第12話 想う声 ‐美波さつき‐
2区と3区を繋ぐゲスト回です。
蓋を開けると、香ばしい油の匂いが立ち昇る。
お父さんの作るお弁当は、いつも見た目的には地味だ。栄養も彩りも、私が作った方が多分上手い。だけど、ここにある温かみは、まだ私には出せそうもない。
「いただきます」
手を合わせて小さく宣言してから、箸を取り出してポテトサラダを口に運ぶ。きゅうり以外に具が入っていない、お父さんらしい一品だった。
そして、これがまたおいしいところが不思議だった。
「トンカツとか入れて……無理して奮発しなくても良かったのに」
そう、私はもう、ゴールすることができない。
見上げると、そこには今日という日を祝福するような、一面の青空が広がっている。スタートする時と何一つ変わっていないハズなのに、その青はとても遠くに、手の届かない彼方にあるように思えた。それが自分を祝福していたように見えたなんて、今思うと滑稽な話だ。
「まぁ、元々無理な話だよね。私なんかが優勝なんてさ」
視線を正面に戻し、広がる緑の大地を見据える。
ここは上里平で、つまり遠足のゴール地点だ。さすがにお昼ではまだ早いのか、リタイア組の姿もほとんどない。スタート地点から動かない、いわゆる『不参加組』も移ってきてはいないようだ。
出店や来賓用の観客席も準備中だし、まるで縁日が始まる前の風景を見ているような錯覚がある。
この緑一面の広場が人でごった返すなんて、今はとても信じられない。たくさんの人達に迎えられて、祝福されて、一番という称号を得るなんて、想像することも難しいほどの出来事だ。何となくそうなればいいと思っていたけど、とても現実になるなんて思えない。
きっとその時点で、私には資格がなかったんだろうと思う。
夢を叶える人にとって、その夢はきっと夢じゃない。
現実なんだ。
「おいし」
お父さん特製のしょっぱい玉子焼きを食べながら、今の私に得られる幸せを満喫する。
私は、自分が特別不幸だなんて思ったことは一度もない。もちろん、お母さんが居ないことも貧乏なことも、それが世間から見て可哀想と言われる境遇にあることも知っている。
だけど、弟や妹に恵まれていることも、学校で親しい友達に囲まれていることも、優しいお父さんのお弁当を頬張ることができることも、今の境遇があるからこそのものだ。
きっと、幸せなんてどこにでも転がっていて、不幸なんてどこからでもやってくるものなんだと思う。
そう、ずっとそう思ってきた。
だからこそ私は、幸せな部分だけを見て、それだけを集めて感じ取れればいいと、そういう人生にすることが正しいんだと、そんな風に考えていたのかもしれない。
それが結果として、挑戦を拒絶することに繋がっていたとも知らずに。
今の私には、特に欲しい物がない。
そりゃあお寿司は食べたいし、綺麗なドレスだって着てみたいし、ゲーム機が家にあったら楽しいだろうなって思う。でも、私が持っている他の何かを犠牲にしてでも欲しいのかと聞かれたら、首を横に振るだろう。
でも、もしそんな何かが現れたなら、そしてそれがお金でしか買えないような物だったなら、私は自分の貧乏を不幸だと思うだろう。
今日、私の伸ばした手は何一つ掴むことができなかった。
それは虚空を掻いて、虚しい手応えを残して戻っただけだ。
リタイアが確定した瞬間、こんな人達と同じ班だったことを嘆いた。憎いとすら思った。どうしてもっと真剣にゴールを目指そうとしないのか、問いただしたかった。
だから、海鳥ちゃんが仲間と一緒に現れた時、正直言うと辛かった。どうしてやる気のある私が『あんな人達』と一緒で、遠足に対して真剣でもない彼女が恵まれた班の一員なのかって、本気で思った。
だけどそれは、私の身勝手な感情に過ぎない。
むしろ彼女にとっては、すぐにリタイアを決めてくれるような班に所属している私の方こそ、羨ましかったかもしれない。もしかしたら今でも、歩くのは面倒臭いと思っているのかもしれない。
それなのに。
私は右手で頭に触れる。その拍子に揺れた黄色いリボンが、視界の端でフワリと踊った。優しい手触りは、どこか海鳥ちゃんの人懐っこい笑顔と被る。
「今、どの辺りにいるのかな……」
稜線を眺めながら、呟きを漏らす。
海鳥ちゃん、私、嬉しかった。
本当に、嬉しかったんだよ。
手を伸ばして、でも届かなくて、仕方なく諦めて、絶望する。
自分が凄く惨めで、不幸な存在に思えた。
でも同時に、高望みしちゃったんだから、そんなの当たり前だと思う自分も居た。
そんな私の願いを、思い付きのワガママを受け継いでくれる人が現れるなんて、それも初対面の相手だったなんて、予想もしていなかったことだ。
これを幸運と言わないで、何が幸運なんだろう。
望みが叶うか叶わないかなんて、小さな問題だ。意味のある努力の中に私が居て、ただ真っ直ぐに手を伸ばせたことを、素直に嬉しいと思う。
また空を見る。
手を伸ばしてみると、青はもっと遠くにあるように感じられた。
挑戦した者にしか感じられない不幸もある。目の前にある幸福だけでは得られない幸せもある。だからこそ、人は何かを求め、努力を重ねるのだと、生まれて初めて知った気分だった。
伸ばした手を引き戻し、目の前でグッと握る。
何も掴めなかったけれど、今はこの手が誇らしい。
いや、何もってことはないんじゃないだろうか。
少なくとも、海鳥ちゃんという友達が出来た。
『あー、あー、テステス』
箸を握り、お弁当に戻ろうとしたところで、耳障りなハウリングを伴ってくぐもった声が響く。無意識に目を向けると、古い仮設テントが視界に入ってきた。
赤いジャージの集団が作業を続けているところからして、まだ準備が整ったというワケでもなさそうだけど、一応形は整ってきたということなんだろう。
実況が始まると、いよいよ人が集まってくるハズだ。
「放送部も大変だ」
彼らは二年生。遠足というイベントそのものの華が三年生だとするなら、放送部における遠足の華は二年生だと言われている。実際、誰がメインパーソナリティを務めるかで、結構もめるらしいと聞いたこともある。
『えー、マイクのテストを兼ねまして、現在入っている状況をお知らせ致します』
箸が止まる。
何位でゴールしても祝福する気持ちはあったけど、やっぱり気にならないと言ったら嘘になる。
『先頭グループは三区、白霧の森まで到達しているもようです。ちなみに第二チェックポイントを通過している班は七つです』
海鳥ちゃん達も、もう三区に入ってる頃だろうか。
『優勝候補として注目されているB‐7(ビーナナ)とC‐3(シーサン)はすでに通過しているようですが、A‐2(エーツー)はまだ二区を抜けていないようです』
そっか。まだ海鳥ちゃんは二区に居るんだ。
でもきっと、これから挽回するんだろう。藤嶋さんと杉浦君は強くて有名だし、二階堂君って頭がいい印象がある。優勝候補って言われるのも、きっと伊達じゃない。
ただ、C‐3……仁志川君達とは直接ぶつかって欲しくない。あの班は本当に凄い人達が集まってしまったところだから。あの時ホームルームで上がったどよめきは、今でも鮮明な形で記憶に残っている。
あの時は凄いなと思うだけだったけど、もし私が本気で優勝を目指していたのなら、あの班とも――マヒルともぶつかっていたかもしれない。そういうことをリアルに考えられなかった時点で、優勝なんて夢のまた夢だと思い知る。
海鳥ちゃんの班は、きっと違う。
どんな相手とだって、ぶつかっていける。
「頑張って」
呟きが、声となって現れた。
不意に駆けてきた一陣の風が、黄色いリボンを巻き上げながら通り過ぎる。それはまるで私の言葉を乗せて、あの山の向こうまで運んでくれそうにも思えた。
優勝して欲しい。
でも、無理はして欲しくない。
心からの絶叫で願いつつ、私はただ山並みを見詰めていた。
口を引き結び、言葉になって溢れそうな想いを抑えながら。
彼女の家は貧乏ですが、同時に明るい家庭です。
ちなみに彼女は第一子長女で、家事一般を引き受けています。何だか頼りなさそうですが、家では案外しっかりとお母さんをやっているんです。
まぁ、ご近所からの支援もたくさんあるんですが。
田舎でなかったら、もっと可哀想な子になっていたかもしれませんね。