第18話 お茶と髪留め ‐森川優姫ー
今回は繋ぎのお話、リタイア組が主役です。
遠足が始まって、一つの不安があった。
とはいっても、ウチの班に関することじゃない。満足、とは言えないまでも、優姫の指示に文句も言わないで従ってくれる面子が揃ってくれたことは、むしろ幸運だったとすら思う。それに、戦力的な問題は山岸を加入させることで、ある程度の勝算が見えていた。もちろん、彼が所属している班に対する交渉を含め、事前準備にはそれなりに骨は折ったけど。
でもそれは、遠足が始まるまでの話だ。始まってからのウチは、むしろ順調であったように思う。一区の区間賞を取ることができたことが、何よりの証拠だ。
そんな、順調極まりない状況にあっても、いやだからこそ、不安は頭の後ろ側でくすぶっていた。班の編成を見た時から、不安で不安で仕方なかったのだ。
だから、ゴール地点で一人淋しく空を見上げている彼女の背中を見た時、自分がリタイアした時の悔しさなど、どこかに吹き飛んでしまった。
「さーつき!」
呼びかけに応じて振り返った彼女は、いつものように笑顔を浮かべた。別段、普段と変わっているようには見えない。だけど何故か違和感を覚えた。その原因はわからなかったけど、いつもとは間違いなく何かが違っている。
その違いが外見からのものなのか内面的なものなのかに悩んでいると、そんな様子に小首を傾げたさつきが口を開く。
「あれ、姫ちゃんもリタイアしちゃったの?」
「ま、不本意ながらではあるけどね」
「優勝狙ってたもんね」
それはお互い様でしょうに。まぁ、さつきの班で優勝なんて、本音を言えば無理だろうと思っていたけど。この子がどんなに強く願おうと、一生懸命に頑張ろうと、それだけで遠足という場で満足な結果を得ることは難しい。むしろ空回りをして、虚しい思いをするのが見えていた。
特に彼女の班は、やる気のない、向上心と協調性のない連中が集まっていた。不運と一言で片付けてしまうことすら、悲しくなるような面子だった。
実際のところはどうだったんだろうか。虐められたりはしなかったんだろうか。
聞きたいけど、例え虐められていたとしても、さつきは笑顔で否定するだろう。そういう子だ。だからこそ、安心して一緒に居られる相手なのだから。
「お互いにリタイアは残念だけど、だからこその楽しみを堪能しましょ。向こうにお茶の用意がしてあるの。さつきもいらっしゃい」
そう言って手を差し伸べるが、彼女はどういうワケか眉をひそめる。その視線の先にあるのは、おそらくすでに残念会を始めている他の三人だろう。
「……いいの?」
班の結束に割って入ることに遠慮しているのだろう。もちろん、それは愚問でしかない。
「当然でしょ。優姫にとっても、さつきにとっても、もう遠足は終わったものなんだから、そんなこと気にしなくていいの。ホラ、立って」
こちらから二の腕を掴み、強引に持ち上げる。
「いたっ!」
腰が上がりかけたところで、さつきが鋭い声を発する。左足首に怪我をしているようだ。捻挫だろうか。
「ゴメン。怪我してるの?」
「うん、大丈夫。大したことないから」
口ではそう言ってるけど、かなり痛そうだ。この子は簡単に諦めたりしないだろうから、あるいはこれがリタイアの原因なのかもしれない。
「治療はちゃんとしたんでしょうね?」
「うん、湿布をしてあるから、もう平気」
「まぁ、そういうことならいいけど……とりあえず、あの白いテーブルまで歩ける?」
「大丈夫だよ、そのくらい」
こちらの心配を大袈裟と受け取ったのか、さつきがことさら勢い良く立ち上がる。気丈な笑顔と一緒にサイドでまとめた小さな尻尾が跳ね、黄色いリボンをなびかせる。
黄色いリボン?
違和感の正体に、この時初めて気付いた。さつきがいつも髪を留めている星の髪留めは、単なる小物じゃない。三年前に亡くなってしまった母親からの、最後のプレゼントだ。控えめな彼女がそんなことを口にするなんて滅多にないことだから、この事実を知っている者はほとんどいない。でも、いつだって大切にしていた彼女の様子を見ていれば、それが大切な物だってことは誰にでもわかるハズだ。
それが、いつだって彼女と共にあった星がなくなっているのだから、違和感を受けるのも当然だった。
「さつきっ!」
「な、なに?」
リュックを持ち上げたさつきが、キョトンとした顔でこちらを見る。こちらの焦りは伝わっているのか、その表情は少しだけ不安そうだ。
「ほし……星はどこいったの?」
「ほし? あぁ、髪留めのことか。へへー、リボンと交換したんだよ。ちょっと派手かな?」
「そんなこと聞いてんじゃなくてっ!」
交換と言った。けど、この子があの髪留めを手放すハズがない。強引に奪われたとか、脅されて交換させられたとか、そんな話でもなければ納得できない。
「あの星、誰に取られたのっ?」
「取られたって……まぁ、海鳥ちゃんが持ってるハズだけど」
「みどり……」
誰だろう。ピンとこない。
「どこの班?」
「A‐2(エーツー)だよ」
「エーツー!」
繋がった。記憶の中にあった微かな疑問が、一度に一つの解へと収束に向かう。あの生意気な転校生の後頭部には、確かに星の髪留めが揺れていた。さつきと同じだと、そう思った自分が確かに居た。
「大事な髪留めを奪うなんて、コロス!」
「ちょ、違うのっ。奪われてなんていないんだってば」
「さつき、いくら貴方が優しくても、敵を庇う必要なんてないの。その怪我だって、連中の仕業なんでしょ?」
「そんなこと……ないとも言い切れないけど」
「ホラ見なさい。その怪我でリタイアしたなら、連中のせいでリタイアしたってことでしょ。やっぱりコロス!」
「この怪我はリタイアの原因じゃないよ。まぁ、リタイアの原因にA‐2の人達が無関係ってワケでもないけど……」
「よし、コロス!」
「わーっ、待ってってばー!」
さつきは慌てている。
優姫にだってわかっているのだ。この子の言葉にも雰囲気にも、悲壮感のようなものが一切感じられない。リタイアという結果が満足であろうハズはないものの、彼女にとって何かしら温かな、あるいは心躍る結末を伴っていることは疑いようがない。
そして、その理由がA‐2にあろうということも。
だからこそ、悔しい。そして、そんな風に思う自分が、とても滑稽で微笑ましいと感じられた。
「なるほどね」
納得して頷きを返す。
あの転校生が星の髪留めをしていた理由、さつきが足を痛めた経緯、リタイアに至るまでのやり取り、その全てをアールグレイの香りと共に脳内へと刻み込む。
とりあえず、同じ班の三馬鹿は後で懲らしめておこう。
とはいえ、リタイアの直接的な原因となったA‐2の話をする彼女は、本当に嬉しそうだった。そこに憎しみや恨みなど、微塵も感じられない。元々の優しさがあるとは言っても、始まる前の入れ込んだ彼女を見てきた者としては、少し意外にも感じられた。
それだけ、海鳥という転校生との約束が、彼女にとって大きな喜びになっているのだろう。この笑顔が曇らずに済んでありがたいと思う反面、少し悔しくもある。優姫がどんな美味しいお菓子をご馳走しても、どんなに高価なプレゼントを渡しても、この笑顔を得ることはできそうもない。その理由が、小さい頃からの幼馴染みである『沖田』の言動によるものであるなら、まだわかる。でも相手は、ほぼ初対面に近い転校生だ。あるいは怪しげな魔法でも使ったんじゃないかと、うっかり疑いたくなってくる。
「まぁ、いくらA‐2だからって、絶対に優勝するとは思ってないけどね。マヒルの班もあるから」
「彼女の班は優勝候補の筆頭だもの。あの班に比べれば、どの班も隙があるでしょ」
通称『仁志川班』は、優姫やさつきと同じC組だ。そこに『沖田』も所属している。彼女は去年の優勝メンバーでもあるから、仁志川と並んで注目度は高かった。
しかしこうなると、単純にC‐3(シーサン)を応援というワケにもいかなくなった。何しろ彼女の夢を抱えているのだ。A‐2の存在を無視するワケにはいかない。それに、リタイアの直接的な原因ではないにしても、彼らに敗北したことは認めざるを得ない事実だ。簡単に敗れてもらっては面白くない。
「順位はともかくとして、完歩してくれると嬉しいな。まぁ、ただ待ってるだけの私がこんなことを言うのは、虫が良すぎるかもしれないけどさ」
「そんなことないでしょ」
陶器のぶつかる音が鳴って、純白のテーブルに琥珀色の染みが生じる。感情は抑えたつもりだったけど、やはり動揺は隠し切れない。こんなことを言わせる海鳥という転校生に、優姫は激しく嫉妬していた。
こんなところ、他の人には恥ずかしく見せられない。三人を別のテーブルにしておいたのは正解だった。
「ところでさ」
中央に鎮座しているクッキーを摘みながら、さつきが話を変える。
「なぁに?」
このもやもやした心情と決別したいという思いもあって、素直に応じた。
「お茶とテーブルは後で用意したっぽく見えるんだけど、このクッキーってリュックから取り出さなかった?」
「出したけど、何か気になるの?」
「だって、缶の容器に入ったクッキーなんて、絶対に三百円でなんて買えないじゃない」
「百円よ、コレ」
「ウソだっ!」
「ホントよ。ウチの倉庫にあった物を父に百円で売ってもらったんだもの」
「……ふーん」
あれ、何だろう。さつきの目が、どことなく不審者に向けられる怪しげな眼差しに見えるんだけど。
「じゃあ、あと二百円分は?」
どうする。この展開はマズくないか?
とはいえ、さつきと同じように百円しか使いませんでした、なんて言い訳が通用するとも思えない。むしろ信用を失いかねない発言だ。
そ、そうだ。もう食べたってことにすればいいのでは?
「実は――」
「まさか、もう食べちゃったなんて言わないよね?」
先を越されたっ!
さつきは笑っている。でも、目だけはやけに真剣だ。
仕方なく諦め、リュックからアルファベットの並んでいる紙箱を取り出した。
「チョコ?」
「そう、チョコレート。ホラ、やっぱり遠足のようなイベントには、疲労回復の効果とか考慮に入れて、甘い物が必要なんじゃないかという分析をした上で――」
「いくら?」
弁明の機会すら与えてもらえないらしい。
「えと……ひゃくえんです」
「ダウト!」
「いや、ホントに百円で買ったの。父からだけど……」
「これ、どう見ても外国のチョコだよね?」
「はい、ベルギー製です」
「へぇ……」
完全に流れが悪い。
輸入品というだけで高いと決まっているワケでもないけど、やはりイメージというものはある。特に英語が苦手なさつきにとっては、外国の商品というだけで高級品に映ってしまうものなのだろう。
しかも、実際に高級品なのが更に問題だ。
「なら、残る百円分は?」
「えーと……」
しまった。このチョコを二百円にしておけば良かったんだ。
あー、優姫のバカバカ。けど、こうなってしまった以上は下手な言い訳など並べる方が失策だろう。いっそ正直にさらけ出したら、さつきのことだし、案外すんなりと認めてくれるかもしれない。
そう思った優姫は、リュックから小さな木箱を取り出した。
って、いかにも高級感丸出しじゃないの、コレ!
「水羊羹?」
「そ、そう水羊羹だよ。ホラ、やっぱり遠足のようなイベントには、疲労回復の効果とか考慮に入れて、甘い物が絶対に必要なんじゃないかと――」
もうグダグダだ。
「コレも百円、と」
「はい」
もはや値段を吊り上げることもできず、小さく頷くより道がなかった。さつきの視線が痛い。それは何というか、詐欺師を見るみたいな眼差しにすら思えた。
やっぱり、お父様を無視してでも駄菓子を買っておくべきだった。
そもそも、どうしてこんな物を買わせたのよ、お父様のバカ。
こんなんでさつきに嫌われたら、悲しいなんてレベルじゃない。このままでは転校生にも追い抜かれて、二人で仲良く登校するところを指を咥えて見ているなんて事態になりかねない。
そんなのイヤ!
何とか、何でも良いから、この話題から離れないと……。
そんな風に思う優姫に、予想もしなかった方角から助け舟が入る。それは派手なファンファーレであり、耳障りなハウリングであり、女の子の叫び声だった。
『お待たせいたしましたっ! 放送部による公式実況生中継をお送りいたします。実況は私、放送部のエースこと浦西聖子、解説はみんなのお父さんこと校長先生、ゲスト解説といたしまして、宮川村長にお越しいただいております』
「あ、始まった」
さつきの意識が方向転換する。本当に絶妙のタイミングだった。
気付けば、ずいぶんと人が増えている。大人も子供もいるし、出店も商売を始めていた。祭のようだと囁かれていることは知っていたけど、本当にその通りだ。これから不参加組もスタート地点から移ってくるだろうし、父兄も仕事を終えて駆けつけるだろうから、野次馬を含めて相当な人手になるだろう。
『ところで、お二方はどのチームに注目しておられますか?』
粗悪なスピーカーから、濁った声が撒き散らされる。この安っぽい音が、いかにも地元的な祭の雰囲気を増長していた。正直、嫌いではない。数少ない祭の思い出は、私の中でも奇妙な輝きを放っているからだ。
『うむ、ワシは断然藤嶋派だね』
そんな発言をキッパリ言い放ったのは、ウチの校長だ。
『藤嶋さん、ということはA‐2ということですか?』
『違う違う。あくまで藤嶋百合香、彼女に一票を投じたいと言っているのだ』
『えーっと……』
放送部のエースも戸惑っている。
『全く、校長という立場にいながら、何と嘆かわしい発言か』
もっと言ってやれ、村長。
『では、村長はどのチームを――』
『そんなのは志道要様一択に決まっているではないか。言うまでもなかろう』
『出た。ツンデレ出た』
『ツンデレ言うなっ。お前こそオッパイ目当てじゃねーか』
『藤嶋がオッパイだけと思うなよ。むしろあの大きさで違和感がないバランスのプロポーションにこそ、真の価値があるのだ』
『結局は身体目当てじゃねーかよ』
『うるさいっ。お前こそ踏んで欲しいだけじゃないか』
『あのー、何の話を……』
始まって一分も経たない内に、実況中継は方向性を誤ってしまったようである。
『と、とにかくっ、そんな感じで議論も白熱してまいりましたが、早速最新の情報をお伝えしたいと思います。つい先程入ってきた情報によりますと、四区へと足を踏み入れたのは三チーム、そのいずれも優勝候補と名高いチームばかりです。まずは優勝候補筆頭との呼び声も高いC‐3、次いで志道要先輩が引っ張るB‐7、そしてつい先程三区を抜けたA‐2が続く展開となっております』
A‐2とB‐7にほとんど差はない。問題は先行しているC‐3に追いつけるかどうかだろう。
『いずれにしても、いよいよ遠足は佳境に突入し、三つ巴の決戦が期待されます。どのチームにとっても、この四区をいかに切り抜けるのかが、優勝するための最大のポイントとなるでしょう』
「頑張れ、海鳥ちゃん」
小さな呟きが、拳を握り締めたさつきの口から漏れる。
これはもう、何としてでもA‐2には優勝してもらって、その歓喜でおやつ問題を洗い流してもらうしかないだろう。正直、あの生意気な転校生に肩入れするのは面白くない。
ただ、応援しないワケにもいかないだろう。
あの子に『大切なモノ』を預けているのは、何もさつきだけではないのだから。
とはいえ、完成度の高い二つの班を相手に、A‐2がどこまで頑張れるだろうか。あの幼馴染みコンビは問題なしと考えても、転校生は間違いなく足手まといだ。だけど、あの男……確か二階堂とかって名前だったか、アイツがわからない。普段の学校生活で、特別目立った印象はない。良くも悪くも普通だろう。
だが、アイツは見破っていた。
白霧の森に設置されていた、立体映像のトリックを。
それは簡単な機械だった。センサーに反応して、霧に映像を投影するだけの物だ。ちゃんと映像が見える角度が極めて狭いので、実用的な立体映像装置としては失敗なのだろう。ただ、むしろそのことが、白霧の森では効果的だった。
方向が違うだけで見えなくなるなんて、幽霊そのものだ。
優姫がそれにいち早く気付けたのは、父の元へ技術的、経済的な相談が持ち込まれていたからだ。優姫の目に触れないようにと隠していたみたいだけど、むしろピンときてしまった。だからこそ、トリックを逆手に利用することを思い付いたのだと言える。
でもそれを、あの状況で、流れの中で二階堂という男は見破っていた。彼は多分、使える男だ。
そうなれば戦力的には微妙かもしれない。希望的観測だって起こり得る。
「大丈夫よ、さつき。信じて待ちましょう」
勝利を疑わずに済むほどではない。しかし、信じたいと思えるほどではあった。
「うん、そうだね」
頷く彼女の笑顔には、一点の曇りすら見られない。
その横でなびく黄色いリボンが、とても眩しかった。
次回から後半戦、四区へと突入です。
いよいよ終わりが見えてきた、という感じになると思います。