第10話 願う星 ‐安田海鳥‐
二区も佳境です。
そして、久しぶりの海鳥ちゃんです。
お菓子を片手に、私達はしおりを見ていた。
今更だけど、コースくらいは知っておこうと思ったからだ。
そして驚いた。
山道の二十キロコース、村の西側を囲むように広がっている通称『西山山系』を、尾根伝いに踏破するハイキングコースだ。さほど高くない(と、美波さんは言ってた)四つの山を渡るようなルートで、すでに一つは越えている。どの山も山頂はなだらかだそうで、そこがチェックポイントになっている。
そのほとんどは、今居るみたいな深い森に覆われている。
とまぁ、しおりにはそんなことが書かれていた。
「ちゃんとわかるのは、総延長が二十キロってことくらいかなー」
食べ終わったお菓子の袋をゴミ袋に詰め込んで、リュックの端に押しやる。重さは大して変わってないけど、パンパンだったリュックに少し余裕ができた。
それにしても二十キロか。ただ歩くだけでもかなりの距離だ。多分、生まれてから今まで、一日でそんな距離を歩いたことはない。
「まぁ、しおりで全部わかったら、面白味がないからね」
うんざりする私と違って、美波さんは楽しそうだ。
結局のところ、進むべき大まかな方角と、目指すチェックポイントの場所しかわからない。それだって、方向音痴の私にとっては大して意味のない情報だった。
とりあえず、どうやってユリちゃん達と合流したらいいのか、そっちを考える方が現実的だろう。
「美波さんは……」
これからどうすると言いかけて、言葉を呑み込む。
彼女は口に人差し指を当てて、横目で外の様子を窺っていた。私には何も聞こえなかったけど、もしかして誰か近くに居るんだろうか。
にしても、美波さんは真剣な素振りが似合わない。というか、むしろ可愛い。特に頭の右側でピコピコ揺れてる星の髪留めが、反則なくらいキュートだ。
うっかり抱き締めようと手を伸ばしかけるが、慌てて私は自重する。こんなことをしていられる局面じゃないことくらい、さすがの私にもわかった。
身じろぎ一つせず、感覚だけを開放する。自分と美波さんの息が大きく聞こえ、静寂の塊に交ざるようにして、微かな異音が耳に入ってきた。
それは間違いない。誰かの歩く音と話し声だ。
でも、ユリちゃん達じゃない。
「……安田さんはいつでも出られるようにしといて。いい? 誰もいなくなってから外に出てね」
「あっ」
こちらの返事を待たずに、美波さんは立ち上がるなり出て行った。
ちょっと心細いけど、さすがに淋しいから戻ってとも言えず、私は仕方なくしおりをリュックに仕舞い、周囲を見回して忘れ物がないことを確認してから、音を立てないよう慎重に背負った。
距離が遠いせいか、それとも茂みや岩場の防音効果が高いのか、聞こえてくる会話は言葉として成立していない。辛うじて美波さんの声だけが、彼女のものだとわかる程度だ。
と、美波さんの慌てたような声が響くと同時に、茂みが揺れる。
何かが近付いてくると思って立ち上がった瞬間、緑を掻き分けて現れたのは、背の高い怖そうな男子だった。
腕を取られ、引きずり出されるように茂みを抜けた私は、四人の男女に囲まれた。その中には、もちろん美波さんの姿もある。
知らない顔ばかりだ。だけど、それは当たり前のことだとすぐに気付く。もし彼らが美波さんと同じ班の人だとするなら、全員C組――つまり別のクラスの人達だろうから。
「やっぱりいたな」
もう一人の男子、出っ歯が特徴的な色黒の男が、ガムを噛みながらそんなことを言う。
「敵を庇ってんじゃないよっ」
その隣にいる、鼻の大きな茶髪の女子が、斜め後ろに立っている美波ちゃんを軽く小突く。
まだ足が痛いのか、左の踵を上げていた彼女は、それだけでバランスを崩して三歩くらいよろめいた。その拍子に痛い方の足で踏ん張りでもしたのか、眉間に似合わない皺が刻まれる。
私は、かなりカチンときた。
「ちょっと、美波さん怪我してるんだから!」
「オメーが心配することじゃねーだろ」
私の隣に立つ男が言いつつ、その手に力を込める。掴まれた左腕に食い込んで痛かったけど、奥歯を噛み締めて我慢した。
怖いけど、ここで弱気になったら付け込んでくることを私は経験から知っていた。
「で、どうやってリタイアさせる?」
出っ歯が不穏なことを言い出す。
「痛めつければいいでしょ。簡単じゃん」
デカっ鼻はニヤニヤ笑っていた。
こいつら、一人残らず駄目な連中だ。こんなのと同じ班だなんて、美波さんが不憫でならない。
「いや、フクロはマズイな。こっちが反則取られる」
私の腕を掴む男が、どうやらリーダー格らしい。顔や雰囲気が怖いだけじゃない。漂う雰囲気が明らかに危険だった。普段の生活では絶対に関わりたくない、そんな種類の人間だ。
「……あの、だったら逃がした方が」
「バカか、オメーは」
「足手まといが口開いてんじゃねーよ」
出っ歯とデカっ鼻に罵られ、ただでさえ小さい美波さんが縮こまる。私も人のことを言えないくらいに足手まといだけど、さすがにこんな言われ方をしたらムカムカする。
でも、さすがに三人、しかも男子を相手に立ち回れるほど、私は強くない。
ユリちゃんなら簡単にノシちゃいそうだけど。
どうしよう。どうしたらいいのかな。
「とりあえず人質にするか。四対四でボコるならセーフだろ」
「えっ」
驚いてリーダーの横顔を見上げる。
とても冷酷で、それでいて楽しそうな笑みを浮かべていた。
何てことを考えるんだろう、この馬鹿男子。
そして、そんな奴にアッサリ捕まっちゃってる私こそ、本当に何をやってるんだろう。役に立つどころの話じゃない。足手まといの極みじゃないか。
怖い人に出会ったらすぐにリタイアしようって思ってたけど、そんなの撤回だ。こんな形でリタイアなんて、あまりにも申し訳なさすぎる。
だけど、こんな身動きの取れない状態で、何ができるんだろう。
そう思いつつ視線を彷徨わせると、こちらをジッと見詰める美波さんと目が合う。てっきり意気消沈していると思ったけど、その瞳に宿る輝きは力強い。彼女は何か言いたげだったけど、その思いを汲み取れるほど、私は察しの良い人間ではなかったようだ。
「とりあえずスタンプカードだな。あれさえ取り上げちまえば、逃げられても問題ねーし」
マズい。本当に逃げられなくなっちゃう。
焦りから少しだけ身を引いた、その瞬間だった。
踏ん張りの利かない左足で地面を蹴り、美波さんが突っ込んでくる。咄嗟に身構えたリーダーの手が離れたことで、私は瞬間的に解放された。
「安田さん、逃げてっ!」
リーダーに抱き付いたまま地面に転がった美波さんが、素早く顔を上げて叫ぶ。
「え、でも……」
このまま美波さんを置いていったら、後で酷い目に遭うんじゃないの?
「早くっ!」
切羽詰った声に押されて、私は走り出す。
彼女の身は気になる。でも、もしここで逃げなければ、彼女の行為そのものが無駄になる。
追いかけてくる気配を背中に感じながら、とにかく全力で逃げることにした。
こんなことしかできない、情けない自分を叱咤しながら。
息が切れる。
足が重い。
声が迫る。
口の中が乾いて声すら出せない今の私には、助けを呼ぶ力すら残されてはいなかった。ただ腕を振り、足を踏み出し、前へ前へと進んで行くしかない。
でも、それはいつまで続ければいいんだろう。
いつまでも続かないことはわかっている。
いつかは、確実に終わることだ。
そしてそれは、遅かれ早かれ連中に捕まってしまうという結末を意味することになる。このまま逃げられるなんて思えない。足の速さも、持久力も、人数も、何一つ私が有利に思えるような要素はなかった。
頑張ったところで、無駄なんじゃないの?
どうやったって、迷惑をかけることに変わりはないんじゃないの?
疲れて痛い目を見るより、さっさとリタイア宣言をした方がいいんじゃないの?
どうせもう、駄目なんだから。
「違うっ!」
声を絞り出す。
大きく腕を振る。
力一杯足を踏み出す。
私はまだ走れる。走れる限り逃げ続ける。その先に何があるのかなんて、今は気にしない。
だって、このチャンスは美波さんが身を呈して作ってくれたものだから。もし駄目でも、私の力では逃げ切れなくても、無駄にすることだけは許されない。
そう思った瞬間だった。
視界の端に、真っ赤な色が飛び込んでくる。
茶色と緑ばかりの景色に、それはあまりにも鮮烈に映える。
私は進路を強引に変更し、その赤へと向かった。
間違いない。あれはユリちゃんのリュックだ。
後ろからの声は更に近くなる。
腕や足は更に重くなる。
でも、少しも怖いとは思わなかった。
それなのに……。
「そん……な……」
現実は厳しい。
息を弾ませる私の正面には、赤い布があるだけだった。大木の枝に縛り付けられて、自らの存在を誇示しているだけだった。
そこに、ユリちゃんの姿はない。
誰も、居なかった。
「もう……これで……」
へたり込む。ふくらはぎがパンパンで、膝がガクガクと揺れた。しばらくは立つことさえできそうにない。さすがにこれ以上、逃げる力は残っていなかった。
「や、やっと追いついた!」
背後を見ると、デカっ鼻女が肩で息をしている。
男子が来るよりはマシだけど、今の私にとっては大差ない。抵抗するにも、転がって駄々をこねるくらいが関の山だ。
そう思っている間にも、二つ目の足音が迫る。
「さすがに疲れたよ。あの子を捕まえるのはまかせ――」
デカっ鼻の言葉が不自然に止まる。
その理由がわからず、彼女の視線を追って、納得した。
「ユリちゃん!」
向こうの仲間が現れるかと思っていた先からやってきたのは、ボブカットのグラマーさんだった。
「お待たせ、みどり」
ウインクと真っ赤なグローブが頼もしい。
「お、無事だね、海鳥ちゃん」
ユリちゃんとはデカっ鼻を挟んで反対側の陰から、いつもの悪戯小僧らしい笑顔を浮かべた杉浦君が現れる。
「ア、アンタら……まさか、コイツA‐2だったのっ?」
えーつー?
「その通り、彼女は僕達の仲間だ」
よくわからないデカっ鼻の質問に答えるようにして、真っ赤なハンカチを掲げた大木の陰から、二階堂君が姿を現す。
ヤバい。何か格好いいよ、これ。
さっきまでの沈んだ感じが嘘みたいに、テンションが上がる。と当時に、我慢していた涙が溢れてきた。
「僕達は彼女さえ無事に戻れば、これ以上手を出す気はないよ」
穏やかな二階堂君の言葉に、警戒しながらもデカっ鼻は逃げていった。
「まぁ、もう遅いんだけどな」
「ちょっと完児、何か変なことしたの?」
その背中を見送りながら、いつものやり取りが始まる。
何だか、懐かしくさえあった。
「変なことじゃねーよ。ほんの少しやりすぎただけだ」
「少しって、どれくらい?」
「いや、別にボコボコにしたとかじゃねーんだよ? ちょっと運が悪かっただけだって。というか、あの程度の高さで受身が取れないとか、普通に駄目だろ」
「で、河内くんはどんな怪我を?」
ユリちゃんの冷静な眼差しが、凄く怖い。
「あー……手首をちょっと……まぁ、折れてはいないと思う」
「相手が河内くんだったから良かったでしょうけど、素人相手の時は気を付けなさいよ。下手すればこっちが失格になるんだから」
「へいへい」
「……あの」
未だにへたり込んだまま、顔だけを振り向かせる。
「なぁに? みどり」
「怪我が酷いと、リタイアになったりする?」
「どうなの? 完児」
「いや、それをオレに聞くなよ。リタイアするかどうかは当人が決めることで、そういうのは人によって――」
「ど・う・な・の?」
「あー……河内だし、リタイアすると思う」
それを聞いて、私は立たなければならなくなった。
「安田さん、もう少し休んでいた方がいいよ」
心配して駆け寄ってくれる二階堂君に、何とか笑顔を返す。
でも、まだまともに立てるほど回復はしていなくて、ガクガクと震える脚が言うことを聞きそうにない。だけど、踏ん張ることができずに倒れかけた私を、ユリちゃんが支えてくれた。
「リュックを下ろして。僕が持つよ」
「ありがとう、二階堂君」
言われるまま、私は甘えることにした。
「で、どこに向かうつもりなんだ? お姫様」
ニヤリと笑う杉浦君に、私も笑顔で応じる。
「さっきの人が逃げた方へ」
まだ間に合うかもしれない。
あの子の願いを叶える、そのための努力が。
ようやく一人で歩けるようになった頃、小さな背中が視界に入ってくる。
暗い森に、たった一つだけ弱々しく輝く星が見える、そんな感じだ。
周囲には誰も居ない。彼女は一人だ。
その背中を見て、私は言葉を失った。
何一つ、掛けるべき言葉が見付からなかった。
そんな重苦しい雰囲気を破ったのは、その中心にいる彼女だ。
「リタイアするって、言われちゃった」
弱々しい笑顔、その表情には悔しさなんて微塵もなかった。
「安田さんって、A‐2だったんだね。凄いよ。優勝だって狙えると思う」
「美波さん……」
私の方が泣きそうだった。
「あ、全然妬んだりなんてしてないから。元々、高望みしすぎたって感じだったし、足を怪我した時に半分は諦めていたんだよね、実はさ」
そう言って、へへへと笑う。
どうして、笑ったりするの?
嘘だよ、そんなの。
湿布をした後だって、ゴールする気満々だったじゃない。優勝したら家を手伝うんだって、楽しそうに話してたじゃない。それなのに、こんなことになって……。
自分の怪我でリタイアするならまだしも、仲間の……ううん、あんな人達の気紛れでリタイアだなんて、悔しくないハズがないじゃない!
「えーと……安田さんは頑張ってね。きっと、ゴールできるから」
笑顔を残して、美波さんは踵を返す。
左足を引きずって、彼女は歩き始めた。こんなになっても、彼女は自分からリタイアしようとはしなかった。
あの三人は、彼女の決意を知っているのだろうか。
あの三人は、彼女の優しい誓いを知っているのだろうか。
知っているハズがない。
知っていたら、こんなに小さな背中を見て、落ちた肩を見て、悲しげに揺れる星を見て、何とも思わないハズがないもの。
言葉にならない思いが、溢れている。
悔しい。
悲しい。
そして、淋しい。
私は、拳を固く握った。
「待って!」
声を限りに絞り出した叫びが、森の木々に木霊する。
それはただの大きな音でしかなかったけど、美波さんは止まってくれた。
私は一歩進み出て、小さな背中に話し掛ける。
「私じゃ、駄目かな?」
「え?」
振り返る美波さんの顔は、唖然としていた。何を言われているのかわからない、そんな顔だ。
「だから、もし私が優勝したら、美波さんの代わりに働くってこと」
「ええっ?」
「そりゃあ、夏休み全部ってのはちょっとだけど、九月に入ってからの一週間は、美波さんの代わりにお店を手伝うことにする。そういうことにしない?」
「だ、駄目だよ、そんなの!」
「どうして?」
いいアイデアだと思うんだけど。
「だって、安田さんが優勝したんだから、自分のために使わないなんておかしいじゃない」
「私、知らなかったんだよ。賞品があるってことさえ」
「だからって……」
「一人になった時ね、正直言ってリタイアしちゃおうかなーって思ってたんだ。でも、美波さんが優勝に向かっている姿を見て、反省した。それに……」
真正面から、彼女をしっかりと見据える。
「あの時助けてもらわなかったら、きっとそのままリタイアしていたに違いないもの。ここから優勝を狙えるのも、美波さんのお陰なんだから、優勝の半分くらいは受け取って欲しいんだ」
美波さんの顔から表情が消えた。
ずっと保ち続けていた笑顔が見えなくなる。
「おかしいよ、そんなの……」
涙が、彼女の頬を伝った。
私は焦る。良かれと思っての提案だったのに、ひょっとしたら逆に傷付けちゃったとか?
「あ、あの……」
オロオロする私の前で、美波さんは右手で星の髪留めを抜き取り、それを差し出してきた。
これは一体……?
「持って行って」
左手で涙を拭いながら、再び浮かんだ笑顔でそう告げられる。
その意味を、私は何となく理解した。
だから両手を後頭部に回し、リボンを解く。
「じゃあ、交換で」
「ゴールで待ってるね、安田さん」
「あ……」
こんな時に言うのは不自然だろうか。でも、こういうのは習慣になる前の方がいい。
「どうかした?」
「実は私、自分の苗字があまり好きじゃなくて、出来れば名前で呼んで欲しいかなーって思うんだけど……」
「なら、私も『さつき』で」
「わかった」
満面の笑顔で、私達はお互いの髪留めを交換した。まだ新しい黄色いリボンはさつきちゃんの手に、そして不思議な温かみを感じる星が私の手に。
「じゃあ、ゴールから応援してるから、頑張ってね、海鳥ちゃん」
「うん、絶対優勝するよ……とは言えないけど、出来る限り頑張るから。とりあえず待ってて、さつきちゃん」
正直、大口を叩けるほどの実力は、私にはない。
というか、どう考えても仲間に引っ張ってもらわなければ、私の優勝なんてあり得ない。
「と、いうことなんだけど……」
恐る恐る振り返る。
話の流れとはいえ、軽はずみな約束をしてしまって、他の三人はどう思っているんだろう。一番の足手まといが大口を叩いたりしたから、やっぱり怒っているだろうか。
「……決まりね」
ユリちゃんが微笑む。
「ああ、決まりだな」
杉浦君がニヤリと笑う。
「知らないよ、どうなっても」
唯一不安そうな顔で溜め息を吐く二階堂君だったけど、怒っているワケではなさそうだった。
とにかく、こうして私達の目標は、ゴールまで歩くことから、誰よりも早くゴールすることに変更となったのである。
よし、やるぞー!
これでようやく冒険物らしくなってきたように思います。
とはいえ、まだ二区が終わったわけではありません。
ちなみに作者は、真面目な話が続くと頭痛がして寝込んでしまいます。
ご了承ください。