第13話 霧と影 ‐藤嶋百合香‐
第三区、そろそろ全体の折り返し地点になります。
三区のテーマはズバリ『ホラー(笑)』ですんでヨロシクお願いします。
森が白い。
細いとはいえ、踏み固められた道であるにもかかわらず、まるでぬかるんでいるかのような感触が足の裏に返ってくる。息をする度に湿気と、何か得体の知れない気配が喉に絡み付いて、たまらなく不快だった。
天を見上げても、そこに青はない。
果てしない白と濃すぎる緑が、不気味なコントラストを描いているだけだ。
もしも地獄がここより怖いというのなら、私は一生死にたくはない。少なくとも、出来る限り生にしがみついて生きていこうと思えるだろう。
もちろん、それ以前にショック死しなければの話だけど。
「しおりにも書いてあったけど、本当に凄い霧なんだねー」
やけに静かな一同――あの完児ですら圧迫感に声を上げられずにいる中で、みどりだけは平時と何一つ変わらなかった。いや、むしろ『おあずけ』をされた後の犬みたいに、はしゃいですら見える。
わたしは今、猛烈に彼女が羨ましい。
何も知らないって、実に素晴らしいことだと思う。わたしだって何も知らなければ……いや、多分知らなかったとしても怖かっただろうけど、少なくとも魂が口から半分はみ出すような事態には陥らずに済んだと思う。
「ここって、何か怖い話で有名だって、しおりに書いてあったんだけど――」
「みみみ、みどりっ!」
この状況で怪談を引き出そうとする天然娘を、力一杯睨み付ける。
「えっと、ユリちゃん顔が怖いよ?」
わたしはあんたが恐ろしいわっ。
「まぁ、とにかく噂の多い森だからな。百合香がヒステリックに怖がるのもわからんではないよ。ちょっと気味悪いし」
「でしょ。そうだよねっ」
完児の意見に条件付きでもないのに同意するなんて、一体何年ぶりだろうと思う。でも、この際だから小石の一つ、枯葉の一枚でもいいから味方が欲しい。
「そんなに怖いかなー。幻想的って感じがして、綺麗な所だと思ってたんだけど。まぁ、遠くが見えないから、他の班が突然襲ってきたりとか、熊が茂みからいきなり現れたりするとかされるのは、ちょっと怖いね」
「人間や熊なら、拳で倒れるだけマシよ」
「いや、そんなことできるのユリちゃんだけだって」
「さすがにクマはオレにも無理だな」
という完児の戯言に突っ込んでやる気力もない。
このままでは死んでしまいそうだ。
魂が蒸発して昇天しそうだ。
わたしは雰囲気に耐え切れず、慌てて口を開く。
「ここはやっぱり楽しい話でもして――」
「よし、百物語しよーげぇっ!」
隣を歩いていた馬鹿な生き物に右拳を突き出す。
「いてーだろっ!」
一瞬で復活して戻ってくる。
完児は熊より頑丈だった。
「とにかく、少しでもたの――」
「二階堂君は何か知ってる?」
「噂とかはあまり知らないかな。そういう話は曖昧なことも多いから」
少しでも場を明るく演出しようとしたわたしの目論見は、天然娘の好奇心によって踏み潰されていた。普段はポワポワして一人別次元の空気を漂わせているというのに、どうしてここでそのスキルを発動させないかな、この子はっ。
「私そういうの見えたことないんだけど、やっぱり居るのかな?」
みどりは更に踏み込む。
「さぁ……僕も見えたことはないよ。見たいとも思わないけど」
「私は、そういうのちょっと憧れるかな。霊感とかって神秘的な雰囲気あるし」
何というか、どんどん望まない方向に話が進んでいた。
というより、この森を突っ切ること自体を、わたしは望んでいなかった。できれば、迂回する尾根のルートを進みたかった。
もしもみどりが優勝に燃えてなどいなかったなら、そうなっていたかもしれない。いや、もちろんわたしにだって優勝を目指したいという気持ちはあるし、急ぐことに反対するつもりはない。ただ、この森を突っ切るくらいなら、迂回ルートを全速力で走り抜けた方が遥かにマシだと思っているだけだ。
「でも、どうしてそんなに噂になるんだろ。霧が濃いから?」
「それもあるけど、多分村に伝わる民話が元だと思う。神隠しとか行方不明とか、ずっと昔からあるらしいし」
「ちょちょちょっ!」
わたしは歩く速度を速めて、妙に息の合ったトークに花を咲かせている二人に追いつく。
「ユリちゃん?」
「みどり、あんたは何を聞いてるかわかってるの?」
「何って、森のことだけど」
「二階堂くんも、どうしてそんな話をここでしようとするかなっ」
悪意がない分、完児より性質が悪い気がしてきた。
「面白いかどうかはともかく、興味深い話ではあると思うけど」
そういう問題じゃないよっ。もっと深刻な問題だよ。魂を削るような一大事だよ。
「どんな話なの?」
「確か千年くらい前の、平安時代の頃の話だったと思う。当時の都に――」
「やーめーなーさーいー!」
二人の間を邪魔するように開いた右手を激しく上下に振って、強引に話を止める。
何よ、その不満そうな顔は。
むしろ感謝すべきでしょーに。
「幽霊は『その手』の話をしてると集まってくるっていう法則を知らないの?」
「やだなーユリちゃん、そんなの迷信だよ」
「信じるには、さすがに根拠が不明瞭だね」
「いーからっ!」
藪睨みで黙らせる。
「まぁ、何だ、今は先を急ごうぜ。そういう話は、もう少し落ち着いてからでもいいだろ」
完児の援護がこんなに頼もしかったことは、生まれて初めてのことだ。今まで馬鹿とかヘタレとか鈍感とか甲斐性なしとか、色々言ってきてゴメンね。
今この瞬間、私の好感度は0.2ポイントくらい上昇したよ。
「確かに、それは道理だな」
「うん、早く先頭集団に追いつかないと」
二人があっさり同意して、その歩みが一段と速くなる。
まだ油断は出来ないけど、とりあえずは一安心だ。
身体に纏わり付く霧は相変わらず濃密で、何かをせがむようにわたし達を取り囲んでいる。その先にどのような怨念が潜んでいるのかなんて、考えたくもない。
だけど、そう思えば思うほど、白い影が十二単に見えてくる。
わたしは前方を歩くみどりの背中だけを見詰め、ただ足を踏み出すことに専念することにした。
ここは昼夜を問わず霧に覆われる神秘の土地だ。
村人には『白霧の森』と呼ばれている。
だけど、それは表の顔に過ぎない。その裏側を口にする時、この森は決まって別の俗称で呼ばれていた。
すなわち『悪夢の森』と。
そもそも村に伝わる伝承によれば、この森は太古から霧に覆われていたという訳でもないらしい。ことの始まりは千年前、とある姫君が都より追放されて流されてきたことにより始まっている。
この村の名士として名高い森川家の始祖とも言われているけど、とりあえず綺麗なお姫様が都からやってきた、という記録は残っているらしい。
彼女はこの村で一番大きな屋敷に身を寄せ、そこでしばらくは都を懐かしみながら無為な時間を過ごしたとされている。
何不自由なく、しかも注目と賛美を浴びる生活から、片田舎の単なる美人へと降格されて、実際に彼女がどれだけ腐ったのかはわからない。わたしだって生まれた時から贅沢な生活を繰り返していたら、ワガママばかりを口にする嫌な女の子になっていたに違いないと思う。
ただ、結果から見たら幸不幸の判断は難しいところだけど、彼女は単に綺麗なだけの女性ではなかった。都で育まれた豊富な知識と的確な見識が、周囲の村人達を更に感心させたのだ。元々頭の回転が速かった彼女は、さして時を費やすことなく村での生活に溶け込み、その学によって村にとって不可欠な存在へと昇華していった。
結局、その人を決めるのは中身、ということなのかもしれない。
この噂を耳にして面白くないのは、都に住んでいる彼女を追い出した女性達である。すぐに泣きついてくるものと思っていたところが、村に順応するばかりか、そんな場所でも支持を集めつつあるのだから面白くないのも当然かもしれない。
もちろん、ずいぶんとワガママな思惑だと感じるけど。
女性達は一計を案じ、彼女が都に向けて弓を引こうとしていると吹聴した上で、将軍の一人に討伐を命じる。いつの間にか彼女は都で鬼と噂され、反逆者の汚名を着せられることになっていた。この時、彼女の近くにいた村人達は決して噂を信じず、彼女を守るために戦うことを決意したことは、良かったのかどうかはわからない。
でも、彼女は絶対に嬉しかったと思う。
だからこそ、そんな風聞に屈しないことを決めたのだと思うから。
都からの遠征軍はすぐに村へと攻め込み、その圧倒的な戦力差で蹴散らされた。でも彼女は機転を利かせて、村人全員を引き連れて森の奥へと隠れることにした。
それがここ、今は白霧の森と呼ばれる、周囲を尾根に囲まれた深い森だった。森の民とすら呼ばれた村人達と違い、都の兵士達は視界の利かない森の中での戦闘に苦しみ、かなりの苦戦を強いられたと記録には残っている。
でも、所詮は多勢に無勢。
次第に包囲を狭められた村人達は追い詰められ、ついに彼女の討伐は終わりを迎える。そして、その死の瞬間――たくさんの兵士達と討ち減らされた村人達の前で――彼女は鬼だった。
彼女が元々鬼だったのか、それともこの瞬間に鬼へと変じたのか、それはわかっていないと伝えられている。ただ記録によれば、最期の瞬間は鬼であったとされているだけだ。
無念を思えば、後者であったとわたしは思う。
いや、せめて村人と接している間は、鬼でなかったに違いないと信じたいだけなのかもしれない。
だけどそんな思いは、結果からすれば大きな違いではないのだろう。それが成ったのであれ、在ったのであれ、鬼として生を終えたことに、変わりはない。
その姿は異形という以外の形容を認めず、口からは臭気と怨念を吐き出したと伝えられている。かつての美しい容姿は見る影もなく、全ての者が口と鼻と目を押さえたというから、相当なものだ。
ただ、話はここで終わらない。
残骸から討伐の証拠を探そうと将軍が近付いた時、彼女の死体は溶け出した。突然ドロドロに崩れ、周囲を激しく溶かしながら白い煙を上げたと伝えられている。その溶液に触れた者と白い煙に巻かれた者は例外なく命を落とし、命からがら逃げ出した将軍は慌てて兵を引き、二度とこの地に近付くことはなくなったそうだ。
無理もない。そんな不気味な所に自分から近付くなんて、正気の沙汰とは思えない。馬鹿だ。間抜けだ。おたんこなすだ。
まぁとにかく、そんな訳でこの森は絶えず霧に覆われ、その中央には彼女の溶液によって溶かされたとされている大穴があるらしい。それがどんな形をしているのかは、実際に見たことがないからわからない。
もちろん、見たくもない。
そもそも、怨念の凝り固まった中心地なんて、見たいと思う方がどうかしている。何でも大穴の底は地獄に通じているとかで、向こうから迷い出た地獄の住人や、地獄へ行くことを拒む死者の霊が周囲をうろついてるとか、もっぱらの噂だ。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
けど、こんな話を現場でわざわざ口にしようなんて、無謀な挑戦にも限度ってもんが……。
突然の叫び声が森に木霊した。
というか、叫んだのはわたしだった。
何だか良くわからないけど、無意識に歩いてるつもりが、いつの間にか民話の旅をしていた。他人に話すなと釘を刺しておきながら、何を考えているんだ、わたしわっ!
「……おいおい、いきなりどうしたよ?」
少し前方で足を止めた完児が、半身でこちらに目を向ける。心配しているというより、気味悪がっているという眼差しだ。
「ユリちゃん大丈夫?」
その更に前方でこちらを振り返る二人の眼差しは、気味悪いを通り越して可哀想な生き物でも見るかのようだ。
あぁ完児、今ならあんたの気持ちが痛いほどによくわかるよ。
普段、本心を隠さなくてごめんね。
「ももももちろん大丈夫よ! ほら、とっとととと先に進みましょ」
少しだけ無理をして、胸を叩きながら明るく宣言する。
でも、不安は晴れなかった。
というか、むしろ表情の渋みは増した印象だ。本気で心配されているのがヒシヒシと伝わってくる。完児に至っては、偽物なんじゃないかと疑ってしまうほど、真剣な顔をしていた。
何というか、これはちょっと良くない気がする。
わたしが怖いのは仕方ないからともかくとして、班全体の雰囲気が悪くなるのはいただけない。全体が暗くなり、落ちていった先に待っているのは、不幸なバッドエンドだけだ。もしもこんな状態で悪霊と対峙することになったら、間違いなくスプラッタな展開が待っている。
きっと、誰も助からない。
それは駄目だ。せめて犠牲は完児一人にとどめないと。
この現状を打破する手段はただ一つ――ベタなボケをかましてツッコミを引き出し、お笑いスパイラルを作るしかない。
わたしに出来るの?
いいえ、出来るか出来ないかじゃない。やらなきゃいけないの!
頑張れわたしっ、負けるな百合香っ。
大きく息を吸い込み、見た目以上に距離を感じる三人を改めて見据える。彼らは未だに言葉を失い、腫れ物にでも触ろうかという顔で次の言葉を探している。
行くなら今しかない。
わたしは右腕を水平方向へと突き出し、声を絞り出した。
「あんな所に短足の相撲……取り……が」
指の先へと目を向けた瞬間、言葉が萎む。
そこには、女性が立っていた。
森の中に居るには不自然な、白装束を纏っていた。
前髪が顔を覆い、表情は隠れていた。
でも何が楽しいのか、口元だけはつりあがり、歪んだ笑みを浮かべていた。
全身が石と化したわたしは、瞬きすることもできずに女性を見詰める。無意識に唾を飲み込む音だけが、頭の下で盛大に響いた。
「何だよ、志村でも居たか?」
そう言って完児がわたしの視線を追う。その背後に居る二人もそれに倣った。
「誰もいねーぞ?」
「やだなぁユリちゃん、冗談ばっかり」
「逃避も大事だね、うん」
三人がそれぞれに、気を遣ってくれている。
冗談に付き合っている的な雰囲気が、生温かく場を満たしつつあった。わたしの本来の目的からすれば、これは成功といって差し支えないと思う。やや不自然ながらも、死亡フラグは回避できたに違いない。
この白い女の人さえ、見えていなければ。
わたしは視線を外せない。見たくないと心の中で強く思っているのに、首も眼球も接着剤か何かで固定されたように動かなかった。
どうするの?
どうしたらいいの?
思わず泣きそうになる。
と、霞む視界へ割り込むように、鋭い光が飛び込んできた。
何だろうと意識を向けた瞬間、目が合う。
刹那、頭の中で何かが切れた。
言葉にならない声を上げ、不規則に大きく腕を振り、思うようにならない足を出来る限り大きく踏み出して、わたしは走る。
周囲の景色は目に入らず、仲間の声は耳に届かず、意識は空の彼方へ飛んで行った。
緑はどこまでも気持ち悪くて、白はどこまでも鬱陶しい。
いつもは避けて通る闇ですら、今この時ばかりは恋しかった。
作者は幽霊とか見えたことのない人です。
なので、幽霊にインタビューしたこともないため、幽霊の気持ちとかわかっていません。
ごめんなさい。






