149.瘴気侵食
初体験の状況は難しいものだとオッサンは思ったのだ
「後は、エミリアだな」
そう言ってヴァラールは、青くなってうつむくエミリアに目を向ける。
ソファに座したまま震える彼女は、さながら断罪の時を待つ罪人のようだ。
「違う」
不穏な空気が漂いそうなところで声を発したのはアルジェンタム。彼女は普段となんら変わりない様子で続ける。
「エミリアから瘴気の臭いはしない」
彼女の言う通り、自称「名もなき神の奴隷」であるヴァラールと違って、エミリアからは名もなき神の影響は感じられない。ということは、少なくとも直接的に何かをされてはいないということだ。
「……よく分かるもんだ。大体のやつは、たとえ仲間でも疑ってかかるもんだがなぁ」
アルジェンタムの指摘が図星だったのか、しばらく無言だったヴァラールが口を開く。その顔には深い苦笑が浮かんでいた。
「確かに、エミリアは名もなき神の奴隷じゃねえ。グレイシアさんとの関係を知った俺が『上手く取り入れ』と言い含めていただけだ」
――ま、上手くいって利用できれば良し、そうでなくとも別に良い、その程度の思惑さ。ヴァラールは至極あっさりと、そう白状した。
「さて……じゃあ、俺は逃げさせてもらおうかね。エミリア、こっちに来い。ミシャエラはお前と交換だ」
ヴァラールの言葉はこの中で最も昇級回数が少なく、実戦経験も乏しいエミリアを人質交換に使う。そういう宣言だった。
よくある「私が代わりに人質になる」という展開を避ける一手ということだろう。エミリアの罪悪感につけこむ意図もあるか……。
ここで阻止に動けばミシャエラが傷つけられかねない。オズマ夫妻の旧友とはいえ、今は名もなき神の奴隷なのだ。
――ならば逃げ出す瞬間を抑えるしかない。
「よーしよし、いい子だ」
ヴァラールの言葉に従い、エミリアはソファから立ち上がって男に近づいてゆく。
彼女がミシャエラの前に到達した時、ヴァラールはミシャエラをオズマのいる方向に突き飛ばし、同時にエミリアに手を伸ばした。
「ミシャエラ!」
オズマが叫び、ミシャエラの体を受け止める。コナミとエリザベート、そしてシェリーとグレイシアは彼らに駆け寄り、私とアルジェンタムはエミリアを止めるべく動いた。
しかし、その間にヴァラールはすでに行動を終えていた。エミリアに向け、左腕から強烈な瘴気を放ったのだ。
――いったい何の意図が――そう思ったのもつかの間、エミリア自身が瘴気を放ち始めた。
「……まさか!」
この時、私は思い出していた。名もなき神が魔物を生み出したことを。
そして魔物は既存の生物をベースとして生み出されている。であれば、人間をベースにすることも可能なのではないか?
「ははは、正解だ! 俺は、ほんの少しだが、魔物を生み出す力を持っている! さあ、どうする? エミリアを助けるか、それとも俺を捕まえるか!」
ヴァラールは勝ち誇るように宣言し、窓を突き破って部屋を出た。
こちらに選択の余地はない。おそらく魔物化に対処できるのは「回帰」だけだろう。だからエミリアを助けることを優先する。
――それに外には――。
「ガァアア!」
そうだ、室内に入らずに待機していたグランツがいるのだ。
グランツの牙がヴァラールの左腕を捕らえるのを目の端で確認し、私はエミリアの対処に入る。
「エミリア、しっかり!」
私は崩れ落ちるエミリアを受け止め、アルジェンタムが声を掛けた。
この時、室内には既にコナミの「回帰」による魔力が満ちており、ミシャエラを回復させるとともにエミリアの瘴気放出をも抑えている。あとは私が、この状態を打破するだけだ。
「回帰!」
私は瘴気の発生源を探りながら魔法を発動する。ヴァラールが打ち込んだ瘴気はエミリアの胸に吸い込まれていた。そしてそこから自発的に瘴気が発生するようになっている。
ならば、瘴気を逆流させ、それを体外に吐き出させればいい。いつも通り、全力で巻き戻すだけだ!
「ギャウン!」
その時、グランツの悲鳴とともに、煙と強烈な刺激臭が漂ってきた。――グランツへの対策も練られていたということか。なんと周到な……。
「無駄だ! 俺は名もなき神に何万人もの人間が魔物にされるのを見た! 誰ひとり助からなかった! 俺も! エミリアも! もう魔物になるしかねえんだよ!」
窓の外、もうもうと煙る煙幕の向こうで、苦しみあえぐようなヴァラールの声が遠ざかってゆく。
こちらの動揺を誘うためか、それとも……。ともかく、今はエミリアだ。
「……もう、いいんです……私は……皆さんに迷惑を……」
「気にするな、とは言わないよ。でも私たちは誰も気にしてはいない。今、考えていることは」
――君を助けることだけだ。瘴気の侵食に苦しみながら「裏切り者だから見捨てろ」と言いたげなエミリアの言葉を遮り、私はそう言い放つ。
本当のとことはわからないが、そんなことは助かってから考えれば良いのだ。
そして私は「回帰」の制御に集中する。まずはエミリアの体を蝕みつつある瘴気を、その侵食速度よりも速い速度で押し戻す!
全力でエミリアに魔力を流し込み、一気に瘴気発生源である胸元まで逆流させる。
本当はもっと繊細にやるべきなんだろうが、今は余裕がないため単純に瘴気を打ち込まれた段階まで「回帰」の効果で遡行させた。
大丈夫、上手くいってる。あとは発生源を体外に押し出すのだ。
「ふっ!」
エミリアの背に手を当て、私は彼女の体内に滞留していた「回帰」の魔力を使って瘴気発生源を吹き飛ばした。エミリアは一瞬、苦悶の表情を浮かべたが、彼女の体内にはもう瘴気は残っていない。
「――治療成功だ」
張り詰めていた場の空気が、ようやく安堵に弛緩した。
いや、ホント上手くいってよかった……。
その後、室内外に漂う煙を風の魔法で吹き払い、グランツに治療を施した。といっても、彼は刺激臭に目と鼻をやられていただけなので、特に問題なく回復した。原始的ではあるが、香辛料などによる煙幕はグランツには特に効果的な物だったと言えるだろう。
ミシャエラはお腹の子供のことが心配だったが、もう安定していたのか、コナミの「回帰」が効いたのか、特に問題はなさそうだ。今は念のため、家族とともに治療院にいる。
エミリアは瘴気の影響か、酷く疲れた様子で眠っている。
何度も「回帰」で回復を図ってはいるのだが、これまでにない状態からの治療だっただけに、どんな影響があったのかが分からないため、どこにどう働きかければ効果が上がるのかも分からない。そういうことで、次善の策として体力を回復させることしかできないのだ。
それから裏庭に転がっていた、グランツが食いちぎったヴァラールの左腕は「回帰」で瘴気を浄化してから全力の火属性魔法で焼き尽くした。
もげた状態でも名もなき神の力が感じられるほどだったので、そのままにしておくわけにはいかない。
逃げたヴァラールが向かったのは神聖ガイア王国か、それともフェイゼ国か……。いずれにせよ、事態が大きく動くであろうことは想像に難くない。となると……。
「まずは、王都に行って報告、だな」
お偉いさんに会うのは苦手だが、四の五の言っていられない状況なのだ。
ということで、エミリアのことをコナミとエリザベート、それにアルジェンタムとグランツに任せ、私は一路、王都へと向かった。