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恐ろしき海の魔物

 ヨーホー 声出せ 俺たちだけの唄

 ヨーホー 教えてやれ 海賊が来る

 ヨーホー 帆張り旗揚げ 壊して奪う

 ヨーホー 声出せ 俺たちだけの唄

 ヨーホー ヨーホー …………



                  * * *



 ジャンが目を覚ますと、燦然と輝く太陽が彼の目を焼いた。甲板の上で寝ていたのだな、と彼は思った。しかしすぐに気づく。あの慣れ親しんだ船の揺れがない。ここは陸だ。陸に上がった記憶はない、これは夢か。とにかく起き上がってみると、目の前には海が広がっていた。人気がないところを見ると港ではない。だとすると海の見える丘か何かで昼寝をしていたのか。どうにも記憶がはっきりしない。だが酒を飲んだわけでもなさそうだ。

 ふらつく頭を抱えつつ、彼はあたりを見回した。仲間に聞けば何か分かるかもしれない。しかし、不思議なことにどこを見渡しても海がある。と、いうことは、つまり、なんだ?


 次の瞬間、ジャンの顔はさっと青くなった。

 絶海の孤島。

 その世にも恐ろしい単語が脳裏をよぎり、ジャンはばっと立ち上がり走り出した。端から端まで一分もあればたどり着いてしまう、小さな小さな島。そのうえどこも四方全て断崖絶壁。落ちれば命があるかは怪しい。地面には苔がむすばかりで食料になりそうなものは何もない。

 ジャンは愕然として崩れ落ちた。生き残れるか分からないどころか、今、生きているとさえいえない状況にあるのだ。これでは地獄の門への順番待ちにすぎない。

 なぜ、こんなことに。記憶は相変わらず混濁していて答えを示さない。今さらどうあがいたところで彼の絶望的状況が覆ることなどないと分かっていても、彼は原因を求めた。なんでもいい、手がかりになるものはないかと地面を見て回った。

 そのとき、ジャンの上空でかすかに音がした。彼はその音を意識するより前に心臓が高鳴った。

 これは、あの誇らしき音――我らが海賊旗(ジョリー・ロジャー)のはためく音だ! ジャンは反射的に、期待をもって上を見上げた。


「――あら、気がつかれましたか」

 しかし、ジャンが見たのは、それとは全く異なるものだった。

 最初、彼にはそれが鳥に見えた。大きな翼と鉤爪。しかし鳥は物を言わない。しかもそれは、ジャンの目の前に降り立ちながら、彼とほぼ同じ目線で彼の顔を見つめてくるのだ。

「ふむ」

 それは不思議そうに首を傾げた。

「あなたも海賊ならば、私を見るなり負の感情を露わにしてもおかしくないと思っていましたが」

 言われて、ジャンは自分が笑顔のまま固まっていることに気づいた。慌てて飛びずさり、海賊然とした表情に戻す。そしてすかさず腰に差している銃を引き抜いた。

 ハルピュイアは、人間の女性を手足だけ鳥にしたような姿の魔物だ。人間に友好的な者が多く、彼も街中で何度か見かけたことはある。しかし、街以外で出会った場合は九分九厘ごろつきの類である。

 力は人間と大して変わらないが、その鷲より大きな鉤爪には注意しなければならない。ジャンが兄貴分から教わったことだ。

「お前は何だ。いや、そんなことはどうでもいい。この状況について知っているなら、全部洗いざらい教えろ」

 何にせよ、銃を持ってさえいれば恐れることはない、とも。

 しかし彼の予想に反して、それは柔らかに笑った。

「それ、先ほどまでどっぷりと海水に浸かっていましたけれど。使い物になりますか?」

「……っ!」

 構えつつも、ジャンの目は明らかに揺れた。言われて初めて、銃が湿ってしまっていることに気付いたのもそうだが、動揺した根本の理由はそれではない。

 普通の人間なら銃を突き付けられたというだけで激しく怯え泣きつくものだ。特に魔物は、人間の道具を恐れる。それは銃という武器を知らないからだ。

 だが、今目の前に立つこの魔物は違う。明らかに銃の仕組みを知っている。銃が湿っていては点火できないという、当たり前の真実を。

「私にとっても銃は厄介ですからね。詳しくもなります」

 それはあっさりと距離を詰めると、再び彼の顔をじっと見つめた。

「そろそろ思い出しました?」

 何を、と聞こうとしたところで、ジャンの脳裏でいくつかの事実が繋がった。絶海の孤島に取り残された自分。すっかり湿った銃。目の前にいるハルピュイア。

 次の瞬間彼の目からは動揺が消え、明確な憎悪が宿った。

「お前……ただのハルピュイアじゃないな」

 そう言って睨みつけると、彼女はわずかにたじろいで困ったような顔をした。

「確かにそう、なんですけど、今思い出してほしいのはそういうことではなく」

「知ったことか!」

 今度はナイフを取り出し、目の前の怪物に向ける。

「お前が俺たちの船を沈めたんだろう! 刺し違えてでも殺してやる!」



 その名を聞けばどんな温厚な水夫も機嫌を悪くし、その姿を見ればどんな悪名高き海賊も震えて逃げ出す。誰ということもなく、海ではよく語られる決まり文句だ。

 ――セイレーン。

 海で最も恐れられるその名を、誰も安易には口にしない。

 その魔物は一見、海にたゆたうだけの普通のハルピュイアである。しかしその歌声には、強烈な魅了魔法(チャーム)が込められている。その声をかすかにでも聞いてしまえば正気を失い、彼女のもとへ行こうと海へ身を投じてしまう。また、セイレーンはそのようにして無人となった船を転覆させて遊ぶのだという。


「だから。それは勘違いですよ。私はあなた方の船を沈めてなどいません」

「嘘つけ。だったら、俺たちの船がどうやって沈むっていうんだ?」

「さあ、そこまでは。私は、あなたが運よくも木片を抱えてこちらへ漂流してきたので助けただけです」

 そのことばを聞いたジャンの記憶の隅に、引っかかるものがあった。見たこともない巨大な波。大破する船。必死に木片にしがみつく自分。――仲間の絶叫。

「……いや、やはり嘘だな。思い出した。大嵐の夜だった。仲間が叫んだんだ。……『セイレーンだ! 耳を塞げ!』ってな。それも一人じゃない、何人も口を揃えてだ。それがすべて見間違いだっていうのかよ?」

「ええ、そうでしょうね」

 即答され、ジャンは絶句した。思わずナイフを落としそうになり、握り直す。

「珍しいことではないですよ。そういう、複数人が同じ幻覚を見るということは。人は見たくないものを見たがりますから」

「ばっ、バカ言え! 信じられるかそんな話!」

「信じていただかなくても結構です。ただ、誰のせいにしようとあなたの船が沈んだ事実は覆りませんよ」

 返す言葉がなかった。

 船はどこにも見当たらないが、彼の記憶からも、船が沈んだのは確かに事実といっていい。そうであれば、今さら騒いだところで虚しくなるだけだ。ジャンは重力に任せるまま、どさりと腰を下ろした。

「……で、なんだ、お前は俺をどうする気だ。わざわざ助けたってことは、取って食うわけじゃないんだろう」

「あら、意外にも話が早いですね。そうです、あなたにお願いがあるんですよ」

「お願いぃ?」

 ジャンは思わず素っ頓狂な声を上げた。彼が想像していたのは、闇の契約をせよと迫ってくるだとか、人間を狩るのに協力しろだとか、そういう類の脅迫だ。完全に予想外な言葉が出てきて唖然としている彼に構わず、セイレーンもまた彼の前に座る。

「ええと、何から話しましょうか。まず、あなたのお名前は」

「なんでお前に俺の名を言わなきゃいけないんだ」

「そんな、騎士じゃないんですから。呼ぶときに不便ですし」

「待て、待てよ。そもそもだ、俺はお前と慣れ合う気はないし、お前のお願いとやらを聞いてやる義理もねえ」

「義理って、私あなたのことを助けたじゃありませんか」

 ジャンは言葉に詰まりかけたものの、すぐに自分の言ったことを思い出した。

「沈めたのもお前なんだろ、自作自演だろうが!」

「だから違うって言ってるのに。じゃあ、いいです。無理にでも聞いてもらいますから」

 おもむろにセイレーンが立ち上がるのを見てジャンは身構えたが、立ち上がる気にまではならなかった。彼は、自分で思っている以上に疲弊していた。

 セイレーンが彼を見下ろす形となる。

「今、あなたの運命は私に委ねられています」

「……どういうことだよ?」

「分かるでしょう。この場所……私の巣は四方が断崖絶壁。魚一匹釣ることはできません。あなたが陸へ生きて帰るには、私に頼るしかないんです」

「それが、どうした」

 ジャンはつい意固地に返したが、混乱している頭でもそれが意味するところは充分に理解できていた。彼女があえて「運命」という言葉を用いた意味も。

 今の発言から察するに、彼女は自分の言うことを聞けばジャンを陸地まで運んでやると言いたいのだろう。一方で、彼女から差し伸べられた手を拒むならば、彼は苦渋の二択を強いられることになる。

 誰もが恐れるセイレーンの巣に近づく物好きの船をひたすら待つか、飢えるより先に海へ身を投げ出すか、の二択だ。彼女は今、ジャンにとって心臓以上に重大なものを握りしめている。

「震えてますよ」

 彼女から指摘される。震えを抑えようとしてはみるものの、一向に収まる気配はない。口だけが虚勢を張れる。

「俺たちは……確かに神をも恐れぬ海賊だ。だがな、悪魔に魂売るほど堕ちちゃいねえんだ!」

 ジャンは、ここまで啖呵を切った以上彼女も何かしらの反応を示すだろうと考えた。「なぜ言うことを聞かないのだ」と悔しがるか、「愚かな奴だ」と蔑んでくるか。何にせよ自分の思い通りにいかない以上苦い顔をするに違いない、と。幼稚だとは自覚していたが、さっきから飄々としている彼女に一矢報いてやりたいという気持ちがあった。

「あのですねえ……」

 しかし彼の予想とは違い、セイレーンは呆れ顔だった。それも彼を小馬鹿にするような。

「どうして私の言うことを聞いてくれないんでしょう……本当に人間というのは愚かです」

 苦い顔には違いない。予想した言葉も出てきた。だが、何かニュアンスが違う気がする。ジャンの心は依然として晴れない。

「だいたい何ですかその、悪魔に魂を売るとかいう荒唐無稽なセリフは。それも海賊の口上のひとつですか? 私は、悪魔でもないし、魂もいりません。お願いだって言っています」

「ぬ、ぐ」

 最初は「言ってやった」とひそかに得意げだったジャンだが、改めて指摘されると急に恥ずかしくなってくる。

「とにかく、あなたに何の負担も課す気はないので、お願いの内容だけでも聞いてくれませんか? それによって私が今から取ってくる魚の数が変わってしまいますので」

「ぐ……いいだろう。聞いてやる」

 決して俺は、食い物に釣られたのではない。これ以上話していても堂々巡りだから、やむなく話を進めるだけだ。ジャンは何度も自分に言い聞かせたが、腹の音ばかりが虚しく耳に入ってきた。



「単刀直入に言います。私の歌を聴いてください」

 ジャンはまたもや絶句した。

「五日間。一日一回、計五回。それが終わればあなたを陸へとお送りしましょう。希望があればある程度遠くでも構いません。どうです? 悪くない条件だと――」

「ふざけるなっ!」

 ジャンの怒声を予想だにしていなかったらしく、セイレーンは無表情ながらビクッと身体を揺らした。

「どうしてですか? あなたは私の歌を聴くだけ、本当にそれだけです。何も過酷なことを強いるつもりはありません」

「お前の歌を聴く? 冗談じゃない! その歌で何人の海賊が、仲間が犠牲になったと思ってる! のうのうとお前の歌を聴くぐらいなら、死んだ方がマシだ!」

「ですから、他の海賊はともかく、あなたの仲間はおそらく私が原因では――いえ、あなたの中ではそうでしたね」

 彼女は大きくため息をつき、項垂れた。また愚かだの何だのと馬鹿にしてくるのだろう、とジャンは身構えたが、

「ごめんなさい、無神経でした。そんな歌は、確かに聴きたくありませんね」

 次に彼女の口から出てきたのは謝罪の言葉だった。

「魚を取ってきます。お願いを聞いてもらえなかった以上、あなたの分を取ってくることはできませんが、私の巣で何をするのも自由です。どうぞごゆっくり」

 ジャンは何かを逡巡したが、答えが出る前に彼女は飛び立ってしまった。





 絶海の孤島で、彼は再び一人になった。

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