孤島の宴
巣を発ったルシエがそろそろ戻ってくるかという頃合いで、にわか雨が降りだした。せっかく乾いた服がまた濡れてしまい、ひどく寒い。
否応にも、あの夜のことを思い出す。未だ残された傷は深いようだ。雨がじゅくじゅくと傷を侵す。ジャンは海に落ちないよう島の真ん中に座り、ただ雨が止むのを待った。
心細い、という感情を自覚する。思えば雨の日は、いつでも側に誰かがいた。船の上ならもちろん、街へ繰り出したときだって、雨が降れば皆、自ずと屋根の下に集まる。雨宿りついでに酒を酌み交わし、その場限りの親友ができたことも少なくない。雨は出会いと別れの境界でもあった。
だが、こんな雨もしのげない場所では、誰も留まらない。
――そういえば、ルシエは大丈夫だろうか。
彼は、自然と彼女のことを心配している自分に気づき、自嘲した。我に返ったというわけでもないが、今自分のしていることの意味が分からなくなってくる。
あれほど恐れていた――むしろ、今なお恐ろしい――セイレーンの歌声を、自分から聴こうとしている。確かにその理由は、体力を万全の状態へ戻すための口実のはずだった。しかし、本当に自分は、ただの口実で歌を聴くだけなのだろうか。自分への嘘が二重三重と重なっていて、本当の自分を見つめようとしても、まず本当がどれかわからない。船が沈んだのは誰のせいか。自分にとってセイレーンとは何か。自分はルシエのことをどう思っているのか。
ただ、あの声が忘れられない、それだけが事実だ。
「雨は、出会いと別れの境界……」
先ほど彼が考えたことを口にしてみる。演劇の一幕のように着飾った言葉だ。似合わないな、と笑った。
* * *
雨が止むと、それから間もなくしてルシエが帰ってきた。
「いやはや、いきなりの雨でびっくりしました」
そう言って巣に降り立った彼女の身体はしっとりと濡れていた。水滴のついた胸や臍周りを見て、ジャンは思わず生唾を飲み込む。という魅惑的な時間も束の間、彼女がばさばさと翼と身体を震わせたものだから、なんだかがっくりとくる。
「そこは鳥に近いんだな……」
「はい?」
「いや、なんでも」
ルシエは怪訝な顔をしたが、すぐ思い出したようにごそごそと腰の袋をあさった。そしてなぜか得意げにこちらを見ている。
「なんだ、今日は一体何を持ってきた」
「ふふ。最後の晩餐は豪華にしようと思いまして。大奮発です」
ルシエが取り出したのは、ジャンには見慣れた瓶とグラスだった。
「ワイン! お前そんなものまで隠し持ってたのかよ!」
「ええ。狭い島に置いておくと何かと危ないので、これも例の果樹の島に隠してあるんです。白はお好きですか?」
「もちろんだ!」
「それはよかった」
これは魚と一緒に、と微笑んで、いつも通り火を焚き始めた。さすが炎印石といったところか、雨の後でもすんなりと火が着く。ジャンは、魚を食べながらワインを飲む至福の瞬間を想像しながら果実をかじった。
「では、乾杯」
「乾杯!」
また雨が降ることもなく、無事に魚は焼き上がった。キン、とグラスを軽く合わせると、ここが絶海の孤島であることなど忘れてしまう。
まずはと一気にぐいっと飲むと、久しぶりのアルコールがジャンの喉を火照らせた。その勢いのまま魚にかぶりつく。魚の熱と塩味とが、それぞれワインの味と合わさり強烈に口内を刺激する。
「うっめえ……!」
「豪快ですねえ。丈夫にもなるわけです」
一方でルシエは、ゆっくりと少しずつ飲んでいるようだった。さすがにグラスは持つのが難しいのか、両方の翼で慎重にグラスを持っているのがおかしかった。
彼女を見て、昨日の歌を思い出す。酒に酔いながら歌を歌ったり聴いたりするのは最高だが、はたして彼女の歌はどうだろうか。あんなものを聴いたら、酔いなど一瞬で醒めそうだ。少なくとも適当に囃し立てられる雰囲気の歌ではない。
知らない言語だが、何か意味のある言語であることは、発音や歌い方から分かる。だが、少なくとも色恋の歌ではなさそうだ。むしろ自然だとか神だとか、とにかく大層なものを歌っている気がする。本当のところは分からないが――とまで考え、それなら目の前の彼女に聞けばいいだろうという当たり前の結論に至った。
「なあ、昨日のあの歌、いったいどこの言語なんだ?」
はい? と、彼の言葉に振り返る彼女の頭が、ぐらりと少し揺れた。本当にこいつは大丈夫だろうかと心配になる。
「古い言葉ですよ。そのうえ魔物の言葉です。今はみんな人間の言葉を借りていますから、話せる者はそういないでしょうね」
「それ、今の言語だとどういう意味になるんだ?」
「考えたことはないですけど……そうですね、歌の意味を知ることは大事です。簡単に訳してみましょう。ええと」
それからルシエはしばし考え込みはじめ、ジャンが魚の一匹目を食べ終わる頃に「よしっ」と声をあげた。
「だいたい訳せました。いきますよ」
「ま、待て」
「はい?」
「いきますよ、って、もしかして、歌うのか?」
「まさか。さすがに即興でそんなことできませんよ。ただ訳を声に出して読むだけです」
「そ、そうか」
そう言いつつもルシエは、昨日歌ったときのように深呼吸をした。
毒花の色に 蝶は舞い 羊を原へと誘う
駆馬の躰に 地は震え 兵を郷へと導く
鳴鳥の唄に 風は踊り 船を陸へと送る
「どうですか?」
「っ……」
確かに歌ではなかった。彼女はただ朗々と、詞を読み上げたにすぎない。しかし、それにも関わらず彼女の声には、理性が揺らぐほどの魅力があった。おそらく、これにさえ微弱な魅了魔法がかかっているのだ。そのため、彼女が読み上げてしばらく、彼は感想を言えるような状態ではなかった。
ルシエも彼の様子を見て察したようで、そっと彼の顔をうかがってきた。
「あの、もしかして」
「そのもしかしてだ……。お前、自分の能力も把握してなかったのか?」
「ご、ごめんなさい」
「別に、謝るほどのことでもないがな。それにしてもまあ、なんていうか、平和な歌だな」
ジャンは正直なところ、詞があまり頭に入っていなかったが、とりあえず思ったことをそのまま口にした。
「そうですね、私の一番のお気に入りの唄です。争いのない平和な世界、誰一人悲しむ者がいなくて済む優しい世界を願う、愛の唄。歌っていると少しだけ救われます。……ほんの少しだけ、ですけど」
ふと、彼女の瞳に悲哀が宿る。
「なんだよ。今の歌の何が気に入らないってんだ?」
「いいえ、気に入らないわけではないですよ。ただ、この歌と現実とのギャップに、私はいつも悲しくなるんです」
「ギャップって、つまり、どういうことだ?」
「分かりませんか?」
あのときと同じ表情をしていた。ルシエが船を沈めていないと断言できる理由を尋ねてきたとき。つまり、そういうことだろう。面倒な奴だ、と思いつつ、歌のせいか酒のせいかぼうっとする頭で詞を思い出した。
毒花の色が云々、駆馬の身体が云々、鳴鳥の唄が……鳴鳥の唄が、船を陸へと、送る?
「この鳴鳥って、お前らセイレーンのことを言っているわけか?」
「ええ。そういうことです」
そして、彼はようやくこの詞の意味を理解するに至った。彼女が悲しむわけも。一度意識してみれば、とても分かりやすい。
「私がどうして海の上で歌うのをやめたのか、これで分かるでしょう。私は、船よ沈まないでと歌い、その唄で船を沈めるんです。これほど空虚なことはないですよ」
「そりゃ、逆じゃねえのか。お前らセイレーンは、歌で船を沈めたくなかったから、船が沈まないよう願う歌を作ったんだろ」
「ええ。でも、同じことですよ。船が沈むかもしれないと分かっていながら歌うんですから。セイレーンの一族は、歌からは逃れられないんです。私も、妹も」
「ん? ……妹?」
「あ」
何か引っかかるものがあり、ジャンは記憶を辿った。そう、確かルシエは、妹のことをセイレーンではないと言っていたはずだった。
「ああ、えと、種族的には、メロは……妹は、紛れもなくセイレーンなんですよ。ただ、私が認めていないだけで」
「お、おう……そうか」
その言葉だけで、他人が触れてはいけないような確執が見え隠れしている。しかし、彼の脳裏にはどうしても拭えない疑問が芽生えていた。
「お前の妹は、陸で平穏に暮らしてるって言ったよな。お前も陸で歌えばいいんじゃないか? そしたら人が犠牲になることはないだろ」
一瞬、名案だと思った。しかしすぐ、妹がそれを実践できているならば、ルシエだって実践しているであろうことに気づく。
案の定、彼女は苦笑して首を横に振った。
「私たちが陸で歌ったりなんかしたら、たちまち大騒ぎですよ。セイレーンが人類共通の敵だと、あなたも言っていたでしょう? どこにいたって、すぐ密告されて討伐されるのが目に見えています。私たちが恐れられているのは所詮、彼らが海を泳げないからですし」
「……じゃあ、妹はどうしてるんだ?」
「セイレーンであることを隠し、一切歌を歌わずに生きています」
今度は、彼女の声に明らかな怒りの感情が混じる。
「だから私は、彼女を軽蔑しているんです。歌わないセイレーンなど、何になります」
なんだかまずい流れになってきたな、と思ってはいたが、ジャンには適切な言葉が思いつかない。
「私も一度だけ、妹の様子を見に陸へ行ったことがあるんですよ。彼女は酒場を営んでいました。……恋人と一緒に」
また一段、声が低くなる。
「見るからに貧しい暮らしをしていたけれど、でも、幸せそうで……。しかも、お金ないのに、海賊が酒代としてくれた貴重品……炎印石を、私にくれて。――余計なお世話ですっ」
「……お前、酔ってるだろ」
「酔ってませんっ」
ルシエはグラスに入った残りのワインをくっと飲み干した。
「……どんなに幸せそうだって、つらくないわけがないんです。お酒に酔っても、愛する人と一緒でも、歌うことができない。その苦しみは、同じセイレーンである私が一番分かっています。今にきっと、爆発するんです。己の本能を思い出して、歌って人々を魅了し、街を追われ……海に帰ってくる。逃れられはしないんです」
「器が小さいな、お前は」
「なぁんでですか」
「俺には、お前が妹に嫉妬してるようにしか見えん」
思ってはいたが喉にしまっておいた言葉が、つい漏れてしまった。ルシエはそれを聞いた途端、意外そうに目を見開き、忙しなく瞬かせた。
「してません」
「お前は掴みどころのない奴だと思ってたが……嘘は下手だな」
「してませんったら」
ルシエは軽く翼を羽ばたかせた。子どもっぽくてかわいい仕草だと思いきや、そこそこ強い風に煽られジャンは後ろに倒れた。
「セイレーンとしての尊厳を失った彼女を、軽蔑こそすれ、嫉妬する理由がありません」
「さっきご丁寧に並べてたがな」
「私は酒場の経営にも恋人にも興味ありませんっ。……セイレーンには、歌さえあれば何もいらないんです。そして反対に、歌う喜びを手放したメロは、セイレーンじゃない。ただのハルピュイアです。むしろ、ただの鳥です、あんなの」
ルシエは、ワイン瓶を引っ掴むように取ると、グラスになみなみと注いだ。そして、その半分ほどまでを一気に飲む。
「お前だって長い間歌ってなかったんだろ。それはどうなんだ」
「いいんです。堂々と歌わなくたって。崖際に腰かけて、そっとハミングでもできればいいんです。彼女みたいに、夜になっても一人になっても、誰かに聞かれることを恐れて歌えなくなるのでなければ」
「……歌えなくなる?」
ルシエは、きゅっと口を結んで目を震わせた。その顔から察するに、ただ「歌わない」というわけではなさそうだ。
「メロは、歌を聴かれれば今の生活が壊れてしまうと思い詰めるあまり……歌が歌えなくなったんです。誰もいない海辺へ連れ出して、歌おうとしたらっ、メロ、今にも泣きそうな顔で私を見つめてくるんです……歌えないって、声が出せないんだって……!」
今にも泣きそうなのはルシエの方だった。ジャンは居たたまれない気持ちで黙って聞いているしかない。歌を聴くまでもなくすっかり酔いが醒め、彼はそっと瓶を彼女から遠ざけた。
「メロのバカッ……どうしてそんなふうになるまで我慢しちゃったの。私ともう一度一緒に、歌ってほしかったのにっ、歌えると思ったのにっ……」
「俺を助けた本当の理由はそれか?」
「え? 何のことですか……」
「いや、なんでもない」
歌うことを恐れるあまり、本当に歌えなくなってしまった妹。彼女を見て、自分もいつかそうなるのではないかという危機感が芽生えたのではないか、とジャンは勘ぐった。
ぐすぐすと余裕なく泣いているルシエが嘘をついているとも思えない。あるいは、本人も気づいていないのか……というところで、考えすぎかと思考を振り払った。だいいち、それが本当だったとして何か重大な変化が生まれるわけでもない。
彼はグラスにワインを注ぎ、一気に飲み干した。そして、冷めてしまった魚をかじった。ルシエも同じく魚を小さくかじる。
「お前にも、いろいろあるんだな」
自分でも驚くくらいの適当な反応しか出てこない。酔っているルシエでもそれくらいは察せられたのか、不満げな目線でジャンを刺してきた。その目から逃れるように目を逸らすと、
「あなたはどうなんですか」
「は?」
彼女は突拍子もないことを言ってきた。
「私はたくさん話していますが、よくよく考えてみたらあなたのことは全然聞いていません。教えてください」
「教えろって言ったって、何をだよ」
「そうですね、じゃあ、あなたが海賊になった理由は? はい、どうぞ」
「……お前、酔ってるだろ」
「酔ってます」
ついにルシエは開き直った。ため息が出る。
「言っとくが、聞いても何にもなんねえぞ。どこにでもいる普通の海賊と同じだ」
「私はあなた以外に話せる海賊がいないので、安心してください」
「何が安心なんだか……言ったろ。俺は夢を求めて海賊になったんだ」
話しながら彼は、あの海賊団での出来事を思い出していた。
「……ご機嫌な海賊が、酒場に来ていた。当時俺は、酒場で下働きしてるガキでな。酒を出したら、そいつが絡んできた。そんで、他に客もいなかったから、相手してやれって店主が言うんだ。ま、貧乏くじだな。海賊なんて普通は嫌われ者だ。俺も嫌いだった。けど、そいつの話には、不思議と聞き入っちまってな。何を隠そう、そいつが海賊団のキャプテンだった。キャプテンってのは、ああいうふうに人を引き込む力が必要なんだろうな」
彼もまたあの嵐で海の藻屑となってしまったであろうことを意識すると、今さら悲しくなってくる。ジャンはワインを煽って話を続けた。
「で、炎で囲まれた大地だとか、幽霊船の財宝だとか、見たこともない美しい魔物だとか……いろんな話をまあすらすら淀みなく話してた。今なら、ありゃ酔った勢いのホラ話だってすぐ分かるけどな」
キャプテンは、自分のしたホラ話はすべて覚えていた。この話をもう一度聞かせてくれと頼むと、すぐにまた淀みなく語ってくれた。
「ガキだった俺には、それが魅力的に聞こえたんだよな。俺も世界を知りたいと思ったんだ」
しかし、それがホラ話なのは、クルー全員が知っていた。彼らの海賊団は専ら同じ海域に出て商船を襲撃するだけの毎日だったからだ。
新しい地域を開拓することすら渋っていた慎重派なキャプテンが、世界の海を股にかけた大冒険などするわけがない。
それでもクルーは皆、キャプテンの話を聞きたがった。
「……その日のうちに海賊の仲間入りだ。キャプテンに頼み込んでな。どうだ、何の変哲もない話だろ」
「いいえ。とても新鮮で、面白い話ですよ」
「そうかよ」
「次は何にしましょう」
「いや……もういいだろ。歌ってくれよ」
彼には、これ以上海賊団の話を続けられる自信がなかった。まだ、思い出話として語れるほど傷は浅くなっていない。
「そうですか? では、そうしましょう」
おぼつかない足取りでルシエは立ち上がった。
「かぜーが、きもちーぃいー」
なんだかむにゃむにゃとよく分からないことを呟くので、まだ早かったかと心配したが、
「―――― ―――― ――――」
不思議なことに、歌い始めると彼女は少しの揺らぎもなくなるのだった。それに、酒が入っているとは到底思えない澄みきった歌声。
身構えていなかったため、一瞬だけぞくりと身体が震え上がったが、すぐに彼はまた強烈な快感の波に呑まれた。しかし、前よりは随分とましなものだった。理性は保っていられる。酔っていて魔力が落ちているのか、それとも彼に耐性がついたのか。何にせよ、これで彼女の歌をよく聴ける。
彼女が訳した詞を思い出す。鳴鳥の唄に風は踊り、船を陸へと送る。もしそうだったら、どれほどよかったことか。ルシエとメロは決別することなく、彼女たちの愛する唄を思う存分歌っていたことだろう。ジャン自身も、セイレーンという種族に対して憎悪を抱かないで済んだ。
ただ、もしそうだったとしたら、ジャンはあの大嵐に巻き込まれ、誰にも助けてもらえず海の底へ沈んでいたかもしれない。そう思うと複雑だった。もしもの話で一喜一憂してどうするのか、と考えるのをやめる。
ただ、ルシエの唄を聴いた。
* * *
歌い終わって、満足気にやや顔を火照らせるルシエに対し、ジャンは拍手を送ってやった。だが彼女は、それを見るやいなや飛び退き尻餅をついた。
「び、びっくりしました」
「そりゃこっちのセリフだ……なんでそんなに驚く」
「だって、私の歌を聴いても何ともないなんて、そんなこと」
「耐性でもついたんじゃないか」
「そう、なんでしょうか。でも、それ以外には考えられませんね。すごいですよ、セイレーンの歌をものともしないなんて、人類史上初めてではないですか?」
実際のところ、彼女の酔いが原因という考えもあったが、彼女の力が弱まっていたと考えるよりは、単に自分がすごくなったということにしておこうと彼は目論んだ。
「でも、とにかく……最後まで聴いてくれて、嬉しいです。ありがとうございます」
ルシエはまたしても頬を緩めきって、にへへぇと笑った。酒が回っているときですら、このようにだらしない顔はしないのに、歌が絡むと途端にこうなる。
「そんなに喜ぶことかね」
「ええ。特に、拍手なんて初めてされました。感激です。歌い終わった後に誰かが立ってくれている、こんな幸せ、私が知ってしまっていいんでしょうか」
「また独特な幸せを感じるもんだな……」
「それなら、独特な幸せを感じている私は今、独特に幸せですね。つまり世界で一番幸せということです」
「またわけわからんことを」
「それは許してください、嬉しくてたまらないんです」
「そりゃよかったな。俺はもう寝るぞ」
「待ってください。私も寝ます」
「待たねえよ。阿呆か」
「二日間あなたを膝の上で寝かせてあげたんですから、今夜くらい私があなたの膝の上で寝たっていいじゃないですか」
「はっ?」
あまりに衝撃的なことを告げられ、ジャンは飛び起きた。
「え、俺、え、お前の膝の上で寝て、たのか」
「? ええ。気づいてなかったんですか?」
「お、お前、勝手なことを……!」
「そんなこと言われても、最初の方はあなたが倒れて放っておけない状態でしたし、二回目はあなたが勝手に抱き着いてきたのですし……」
「ああ、もういい、分かったからそれ以上言うな……」
がっくりと項垂れる。海賊である自分がそのような腑抜けた恋仲の男女のような行為をやらかしていたという事実が、とにかく情けないやら恥ずかしいやらで、ジャンは海に飛び込みたくなった。しかし済んだことをなかったことにはできない。
「分かったのでしたら、膝の上で寝させてください」
「……お前が、もう少し人との距離感というものを学んだらな」
「あら」
踏んではいけないものを踏んでしまった、とジャンは直感した。
ルシエはにぃっと蠱惑的に笑い、急に顔を近づけてきた。自分が後ろへ退く間もなく迫られ、硬直してしまう。
「私の距離感は、間違っているんです?」
ルシエの吐息が、彼の唇を湿らせる。
「だとしたら教えてください。私とあなたの、距離」
「っっ……酔ってるだろ」
「酔ってます」
苦し紛れの応答も虚しく、ルシエはゆっくりと距離を詰めてくる。
さっきまでの無邪気な顔はどこへ行ってしまったのか、ルシエは妖艶に舌を見せてきた。
本気だ。
「わかったわかったわかったっ! 膝の上で寝ていい! それが俺とお前の距離だ!」
「あら、いいんですか? 優しいんですね」
「っテメエは本当に、海賊をとことん馬鹿にしてやがるな……!」
「いいえ? あなたを信頼しているだけです」
「あーそうかよ! とっとと寝ろ阿呆!」
「膝を貸す人とは思えぬ発言ですね」
「お前との距離を改めてやってもいいんだぞ……」
「ごめんなさい。寝ます。おやすみなさい」
膝にぎゅっと重みが加わる。とにかくその重みの正体を意識しないように目をつぶった。
露骨にため息をつきつつ、彼もまた横になった。