第1話「定休日の日常」-日常の無い二人
ひんやりと湿った森の中。手入れされていない木々は枝を好き放題に伸ばし、地上にはほとんど日光が届かない。それでも生命力しか取り柄の無いような雑草は、葉を懸命に茂らせている。
暗く濃い緑の中、ぼろきれのような布を纏った獣人の少年と少女だけが周囲から浮いていた。
「ね、ねえ」
声を発したのは少女だ。
肩まで伸びた藍色の髪と大きな丸い耳に灰色の体毛、凹凸の少ない鼻面には控えめな口が付いている。おまけに細長い尾を見れば、簡単に彼女は鼠獣人だということが推測できるだろう。
そんな少女は、自分の手を引きながら歩く長い耳の赤髪の少年の背に声をかけた。
「ねえってば!水を汲みに行くんじゃなかったの?」
返事をしない少年に苛立って声を荒げる。
その直後、少年がバっと振り向いた。
「しっ静かに。」
少年は真剣な顔で口に人差し指を当てる。長い獣の耳にヒトの顔と身体。擬人の姿だ。このような獣道でも毛皮を纏わない素足は傷だらけだった。
「なによ…早く帰らないとあの子が」
少女が不安気に言いかけた言葉を、遮るように少年が口を開く。
「そのことなんだけど、置いて逃げようと思う」
「…あんた、見捨てるっていうの?」
数秒の沈黙の後、ギロリ、と少女は少年を睨んだ。琥珀色の瞳は、今は氷のような冷気を放つ。絶望、嫌悪、軽蔑、この鼠の少女が普段、他者に向けている憎悪の視線だ。少年がこの目で見られるのは久方振りだったが、そんなことでは動じない。
深紅の瞳は少女を見据える。
「シロちゃんが治るのを待ってたら、おいらも、ネズミちゃんも、きっと捕まる。だから二人で逃げよう。二人なら逃げられる」
自分より低い相手の肩を上からがっしりと掴む。少年は説得を試みようとしていた。少女は少し気圧されたのか、視線を地面の方へ向けた。
「嫌。嫌よ。あの子も連れていくの」
「元々身体弱かっただろ。この先もどうなるかわからないから、置いて行った方が良い」
食い下がろうとする少女を、声音を強めて説き伏せる。数秒の沈黙に、わかってくれたのかと安堵しようとしたその時、
「………るのね」
「え?」
予想しなかった言葉に思わず聞き返す。少年に向き直った少女は、染み付いた、呪い殺すような憎しみの表情に顔を歪めた。
「あんたもあいつらと同じだったのね‼」
少女は吐き捨てると、掴まれた肩を振りほどき、踵を返して走り出した。少年は焦り、小さな身体に付いていく長い尾を、掴んで引き留めようとする。
が、叶わなかった。
元来た方向を脇目も振らず駆け戻る少女を茫然と眺めながら、少年は「あいつらと同じ」という言葉を反芻する。二つ、心当たりがあった。一つは話で聞いただけだが、もう一つは自分もよく知っている。
少年はただ、小さくて寂しい鼠の少女を助けたいだけだった。今ここまで来ているのも、彼女を助けようとしたことだったのに、良くない方向を向いている。
軽い気持ちであの子を連れてこなければ、最初から説得して二人で逃げていれば、という後悔に少年は苛まれていた。