第16話 忍と幽霊 ‐二階堂義高‐
三区も佳境です。
そのせいか、少し長いです。
僕達は結局、白霧の森に戻っていた。
もちろん、自ら望んでという訳ではない。例の森川班もいるし、うっかりルートを外れると迷う可能性も低くはないので、長居を避けたい場所であることは言うまでもなかった。
しかし、そうも言っていられない。
三区の試練は、この森での宝探しだったからだ。
よくよく考えてみれば気付けたことかもしれない。森川班が逃げる僕達を追うことなく森に留まる理由なんて、この場に用事がある以外には考えられないことだ。やってきた人間の行く手を手当たり次第に遮るような手間をかけるくらいなら、さっさと先行した方が効率的だろう。
そうしていないということは、彼女達も宝とやらが見付かっていないと判断するべきなのだろう。あるいは、あの時に姿を見せなかった二人が捜索の任を負っているのかもしれない。
確か、後の二人はどちらも大人しい人物だったと記憶している。
しおり末尾のリストには名前しか載っていないから、それ以上の情報は何も引き出せないけど。いずれにしても、あの森川さんが指揮している以上、警戒しておいて損はない。
「うーん……」
杉浦は渡された半紙を引っ繰り返し、逆さにして読もうとしている。
もちろん、そんなことをしても読める道理はない。
「暗号じゃないぞ。それは英語という言語だ」
「んなこと知っとるわっ」
三区のチェックポイントには英会話教師トーマス・グリンが待っていた。彼は僕達に一枚の紙を渡し、一言『グッドラック』とだけ告げた。
「えーと……ざ、すくる、いず、いんざ、ふぉー……」
さすがに英語テスト0点という記録を持つ男は違う。僕も英語は得意な科目ではないけど、彼を見ていると得意と名乗っても罰は当たらないのではないかとすら思えてくる。
「駄目だ。サッパリわからん」
わかるとかわからないという問題ではない。彼にとっての英語は、異国というより異界の言葉に等しいのかもしれない。
「海鳥ちゃん、頼んだ」
「え、私?」
諦めて、タスキが安田さんに回される。
「えーと……The skull is in the forest of the fog, and it is in the right eye the treasure.」
可憐、そんな一言が似合う響きだった。
例えるなら春を謳う鳥の声か、あるいは秋を謳う虫の声か、いずれにしても心地良く森に木霊した。彼女の朗読は、いつ聞いても、どこで聞いても、何語であっても僕の心を躍らせる。本当に不思議な現象だ。
「意味は、うーん……このスカルって骸骨でいいのかな?」
「骸骨だと全身の骨っぽくなるから、髑髏の方が相応しい気がするね」
僕は答える。
もしここに藤嶋さんがいたなら、きっと安田さんは彼女に聞いていただろう。同性であり友人であるだけではない。彼女の成績は僕より遥かに優秀だからだ。
だが、さいわ……残念なことに藤嶋さんはここに居ない。彼女はよほど怖い思いをしたのか、この森に入ることだけは絶対に嫌だと譲らなかった。ちなみに志道さんも同じように譲らなかったらしく、二つの班は揃って三人のまま白霧の森へと戻ることになったのだ。
「そうなると……ドクロが霧の森にあります。そして……右目に宝?」
「多分、霧の森にある髑髏の右目に宝物がある、ということで良いんだろうね」
霧の森というのが白霧の森だというのはすぐにわかったから早速下りてみたけど、髑髏というのは今一つわからない。文字通りの髑髏が置いてあるのか、それとも何かを比喩した表現なのか、このままでは判断のしようがなかった。
とはいえ、これ以外のヒントは何もない。
いや、グッドラックというのが単なる励ましでなかったとしたらどうだろう。杉浦じゃないけど、一見するとただの英文に何かが隠されている可能性が無いとは言い切れない。
グッドラック、幸運か。
それって運次第ってことだろうか。
いや待て、さすがにそんな単純な……。
「あれ?」
紙から視線を外し、安田さんが右へと首を巡らせる。
「なになに?」
変化に気付いた杉浦と僕の視線が、足を止めた安田さんに集中した。彼女は何度か瞬きを繰り返してから、紙を持っていない右手で目を擦ると、もう一度同じ方向へと視線を送った。
「……えっと、何か白っぽいものが見えたような気がしたんだけど、気のせいだったかもしれない」
「おいおい、海鳥ちゃんまで幽霊見えちゃう派かぁ?」
「それはないと思うけど、雰囲気あるのは確かだよね。さすがに一人だったら心細くて歩けないよ」
そう言いながら白くぼやけた世界を見渡す。
確かに彼女の言う通り、ここは極めて珍しい環境だろう。だけど、本当に怖いのは幽霊だろうか。もちろんそんな理屈の通じない相手に出くわしたくはないけど、幽霊の方がマシだと思えるような相手が、ここには潜んでいるような気がしてならない。
いや、何でも悲観的に考えるのは良くないか。
「とりあえず当初の予定通り、まずは奈落まで行ってみようか」
そう告げて、僕は歩き出す。
二人は同時に頷いて、行軍は再開された。
理論的とは到底言えない一抹の不安を、胸の内に抱えたまま。
複雑に絡み合い、まるで一つの意思を持って何かを隠そうとしていたかに見える白霧の森が、そこだけ不自然に途切れているように見えた。
あるいは、あの大穴を隠すためにこそ、森は存在しているのではないかとすら思える。
奈落が、目の前に広がっていた。
奈落とは地獄のことであるが、例の逸話から考えれば納得の呼称であろう。不思議と周囲に草木の生えない不気味な大穴、常に森と霧に覆われた底の見えない奈落、そんな風に揶揄されることが多いけど、実際に見てみると理屈は明白だ。
「何だか、この辺りだけ異様に黒いんだね」
安田さんが呟きを漏らす。
「火山岩、というヤツかな」
「火山岩?」
聞き返してくる丸い瞳に、僕は頷きを返す。
「噴火の跡だね。規模は小さいけど、ここが火口だったんだと思う」
「え、それって危なくないの?」
「激しく活動している訳でもないからね。問題はないと思うよ。富士山だって分類としては活火山に入るくらいだし」
「そうなの? じゃあ、大丈夫なのかな……」
若干の不安を残したままの憂い顔を、再び黒い大きな穴へと向ける安田さん。その拍子に小さなポニーが跳ねて、僕の心を揺さぶった。何というか、この小さな髪の毛の塊の方が、僕にとっては心臓に悪い気がする。
と、その根元にある小さな黄色い星が一瞬輝いた。
僕は誘われるようにして、視線を持ち上げる。
そこには青い空と、白く輝く太陽が見えた。
「あれ、いつの間にか晴れてる?」
「お、確かに」
僕の視線に気付いた二人も空を見上げ、その変化を実感する。
だけど、それは正確とは言えない。空は最初から晴れていたし、一度も曇ってなどいなかったからだ。それを二人が勘違いしたのは、この森を覆う霧が晴れてきているからに他ならない。
森の方へと目を向けてみると、視界が明らかに広くなっている。ここが開けた場所だから、という訳でもないようだ。
そのことに少し驚いている自分が、何だか可笑しい。
気付かない内に僕も、この森が特異なモノであると心のどこかで思い込んでいたということなのだろう。気味の悪さ、不可解さ、一見すると筋の通った逸話、そういった諸々の情報が錯綜し、白霧の森というイメージが作られる。
霧が晴れないなんて、そんな道理はどこにもないというのに。
この森の霧が濃いのは、特殊な地形と、恐らくは地熱によるものだ。その霧が更に森の環境を歪め、不気味な姿を演出しているに過ぎない。ここには染み付いた情念も激しい怨念もない。あるのは明確な因果と、それを歪んで捉えようとする人の意思だけだ。
「で、実際のとこどうやってお宝を探すんだ?」
突然の質問と共に振り返る杉浦に即答することなく、僕は顎を撫でた。
正直言って、明確な当てがある訳ではない。むしろ、何もないというのが実情だ。この奈落にまず足を運んだのも、特に根拠がある話でもなかった。髑髏を死体、あるいはそれに類するモノと捉えた場合、この奈落とその周辺が相応しいと思えた程度だ。むろん、何かしら宝を隠すとした時に、都合の良い場所であろうという程度の予測はあるが。
「とりあえず、付近をざっと見回ってみようか。ヒントがアレだけだったから、意外に簡単に見付かるかもしれないし」
「わかった。んじゃ、オレは向こうを見てくっから」
「あまり遠くへ行くなよ。すぐに戻ってこられる位置からは離れないでくれ」
「あいよっ」
わかっているのかどうか微妙な返事をする背中を見送って、僕は小さく溜め息を吐いた。
本音を言えば簡単などではないと思っている。第一、そこまで安易なら森川班が足止めや妨害などをしている道理もないように思う。
特に奈落は白霧の森の中心にあたる訳で、普通なら最初に捜索の手を伸ばそうと思う場所だろう。だからこそ、志道班の平岡は奈落の捜索を省略したに違いない。発想としては、その方が効率的だと思う。
いや、僕は僕の考えて行こう。そもそも、ここを放置したままウロウロしたところで、気になって仕方がないじゃないか。
そう思い直して顔を上げたところで、僕は小首を傾げた。
少し離れた正面――二十メートルくらいに先に立ち尽くしたままの杉浦が居たからだ。タイミングからしてもっと遠くに行っている筈、ということもあるが、まるで何かを見付けたかのような顔で微動だにしていないことが余計に疑問を増大させる。
ちなみに彼の視線を追ってみたが、その先には何も見えなかった。
「杉浦、どうかしたのか?」
「あ、いや、アレ……」
視線は外さずに指を向ける。だが、正直要領を得ない。
「何が見えるんだ?」
「……ねぇ」
彼の返事を聞く間もなく、今度は背後から声が掛かる。その相手は確かめるまでもない。安田さんである。
その声が少し震えていたように聞こえたこともあって、僕は急いで振り返る。だけどその真意を問いただす必要はなかった。
何故なら、わかってしまったからだ。
彼女の指先を追うまでもない。
今僕達の視線の先には、女性が立っていた。髪は長く、白装束に身を包んでいた。癖のないストレートヘアは志道さんを連想させたけど、纏う雰囲気はもう少し大人びているように見える。それに何より、ガタガタ震えながらチェックポイントに残った彼女が、このタイミングで趣味の悪い悪戯をするとは思えなかった。
「……百合香?」
声に振り返ると、杉浦は見えている『何か』に向かって歩き始めている。
それはそうと、今彼は藤嶋さんの名前を呼んでいた。彼女は見た目にもわかりやすいショートボブという髪型をしている。少なくとも僕達に見えている女性とは別人のようだった。
つまり、少なくとも相手の特定できない二人の人物に見られていることになる。
「ねぇ、ねねねねぇ!」
安田さんに袖を引っ張られて再び視線を戻す。
何だか慌てている様子の彼女を宥めようと口を開きかけたところで、動きが止まる。
いや、呼吸すら止まっていた。
さすがの僕も、これは面食らったと言うべきだろう。
例の長髪の女性――表情の読めない白装束の彼女には、下半身がなかった。いや、そうじゃない。正確には、先程まで見えていた筈の下半身が消えていた。
心音が聞こえる。
袖から微かな振動が伝わってくる。
思考が、白く染まった。
もしここで叫び声でも上げていたら、僕はきっと楽になっていたことだろう。奇妙なことを奇妙と素直に認め、ある意味において素直な大人への一歩を踏み出していたかもしれない。
でも、そうはしなかった。
いや、出来なかった。
キュッと、袖を握る手に力がこもり、温もりが近くなる。それが僕を、いつもの僕に戻した。目の前に広がる世界を、自分にわかる記号に置き換えて理解と判断をする邪な子供へと。
だから、軽くも派手な炸裂音が響いても、僕はあまり慌てなかった。その事態を予想していたのではない。目の前の不可解な事象と切り離せたために、それが『かんしゃく玉』の音だと一瞬でわかっただけの話だ。
「いつつ……」
直撃を食らった杉浦は、何が起こったのかわからずに頭を抱えて呆然としている。彼が押さえているのは左側頭部、その先へ素早く視線を走らせると、茂みから上半身を出した青ジャージが見えた。
すでに次弾をパチンコに装填している彼は、犬――らしきお面で顔を隠していた。やけに目がパッチリとした白黒の犬だ。ああいうのには詳しくないが、お気に入りのキャラクターなのだろうか。
と、そんなことは今どうでも良い。
「杉浦っ、前に跳べ!」
表情は曖昧なままだったが、彼は咄嗟に地を蹴る。その頭を掠めて、かんしゃく玉が飛び去る。
「左だ! 犬がいる!」
「犬?」
わけもわからず首を巡らせたが、何とか意味は通じたらしい。その先に見えた山岸を見付け、杉浦は臨戦態勢を整えた。
よし、向こうはこれで良い。
問題は本隊、つまり森川班が近くに居る可能性が高いということだ。見えている上半身がその内の一人だとして、あと三人……いや、杉浦の見ていた先にも居たから、見えていないのは二人か。
「あれ、消えた?」
次々に飛んでくるかんしゃく玉をかわしながら、不意に杉浦の意識が逸れる。どうやら、それまで向かっていた茂みの奥を気にしているようだ。
おそらく見えていた女性を見失ったのだろう。移動したか。
「とりあえず、杉浦と合流するよ?」
「う、うん」
まだ相手に大きな動きはない。山岸の攻撃も牽制に止まっている。とりあえずバラバラに動くのは得策ではないだろう。特に安田さんを守ることを考えたら、杉浦の近くに居ることが最上の形だ。
「あ、あれあれ?」
「どうかした?」
袖を掴む力が強くなって、僕は彼女の横顔を確認する。先程までは白く見えた顔色が、今度は蒼く見えた。状況としては、悪化していると考えるべきだろう。
「きき、消えちゃったよ?」
「消えた?」
その視線を追えば、確かに見えていた白装束の女性は居なくなっていた。ただ、彼女の言い方を聞く限り、移動したとか隠れたとか、そういう雰囲気ではない。
「消えたって、どういう風に?」
「どういうって、溶けるみたいに……」
説明している彼女自身が信じられないせいだろう。その言葉には輪郭が乏しい。まるで小さな子供がその場凌ぎの嘘を並べているかのような雰囲気すらあった。あるいは、目の前の相手が安田さんでなかったなら、僕はその言葉を疑っていたかもしれない。
でも、彼女はこんな局面で嘘など吐かない。
「ごめん。何か見間違いかも……」
「そんなことないよ」
僕は、彼女の言葉を信じることにした。茂みの向こうに見えていた上半身だけの女性は、確かに消えたのだろう。少なくとも、安田さんの目にはそう映った。
「二階堂君、何がどうなってるの? 犬のお面の人って、あの時の志道さんなの?」
安田さんは怯えている。
とはいえ無理もない。突然現れては溶ける様に消える白装束の女性に、犬の面を被った小さな少年という奇妙な組み合わせに襲われているなど、男の僕でさえ不可解な恐怖を抱いている。相手は間違いなく森川班であろうと思う反面、何か腑に落ちないわだかまりが胸の奥に沈殿していた。
でも今は、それらに結論を見出しているだけの余裕はない。
とにかく杉浦と合流をして――。
「白井っ、突撃!」
叫びが上がる。振り返ると、例の女性が見えた近くの茂みからツーテールの青ジャージが姿を現していた。やはりと言うか、森川さんが潜んでいた。
そして少し離れた茂みから、大柄な白井が飛び出してくる。
彼は杉浦と僕達の間に割り込むような位置に一度立ち塞がると、こちらに正面を向けた。小麦粉胡椒弾は一度使っている。相手も警戒しているから二度は通用しないだろう。
「山岸、足止めお願い!」
森川さんの更なる指示が飛ぶ。
巨体に視界を塞がれているので全容は見えないけど、犬面の少年が茂みから飛び出したのが視界の端に映った。どうやら、本格的な攻勢に移ったようだ。
正直言うと喜ばしい状況ではない。
でも何だろう。何かが不自然な気がする。
そもそも、どうして人数の優位を前面に出してこないのだろう。この局面、山岸が杉浦を、白井が僕を抑えれば勝負は決まりだ。さして力に自信のないメンバーでも、さすがに三対一では勝負にならない。しかもこちらの背後は奈落という名の大穴だ。逃げの一手すら実行が難しいときている。
こちらの残る一人、藤嶋さんを警戒している?
いや、こうも見事に半包囲している状況から考えて、周囲に彼女が隠れていないことくらいわかっている筈だ。そもそも、このタイミングで襲ってきたこと自体が、ある程度待ち構えていたと想定すべき状況だろう。となれば、こちらの様子はある程度把握しての作戦に違いない。
やっぱり、何かが不自然だ。
「白井、女を狙って!」
やれやれ、考える余裕すら与えてはくれないらしい。
「安田さんは下がって」
「あ、うん……」
気付けば、背後にはもう奈落が迫っている。自覚はなかったけど、白装束の女性を始めとした奇妙な圧力に、いつの間にかジリジリと後退していたのかもしれない。
一つ大きく息を吐き、安田さんを追うように進路を変えつつあった白井の腰にしがみ付く。彼は僕より頭半分くらいは大きいが、それでも大人と子供クラスの違いではない。退けるのであればともかく、足を止める程度なら難しくもなかった。
相手の方もその事実を理解したのだろう。強引な前進を止め、そのベクトルをこちらに向けてくる。
よし、とりあえず突進は封じた。
と、今まで巨体によって塞がれていた視界が元に戻る。
予想していた以上に、杉浦は山岸に翻弄されていた。小柄で非力に見える山岸に杉浦ほどの格闘力はない。その代わり、人間業にすら思えないほどの身軽さと、遠近自在のかんしゃく玉攻撃が厄介な武器のようだった。いや、杉浦の動きを見る限り、それだけでもなさそうだ。彼の注意は時折思い出したように茂みへと向けられている。例の『何か』が見えているのだろう。
ただ、その何かが加勢してくる気配はない。杉浦にとってはそれが余計に不気味なのか、彼の動きには普段の切れが感じられなかった。
やはり出て来ない?
ふと見れば、森川さんは微動だにしていない。杉浦の牽制に一人割いているとしても、残るメンバーは彼女を含めて二人、僕と杉浦が抑えられている現状を考えれば、回り込んで安田さんを狙うのが当然だと思うところだが。
それをしない理由は何だろう。
僕と組み合った形となった白井が、姿勢を整えてこちらを押してくる。踏ん張ってはみたが、速度を落とすのが精一杯だ。さすがに単純な力勝負では分が悪い。
マズいな。このままだと安田さんと引き離される。
歯噛みするが、今の僕にはどうすることもできない。出来る限り粘り、杉浦が山岸を退けるまで待つ程度がせいぜいだ。しかし状況は膠着し、こちらにとって都合良く事態が転がってくれないまま、どんどん距離が開いていく。
すでに白井の巨体に隠れて、安田さんの表情を窺うことが出来ない。彼女がどれだけ怯えているのか、それを思うだけで心が震えた。その事実に対して何も出来ない自分が、あまりに脆弱で情けない。
と、視界の端に気配を感じる。
最初、とうとう森川班のメンバーが回りこんで来たのかと思った。
だが違う。
その姿は全体に白く、長い黒髪だけが異様に暗い。消えた筈の上半身は、今も変わらずそこにいた。何もせず、動くことなく、ただそこに佇んでいる。
刹那、風が吹いた。
梢を揺らし、髪や頬を撫で、霧を巻き込んで森の奥へと流れていく。湿った青い香りが鼻腔をくすぐり、微かに響く淋しげな声が耳の奥に残った。
そして、例の女性が再び消える。
いや、溶けると表現した方が相応しいのかもしれない。少なくとも、僕の目に映る変化を正直に表現するとしたら、その方が正しいように思えた。
空気に溶ける白い女性。
風と共に晴れる霧。
そこに居ながら、決して動くことのない二つの影。
僕は確信した。
「杉浦っ、白い女に実体はない! そいつが動くことはないから気にするな!」
「ホントかよっ」
「間違いない。それはトリックだ!」
「おっしゃ、わかった!」
叫びに、白井が目に見えて動揺する。
間違いない。見えていた二つの白い女性は、森川班のメンバーではないのだ。向こうのメンバーは全部で三人、つまりこちらと人数の面では五分ということになる。だからこそ、孤立した安田さんに森川さんが手を出そうとしないのだ。
杉浦の動きに切れが戻れば、戦力的に山岸を退けるのは時間の問題だ。いかに身軽でも、決定打に欠ける攻撃では粘る以外の戦術は取りようがない。
だが、そんな僕の予想を嘲笑うかのように、森川さんが動いた。
「山岸、プランB!」
「はいっ」
犬面のせいで表情の読めない山岸は、小気味良い返事と共に手持ちのかんしゃく玉を一度に杉浦の足元に投げて牽制すると、踵を返してこちらへ向かってくる。
一瞬遅れて背中を追い始める杉浦だったが、その彼の前に森川さんが立ち塞がる。まさか、彼女が相手をするというのか。確か森川さんは格闘技の経験などない筈だし、それ以上に運動はことごとく苦手だった。華奢な身体付きは伊達ではない。
そんな彼女が正面から杉浦に挑んだところで到底……いや、そうか。そういうことか。
「悪ぃが森川、今はお前の相手をしているヒマは――」
言い掛けて横を通り過ぎようとする杉浦の首へ向けて、森川さんが大胆に跳び付く。いきなりの不意打ちに面食らったこともあって、二人はそのまま地面に倒れ込んだ。
「な、何だよ、いきなりっ」
「今なら好き放題触ってもいいよ、す・ぎ・う・らクン」
「へ?」
あまりに場違いな発言ながら、突然の提案に杉浦が固まる。
考えたな、森川さん。
それにしても、何という思春期殺し。華奢ながら女性らしい容姿の彼女に絡まれて、明確な拒絶の出来る男性など滅多に居ないだろう。
正直、対象が僕でなかったのは幸運だった。
いや、そんなことは今どうでも良い。この瞬間に自由を得たのは山岸、いくら男子の中では華奢と言っても、女子相手に後れを取るほど非力ではない。それに杉浦ほどではないとしても、それなりの体術と武器を備えている。
安田さん一人では、どう考えても荷が重い相手だ。
「くっ……」
振り解いて彼女の元へと向かおうとした僕の腕を、白井がガッチリと掴んで離さない。この巨体を引きずって向かえるほど、僕は怪力の持ち主でもなかった。
視界の右へと侵入した山岸が、そのまま左へと駆け抜ける。
その先に、怯える安田さんが居る筈だった。
今の僕には、その表情すら窺い知ることができない。
強く噛み締めた奥歯が、不愉快な摩擦音を奏でる。
「安田さんっ、とにかく逃げ――」
もはや提案とも呼べない苦し紛れの発言すら、僕は言い終えることができなかった。
背後の茂みが突如爆発したかと思ったら、真っ赤な輝きが横を通り過ぎる。
それは突然発生した竜巻のように、全てを巻き込んで弾き飛ばしたのだった。
百合香が何をしているのか、それは次回で。