生き延びる
幾分かましになった頭で、ジャンは考えていた。
セイレーンの願いを拒んだはいいものの、実際問題これからどうすればいいのか。
もう既に喉が渇いて仕方がないし、腹の中も空っぽで痛みすら覚える。そのうえ身体が鉛のように重い。考えてみれば当然のことだ。ジャンは船の木片ひとつ抱え、おそらく何十時間と海を漂流していたのだから。
崖から海を見下ろす。この高さなら即死だろうか、それともうまく死ねずに溺死、はたまた鮫の餌にでもなるか――はたして、自分が絶対に死ぬと分かっていながら、どれだけ生き続けなければならない? 想像してみて、ジャンは背筋を凍らせた。
単なる意地でそれほどの苦痛を味わうのは、割に合わないどころの話ではない。よって身を投げるのは冷静ではない、と結論づけたジャンは、次に巣の探索をした。とはいえ、一周に一分もかからない非常に小さな島だ。できることなどほとんどない。
「何が、どうぞごゆっくりだ……」
延々と悪態をつきたくなるが、今はほんの少しの気力も惜しい。二言三言吐き捨てた後、彼は黙った。
巣という割に、島にはほとんど何もなかった。彼女がどこかから集めてきたのであろう数十本の枝がまとめて置いてあるくらいで、島自体には一本の木すら生えていない。そもそも植物自体ほとんどなく、苔がいくらかむしているくらいだ。
しばらくの間ジャンはじっと苔を見つめた。彼はこれまでの人生で、苔を食べるような空腹状態に陥ったことはない。中々手が伸びなかった。
ひたすら苔と睨み合っている内に、いつの間にか空が赤く染まっていた。まぶたが重い。今までしっかりと起きていたかも定かではない。ジャンは早くも限界が近いことを思い知った。
そんなとき、背後からまたあの音がした。海賊旗のはためく音――いや、セイレーンが羽ばたく音。二度目だというのに、彼はまたもや少し期待してしまう。
激しい自己嫌悪を味わいながら、彼は半ばヤケになって苔を毟り取った。そのまま口に押し込む。渇いた口に、乾いた苔と土が入る。これは鉄錆の粉か何かか、と錯覚するような味がした。
つまり、およそ人の食べるものではなかった。当然、そんなものを飲み込めるわけもない。しかし吐き出そうと喘ぐも、苔と土は口の中にまとわりついて離れない。そのくせ涙ばかりが出てくる身体の構造の理不尽を呪った。
「何を、やってるんですか。あなたは」
先ほどよりもだいぶ憐憫の色が強い呆れ声で、セイレーンが言った。
「うるせえよ……お前の願いなんて聞かねえ。このまま死ぬのもごめんだ。憐れむなら勝手に憐れめ。俺は生き延びるぞ」
「分かりました。分かりましたから、せめて水でも飲んでください。見るに堪えません」
水という単語に反応して、ジャンは露骨に振り返った。
見ると、セイレーンの足元には二つの桶が置いてあった。ジャンの座っている位置からでは中がよく見えなかったが、時々ちゃぷんと水音がすることから魚を取ってきたのだと分かる。
「待っててください。水を作りますから」
「は……? 水を作るって、どうやって」
「セイレーンは、水の魔法が得意でして」
それだけ言うと彼女は、不思議な言葉を呟き始めた。ジャンには、聞いたことがない言語、というくらいしか分からない。歌っているわけではないのだが、何となく歌を聴いているような気になってくる。歌うためにあるかのような、よく通る澄んだ声をしていた。
しばらくすると、おもむろに桶の中が淡い青色に光り始め、ジャンは息を呑んだ。彼はこれまで数えるほどしか魔法を見たことがない。彼にはその光景が、少しだけ全身の渇望を忘れられるほど美しく映った。
ものの数秒で光は止んだ。それと同時に、セイレーンが息をついた。
「さ、できました。真水です。久しぶりにこの魔法使ったので、少しだけしょっぱいかもしれませんが」
セイレーンは器用に翼を使ってジャンの方へ桶を動かした。その桶には魚は入っていない。海から取ってきたとは思えないほど透き通った水だけがあった。
彼は少しだけためらったが、もはや意地で本能を止められるほどの余裕は残っていなかった。桶を直接持ち上げ、がぶがぶと一気に喉へ流し込む。その水は、すんなりと彼の身体に染みわたった。正真正銘の真水だった。
半分ほど飲んだところでぶはっと息をつき、そして思い切りむせた。溺れてるみたい、という呟きが聞こえたが無視した。
「本当に、海水を真水に変えたのか」
「ええ。私自身は海水だけでも生きていけますが、真水は何かと入り用ですので」
「そりゃそうだろう。そんな魔法があればそれだけで一財産築けるぞ」
「そうなんですか? まあ、築くつもりはありませんけれど」
セイレーンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
日が落ちきる頃、セイレーンは火をくべ始めた。翼をほとんど人間の手のように扱い、器用にも火打石で発火するものだから、ジャンは流し目で見つつ静かに驚いた。さらに意外なことには、
「それ、魔法具か……?」
「? ええ。炎印石です。湿気の多い日でも発火できるので重宝していますよ」
「……魔法具は街で少量しか出回ってないような貴重品だぞ。持ってるのは金持ちか軍隊か俺たち海賊くらいだ。どうしてお前が持ってる」
「ひねくれた想像をしていませんか? これはれっきとした貰い物です。妹からの」
彼女は石を素早く腰の袋にしまうと、今度は枝に魚を刺して焼き始めた。
「妹? お前みたいなセイレーンがまだいるのかよ。……もしかして、そいつが俺たちの船を沈めたのか?」
「まだ言いますか。だいたい、それはあり得ませんよ。妹はセイレーンではないので。彼女は陸で平穏に暮らしています」
「……そうかよ」
何を残念がっているのか、とジャンは自身の未練たらしさに呆れた。彼女も言っていた。彼も分かっているつもりだった。覆船陸に帰らず。今さらどうしようもない。
魚の焼ける匂いが漂ってくるので、ジャンはセイレーンから距離をとった。崖に足をぶら下げて、暗くぼやけた水平線をじっと眺めてみる。
「分かってると思いますけれど、この辺りはまともな船なんて通りませんよ。私の友人の船か、幽霊船か、どちらかです。どちらにしてもあなたは乗れません」
「そんな船に乗るなんぞこちらから願い下げだ……幽霊船?」
唐突に与太話では定番の単語が飛び出し、ジャンは動揺した。彼女のさも当然のことのような口ぶりから、嘘をついているとは思えない。とはいえ、それですんなりと信じられるほど彼は純粋ではない。
「幽霊船がどうかしましたか?」
「幽霊船ってお前……冗談のつもりか?」
「この海で活動している海賊なのに、幽霊船も見たことがないのですか? ああ、でも確かに、あなたは新参者のようではありますね」
「いや新参とか古参とかじゃないだろ! そもそも幽霊が船を操縦できるわけないだろうが!」
「骨だけ残っていれば十分でしょう? だいたい、できるわけないといっても、実際問題として操縦できています」
「なんだその理屈……え、その、本当に幽霊船って、あるのか?」
「ですから、そうだと言ってます」
「そ、……そうか。じゃあ、そこに眠る秘宝の伝説も――」
声に熱がこもってきたところで、ジャンは我に返った。
なぜセイレーンなんかと幽霊船の話で盛り上がらなければならないのか。
「いや、なんでもない」
乗り出していた身体を、再び崖の際へと追いやる。
「夢を求めて海賊に?」
「……そんなところだ」
そうですか、と短い相槌の後、ぱりぱりとかじる音が聞こえ始めた。余計に腹が減る。しかし耳を塞ぐのもどこか間抜けだ。結局、極力意識しないように寝ることしかジャンにはできなかった。
* * *
二日目が始まった。何の二日目だ、とジャンは自問してみたが、すぐに考えるのをやめた。そんなことに気力を使う余裕はない。
彼が目を覚ましたとき、セイレーンの姿はなかった。島に残っているのは、桶と枝と苔のみ。ひとまず、まだ桶の中に残っている水を少しだけ飲む。彼女の情けに甘んじるのは屈辱だったが、しかしこの状況で目の前に水があって飲まないなどとは言えない。この水の張った桶に自ら顔を突っ込んで窒息死などできないのと同じだ。
一人になると、これからどうすべきか考えてしまう。いや、本来であれば考えるべきなのかもしれない。しかし彼は、昨日の段階で考えることに嫌気が差していた。どのように思考を巡らしても、行き着く先は死しかない。水を与えられても、血迷って苔を貪っても、何かが変わるわけではない。結局は死の先送りにすぎない。
そう考えると、この水を飲むのも億劫になってくる。とはいえ、彼は自分でも分かっていた。喉が限界まで渇いたらどうせ飲む。腹が限界まで空いたら苔だってどうせ食べる。あるいはセイレーンを殺してでも食べる。自分の生が無意味になったとしても、人は必死に生き延びようとする。死への恐怖は、それほどまでに抗いがたい。
ただし、死への恐怖が打ち負かされることもあるにはある。その最たる代表例は、自分が自分でなくなってしまう恐怖、あるいは自分が人でなくなってしまう恐怖である。
ジャンはいざとなれば、自分に情けをかけたセイレーンを殺して食べることもいとわないだろう。偶然ここに、見知らぬもう一人の漂流者がいたならば、その人も食べるかもしれない。しかし、彼は自分の仲間を食べることまではできない。それをしてしまえば、彼は自分を失ってしまうからだ。
要するに、そういうことなのである。先ほどからずっと彼の脳裏をちらちらと掠めているもの。「セイレーンの歌を聴く」という選択肢。それをどうしても選べない理由は。
元々は港町に住んでいたジャンは、幼少期から散々に彼女の恐怖を刷り込まれてきた。何度も親から聞かされた、おぞましき魔物セイレーンの悪行。数年に一度は耳にする、誰それの乗る船がセイレーンに沈められたという話。海賊になってからも同じようなものだ。あの陽気なキャプテンも、優しい兄貴分も、セイレーンの名を出すと途端に怒り怯えだす。
ましてや、セイレーンはその大切な仲間たちを殺した張本人だ。その願いを叶えるなどというのは、仲間たちへの裏切りになる。
彼女は否定したが、彼にとって彼女の歌を聴くことは、まさに悪魔に魂を売るも同然なのである。
* * *
ジャンは島の真ん中に座り、じっと海を見張った。奇跡的に、命知らずか物知らずの船が迷い込んできてはくれないか。しかし、無慈悲にもただ時だけが過ぎていき、やがてセイレーンが戻ってくる。
「ずっとそうやっていたんですか?」
「ああ」
「まともな船なんて通らないと言っているのに……そうやって精気もなく海を眺めていると、幽霊船に魅入られますよ」
セイレーンは淡々と焚き火用の木を組みながら言った。
「誰のせいで精気が抜けたと思ってる?」
「私はあなたを助けたんですが」
「人間を食料も何もない絶海の孤島に連れ去るのは助けるって言わねえんだよ」
「う」
無気力ながら痛いところを突いたようで、彼女の翼の動きが止まる。ジャンは初めて彼女のまともな苦い顔を見た。
「だって……」
セイレーンが顔をうつむけて呟く。
「だって、考えてなかったんです。考えられる最大限の好条件を提示したのに、まさか拒絶されるなんて。私の歌が、そこまで忌み嫌われているなんて」
あまりにも急にしゅんとするものだから、ジャンの方が少し戸惑ってしまう。しかし彼はすぐ、ここが好機とばかりに彼女を責め立てることにした。
「当たり前だろうが。お前の歌でどれだけの人間が苦しんだと思ってる? そんな歌がほんの少しでも好かれると思ったか? お前たち魔物には想像力ってものがないのかよ」
「はい……そうですね。確かに、そうです。私の想像力が足りませんでした。楽観が過ぎました」
セイレーンは気が動転しているのか、さっきから木を組んだり解体したりを繰り返している。そのうじうじとした姿を見て、なぜかジャンは余計に苛立った。
「お前は人類共通の敵だ。気まぐれに船を沈めて人間を殺し、そのことを気にも留めない。挙句の果てには瀕死の俺を弄んでおきながら、いいことをした気になってやがる! 畜生ふざけやがって!」
苛立ち叫ぶ声がさらに苛立ちを加速させ、舌の回りは早まり、全身が熱を帯びていく。頭に血が上り、腹の感覚がなくなる。
「お前が死ねよっ! なんでテメエみてえな悪魔が地上にのさばってやがる! ここは俺たちの世界だ、俺たちの海なんだっ、テメエは地獄に落ちろっ!」
息が切れ、頭が痺れる。気づけばセイレーンは翼で耳を隠すようにしてうずくまっていた。その姿を見て、何をむきになっていたんだと自己嫌悪する。
そのとき、突然彼女の姿が、ぐらりと歪んだ。なんだ、と思う間に視界は霞み狭くなっていく。そしてついには何も見えなくなった。
そのまま、彼は倒れた。