第85主:ビルルの過去(2)
「…………さま……じ……さま………。お嬢様! 起きてください!」
突然の大きな声で起き上がった。ボサボサの赤い髪を左右に振りながら、キョロキョロと辺りを見回す。
毛先にカールがかかった亜麻色の髪をボブカットにしている一人のメイドが隣で立っていた。グウェイに瓜二つだ。
「お嬢様。朝食のお時間ですよ」
隣のメイドは起こす時とは異なる穏やかな声だった。
「ん〜」
「早くお着替えくださいね」
そう言うと、メイドは出て行こうとする。
「アイシャ。きがえるのてつだって」
「ですが、旦那様と奥様はご自分で着替えるようにと……」
「こんかいだけとくべつ!」
アイシャと呼ばれたメイドは困ったように微笑む。だがしかし「今回だけですよ」と琥珀色の目を優しく細めて、ビギンスの着替えを手伝った。
着替え終えたビギンスはアイシャを連れて、赤い絨毯の廊下を進み、食堂の前に到着した。
食堂へ繋がる扉は閉まっている。
ビギンスはその前で一度深呼吸して、ゆっくりと押して、両開きの木製の扉を開けた。
「またせちゃって、ごめんなさい」
入ってすぐに立ち止まり、ビギンスは頭を下げた。そんなビギンスにカツカツと足音を立てながら、セイラが近づいてくる。
叱られると思っているのか、目を閉じて、真下の赤い絨毯をジッと見る。
「コラ! ビギンス!」
声は前から聞こえてきた。きっと、視線を合わせるようにしゃがんでくれたのだろう。
しかし、怒られたことにビギンスは反射的に目を閉じた。
「またアイシャに着替えを手伝わせたでしょ!」
「へっ?」
しかし、怒られる内容が違った。それに口調も、怒りは含んでいるものの、いつもとあまり変わらない口調だ。
「アイシャもビギンスを手伝ってはいけないでしょ!」
「申し訳ありません。奥様。私が手伝いましょうかと提案してしまいました」
そんなアイシャの嘘にビギンスは顔を勢いよくあげた。
「アイシャじゃない! わたしがアイシャにたのんだの! だから、アイシャをせめないで!」
「お嬢様……」
「ビギンス……」
セイラとアイシャは驚いたようにビギンスを見る。ビギンスは真っ直ぐにセイラのことを見ていた。そんなビギンスにセイラは嬉しそうに微笑んだ。
「偉いぞ! ちゃんと自分の罪を隠さずに認めた。今までだったら、絶対にそんなことできなかったのに。よし! 今回はビギンスの成長に免じて、許すよ。ビギンスのこともアイシャのことも」
「ママ……」
「奥様……」
セイラの言葉に二人は驚いた表情を浮かべる。
「そんなことよりも、朝食を早く食べようよ」
突然、聞こえてきたサルトの声にセイラは「はぁ」と呆れた、ため息を吐いた。
「ちょっとは空気を読んでよ……」
「はい。すみません」
セイラに睨まれて、サルトは素直に謝罪した。完全に尻に敷かれている。
カシャン!
突然、景色が変わった。
昨日、ビギンスが落ちた庭だ。
空は今日も雲一つない晴天で、風も穏やか。
ビギンスは庭を駆け回っている。相手はアイシャだ。
追われているビギンスも追いかけているアイシャも、それを眺めているセイラや他の使用人たちも、みんな楽しそうだ。
アイシャは使用人の中で一番若いようだ。だからこそ、ビギンスの担当になっているのだろう。
「それにしても、アイシャも変わったね」
セイラは近くの使用人に話しかける。
「そうでございますな。来たときは全てを諦めていて、生気をあまり感じられなかったですから」
「そうね。でも、年齢が一桁の時に家族も友達も、みんな異世界人に拉致されたから、仕方ないと言えば仕方ないけど」
「そんなアイシャも今や十四歳ですから」
「もう、そんな年齢なのね。でも、そっか。ビギンスが生まれる一年前にやって来たからね」
「彼女はよくやってくれています」
「そうね。アタシたちが忙しい時など、アイシャがずっとビギンスの遊び相手をしていてくれるから、ホント助かっているよ」
「そうですな。アイシャはそれに加え、屋敷の仕事などもしているので人一倍動いてくれています」
「そうなの? それは知らなかった。あの時に無理を通して、正解だったね。それにしても、ビギンスとアイシャは本当に姉妹みたい……。今朝、あの子がアイシャを庇った時も驚いたよ」
「もしかすれば、アイシャといることでビギンス様の成長が促されているかもしれませんな」
「そうね。そうに違いない」
セイラと使用人たちはビギンスとアイシャを眺めながら、そんな会話を繰り広げていた。
「ねぇ、アイシャ」
「どうかしましたか? お嬢様」
ビギンスが真剣な顔でアイシャに話しかけた。彼女は佇まいを正し、ビギンスの次の言葉に耳を傾ける。
「おしごと、たのしい?」
「と、言いますと?」
「パパとママはわたしよりも、おしごとゆうせんじゃない」
「…………」
肯定も否定もできない。
サルトとセイラが仕事を優先していることは多々ある。しかし、どんな時もビギンスのことを気にかけていることを知っている。だが、ビギンスはそんなことわからない。
「ねぇ、アイシャ。わたしのおせわしてたのしい?」
「それは当然です!」
アイシャは食い気味に、ビギンスの言葉を肯定した。これはアイシャの心からの答えだ。
「お嬢様。敷地外に出てみませんか?」
「えっ?」
突然の提案。ビギンスは思わず目を丸くした。
「でも、パパとママが……」
「私が説得してみます」
「いいの……?」
「はい! もちろんです!」
「なら、おねがい!」
ビギンスは嬉しそうに微笑んだ。
ビギンスは今まで屋敷の敷地外に出たことがない。そんなビギンスにとって、屋敷の敷地外は未知の世界。
部屋から見えるのも、草木ばかりだ。その草木も敷地内。
だからこそ、敷地外はビギンスにとっては未知の場所だ。
カシャン!
景色が変わる。屋外から、屋内に。そして、目の前には一枚の木製の扉。
その前に立っているのはアイシャだ。彼女は緊張した面持ちで、扉を見ている。
「だいじょうぶ?」
隣にビギンスがいる。それを見ると、アイシャは一度深呼吸した。
「お嬢様、部屋の外で待っていてくださいね」
「うん……」
アイシャの緊張が伝わっているのか、ビギンスも少し息を飲む。
コンコン。
アイシャはぎこちなく動き、扉をノックした。
「どうぞ」
部屋の中から、サルトの低いが、聞き取りやすい声が聞こえてきた。
「し、失礼します」
アイシャは中へと入っていく。
ビギンスはアイシャに言われた通り、部屋の外で待つ。ただ、待つのではなく耳を澄ませながらも、両手を組み、アイシャの提案が通りように願う。
目の前にはサルトがいる。アイシャはあまりサルトと関わることはない。
「どうした? 珍しいな。お前からやってくるなんて」
「はい。失礼ながらも、折り入ってお願いしたいことがあります」
「なんだ?」
「お嬢様のことです」
「ビギンスがどうした?」
あまり興味なさそうだった、サルトがビギンスの名前を出すと、真剣な面持ちになる。
緊張はさらに高まり、ゴクリと唾を飲んだ。
「明日、敷地の下にお連れしたいと考えております」
「ダメだ。危険すぎる」
「お嬢様のことは私が命に変えてもお守りいたします」
「それは当然だ。怪我をさせることもナンセンスだ。そういえば昨日、ビギンスが木から落ちたらしいな」
「っ! そ、それは……」
「わかっている。昨日お前は、屋敷の仕事をしていたからな」
「はい……」
「屋敷でも、そんなことがあったのでは到底、外になど出せない。外は敷地内なんかよりも、危険が多い」
「恐れながら、意見させていただきます」
「ああ、話せ」
「お嬢様はルセワル家の次期当主です。それなのに、外のことを知らないのでは色々と不便が起きるかのように思えます」
「確かにそうだ。だが、まだ早い。ビギンスはまだ五才だ。今は安全に遊んだり、学んだりするのが先決だ」
「ですが、早くに街の方々と関わり合った方が、街の方々も信頼できると思います」
「そんな奴らのことなど知らん」
「そうでございますか……」
こう言われては何も言い返せない。アイシャは諦めるしかないことに対しての申し訳なさと、サルトに対する失望を抱いた。
「なら、アタシのこともどうでもいいってことね」
突然、扉が開けられて、セイラが入ってきた。
アイシャは驚くことしかできないが、サルトはアイシャと同じように驚いたが、すぐに嬉しそうな顔をしていた。
「何を言っているんだい? 君はあんな奴らと違うだろ」
「違わないよ。アタシは今、サルトさんがバカにした街の人々と一緒。同じところで生まれ、同じ生活をしていた。いや、もしかすると、もっとヒドい生活をしていたかもしれない」
「だけど、君はオレと結婚してくれた」
「ええ、そうね。お互いに愛し合っていたと思うよ。だけど、さっきの言葉でわかったの。愛していたのはアタシの方だけなんだって」
「そんなことない!」
「なら、街の人々を蔑ろにするのはやめて。それと、アイシャとビギンスを一緒に出かけさせてあげて。何かあったら、責任はアタシも取る」
「だ、だが!」
「まだ何か言う気? そんなどうしようもない奴なら、アタシから離婚するよ。正直言って、お金とか地位はどうでもいい。ただ、幸せなら」
「…………わかった。今回は全面的にオレが悪かった。二人が出かけるのも許す。だから、頼む。離婚だけはしないでくれ」
「そう。なら、いいのよ。今回のこともなかったことにしてあげる」
「ありがとう」
サルトとセイラがそんな会話をしている間にアイシャはビギンスのところへ行く。
「お嬢様。私の力だけでは、どうしようもなくて申し訳ありません」
「べつにいいよ。ママだってほめてたし」
「えっ?」
思わずセイラの方を見てしまう。
「だって、アタシなら簡単に許すのにアイシャは先にサルトさんに話しに行ったからね。それにアタシにとって、アイシャも大事な家族だから」
セイラの優しい言葉にアイシャは思わずウルっとしてしまう。
「ありがとう……ございます……」
泣きそうになりながらも、何でもないかのようにお礼を言うアイシャを見て、セイラはクスリと笑う。そして、優しく頭を撫でた。




