第17話 髑髏と宝 ‐藤嶋百合香‐
展開上、時間は少し戻ります。
ご了承ください。
青い空を渡る雲が速い。
風が出てきたようだ。
でもそれ以上に日差しが強く、少し暑いほどだった。
「お二人には、ここで艶かしく上着を脱ぐ権利を差し上げマース」
「黙れ、変態教師」
隣で、わたしと同様に体育座りで白霧の森を眺めている要が、イラついたような声で鋭く返す。
「おやおや、ヤマトナデシコがそんな乱暴な言い方をしてはいけまセーン。言葉も立派な暴力ですヨ?」
わたし達の背後には、金髪碧眼という典型的な外国人が立っている。二十代後半の男性英語教師だ。見た目はまあまあなのだが、女子の評判はあまり良いとは言えなかった。というか、むしろ男子に人気がある。
ちなみに一見すると良いことを言っているみたいだからと油断してはいけない。
「そういうのを、英語では『DV』と言いマース」
「言いません」
わたしは変態の家族や恋人になった記憶はない。
「せめてSchool violenceとか言って下さいよ」
「それは学校でも上履きで踏んでくれるという意味デスカ?」
「どんな意訳ですかっ!」
どこまで手遅れな人なんだろうか。
「無駄よ、百合香。まともに相手すると気が狂うから、やめときなさいって」
「ワォ、放置プレイとはさすがカナメ、上級者デスネー」
「誰が上級者だっ」
忠告した本人が相手してるし。
この変態教師、トーマス・グリンというイギリス人がこの村に暮らすようになって三年目になる。当初は珍しい外国人ということもあって遠巻きに見られていたりしたけど、今ではすっかり慣れてしまって、というか馴染んでしまっていた。
聞いての通り日本語はペラペラ、食べ物やら住居やらの習慣は元々日本好みだということも手伝って障害にもならず、この村での生活を楽しげに謳歌しているようだ。
まぁ、それは良い。むしろ日本人として、この村の住人として、嬉しいとすら思う。だけど、仮にも英語教師である人間が簡単なスペルをミスったり忘れたり、あまつさえ日本語が途中で交ざったりするのはどうなんだ。
しかもそんな有様だというのに、当の本人は危機感を募らせるどころか女子へのセクハラをいかにして合法的に行うかなどという、下らないどころか完全にアウトなテーマを追求しちゃってる始末だ。
ちなみにわたしと要は一番のお気に入りらしい。
ちっとも嬉しくないが。
本当なら、こんなセクハラ大王が番をしているここに残りたくなどなかった。だけど、あの霧の中へと戻ることは、さすがに躊躇われる。実際に得体の知れない白い女を見たばかりか、要の偽者まで出没するという話を聞いては、どうにも踏み込む気になれなかった。
空から視線を下ろし、改めて森を眺める。
あれほど白かった森が、霧が晴れてきたことで森らしい輪郭を取り戻しつつあった。白霧の森といえども、この時間になると霧が晴れてくるらしい。考えてみれば当然のことではあるけれど、異様な現象を見た後では、その自然さがどこかしっくりこない。
駄目駄目、こういうマイナス思考が余計な発想や幻覚に繋がっていくんだから。壁の染みが血痕に見えたりなんて、いかにも典型的な話じゃない。
頭を振り、改めて森へと視線を向ける。
「ほーら、別に変なものになんて見え――」
そう呟きつつ眺めてはみたものの、霧の晴れてきた森に浮かび上がって見えたのは、人の顔にしか思えなかった。
木々が不自然に間引かれたような場所は、落ち窪んだ目に見えた。
丁度中央にある奈落の暗闇は、漆黒の鼻に見えた。
その少し手前にある大きく長い段差が、歯をむき出した口に見えた。
耳はなく、微かに見える二本の道が、顔の輪郭を形作っていた。
髪はない。目玉もあるように見えなかったし、鼻は削ぎ落とされているようにも見えた。というより、これではまるで顔の肉をなくしてしまったような……。
「髑髏っ!」
気付いて、わたしは立ち上がる。
「な、なに?」
襟を掴んで変態教師を締め落とそうとしていた要がこちらを向く。
「先生、ちょっと聞きたいんですが」
この変態が落ちようが死のうが構わないけど、それはわたしの質問に答えてからだ。
「結婚の約束なら、もちろんオーケーだよ、ハニー」
女子中学生に締め落とされそうな情けない姿のまま、表情だけをキリリと引き締めて不毛な宣言をする英語教師。時間的かつ精神的な余裕のなかったわたしは、とりあえず右の拳で黙らせることにする。
「あんれひょうか、おじょうはん」
口の中でも切ったのか、言葉が聞き取りにくい。おそらく『何でしょうか、お嬢さん』と言ったのだろう。
「ヒントの例文、もう一回聞かせて下さい!」
そしてわたしは、宝の在り処を確信した。
わたしは走る。
ただひたすらに森を駆ける。
下り坂が終わるまで一緒だった要の姿も、今はない。彼女は今頃、宝のある右目に向かって走っているハズだ。おそらくは、その後で仲間と合流するつもりなのだろう。合理的な彼女らしい選択だと思う。
私には無理だ。出来る限り早く仲間と合流しないと、怖くて怖くて仕方がない。今も激しい心音が胸を叩き、口から飛び出してしまうんじゃないかと思えるほどに大きく跳ねている。
「怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない怖くない……」
自分に言い聞かせながら大地を蹴る。
周囲の景色は輪郭を失い、溶け合って、まるでパレットの上の絵の具みたいだった。ふと、子供の頃に描いた大木の絵、見上げた満天の緑を正直に描いた拙い絵を思い出す。あの頃は、森に入ることが怖いなんて微塵も思わなかった。それはきっと無知で経験不足で無神経で、何よりも純粋だったからだと思う。
自分が汚れたなんて思いたくはないけど、大人になる現象の一つ一つを経験する度に、何かを少しずつ失っていくような気がした。
わたしは更に速度を上げる。
余計な考えが頭の後ろの方に押しやられ、明確な目的だけが前の方に残る。こういう不安な時、余計なことを考えるのはわたしの悪い癖だ。
今はただ、仲間との合流を果たすため、奈落へと向かうことにのみ集中しよう。もしかしたら居ないかもしれないけど、その時はその時だ。匂いでも追って合流すればいいじゃない。
そして、森が終わる。
藪を突っ切り、光の溢れる青い空の下へ飛び出す。
何もない、大きな暗い穴が開いているハズの場所に、わたしの求める全てがあった。ただ一つだけ誤算だったのは、余計なオマケまで一緒に居たことだろう。しかもそれは、視界が開けた直後、目の前としか表現できない地点に存在した。
慌てて急制動をかける。
でも間に合わない。仕方なくわたしは、お互いのダメージが最小限に抑えられるようにと、二の腕から相手にぶつかった。地面を削り取るような音が響き、二の腕に何かが触れた途端に、エネルギーの移動を感じる。
わたしは無事に止まり、その代わりとなって仮面の男の子が吹っ飛んだ。その先に唖然としたみどりの顔が見えて、息を呑む。だけど、体勢を立て直そうと仮面の彼が身体を捻ったことで少しだけ軌道が変わり、彼女を巻き込まずに済んだ。
結局、勢いを殺し切れなかった仮面の少年――あれは確か優姫のところの山岸くん、だったっけ。彼は奈落の穴へと姿を消した。
場が凍る。
いや、ひょっとしてわたしが凍らせた?
何というか、偶然とはいえ、ずいぶんと慌しい場に出てきてしまったものだ。とはいえ、その視線は元凶たるわたしには向けられていない。被害者となった山岸くんの消えた崖へと向けられていた。
奈落、黄泉へと通じると言われている大穴だ。
例の伝説の、最後を飾る舞台でもある。
もちろん、その理由一つだけでも、わたしが奈落に近付ける道理などなかった。
「わあぁぁぁっ!」
そんな中、いち早く悲鳴を上げて駆け寄ったのは、意外にもみどりだった。
ちょっとみどり、そんなに覗き込んで、もし下に投身自殺みたいな光景が広がっていたらどうするの?
「いた!」
そりゃ居るでしょ。いくらドロドロのグチャグチャになっていても、存在が消えるなんてオカルトが起こるハズはない。否、あってはならない。
「ほら、掴まってよ」
みどりは崖下に向かって手を伸ばしている。どうやら、下まで落ちたのではないようだ。ドロドロにもグチャグチャにもなっていないらしい。
「イヤがらないの! そんな場合じゃないでしょ」
更に身を乗り出し、懸命に腕を伸ばしているようだ。
みどりはホントにイイ子だなー。
それに引きかえ、バ完児は何をやってるんだろ。
「アンタねー、こんな局面で何イチャついてるのよ?」
「よく見ろよっ。一方的に絡まれてんだよ!」
「ふーん……」
まぁ、そんなのは見ればわかる。
優姫のことだ。こうやって完児の動きを封じているのだろう。実際優姫は可愛いし、それを強引に振り解けるほど完児はストイックな男子でもない。
だけど、面白くないことも事実だ。
わたしがジャーマンスープレックスで粉砕しても、あんなに緩んだ顔をしたことは一度としてなかった。
「お前、信じてないだろっ」
「別にー」
正直、もう見たくない。わたしは顔を背け、改めてみどりの姿を視界に納める。彼女はまだ、奈落の縁に張り付いていた。
相手は山岸くん、男子の中では超が付くほど軽量級だけど、それでもみどり一人で引き上げられるほど軽くはない。とはいえ相手は身軽な間者の家系、簡単に落ちるとは思えないし、少しの手助けでも這い上がることはできるかもしれない。
というか、一人で這い上がってきて。奈落を覗き見るとか無理だからっ。
「山岸っ!」
内心の葛藤で躊躇するわたしを嘲笑うように、優姫の声が高く響く。オクターブの高い彼女の声を揶揄する人達もいるけど、わたしはむしろ羨ましいと思っていた。その愛らしい外見と合わせて、個人的には理想的だ。
だからこそ、この子とは打ち解けきれない。
特に、外見とは裏腹な狡猾さが邪魔をする。
「その子と一緒に落ちなさいっ!」
とはいえ、この発言にはさすがに驚いた。いや、わたしだけじゃない。ウチの班のメンバーばかりか、優姫の班のメンバーまで驚いている。ただ、それでも指示を無視するまでには至らないのか、巨漢の彼は二階堂くんと組み合ったまま動こうとはしなかった。
むろん、わたし達がそんな発言を許容する必要はない。
「安田さん、崖から離れてっ」
未だ動けない二階堂くんが、悔しそうに声を発する。
「そーよ、みどり。早く逃げて!」
わたしも追随した。
だが、みどりは奈落から離れない。こちらからは背中しか見えないから、その表情を窺うことはできないけど、今の彼女が怯えているようには見えなかった。むしろ何か、強い使命感のようなものすら感じ取れる。
みどりは、動かなかった。
「ほら、早く手を伸ばして!」
そしてあろうことか、自分から手を伸ばして呼び掛けているようだった。
自殺行為と思いつつ、それを咎める気にならない。
その理由は、考える必要すらない。彼女の方が正しいからだ。
静まる景色に、手と手が触れ合う微かな音が響く。
だけど、みどりが奈落に吸い込まれることはなかった。あの山岸くんが、主である優姫の言葉を無視したことになる。わたし達傍観者は、ただ黙って経過を見守った。いや、見守ることしかできなかった。湿り気を帯びた風に乗って、小さな子供がサツマイモでも引っこ抜いているような、愛らしい唸り声だけが森に響いている。
わたしは自分の発言を恥じた。
情けないと、素直に思う。
しかし、いくら気持ちの面で正しかろうと、決意を固めようと、物理法則を捻じ曲げられるワケではない。みどりの唸り声が何度響こうとも、状況が変化することはなかった。非力な彼女では、これ以上落ちないように支えるのがやっとのようだ。
互いの動きを制しあっている四人の眼差しが、何故かわたしに集中する。その目はひょっとして、わたしに助けろと言っているのだろうか。
「いや、無理無理無理っ。下から三本目の腕とか生えてきたら、絶対に失神するから。うん、マジで」
四人の目が同時に落胆、というか侮蔑に近い輝きを帯びる。
気持ちはわかるけど、そんな目で見ないでっ。
しばらくは奇妙な睨み合いが続いてから、大きな溜め息が響く。
ポンポンとジャージの裾を払いながら、完児に艶かしい寝技を極めていた優姫が立ち上がった。ちなみにバ完児は、少し名残惜しそうな顔で寝そべったままだ。
「白井、もういいわ。二人を引き上げてやって」
「わ、わかった」
こうして、わたしの出現が興醒めの原因にでもなったみたいな雰囲気で、緊迫した局面は収束を迎えたのだった。
「申し訳ありませんでした」
山岸くんが頭を下げる。白黒の犬のお面をしているせいで表情はわからなかったけど、泣いていたとしても驚かないくらい、その声は沈んでいた。山岸くんと優姫の関係は特別だ。少なくとも今まで、彼女の言葉に山岸くんが従わなかった場面なんて、見たことがない。
「……どうして落ちなかったの?」
「すみません」
「謝れと言ってるんじゃないの。理由を聞いてるのよ、優姫は」
「申し訳ありません」
ひたすらに頭を下げる。さすがに可哀想だけど、彼にとって優姫の言葉が絶対である以上、それ以外の対処はないだろう。そして、そのことがむしろ優姫を怒らせていることは間違いない。
「もういいじゃない!」
声が割って入る。
みどりだった。
「部外者が口を挟まないで」
優姫がすかさず応じる。必要以上に不機嫌な物言いだ。いつもの、どこか余裕を持って相手の裏をかこうとする彼女とは、別人のようにも映る。
「部外者じゃないでしょ。危うく巻き込まれるところだったんだから」
「結果的には部外者じゃない」
「だったら、アナタだって部外者じゃないの?」
「優姫が助けてあげたんでしょ!」
「助けてくれたのはそっちの人だもん」
そう言って、みどりは白井くんを指差す。
正論だけど、まんま子供の喧嘩だ。
それにしても、みどりはどうしてこんなにムキになってるんだろう。確かに山岸くんを見ていると少し気の毒かなと思えることもあるけど、特に嫌々やっている素振りは感じられない。そうすることが当たり前だと、自然に思っているように見える。
「だから、白井に指示を出したのは優姫じゃないの!」
「ホラ繋がった」
「は?」
「あなた助けた人、私助けられた人、部外者なんかじゃないじゃない」
「……で?」
溜め息を吐いて、優姫は短く返した。
「でって?」
「だからー、何が言いたいのかって聞いてるの」
「そもそも、どうしてそんなに怒ってるの?」
みどりの素朴な質問に、優姫が動きを止める。ちなみに、ここまでヒートアップさせたのはみどりだし、そう言う彼女がこんなに突っ掛かるのも、同じくらい不思議だと思う。
「そんなの、山岸が言うことを聞かなかったからに決まってるでしょ。当たり前のことを言わせないで」
「どこが当たり前なの? あんな所から落ちたら怪我するじゃない。そんな命令、聞ける方がおかしいよっ」
「怪我なんてしないわよ。クッションが敷いてあるんだから」
「くっしょん?」
それは初耳だ。というより、そんな場所にクッションなんか敷いて、祟られても知らないぞ。
「そーよ。当然でしょ、遠足なんだから」
「そ、そういうものなんだ……」
まぁ確かに、落ちたら死んじゃうような穴を放置しておくのは不自然だと思うけど。
「だけど、そんなこと言わなきゃわからないでしょ。いきなり『落ちろ』なんて言われたら、誰だって断るに決まってるじゃない」
みどりは粘る。言っていることも正しい。
でも、それは正しくない。
「山岸がわかっていないハズないでしょ。そもそも、貴女と一対一になってスタンプカードを奪うのが目的だったのよ。一緒に落ちれば、これほど絶好の機会はないでしょう。なのにコイツは……」
犬の仮面を睨む優姫。
一方の山岸くんは、縮こまったまま何も言おうとはしなかった。
そして、何となく気付く。
きっと、優姫も山岸くんも、わかっているんだ。互いの複雑な心情を理解しているからこそ、何も言おうとしないのだろう。二人は確かに主従だけど、一方的に優姫が何もかもを押し付けているワケじゃない。山岸くんは、あくまで自分の意志で勇気に付き従っている。それは、間違いなかった。
でも今回、彼は優姫の言葉に従わなかった。
それはもちろん、奈落に落ちることが怖かったからじゃない。底にクッションがあることを知らなかったワケでもない。多分、一緒に落ちることになるみどりを案じてのことだろう。
いくらクッションがあるといっても、怪我をしない可能性がなくなるワケではないし、仮に怪我がなかったとしても、その先に待つのはスタンプカードの略奪だ。落ちそうになっている彼を助けようと必死に手を伸ばしているみどりに、彼はそんな仕打ちを与えることができなかったんだろう。そして、自分の命令よりも、仲間ですらない相手を優先した彼の判断が、優姫には面白くなかったに違いない。
だから怒っている。
これはそう、嫉妬なんだ。
「みどり、もういいでしょ」
彼女の肩を優しく叩き、そう口にする。
「でも……」
不満そうな顔で、犬のお面に目を向けた。
「アナタもアナタよ。言いたいことは、もっとキチンと言った方が良いと思う。相手のことが大切なら、尚のことね」
みどりの発したその言葉に、初めて山岸くんが反応した。大きな縦長の目が、マジマジとみどりを見詰めている。そこに言葉はなかったけど、彼の心に響いていることは間違いなかった。
「そんで、結局のところどうすんだ?」
それまで傍観していた完児が、不意にそんな台詞を口にした。
「どうって?」
わたしが応じると、眉根を寄せる。
「決まってんだろーが、続きをするのかって意味だ」
「そんなの――」
凛と表情を引き締めた優姫の言葉を遮るように、近くの茂みが音を立てる。獣だとしたら、かなりの大きさだ。
瞬間的に緊張する私達の前に姿を現したのは、足取りをふらつかせた青ジャージの女子だった。
現れたのは、優姫の班メンバーである赤木さくらだった。
彼女はうな垂れていた。
責任を感じているようだ。
「何かあったの? 黒田は?」
優姫の質問に、彼女は答えあぐねている。
あまり言いたくないということは、おそらく優姫にとって思わしくない回答をせざるを得ないということだ。そしてそれは、すでに回答しているも同然だった。
「リタイア、したのね?」
「……うん」
「そう」
優姫は静かに頷く。驚きもしなかったし、怒りもしなかった。
ただ静かに、赤木さんの言葉を待っていた。
「ゴメンね、優姫。B‐7(びーなな)の人達を遠くから監視してたんだけど、後ろから突然志道さんが現れて……」
それが偶然かどうかはわからない。ただいずれにしても、監視役にとっては不幸な事故であったことだろう。
「襲われたの?」
「ううん、慌てて逃げ出したら、黒田くんが転んじゃって。足を捻挫しちゃったの。本人は大丈夫だって言ってたんだけど、駆けつけた役員にドクターストップだって言われて……」
無念そうに顔を伏せる。
「そうだったの」
落胆は隠し切れない。優姫が本気で優勝を狙っていたことは、山岸くんへの発言を聞いただけでもハッキリとわかる。
だけど、彼女は笑顔を浮かべた。
それは気丈な、無理をしていると思える笑顔だったけど、同時にとても優しいものだった。
「赤木は大丈夫? 怪我はなかった?」
「私は平気だけど……」
「なら良かった。残念だけど、黒田がリタイアした以上は仕方ないわね。みんな、ご苦労様」
優姫は狡猾で、油断のならない子だ。
だけど、その優しさと潔さは本物だった。
「ゴメンね、優姫。私達がちゃんとしていれば――」
「違うわ、赤木。これはむしろ優姫の責任よ。優勝候補を二つ一度に相手に出来るという慢心があったからだもの。怯える二人がタイミング良く加勢に来るなんて、思ってもいなかったわ」
「そういえば、よくここまで一人で来れたな?」
バ完児が、殴りたくなる笑顔を浮かべてそんなことを言う。
とはいえ、自分でもミラクルだ。白霧の森なんて、誰と一緒でも御免だと思っているのに。
そして思い出す。
「そーだ。宝っ!」
私の叫びに、皆の口が大きく開く。
何のためにここにいるのか、それを忘れていたのはわたしばかりではないようだ。
ちなみに宝というのは、大きく『金』と書かれたゴムボールだった。
変態教師に差し出した時、ニヤニヤしながら『それは私の○玉デース』とか抜かしたので、殴っておいた。
何故か喜ばれた。
先生にとってはご褒美ですね。わかります。