第1話「定休日の日常」-その朝
第一話突入です。
今回は何でもない日常の一コマ。ほんのりと世界観など感じていただければいいなと思います。
6月5日火曜午前9時42分──マールムは枕元に置いたスマートフォンの画面を確認した。
喫茶店の定休日である月曜と火曜は大体この時間に起きる。こげ茶の体毛で覆われた手の甲で眠気眼を擦り、長い鼻面を短く整えた鉤爪でポリポリと掻いた。
「クわぁ~ゥ…」
白い犬歯が覗く口腔から欠伸と一緒に獣の声が漏れる。それからベッドの上で伸びをして、遅めの朝食を用意しに階下に降りる。
マールムが住むこの家は、一階が父と二人で営む喫茶店になっており、二階と三階が生活スペースになっている。ここに越してきて6年経つが、未だに空っぽの部屋があり二人で住むには少々物寂しさを感じる。
「雄一郎さんまだ寝てるのかな」
無人のリビングダイニングを確認してから洗面所に立つ。獣人の姿で顔を洗うのは些か面倒なので休日は濡れタオルで拭うだけなのだが、今日は東京に戻って買い出しをする予定があるのを思い出した。
マールムは一呼吸し気合をいれて、長い鼻面と毛皮を引っ込め、擬人の姿になる。飲食業─特に調理担当の獣人は、衛生上の観点から擬人の姿での営業が暗黙のルールとなっている。
そのため、マールムも普段から変化しているのだが…
「やっぱりしっくりこないよね…」
昨日一日獣人の姿でいただけで違和感が増幅される。ヒトの顔と体に獣の耳と尾、という擬人の見た目にではなく、体の内側から湧き出す謎の違和感。マールムはこの変化が不得意なのだ。しばし鏡に映る自分を見つめた後、もやもやを振り払うように冷たい水で顔を洗った。
朝食のトーストを焼いていると、頭上の大きな三角耳が階上の物音を拾う。
「あ、起きたみたい」
扉が開きゆっくりと階段を降りる音が続く。足音はマールムのいる部屋ではなく、洗面所へ向かったようだ。数分後、既に髪と短い髭をきっちり整えた中年のヒトの男が現れる。
「おはようマールム」
「おはよ~。ちょうどパンが焼けるころだよ」
マールムはオーブントースターからこんがりきつね色に焼けたトーストを取り出す。香ばしい匂いに、つい尻尾が踊りだしそうになる。
「ジャムは林檎バターでいいかな?」
横で冷蔵庫を開けていた雄一郎がアイスティー片手に尋ねる。
「もちろん!」
林檎バタージャムはマールムの一番のお気に入りで、一週間の朝食のうち、半分くらいはこれを食べている。よく飽きないものだと自分でも思うほどだ。
食卓の上に並んだのは二枚の六枚切りトーストと林檎バタージャム、二杯のアイスティー。
遅く起きる休日の朝食はいつも控えめだ。軽い朝食を済ませた後は掃除や布団を干すなど普段手の回らない家事をするか、東京へ買い出しに行く。それも済んだら午後1時ごろに昼食をとるのが習慣になっている。
今日はこれから東京へ日用品の買い出しに行く予定だ。この街にも商店はあるが、手に入るものには限界がある。東京出身の雄一郎はもとより、地球の文明に染まり切ったマールムもこの街で手に入るものだけでは満足できない。食感の良い食パンも大好きな林檎バタージャムもこの街─狭間の十字街では手に入らないのだから。
朝食を済ませ、手早く出かける準備を整える。地球側へ出かけるには必須の咒道具を首から下げると、瞬く間に獣の耳はヒトの耳に擬態し、獣の尾は跡形もなく姿をくらませる。
「おまたせ~」
玄関ではすでに準備を終えた雄一郎が“通行証”を握ってマールムを待っていた。
「よし、じゃあ行こうか」