が更に悪くなる。気付けば暗闇の中を走っていて、壁沿いに手探りで洞窟でも探検しているような、そんな気分になってきた。ただ、逆にそんな状態だからこそハッキリ見えるようになった明るい出口が、折れそうになる私を励ましているように感じられる。なかなか終わらない闇に焦るけど、ただ前だけを見据えて、ぽっかりと浮かんで見える光だけを目指して、真っ直ぐに突き進む。
そして光を、白く見える扉をくぐった瞬間、私は気付いた。
いつの間にか、独りぼっちになっていたことを。
罠だというのは、すぐに気付いた。
狭い通路、視界を覆う不自然な煙、声すら掛け合うことも出来ない中で分断され、独りにされる。きっと、一人一人の力を試すことが目的なんだろうなと思う。
背後を振り返ると、暗い洞窟があるだけだ。
戻ろうとは思わない。戻ったところで、あの狭い渓谷には戻れないだろう。もしそんなことが可能だったなら、こんな罠を作る意味がない。これは、私の力が試されているんだ。ユリちゃんがいなくても、二階堂君や杉浦君がいなくても、自分の足でゴールを目指せるんだってことを証明する必要があるんだと思う。
視線を正面に戻して、目前に広がった深い緑を見詰めた。白霧の森みたいに息が詰まるような感じはしない。鬱蒼とした森というイメージは湧くけど、それだけだ。特に恐怖はない。それにしても、戻れないのはいいとして、ここからどっちに向かえば良いのだろう。方向音痴の私にとっては、それが最大の問題だ。
とにかく歩き出そうと踏み出しかけた足を、少し悩んで引っ込める。
ちょっと待って。ここは慌てずに、まずは落ち着いて考えてみましょう。うん、かつての私だったなら、何も考えずに突撃して迷いまくった挙句に泣き出していたに違いない。でも今は違う。一人でだってゴールに向かって歩いていける。仲間に頼るんじゃなくて、仲間を信じて進んでいける。
そう、成長するって素晴らしい!
私は周囲の様子を確認して安全かどうかを見極めてから、リュックを下ろしてチャックを開けた。そして中から、とりあえず旅のしおりを取り出す。ここにはコースの地図が載っている。ここから下りてきた山も見えるし、洞窟の向こうにある渓谷も地図に載っているハズだから、調べることは出来るだろう。
だけど、これだけでは不足だ。
私は更にリュックを探る。どんな物が入っているのか細かくチェックしていたワケじゃないから断言はできないけど、確か見たような気がした。アレさえあれば、きっとこの窮地を乗り切ることが出来る。
「あった!」
えいやとばかりに取り出したそれは、方位磁石だ。方向音痴の私にとって、これ以上ない救世主の登場である。お母さん、色々余計な物が多くて重かったけど、とにかくありがとう!
しおりを広げて地図を出し、右上に書かれている南北を示す記号の位置に方位磁石を置いてみる。フラフラと揺れる細長い菱形が次第に落ち着きを取り戻し、やがてピタリと停止した。赤い針が前方を向いている。
「んー……」
私は地面に置いたしおりを回り込むようにして反対側に回る。今度は手前が赤い針だ。見方を変えてみたけど、そう大きな変化はない。つまり、私の記憶からは何も閃きが生まれなかった。
「えっと、どっちが北だっけ?」
赤、いやそれとも白か?
もう、赤とか白とかじゃなくてさ、北とか南、せめてSとかNとか書いといてよ。そうすれば……あれ、Sが北だっけ?
ちょっと待て。まずは落ち着こう。要するに自分がどっちに向かえば良いのかがわかればいいんだ。地図を見ると、山があっちだからこう……あれ、こう? いや、やっぱりこっちだ。渓谷がここだから、山がこっちに見えてえーと……きっとこの辺にいるに違いない。つまり、私は南西に向けて歩いていけばいいということになる。
うん、冷静になればこんなものだ。
で、南西ってどっち?
空を見上げて、森を眺めて、最後に落ちた視線が方位磁石を捉える。相変わらず赤い針は向こうを指しているけれど、それがどっちなのかわからない。
マズい。これではここから動けない。
私は腕を組んで考えてから、再びリュックに顔を突っ込んだ。もっとこう、アッチが北ですみたいなことがわかるような便利道具がないものかと思ってのことだ。いくら用意周到なお母さんでもそこまではと思ったけど、ふと目に付いた小冊子を手にとって引っ張り出す。
「何これ……えーと、無人島サバイバル入門?」
娘をどこに送り出したつもりなんだろうか、あの母親は。
まぁともかく、何か役に立つことが書いてあるかもしれないので、とりあえず開いてみることにする。
えーと、火起こしの基本は乾いた木を擦り合せる摩擦熱を利用するのが常だが、材料が比較的簡単に手に入りやすい反面、手間と労力を必要とする。無人島では体力の消耗を出来る限る避けるべきであり、そういう観点から見るとオススメは出来ない。個人的には、時間と条件さえ整えば水を張ったビニールをレンズとして使用した日光による発火をオススメしたい。さほど大きな労力を必要としないので、知識として持っていれば女性や子供でも比較的簡単に火を起こすことができるというのも、大きなメリットである。
「なるほどー……って、違うわっ!」
小冊子を大木に投げ付ける。一人でノリツッコミなんてしている場合じゃない。どうにかしてでもゴールに向かわないといけないのだ。大体、こんなところで火を起こしてどうするというのだ。山火事大発生でとんでもないことになるのは間違いない。まぁ、こんな森の中じゃ太陽の光だってそうそう届かないから――
「太陽っ!」
今気付いた。
私は馬鹿か。太陽があるじゃないか。しかも今の時刻なら太陽の位置は南西と言っていい。つまり、何も考えずに太陽を追いかければ自然にゴールへ行き着くという仕掛けだ。これなら、いくら私が筋金入りの方向音痴でも、方角を見失うことはない。
私は散乱しているしおりや方位磁石をリュックに戻し、早速とばかりに頭上を見上げて太陽を探した。森の中なのですぐには見付からなかったけど、それでも影を辿って輝きの中心を木漏れ日の向こうに発見する。今日が晴れていて助かった。曇っていたら確実に迷っていたところだろう。
そんな自分の幸運に感謝しながら、改めて一歩を踏み出す。
そういえば、志道さん達の班の人も、ここを抜けたのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎり、足元に視線を走らせて足跡でも見付からないかと探してみる。でも、そんな形跡はどこにも発見することが出来なかった。ここを通っていないのか、それともそもそも渓谷を迂回したのか、いずれにしても辿れない足跡にこだわっても仕方がない。
進路は定まった。
今はただ、それだけで十分だ。
私は歩く。ただただ歩く。その先に待つ、晴れやかな笑顔を信じて。