セイレーンの歌声
ルシエは桶二つを抱え、「これが満杯になるまで食べ物を取ってきます」と豪語して出発した。食料が手に入ると分かれば、余計に空腹が辛くなってくるもので、ジャンは苦痛を少しでも紛らわせようと島内をぐるぐると歩き回った。
夕暮れになると、ルシエが桶三つを足で抱えてふらふらと戻ってきた。慎重に桶を置いてから自らも着地して、ふう、と息をついた。
「ただいま戻りました」
「なんで桶が増えてるんだ……?」
「近くに果樹がたくさん生えている島があるんですよ。たまにそこから採集してくるので、予備をその島に置いているんです。今日はとにかく豪勢にいこうと思ったので、奮発です」
中を覗いてみると、りんごやライチなど多様な果物が桶一杯に詰まっている。別の桶では魚が所狭しと泳いでおり、また別の桶には水が張っている。
「たっ、食べていいのか、これ」
「ええ、もちろん。魚を焼いていますから、好きな果物を食べていてください」
話を最後まで聞くより先に、りんごにかぶりついた。喉が潤い、次に甘い風味がすうっと喉を通る。ろくな咀嚼もせずに飲み込むと、若干の苦しさと共に得も言われぬ充足感に包まれる。生きている、という感覚を久しぶりに取り戻した。
叫びたいほど美味いが、その時間さえ惜しい。何しろ彼は三日ぶりの食事なのだ。
「いきなりそんなにがっつくと、後で戻してしまいますよ」
ルシエから注意が飛んでくるが、無視。とにかくできる限り早く腹に物を詰めたかった。しかし、案の定その前に喉に詰まらせてむせた。水を飲んだときから学習していないな、と自嘲する。
「お水です」
ルシエが桶を差し出す。それをまたがぶがぶと飲んだ。
「まあ、満足いくまでごゆっくりどうぞ。歌を聴いてもらうのはその後でいいですから」
「……ああ、そういえば、言いそびれてたんだが」
ジャンはあのとき言えなかったことを思い出し、ライチに手を伸ばしながら聞いた。
「お前、どうして歌を聴いてほしいんだ? 歌いたいなら一人で歌えばいいだろうに」
「歌は、誰かに聴いてもらうことで初めて輝けるんです。私の歌に誰かが酔いしれてくれる……これほどの快感はありません」
「なる、ほど? だが、セイレーンっていう魔物は、海に出て適当な船なり何なり見つけて歌うもんじゃないのか?」
急に彼女を包む空気が重くなったような気がした。
「私が、なぜ『あなた方の船を沈めてなどいない』と断言できたか、分かりますか」
「…………?」
ジャンはルシエの次の言葉を待ったが、彼女はずっと黙っていた。どうやら自分から答えを言う気はないらしい。とはいえ、これまでの話の流れを考えればそう難しい問いでもなかった。
「……歌ってないから、か?」
こくん、と小さく頷く。
「百年ほど前ならば、私は話に違わぬ邪悪な魔物でした。人間なんて知ったことではない、と好き勝手に歌っていました。でもある日、嫌気が差したんです。私の歌を望まぬ人に歌うのも、私の歌が忌み嫌われることも」
「百年……」
途方もない年月に愕然とする。忙しなく動かしていた手と口が、自然と止まった。
「私はセイレーンとして、歌を歌って生きていたいんです。でも、これ以上人を殺す歌を歌うのも嫌。私はその板挟みに我慢できなくなりました。だからせめて、私の歌を望む人のために歌ってみたいと、そう思ったんです。……たとえ、形だけだとしても」
「だから、俺を助けたってことか」
「有り体に言ってしまえば、そういうことです」
会話が途絶えるとルシエは、どうぞ、とこんがり焼けた魚の串を手渡してきた。
「百年も経てば、風化してくれると思っていたんですけれどね。やはり犯した罪は消えませんか」
セイレーンの恐怖が今も色褪せることなく残っていることは、ジャンが一番よく知っている。
「あなたも本当は、私の歌を聴くのが怖いですよね」
「怖くねえよ」
反射的に返したその声は震えていた。ルシエのじとっとした視線が刺さり、ジャンは顔を横に逸らした。
「……しょうがねえだろ。ガキの頃からずっと言い聞かされてたんだ、セイレーンの歌を聴くなって。身体が勝手に拒絶するんだよ」
「そう、ですよね。分かっています。恐れられて当然のことをしていたのですから」
「ごちゃごちゃ気にするなよ。形だけでいいんだろ」
「……ええ、そうです。そう言いました」
その割には随分な落ち込みようだった。ジャンは、何かしら言ってやるべきかと考えを巡らせた。
「だいたい、人に恐れられるっていうなら俺たち海賊も同じだろうが。しかしだ、海賊は国が言うほど悪逆非道なもんじゃねえ。確かに俺たちは? 商船を襲って荷物を略奪する。だがその実は、どうせ貴族やブルジョワが浪費するだけの金を、俺たちが辺境の貧しい店で使ってやってる、それだけの話だ」
ぽかんとした顔で聞いていたルシエが、不意に「ふふっ」と笑った。
「なんだよ」
「海賊のこととなると、饒舌ですねえ」
「うるせえな、それがどうした」
「いえ。酒場の美人さんでも口説くときに毎回それを言っているのかと思うと、おかしくって」
図星だった。
「少し声が甘くなっていましたよ。口上を用意しておくのは結構ですけれど、相手によって声色くらい使い分けませんとね」
「うるせえ、黙って聞いてろ」
こいつ調子が出てきたな、と苦々しいようなほっとするような複雑な心境になる。
「俺が言いたいのは、お前も似たようなもんだってことだ。歌で人を魅了し船を沈める、それは事実なんだろうが、実際は百年以上船を沈めていない。それどころか、気まぐれで人を助けてやるようにもなった。そうだろ」
うーん、とルシエは首をかしげる。
「海賊と一緒にはされたくないかもしれませんね?」
「テメエ。俺だって本当は我らが海賊とセイレーンを同じだなんて言いたくねえよ」
「あら、残念」
「お前は……本当に食えない奴だな」
「ふふ、冗談ですよ。嬉しいです。ありがとうございます」
ふん、と鼻を鳴らして魚をかじる。ジャンは今さら、らしくないことをしたものだと自覚した。きっと腹を満たして変に余裕が出てしまったのだろう、と思うことにした。
「さてと。それでは、そろそろ軽く声を整えておきましょうか。向こう側に行ってきますね」
「ここでやればいいんじゃないのか?」
ジャンとしても、本気のセイレーンの歌声を聴く前に軽めのもので慣らしておきたいという気持ちがあった。はたしてそれにどれほどの効果があるのかは、自身にも分からないが。
「聴衆の前で練習だなんて、風情のないことはいたしません」
ところが無情にも、ルシエの返答はつれないものだった。彼女はそそくさと歩き、向こう側の崖際に腰かけた。耳をすませてみるが、さすがにここからでは聞こえない。ジャンは観念して魚をかじった。
* * *
「お待たせしました」
数十分ほどでルシエはこちらに戻ってきた。ジャンもようやく満腹に近づいてきた頃合いだった。
彼女は緊張と興奮からか、こわばった変な笑みを浮かべていた。
「今日は星がきれいですね」
「……ん? ああ、ま、そうかもな」
「心地よい風。静かな海。私たちを照らす火の灯り。それと、美味しそうな色とりどりの果実」
ルシエは唐突に目を閉じ語りだした。彼は茶化してやろうかとも思ったが、結局黙って聞くことにした。なんとなく、壊してはいけないような雰囲気があった。
彼女はやがて大きく深呼吸をした後、目をゆっくりと開いた。
「ここには何もないけれど、あなたのおかげで、すべてがあります」
「……俺には、お前の独特すぎる世界観は分からん」
「大丈夫ですよ。私も何を言っているやらさっぱり」
「緊張してるだろ、お前」
「ええ、とっても」
笑みを崩さない彼女の頬をつたう冷や汗が、火に照らされ光っていた。ジャンもまた、彼女とは比べ物にならないほどの汗をかいていた。できる限り自然を装って火の灯りから遠ざかる。
「では、歌います」
前置きの後、またひとつ深呼吸。ジャンも生唾を飲み込む。
そして、彼女は歌いだした。
「―――― ―――― ――――」
ジャンが抱いた感想は唯一、「美しい」とだけ。まるでそれ以外の感情がすべて洗い流されたかのように。ただただ、美しいと思った。どう美しいか、と聞かれても、いまいちこれという表現が見当たらない。艶やかなようで、安らかなようで、優しいようで――その様々な印象が一切の矛盾なく合わさっていた。
言葉は、分からない。曲調は独特だが、とてもゆったりとしていて、荘厳な雰囲気の曲だ。それを彼女が堂々たる柔らかな声によって歌うことで、惚れ惚れするほど心地よい歌が生まれる。
いや、もうすでに彼はルシエに、ルシエの歌に惚れていた。もっと近くで聴きたい、ずっと聴いていたい。心の最奥でかすかに、危ないと叫ぶ声が聞こえる。しかし、そんな耳障りな声に意識を向けてやる気には到底なれなかった。重要なのは、今ここで歌っているルシエの歌声だ。叫ぶ声はやがて圧倒的な恍惚の濁流に呑まれて流される。残ったのは、快、歓、喜、悦、楽――――
* * *
「あ」
ジャンは目を覚ました。目の前にある女性の顔が、柔和な笑みを見せる。彼女の顔と、彼女の背にある朝日を見て、ジャンはこの生活が四日目に入ったことを察した。
「おはようございます」
「……もう駄目かと思ったぞ」
「そんな危険な歌、聴かせたりしませんよ。私の歌にかかっているのは単なる魅了魔法です、有害なものではありません。中毒にもならないでしょう?」
「確かにそうみたいだな……でも、あれは本当に危機感を覚えた……その危機感すらすぐに吹っとんじまったんだが」
あれだけ強烈な快楽を浴びたというのに、精神が侵された感覚は少しもなかった。酒の方がまだ中毒性があると思えるくらいだ。
「私も人前で堂々と歌ったのは初めてだったのですが、我ながらすごい効果でした。まさか、ジャンがあそこまで乱れるとは」
「みっ、乱れる? なんだ、俺は一体何をしたんだ」
酒に呑まれて苦い経験を何度かしたことがあるジャンは、眠気も吹き飛び慌てふためいて聞いた。
「……そうですねえ。いきなり押し倒されたときは、さしもの私も焦りましたよ」
「な、なぁっっ!」
「えっ、その、ジ、ジャン?」
彼が膝から崩れ落ちて今にも泣きそうに震えだすので、逆にルシエの方が彼を心配し始めた。
彼女には知る由もないが、海賊というのは各々が所属する海賊団の掟に従って生きているものなのである。そして、彼の海賊団の掟の一つにはこうある。
「同意なく婦女に淫行をはたらいた者は、鞭打ち五十回……」
今はない海賊団だが、掟厳守の習慣だけは彼の心に刻みつけられているのだった。
「あ、あのー」
「な、な、なんだよ……?」
「冗談です」
「は?」
「混乱していたので、騙されてくれるかなあと。本当は、緩く抱き着いてきただけです」
それを聞いた彼は、しばらく呆然としてからゆっくりと横に倒れた。そして、最大限のため息をつく。
「……言っていい冗談と悪い冗談がある」
「はい、今学びました。ごめんなさい」
「お前は本当、掴めんな……飄々としているかと思えば、無邪気に笑ってみせたり……あんな美しい歌を歌ったかと思えば、こんなつまらん冗談を言ったり……」
「えっ、今、私の歌を褒めてくれましたかっ?」
「そこに食いつくな……反省してるのかお前」
「あっ、いえ、してますよ、ちゃんと。そうだ、朝食にしましょう。昨日の果実がまだ余っています」
ルシエは露骨に話を逸らし、かつ上機嫌に桶を持ってきた。ジャンはまだ言い足りなかったが、それ以上に疲れの方が勝ったため我慢した。とりあえず桶の中から特に大きなりんごを掴み取ってかじる。
「そのう、ジャン?」
さすがに先ほどの叱責が効いたのか、遠慮がちにルシエが話しかけてきた。
「なんだよ今度は」
「ちょっと気になったのですけれど、でも、少し聞きづらいことで」
「さっきみたいなくだらねえ嘘じゃなけりゃ、今なら何でも許す」
「もしかして、酒の勢いで女性と過ちを犯したことが?」
ぶふっ、と、せっかくの甘いりんごが口から吹き出る。
「ねえよ! いきなり何言い出すんだ阿呆!」
「でも、先ほどの反応から察するに、何かトラウマがあったのでは?」
「違うっ! 海賊の掟だ! 俺たちは婦女暴行なんぞしたら殺されちまうんだよ!」
「まあ、そうなんですか? 海賊というのは、略奪殺人強姦当たり前、というようなイメージがありましたけれど」
「そりゃ、そういう海賊もいるさ。だが、好き勝手を禁じている海賊も多い。海の上の戦いは統率力が物を言うからな。ま、要するに俺たちみたいないわゆる義賊は、そういう何にもならねえ悪党とは一味違うってわけだ」
ルシエは「なるほど」と、葡萄を口の中で転がしながら呟いた。本当に分かっているのか甚だ怪しい。
「そういえば、出発の日なのですけれど」
「あ? ああ、それが何だ?」
「私はもう悔いもありませんし、いつでもいいので、ジャンが決めていいですよ。体力も、もうすっかり戻ったようなので。そのあたりはさすが海の男といったところですね」
「まあな。俺たちはろくな栄養にもならねえビスケットやら干し肉やらで海を渡っては戦ってんだ、この程度でいつまでもへばってられねえさ」
ジャンには、なぜ今ルシエからじとりと睨まれたのか分からなかった。
「……。それで、いつ出発しますか? 今日か、それとも一応明日にしますか?」
ちょうど今大見得を切った手前、やっぱり明日とは言いづらい。しかし彼に若干の不安があるのも確かだった。ただでさえ空を飛ぶというのは初めての経験で、どうなるか分からない。それに、ただルシエだけを頼りに海を渡らなければならないうえ、長旅になるのは必至だ。できる限り万全の体調で臨みたいというのが彼の本音だった。しかしそれを素直に言うのは海賊としてできない。彼はしばし逡巡した。そして、
「一つ聞いておきたいことがある」
「なんです?」
「お前は、一度歌っただけで満足できたのか?」
ルシエの気持ちをダシにすることにした。
「…………」
予想通り、彼女は明らかに満足していないようだった。しかし、それを正直に言うのは気が引けると、そのような表情をしていた。
「言ったろ。歌を聴くぐらいならお安い御用だ。ずっと聴き続けるってわけにはいかないが、もう一度聴くくらいなら何の問題もない」
「で、でも、昨日はあんなに冷や汗をかいていたじゃないですか」
気づかれていたことに多少動揺する。
「それでも、一度聴けばもう慣れたもんだ。もうお前の歌は怖くねえよ」
「そ、そ、それは、それは」
ルシエは居たたまれなくなるほど散々にどもりながら何とか言葉を繋いだ。
「まだ、少し違うけれど……私の歌を、自ら望んでくれているんですか」
「ま、そういうことにしていい」
「やったっ」
ルシエが、ぴょんと小さく跳ねた。