グレイシア 1
黒い瞳
陽が沈みかけ、窓から差し込むほんのり紅い光につつまれた室内で、いつものようにぼんやりと過ごしていると、突然、静寂が破られた。
オズマとシェリーが探索者の仕事から戻ってきたのだろう。
「今回は行商人のナルドさんの護衛だったかしらぁ?」
静かに揺れる揺り椅子から立ち上がると、私は自室を出て一階への階段を降りる。
それにしても普段よりずっと騒がしい。なんだか切迫した雰囲気も感じる。
「……何かあったのかしらぁ」
私は嫌な考えに囚われそうになりながら、階段を下りる足を速めた。
一階にたどり着いた私の目に飛び込んできたのは、オズマに背負われ玄関から室内に運び込まれる一人の男性の姿だった。
闇を塗りこめたような黒い髪。
この世界にはいないと言われる漆黒の髪。
もう百年も前に死んだあの人と同じ色の髪。
「ミシャエラ、客間のベッドは使えるか?」
「ええ、大丈夫よ。ちゃんと整えてあるわ」
オズマが出迎えたミシャエラに問いかけ、答えを聞くとそのまま一階の客間へと向かう。
その背を追いかけるシェリーを、何があったのか確認するため呼びとめた。
「シェリー、何があったの?」
「あ、おばあちゃん……」
憔悴した様子の彼女の説明では今ひとつ分かりにくかったが、どうやらあの男性に危ないところを助けられ、シェリーの代わりに彼が怪我をしたという事と、自分で怪我を治した後、彼は気絶したという事はわかった。
「そう。じゃあ、後は私が看ておくから、アナタはオズマと衛兵詰め所に行きなさい」
私はシェリーにそう指示を出すと、看護に使うタオルと盥を用意するため洗面所に向かった。
衛兵詰め所に行けと言ったのは、彼女の説明から何らかのトラブルがあったと判断できたという事と、玄関口に無言で佇む二人の衛兵の姿があったからだ。何もなければわざわざ個人宅に衛兵が訪れることはない。
もっとも、このイニージオの町に来て長い私には、しばしば相談事が舞い込んだりはするのだが。なにせ百五十年この町にいるのだから、誰よりも町に詳しくなってしまっている。
……正直、何かあるたびに頼られるのは、もう疲れた。
あの人が死んで以降、私はミシャエラを守りながら開拓者としても精力的に活動してきた。
それは女であり、この町ではただ一人のエルフである私が、あの人の築いた人間関係や信頼を壊さないためであり、何とか娘と二人で生きていくための処世術でもあった。
「肩肘はってなきゃいけないって辛いわぁ……」
そうだ。私は疲れているのだ。それも大体、百年くらい前から。
そろそろ休んでもいいのではないか?と常に自分自身がささやく声が聞こえる。
実際のところ、ミシャエラがオズマを連れてきてからは大分ゆっくりし始めていたし、シェリーが大きくなってからは半ば引退気味ではあった。一年に一~二度、町の周辺に狩りに出る程度だ。
いつ何があるか分からないのが世の常だから鍛錬は欠かしていないが……。
「それでも忘れられてしまうのも怖いのよねぇ……」
これまで守ってきた立場やそれに付随する功績。町のためにできることをしてきたという自負もある。
完全に引退するということは、それらの全てを失うということでもあるのだ。
「なんで、こんな事考えているんだろう」
分かっている。あの男性の姿を見たせいだ。
家族みんなが揃っていて、お酒が入ったときにしか思い出さないようにしている、あの人のことを、あの黒い髪がどうしようもなく思い出させるのだ。
「母さん?」
私を呼ぶ声で思考の海から現実へと立ち戻る。ミシャエラだ。あの男性を客間のベッドに寝かせ終えたのだろう。
「ミシャエラ、シェリーとオズマは?」
「え?あ、衛兵の詰め所に行くって言っていたわ」
こちらから質問をすることで娘の物問いたげな視線から逃れる。考えても仕方のないことで悩んでいたのを悟られないように、だ。
「そう。じゃあ私はあの男の人を看ておくわぁ」
「うん、お願い」
遅くなったけど夕飯の食材を買ってくるというミシャエラを見送り、私は水を満たした盥とタオルを持って客間へ向かった。
そっと客間のドアを開け、中の様子を窺う。
黒髪の男性は安らかな寝息を立てている。とくに具合が悪いという事もなさそうだ。
確かシェリーは彼のことをソウシと呼んでいた。黒い髪で独特な語感の名前。やはりこの人は来訪者なのだろう。
「あの人と同じ所から来た人、か……」
似ている。
といっても顔かたちや体格が、ということではない。
あの人はもっと丸顔だったし、身長も私より低かった。この男性の方が整った顔立ちだろう。
雰囲気が似ているのだ。
無防備というか、子供っぽいというか。眠っているとはいえ、これほど警戒心を感じさせない顔は探索者には、まずいない。
なにせ、いつどこで魔物に襲われるか分からない仕事なのだから、自然と眠っている時も少しの物音にでも反応するようになる。
逆に劣悪な環境でもすぐに眠れるようになったりもするが、それもまた探索者として力を発揮するために、短時間の睡眠でも回復するという大事な技能だ。
「少し、打ち身が残っているわねぇ」
私は自然と彼の怪我を看ていた。シェリーをかばって怪我をしたという右足。その患部に手を当て、魔力を集める。
「回復」
言葉と共に魔法が発動し、淡い光がソウシの傷を癒していく。しばらくすると赤くはれていた部分はすっかり消えていた。
「これで、よし」
回復魔法の効果を確認し、めくっていた毛布を元に戻す。
……よく考えたら、眠っている初対面の男性の寝具をどけて、寝間着のズボンの裾を引っ張り上げて足に触る、って怪我の様子を看るためとはいえ、かなりはしたない事をしてしまった気がする。
それもこれも、あの人の事を強烈に思い出させる彼が悪いのだ。
「……汗、ふかなきゃ」
せっかく準備した水とタオルをを使っていないことを思い出し、誰もいないのに言い訳がましくつぶやいてからタオルを手に取る。
水に浸してから硬く絞ったタオルをひろげ、彼の額に押し付ける。一瞬、不快げに眉が動くが、額から頬、頬からアゴへとタオルを動かしていくと、落ち着いた様子に変わっていった。
「こんなものかしらぁ」
できる限り汗をふき取り、しっかりと毛布を彼の肩まで覆うようにかぶせる。
彼の顔は相変わらず無防備だ。
いけない。
あの人以外の来訪者と会うのは初めてではない。だけど、眠っているところを見たことはない。
当然だ。寝顔を見るということは寝所を共にするということなのだから、あの人以外の男となど、ありえないことだ。
「……片付けておきましょう」
変な考えが浮かんでくるのを押し留め、私はタオルと盥を持って客間を後にした。
「そうよ、期待なんてしちゃあダメ」
あの人以外の男が、下心も何もなく私と相対することなんてない。
それが来訪者でも、男なら下卑た視線を投げてよこすのだ。
もちろん私もそれを利用したこともある。名声と見た目で面倒事を解決したことなど、もう何度あったか覚えてもいない。
「だから」
私をそのまま受け入れてくれる人など、いないのだ。
家族を守る立場である私は誰にも甘えてはならない。
洗面所でタオルと盥を片付けながら、私は自分を厳しく律するため己の立場を再確認した。
「あら、目が覚めたのねぇ」
客間の扉を開くと、男性は目を覚ましていた。
軽く、なんでもない風に声をかける。
彼の瞳が私を捉える。あの人と同じ、黒い瞳が。
「え? あ、はい。ええと……お嬢さんはどちら様でしょうか。それとここは……」
動揺しながら思わず、という風情で発せられた言葉は、私の警戒心や家長としての心構えをあっさり吹き飛ばす。
お嬢さん? お嬢さんですって?
なんて馬鹿馬鹿しい。こんな人を私は警戒していたのか。
「あらやだ、お嬢さんだなんてお上手ねぇ。私はもうおばあちゃんなのよぉ」
次の瞬間、私の口からこぼれたのは、自分でも驚くほど、何の気負いもない軽口だった。