153.逃走?
オッサンはまさか親玉が逃げるとは思っていなかったのだ
私は何もいなくなった地面を見下ろし、気配を探る。しかし地上にはグールとテンタクルジャイアントの放った骨のトゲから漏れ出る瘴気に覆い尽くされており、名もなき神の気配は感じ取れない。
すでに無数のトゲは崩壊を始めており、それが瘴気の濃度をさらに高めてしまっている。この状態では、目視以外での確認は難しいだろう。
やむなく「精霊光」を発動させ、瘴気を祓いながら私は地上へと降下した。
触手巨人の最後の攻撃によって起きた崖崩れで、狭隘な戦場は南北に分断されている。
南側はアインスナイデン辺境伯領・領都アインスの城壁と領軍によって警戒されているので、私は北側を捜索する。
しかし、やはり動くものは少数の食屍鬼しか残っていないようだ。
「やはり逃げたのか……」
となると、どこへ逃げたのかが問題だが、戦闘中の位置関係的に北の神聖ガイア王国しかない。ではガイア王国のどこへ向かうのか……王都に戻るのか?
確かヴァラールは「十万人以上の人が魔物にされた」と言っていた。そして今回の国境での戦いでは、十万はいなかった気がする。
「……もしかして、セクノか?」
寡兵であるベナクシー王国の戦力を更に分断することを目的としているのなら、二正面作戦は十分有り得る。
それにセクンディ侯爵領・領都セクノに、全軍の三分の一でもグールがいるのなら、名もなき神が体力を回復するには十分だ。
「正解は分からないが……」
もしそうであれば、あちら側にはグレイシアたちが向かっている可能性が高い。
「辺境伯に相談するか」
ホウレンソウということで、名もなき神の捜索を切り上げ、私は城壁へと戻った。
「なるほど……ありうるな」
私の推測を聞き、アインスナイデン辺境伯は頷いたきり考え込むように口をつぐんだ。
「……」
私も、今後のことを考える。セクノに名もなき神が向かったとして、グレイシアを始めとしたメンバーで対処できるだろうか? 単純な戦力で言えば、グランツがいる時点で問題ないとは思うのだが……。
「駄目だ、考えてもわからん。ソウシは何か気になることがあるのか?」
辺境伯に問われ、私はここに来る以前に起きた出来事を話すことにした。エミリアが名もなき神の使徒によって危うく魔物にされかかった件だ。
「ううむ、そんなことがあったのか……しかし、それだけで考え込んでいたわけではあるまい」
「ええ……最も気になるのは、こちらには王族が……名もなき神が取り憑いていたであろう王以外いなかったということです」
私はさらに「あちらに王妃=エミリアの母がいた場合、グレイシアたちは助けようとする可能性が高い」ということを伝えた。なにしろ実際にエミリアは助かったのだ。コナミが「回帰」を使えることから考えれば、試さないとは考えにくい。
問題はその場合、大半の戦力が王妃救助に割かれてしまうだろうことだ。
全戦力で当たれば大丈夫な相手でも、王妃を救出・治療する人員、それを護衛する人員が抜けてしまえば、大きく戦力ダウンになるのは明白。
セクンディ領軍が奮闘したとしても、相手は無尽蔵の体力を持つ食屍鬼・グールだし兵数差も恐ろしく大きい。
単にグールの大軍を相手にするだけならグランツが無双しそうだが……。
「なるほどな。名もなき神が合流すれば、どちらに傾くかわからない状況になりうる、か」
「あの……辺境伯様」
私の話に頷く辺境伯に、一人の兵士がおずおずと話しかけてきた。確か城壁上で戦場の様子を確認する役目を担っていた人物だったか。
「どうした?」
「実は、あの白い槍のようなものが発射された時、同時に人間大の肉塊が東の岩山に向けて跳んでいったのです」
「何?」
話によると、彼は目撃当時「単に大きな破片だろう」と思ったが、我々の話を聞いてもしや……と考えたそうだ。
「そうか、よく報告してくれた」
「ハッ」
辺境伯に労われ、兵士は笑顔で下がっていった。
「ソウシ、セクノに向かってくれ」
「よろしいのですか?」
私としては嬉しい指示だが、私に対する依頼は「アインスへの加勢」だ。確かに、現場でどう動くかはこちらの判断に任せられてはいるが……。
「かまわん。だが、確実に仕留めてくれ」
「……承知しました」
辺境伯の言葉に頭を下げ、私は東の空へと飛び立った。
名もなき神が最短距離を移動しようとすれば「女神の腕」を経由することになるだろう。
あそこにはユウキがいる。かつては最強のハイヒューマンであった彼女も、今は肉体を失った魂だけの存在だ。
そんな彼女と女神の墓所とも言える場所を荒らさせるわけにはいかない。
なんとか、名もなき神が「女神の腕」に到達する前に捕捉しなければ。
アインスから「女神の腕」までの直線距離は、およそ百キロほど。山自体の標高が数千メートルあるとはいえ、空を飛んでいれば既に到達していてもおかしくはない。
だが、その可能性は低いのではないかと、私は考えている。戦闘中には全く空を飛ぼうという素振りはなかったし、他の二柱も飛べないようだったからだ。
可能性としては空を飛べる魔物を使役するというものがあるが、アインス東には私の知る限り、人を乗せて飛べるような魔物はいない。
「だから、おそらくは……」
今頃は山肌に取り付いている頃ではないだろうか――と思ったら。
「いたな」
予想通りに両手足で切り立った岩壁にしがみついている姿を見つけた。そしてそれはあちらも同じだったようで、驚きに目を見開いている。といっても、その姿は学校の理科室にある人体模型のような有様で、まぶたどころか皮膚すらないが。
「オノレ、ウットウシイ人間メ!」
怨嗟の声を上げ、名もなき神は私に対し次々と「石弾」を放ってくる。どうやら山の岩を使っているようで、段々とヤツの周辺の岩盤がえぐれていっている。
「薄汚い魔物が、この山を汚すんじゃない」
思わず怒りに口調が荒れる。が、そんなことはどうでもいい。
私は石礫を大きく迂回するようにして回避し、人体模型の胴に槍を突き刺した。そしてすくい上げるように岩壁から引き剥がす。
「グガァアア! キザマアァア!」
「恨むなら己を恨め」
痛みに吠える名もなき神を槍にぶら下げたまま、私は躊躇なく風属性で強化した「火弾」を発動し、体内から焼き尽くした。
「何ッ?」
燃え尽きた魔物の様子を見て、私は驚愕する。何故か? それは在るべき物が無かったからだ。
「名もなき神の『魔石』がない!」
――そう、まんまと私は騙されたのだ。