経済制裁の問題点について
北朝鮮に対する経済制裁に関し、多くの議論が国際場裏で行われているが、制裁強化の主張があることを前提に、議論に貢献する観点から、敢えてアンチテーゼを唱えてみれば、次のとおり。
1.歴史
(1)経済制裁の歴史は古く、元々は戦争中、交戦国に対して海軍を用いて実施していた「海上封鎖」が起源と思われる。軍需物資、食料、生活必需品を含め、相手国の貿易を阻み経済的に打撃を加え、戦争を有利に展開すのが目的だったに違いない。
(ア)フランス革命後のナポレオン戦争(1803~1815年)の最中、英国はフランスの経済的孤立を狙って海上封鎖を敷き、これに対しフランスは「大陸封鎖」をもって英国を孤立させようとした。
(イ)米国の南北戦争(1861~1865年)の際、北軍は南部の経済(就中綿花の輸出)に打撃を加える為、その主要港の海上封鎖を試み、これが大きな効果を発揮したとされる。(「風と共に去りぬ」はその様な時代背景のある小説)
(ウ)第1次世界大戦(1914~1918年)の際、英国は軍事物資・生活物資の供給を阻むため、ドイツの海上封鎖を試み、これに対しドイツは英米間の貿易を阻むため「Uボート」を用いて無制限の潜水艦作戦を展開した。
(エ)第1次大戦以降、船舶に加えて航空機が新たな輸送手段として登場したため、「海上封鎖」は「経済制裁」にすり替わり、第2次大戦の際にも用いられた。(日本に対する米国の経済制裁に関し、以下2.の通り)
(2)海上封鎖に関しては、特に海軍強国が行う場合、最も効果を発揮するので、「パクス・ブリタニカ」、「パクス・アメリカーナ」と称された米英等の海洋強国の常套手段と見られ、海洋国の伝統的な戦術となったのだろう。今では国連安保理決議等を根拠に、特に戦争に至らぬ危機発生の段階から広く用いられているが、これも米英等の主導によるケースが多いとの印象である。
2.日本の経験
(1)経済制裁に関して論じる場合、立ち位置が日本にある場合、忘れてはならないのは、1941年12月の日米開戦であり、そこに至った大きなきっかけとして、中国をはじめとする日本の大陸進出に対し、米国が経済制裁を次々と課し、ついには石油禁輸措置を導入したことだろう。
(2)米国は日本に経済制裁を導入して圧力を加え、対外姿勢の柔軟化を期待したのかも知れないが、この場合、石油の全面禁輸は、結局、対米開戦を旨とする東条英機内閣の成立に結び付き、破局を呼んでしまった。(末尾「参考」に詳述)
(3)他方、日米開戦前の経済制裁に限って、逆の議論も可能と見られる。すなわち1933年から1945年4月まで米国大統領だったローズベルトは、チャーチル英首相から、ナチス・ドイツに対抗する為、米国の欧州戦線参戦を強く求められていた。
米国世論の厭戦気分が強い為、ローズベルトは対応に苦慮していたが、1941年1月、真珠湾攻撃計画の存在につき東京駐在の米国大使から報告を受けた。そこで一策を練り、日本に第一撃を加えさせ、それをきっかけに米国として連合国側に参戦する事を謀った。
従って石油禁輸に至る対日経済制裁は、日本を挑発し「真珠湾攻撃による対米開戦已む無し」との判断に導く為、意図的に仕掛けられていた、との見方である。
3.非核化等、軍備管理・軍縮目的の経済制裁
経済制裁は、特定国家が国際法に違反する行為に及んだ場合に、通常、国連安保理の決議に基づき、復讐の意味を込めて罰を課し、反省を促し、再度同様の行為に及ぶことを抑止するのが目的だろうが、経験上、短期的に効果が出る事は、ほとんど望めない。更に非核化等の軍備管理・軍縮が目的の場合、次の理由から自己矛盾を孕んでおり、効果は増々出にくいだろう。
(1)経済制裁は、中長期的に相手国の政権交代に繋がり、国際協調的な政権が成立した場合に、初めて効果を発揮する可能性があろう。
(ア)経済制裁を受けた国の政権首脳部は、特権階級としてあまり生活水準を低下させずに過ごせる場合が多いだろうが、一般国民は大きな打撃を受けて早めに困窮し「食べ物の恨み」を抱く事になる。要するに被制裁国では石油等、生活必需品の値段が上がり、経済的不平等が大幅に助長されるだろう。
(イ)然るに政権首脳部は、経済制裁に対する国民の怒りが自国の政権に向かない様、常に外国に向けていたいと考えるだろう。
そこで国民に対し「これは民族に対する不当な弾圧なので、次なる段階として相手国の軍事攻撃に対する備えを行い(従って非核化等の軍備管理・軍縮圧力に応じぬまま)忍耐強く抵抗するよう」結束を呼びかけるだろう。そして「時間をかければ相手国の政権が譲歩する、あるいは選挙等のプロセスで交代する」としつつ、友好国の抜け駆け的な協力を募るだろう。
(ウ)この様に経済制裁を課された政権は、例え経済制裁の解除と引き換えに非核化等の要請に応じたくても、メンツの問題があるので、窮地に至っても譲歩しないし、譲歩を検討する場合でも段階的に応じる選択肢以外、あり得ないだろう。「経済制裁の圧力に屈して全てを譲歩した」とのレッテルを貼られる場合、政治力や政権の安定に関わり、体制の保障が得られないと見るに違いない。
(エ)従って経済制裁を課された政権は、意固地になりやすく、譲歩しない。すなわち政権交代が実現するまで、経済制裁圧力に屈しないケースが多いだろう。
(北朝鮮の場合、政権交代は世代交代の場合を除き、ほとんど期待できないので、普通に考えれば、経済制裁ゆえの譲歩は期待できないかも知れない。他方、米国は政権の自壊をも期待していよう)
(オ)仮に政権交代が実現したとしても、1941年当時の日本の様に、より強硬な政権の成立に繋がる可能性もあろう。
(2)最近、経済制裁は、特に中東地域の特定国に対して課される場合が多いのだろうが、中東では石油等のエネルギーについて自給可能な国が多いだろうから、経済制裁下でも国民経済が破たんしないで済むケースが多いだろう。
これとは対照的に、1941年当時の日本は、石油禁輸を含む経済制裁の結果、エネルギー資源が時間と共に枯渇していく状況だったので、ごく単純に言えば「窮鼠、猫をかむ」との激烈な反応に至ったに違いない。
(北朝鮮の場合も、例えばペルシャ湾岸の国と違い、石油等のエネルギー資源は輸入に依存しているはずであり、国民生活に必要なものを含め、何とかして確保する必要があるのだろう。以前の6か国協議では、他の5か国が、北朝鮮に石油を供給するのが、合意の条件の一つだった経緯がある。)
(3)テロとの戦いから生まれた思想として「テロのはびこる根本原因は、社会の貧困にある」との命題があり、これを踏まえ、潜在的にテロに走りそうな国に対し、経済協力を重点的に実施する発想が、国際場裏では主流となっている。
他方、この命題が正しいとすれば、経済制裁は逆に働き、相手国の貧困化に必ず結び付くので、テロを予防する観点から逆効果ではないか、テロを助長するのではないか、との議論も成立するに違いない。
(4)マクロ的な観点から、国際的な経済制裁を受ける国が複数ある場合は、それぞれに同様の閉塞感、被害者意識や精神的反発また恨みつらみを抱くので自然に仲間意識が芽生え、相互に連携し、協力し合おうとするに違いない。その様な国が「国際社会B」を構成するとした場合、経済制裁の対象国が増えれば増えるほど「国際社会B」はメンバー国が増えて膨張し、相互に結束・連携するので、ますます扱いづらいものに変貌していくだろう。
(5)核兵器国に対する経済制裁
特殊なケースとして警戒すべきは、経済制裁の対象国が核兵器を保有している場合だろう。想定すべきは当該国が復讐を兼ねて、例えば同様に経済制裁を受けている(国際社会Bの)第3国に対して、密かに技術伝播により核拡散を助長し、NPT体制を動揺させて「国際社会A」を困らせようとする事だろう。
これは特に制裁が長引く場合に警戒すべきであり、現在経済制裁を受けている北朝鮮の場合、例えばイランへの核拡散が想定され、米国の昨年5月以降の対イラン政策の背景には、この様な警戒心もあるだろう。
経済制裁が長引く場合には、経済的困窮に対する復讐心が積もるので、例えば核を保有する国に対する経済制裁に関し、長年緩和せずに継続する場合、国際社会Aにとってコストが軽いかと言うと、密かに、いつの間にか(核拡散の可能性を含め)復讐される可能性があるので、そうとは限らず、要注意。
4.解除のメカが欠落
一般的に、経済制裁は、武力による威嚇や侵攻を受けた被害国の問題意識に寄り添い、期限など解除のメカニズムが明確に示されぬまま、その時の感情的な勢いで、また加害国の行動を抑制するため、被害国に同情的な国により導入されるのが一般的で、そこに解除を困難にする大きな問題点があろう。
国内法により、個人や法人に経済制裁を課す場合は、通常、罰金や追徴金、あるいは期限付きの経済活動への制限の形を取り、範囲が明確なのに対し、国際的な経済制裁は、各国で無制限に延長されやすいからである。
要するに国際的な経済制裁の場合、大国同士の覇権争いが潜んでいる場合が多いのである。経済制裁を導入した大国を甲国、不利益を受ける大国を乙国とする。仮に経済制裁導入のきっかけとなった直接的な原因が除去されたとしても、甲国として、その経済制裁を解除するのは、乙国を引き続き抑止する観点から損である、との計算が働きやすい。従って導入した甲国では、自国、また乙国の政権交代後でないと、解除を検討する大義名分が立ちにくいので、同盟国や関係国に同調圧力を加えながら、経済制裁の延長を画策するだろう。
国際的な経済制裁に、この様な「慣性の法則」が働くとすれば、経済制裁を増やせば増やすほど、世界経済の縮小均衡に繋がるだろう。そして国際社会AとBとの経済が切り離され、極論すれば東西冷戦時代の世界経済への回帰現象が起きるので、関係国では、生活水準の一定の低下に備える必要があろう。
(参考)大日本帝国の教訓
特に1931年の満州事変、1937年の日中戦争開始以降、悪化した日米関係を背景に、日本は米国等の連合国(ABCDライン)から経済制裁を受け、これが徐々に強化されていった。(日本は当時、まさに「国際社会B」の構成員)1941年8月、米国は石油の対日輸出を全面禁止したが、その帰結が同年12月の真珠湾攻撃と考えられる。現代の「国際社会B」への対応方法を検討する上で、大日本帝国の歴史的経験や教訓は貴重である。
(日米開戦の経緯)
(1)満州事変(1931年)
1931年9月,関東軍は,柳条湖で満鉄の線路を爆破し,中国側の仕業だとして,満鉄沿線都市を占領,全満州の主要部を占領した。
1932年に関東軍は満州国を建国し,溥儀を皇帝の地位につけた。同年,国際連盟はリットン調査団を派遣し,報告書において日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。
1933年、日本はこれを不服として国際連盟から脱退した。
(2)海軍軍縮条約の破棄・脱退(1934年、36年)
1934年 日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄。
1936年 ロンドン海軍軍縮会議脱退を通告。
(3)二.二六事件(1936年)
「天皇親政」を目指す陸軍の青年将校が1400人余りの兵士を率いて首相官邸等を襲撃,高橋是清大蔵大臣などを殺害。首謀者は厳刑に処されたが,この後,陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し,陸海軍の支持しない内閣は成立困難となった。
(4)日中戦争と米国の対日制裁措置
1937年 7月 廬溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まる。
1938年11月 近衛文麿首相、東亜新秩序の建設を声明し、
日本・満州・中国を統合した独自の経済圏建設を示唆。
1939年7月 米国、日米通商条約を延長しない旨通告。
1940年1月 日米通商航海条約失効。爾後、米国は
航空機燃料、くず鉄、工作機械等の輸出制限を順次導入。
1940年9月 北部仏印進駐。(ハイフォンから昆明への援蒋ルート遮断)日独伊三国軍事同盟締結。
(5)石油禁輸と開戦(1941年)
1941年以降の米国の対日経済制裁措置には、「ABCD包囲網」のメンバーたる英国やオランダも連携し参加したので、その効果は一層徹底された。
1941年7月の南部仏印進駐後の在米資産凍結令は決定的となり、これによりニューヨーク(とロンドン)にあった日本政府の貿易決済用の在外資産が凍結された。また8月の石油全面禁輸により日本経済が更に追い詰められ、石油備蓄の限界もあり、対米開戦論がにわかに強まったものと見られる。
同年10月には東条英機内閣が成立した。11月5日、政府は御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」にて、対米交渉期限を11月一杯とした。
交渉において日本側は「甲案・乙案」を提示したのに対し、米側は中国からの全面撤兵等を要求する「ハル・ノート」を11月26日に提示した。
日本側はこれを最後通牒と受けとめ、12月8日、真珠湾攻撃により対米開戦に至った。
(1941年)
3月 米国「レンドリース法」を導入。英国と中国に対する支援が始まる。
4月 日ソ中立条約締結。
6月 ドイツ、ソ連に侵攻。
6月 米国で石油の輸出許可制導入。
7月 日本の南部仏印進駐。
7月 米国、日本の在米資産凍結令を発する。(英、蘭が追随)
8月 米国、石油の対日全面禁輸
10月 東条内閣の成立
11月 米国、日本に「ハル・ノート」を提示。
12月 真珠湾攻撃による対米開戦