現を語る悪夢
夜。
見たこともない巨大な雲が、轟音と閃光を伴いながらジャンの海賊船へと真っ直ぐに向かってきた。ちょうどクルーの集中が薄れてくる時間帯のことだ。見張りの伝達も、航海士の判断も遅れた。どう進路を変えても、雲からは逃れられそうになかった。
ジャンは他のクルーと同じくキャプテンの大声で飛び起き、嵐への備えを始めた。そして、徐々に揺れを増す甲板の上で、その雲を見た。港町で生まれ育ち、故郷を出てからも海の上で過ごしてきた彼の心で、いろんな感情が一斉に警鐘を鳴らしだした。足が震えた。
彼とて航海中の嵐は何度か経験した。そのとき何をすべきかも、身に染みて分かった。しかし、今までの常識を覆すこの巨大雲は、彼の頭を真っ白に染め上げてしまったのである。
「ジャン! テメエ何ぼーっとしてんださっさとロープ片付けろっ、時間ねえんだぞ!」
「あっ、は、はいぃ!」
兄貴分に怒鳴られ、慌ててロープを運ぶ。甲板のハッチを開けたとき、ジャンの後頭部に雨が当たった。
それからはすぐだった。船内が激しく揺れ、激しい雨が甲板を叩きつける。兄貴分が心配になり、ハッチ周辺で右往左往していると、まもなくしてハッチが開き彼が転がり込むように戻ってきた。
「兄貴っ」
「帆はすべて下したし、俺たちにできることは済んだ。後は、ま、航海士の腕を信じるしかねえな」
「だ、大丈夫ですよね? まさか、俺たちの船が沈んだりなんかは」
「……気休めは嫌いだから言っとくが、覚悟はしとけ」
「覚悟、ってえと、その、どういう」
「船が転覆したら、すぐに脱出しろってことだ」
きっぱりと言われたが、ジャンにはすぐにそれを認めることができなかった。呆けた顔をする彼に構わず、兄貴分は続ける。
「まあ、まだ大海原のど真ん中だ、この船がなくなったらもう、ほとんど死んだようなもんだが……奇跡で何人かは陸に辿り着けるかもしれねえ」
天が奇跡を与えてくれるような奴がこの中にいるとは思えんが、と彼は付け加えた。
その瞬間、ジャンは激しい頭痛を覚えて呻いた。続いて、頭痛の原因は、それが「音」だと理解するのに時間がかかるほどの轟音だと分かる。船が一際大きく揺れる。
落雷だ。
「……ほらな。天が俺たちにくださるものなんて、こんなもんだ」
彼は苦々しく舌打ちをした。
「少し甲板の様子を見てくる。そこで待って――」
「兄貴ィィ!」
別のクルーが慌ただしく走ってきた。ただでさえ縦も横も滅茶苦茶になるほど揺れているため、何度も転びながらだ。
「落ち着けダレル。どうした」
「準備にミスがあり、砲門が開いたままでした! 既に浸水が酷く、今見つけたクルーで手分けして水をかき出してます!」
一瞬の沈黙。
ジャンは、兄貴分の顔がさっと青くなるのをはっきりと見た。
「なっ……砲門って、前の戦闘からずっとか!? んなもん準備以前の問題だろうが!」
「すいませんっ! ロブの野郎整備の途中で寝ちまってたみたいで、すっかり忘れてたとかなんとか抜かして……!」
「あいつ……っいや、そんなことよりも! この大嵐だぞ、今さらかき出してどうすんだ! 砲手、砲手のブルーノは!?」
「ブルーノさんも一緒になってかき出してます!」
「くそっ、今すぐ行って砲門閉めろって伝えろ! 俺は船長に報告してくる!」
すぐに二人は走っていき、ハッチ下にはジャンが取り残された。自分も一応ダレルについていった方がいいのか、それとも……と、そこで彼は兄貴分が先ほど言っていたことを思い出した。まだ彼は甲板の様子を見ていない。雷が直撃した可能性がある以上、状況を見ておかなければならない。
ジャンはおそるおそる梯子を上り、ハッチを開けて外を覗いた。悪魔のような暴風と大雨に、足がすくむ。それでも彼は梯子の上にしっかりと立ち、素早く甲板を見回した。そして、不思議な感覚に捕らわれた。
これは本当に、自分たちの慣れ親しんだ海賊船か?
数秒後、その違和感の正体に気付く。
マストがない。甲板の中心に立っているはずのメインマストが、根元から折れて消失していたのだ。
さらに彼は見た。メインマストがあったところを中心に、甲板に大きくひびが入っているのを。誰が見ても、長くないと確信するひびだった。ジャンは今度こそ梯子から転落した。
「っ総員脱出準備ぃぃー!」
痛みも忘れて叫びながら駆ける。しかしそのすぐ後に、バキバキと嫌な音が鳴りだした。
間に合わない。もうこの船は沈む。そう直感したジャンは、気づけばハッチから外へ出ていた。甲板のひびは大きく口を開けて悲鳴を上げていた。船が砕けながら真横に傾く。身体が甲板を滑り、ジャンはとにかく何か掴もうと手をじたばたと動かした。その手が、船の木片を掴む。ジャンの身体を一回り太くしたような大きさだった。
その木片と共に、彼は海へ投げ出された。冷たい水が全身を突き刺し、心臓が止まりかける。そのうえ、文字通り息つく暇もなく荒波が次々に襲いかかってくる。それでも船とクルーが気がかりで、なんとか辺りを見回したが、船はもう既に跡形もなくなっていた。ジャンと同じく木片に掴まってかろうじて浮いているクルーだけが数人見えた。
「…………っ」
ここにきて初めてジャンは現状に理解が追いついた。今日の朝には笑いあっていた仲間たちが、沈み、溺れ、死んでしまった。かろうじて生きている自分たちも、数分、下手をすれば数秒後には死ぬだろう。
「なんだ、これ……」
目の前の現実がただただ悲しく、ジャンは海に出て初めて嗚咽を漏らした。流した涙も、すぐ雨と波にさらわれていく。
そのとき唐突に、遠くから叫び声が聞こえてきた。間違いなく仲間の声だ。ジャンは注意深くその声を聞いた。
「セイレーンだぁっ、耳を塞げぇーッ!」
断末魔のような絶叫。あの恐ろしき「セイレーン」の名。その声に呼応するように続々と絶叫は増えていく。あまりの衝撃に危うく手を放しそうになるが、ぐっと強く掴み直して空を見上げる。
「どこだ、どこにいる……!」
目を血走らせ、セイレーンの姿を探した。この悲劇の元凶たる悪魔の姿を、最期に焼き付けておかなければならない。自らの死をもって、間違いなく奴を呪い殺すために。
しかし、突然彼の視界に白い靄が漂い始めた。それは瞬く間に広がり、いつの間にか彼は白い世界に浮いていた。
雨も波も、何もない世界。先ほどまであれほど寒かったのが嘘のように、今は柔らかな温もりが全身を包んでくれている。
そのうえ、美しい歌声が聴こえてきた。
それは、いつか酒場を訪れた美女の鼻歌のように艶やかで、ミサで聴いた聖歌のように安らかで、それでいてもう覚えていない母の子守唄のように優しい、そんな不思議な声。
このまま眠れそうだ、とジャンは思った。
* * *
「あ」
ジャンは目を覚ました。目の前にある女性の顔が、ほっとしたように少し緩む。彼女の翼と、彼女の背にある朝日を見て、彼はこの生活が三日目に入ったことを察した。
「気がつかれましたか」
「……ああ」
鈍く痛む頭を押さえつつ起き上がる。なぜかセイレーンが挙動不審にジャンの様子をうかがっていた。
「あの、……何も聞いてませんよね?」
「何のことだよ」
かすかに覚えている夢の中の声は考えないことにした。セイレーンはジャンの言葉に安堵すると、今度はもう見慣れた呆れ顔を見せた。
「ただでさえ栄養失調気味なのに、大声なんて出したらそうなりますよ」
「うるせえな……俺の勝手だろ」
「そうはいっても、半日以上昏睡状態だったんですからね。もう駄目かと思いましたよ」
「俺が駄目になったって、お前は構わねえだろ」
「構うからこうやって看病していたんです」
「生かさず殺さず、か」
昨日聞いた「う」という声がまた漏れる。
「……そのことについては、私も反省しました。確かにあなたの言う通りです。あなたをこんな島に連れ去って、そのうえ何も与えず飢えさせるなんて、非道でした」
「じゃあ魚でも分けてくれるのかよ」
「はい、そうします」
「え?」
「というより、もうこんなことはやめようと決めたんです。あなたの体力が戻ったら、陸にお送りします」
「そ、そうか」
態度の急な変わりように動揺を隠せない。こうまでしおらしくされると、彼女を責めづらくなってしまう。
と、自分の心に建前を立ててはみたものの、もとより彼にはこれ以上彼女を責めるつもりなどなかった。
「……まあ、俺も悪かった。いや違うな、俺が悪かった。昨日は言い過ぎた」
「えっ」
セイレーンが目を見開き翼で口を押さえる。
「本当は分かってたんだ。船を沈めたのはお前じゃないって」
「どうしたんですか、急に」
「……単に思い出しただけだ」
ジャンも薄々気づいていたことだ。
あのとき叫んでいたのは、ロブだった。
あの大嵐は、もとより彼らの船ではどうしようもないほど荒れていた。それに致命的だったのは落雷の直撃だ。彼の怠慢のせいで沈んだのだとは言い難い。彼があの世で仲間と再会したとしても、彼が全ての原因だとして憎む者はそう多くないだろう。
ただ、彼が海に投げ出されたとき、セイレーンの影を見てしまった気持ちは、ジャンには痛いほど分かる。彼も同じようなことをしていたのだから。
彼女のせいにしてしまえば、自分が憎まれることも誰かを憎むこともなくなる。セイレーンなら仕方がなかった、と。ただ、不幸にも彼は本当にセイレーンに出会ってしまったのだが。その結果がこれだ。自分の嘘から目を逸らし続けることに限界が来た。
「つまり、とりあえず現状、俺にはお前を憎む理由なんてないってことになる」
「そうですね」
「さらに俺はお前に命を救ってもらって、水も食料も与えられ、おまけに陸まで送ってくれるという」
「はい、そうなります」
セイレーンは、何が言いたいのか全く分かっていないという顔で相槌を打ち続けた。
「それで恩のひとつも返さないなんてのは、仁義にもとるだろ」
「え? その、……え?」
そこまで言うと、彼女はしばしきょとんとした顔をしてから、
「それって、その、それって……!」
見る見るうちに明るくなっていった。喜ぶべきかまだ判断しかねるといったふうに、口元の筋肉がこわばっている。
「聴いてやるよ。お前の歌。それがお前の願いだっていうんなら、お安い御用だ」
そしてその瞬間、ぱぁっと笑顔が弾けた。
「ありがとうございますっ、とっても、嬉しい……!」
にへ、とあどけなく笑う。口元の緩みきったその姿は、最初の飄々とした雰囲気からは想像もできない。そのあまりの喜びようが、ジャンには不思議だった。
歌いたいだけなら一人で歌えばいいのに、どうしてわざわざ自分に聴かせたいのか。そもそもセイレーンという魔物は、海にたゆたい気まぐれに歌って船を沈めるものではなかったか。聴いてやろうと一旦踏ん切りをつけると、考えもしなかったいろいろな疑問が湧いてくる。
「なあ、お前どうして――」
「ルシエです」
「俺に歌を――なんだって?」
「私の名前。ルシエといいます。あなたは?」
「……ジャンだ」
「はい。これからよろしくお願いしますね、ジャン」
すっかり舞い上がっているルシエに翻弄され、彼は疑問を解消し損ねた。