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焼きいもうと外伝 にわか雀狂どもの宴

作者: 進藤伐斗

「ロン!」

 上家(カミチャ)、即ち左隣の克君の捨て牌を見て俺は自分の手を倒した。

「千三百点だよ」

 俺が点数を告げると

「なんだ、安くて助かった」

 ホッとしたように丸顔で童顔の克君は俺に点棒を払った。麻雀の点数は最低が千点だから確かに安い。

「井本君、渋いなあ」

「圭兄さん、上手いね」

 所長の息子の正樹さんが眼鏡を直しながら俺を苗字で呼び、茶髪で少し長髪の岸田さんが下の名前に『兄さん』を付けて呼ぶが……その『兄さん』には少し嫌な響きを感じた。ちょっと心配事が想起されたのだった。


 日曜日の夕方から、報読新聞金平町店の奥の部屋で俺達は麻雀を打っている。一応は電話番も兼ねているが、日曜は夕刊も無いしこの時間にかかってくる電話は少ない。因みにこの店に置かれている電話はどこから調達して来たのか知らないが、公衆電話のように十円玉や百円玉を入れないとかけられない仕様になっている。以前にただでかけられるからと無遠慮に使用する輩がいたためにこのような措置を取ったのだとか。

 ゲーム好きな連中が多いが、ここ最近はこのメンツで卓を囲む事が多い。ちょっとした麻雀ブームだが、打てるメンバーは限られている。少し離れた所でTVを観ている長身ですっきりした顔立ちの押本君も麻雀は打てず、時々こちらの様子を覗いて話しかけてくる。

「井本君が勝ってるの?」

「ちょい浮きだけどね」

 千点十円のレートでつまりハコが割れても三百円、ご祝儀もウマも無しで大して金額は動かない。さっきの千三百点だと十円にしかならない、気楽な麻雀だ。克君と岸田さんはほとんど初心者同然で時々チョンボも出るレベル、正樹さんが少し分かってる程度。点数計算は俺が全てやっている。正樹さんがいる以上は点数を誤魔化す事は出来ないし、もとよりそんなインチキをする気もない。俺としては皆にもっとしっかりと麻雀を覚えてもらいたいと思っているのだが――

「押本君も麻雀やろうよ。脱衣麻雀をやれば覚えられるよ」

 克君が口を開いた。君もちゃんと覚えてくれよな、という言葉を俺は飲み込んだ。

 麻雀は他のボードゲームと比べるとルールが複雑で覚える事が多い。マスターするにはそれなりの労力と時間が必要だ。だけど全てを覚えなくても一人がしっかりと把握していれば何とか遊べるし、運の要素もある上に四人で打つので下手な人が上手い人に勝てる事もある。克君としては自分よりも未熟な覚えたての仲間が増える事を望んでいるのだろう。

「んー、考えとくよ」

 そう答えて押本君はまたTVの方へ顔を向けた。

「おう、考えておいてくれよ」

 克君はそう言うと鼻歌を歌い始めた。

「♪ 夢中にな~れ~る~ ネトゲが~ い~つ~か~君を すげえ 課金野郎にするんだ」

 ドラゴンボールの替え歌だろうか。上機嫌な様子である。


 半荘(ハンチャン=一ゲーム)が終了して精算を済ませて次の半荘を始めようという時に、店の玄関の扉が開く音がした。さして気にもとめず俺は山積みをしてサイコロを振った。起家(チーチャ)、即ち始まりの親は岸田さんになった。配牌(ハイパイ)が済んでさあ自分の手牌を見ようかという所で

「あ、お兄ちゃん。麻雀やってるの?」

 能天気な声に、俺は口にしていたお茶を吹き出しそうになった。

「ま、舞……?」

 振り返ってみると、そこには紛うことなき我が妹の舞がやや小柄ながら健康そうな体を佇ませていた。

「おー、舞ちゃん。君も麻雀出来るの?」

 岸田さんが舞に声をかける。

「いいえ、ドンジャラならやった事ありますけど」

 全く悪びれずににっこりと笑って舞が答える。肩まで伸びた程度の長さのやや雑な髪型のてっぺんから左右に跳ねたアホ毛が俺の不安を誘う。

「それなら立派なもんだよ。今度一緒に打とう」

「……どこが立派なんですか……」

 俺は頭を押さえた。心配のタネが現れた。四つ違いの俺の妹・舞は中学を卒業したばかりで、本来なら高校に通っている筈なのだが、事情によってここで働いている。他にも選択肢はあっただろうに、どういう因果か兄の俺を頼って、親元を離れてこの新聞販売店にやって来た。そのために平穏だった俺の生活は一転様変わりして心配にまみれる事となったのだ。


「そうだ次の半荘、賭ける趣向を変えよう」

 正樹さんが言い出した。

「トップを取ったら、舞ちゃんとデートする」

「おお、それいいね」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さいよ」

 俺は大慌てで口を挟んだ。

「何なんですか、それは? 勝手にそんな事決めないで下さいよ。冗談じゃないですよ!」

「何をそんなに声を荒らげてるんだい? 大袈裟だなあ、井本君も。ただの純粋なデートだよ。皆、食事も奢ってあげると言ってるし」

 うん、うん、と克君と岸田さんが同調して頷いている。

「本当ですかあ」

 コラっ! 目をクリクリさせながら反応する妹の無警戒な声を、俺は叱責した。ただより高い物はない。

 俺は基本的にここの人間を信用していない。気の良い連中ではあるが、流れ者やルーズな奴が多い。岸田さんなんかは、以前に住んでいたアパートで家賃滞納のために大家さんから部屋のドアノブを外されたそうだ。そのノブの無いドアを開けるコツを見付けて出入りしていたらしいけど。結局は滞納したまま逃げて来て、今ここで働いている。

 正樹さんは一番身元もしっかりしていて紳士だと思ってたんだが、その正樹さんにこんな意地悪をされるとは……ちょっと真意を測りかねる。

「そもそも俺がトップを取ってもメリットがないじゃないですか。不公平ですよ」

「何言ってるんだよ、井本君。君も舞ちゃんとデートしたがってたじゃないか」

「そうなの、お兄ちゃん?」

「嘘だっ!」

 あー、わかったわかった、と正樹さんはかぶりを振る。

「それじゃ、井本君がトップなら五千円、俺が出す。他の三人はデートという事で、いいな?」

「よくないですよ。何度言ったら……」

『タンッ』

 音のした麻雀卓を見ると、親の岸田さんが第一打の西(シャー)を切っていた。

「圭君、舞ちゃん。もう遅いよ。始まってしまったからね」

 ふっふっふっ、と不気味な笑い声を発しながらどこかの漫画のような台詞を岸田さんが口にした。

「そうだ、もう止められないよ」

 克君も同調した。

 どうにも覆し難い雰囲気だ。どうしたものかと額に手を当てて頭を悩ませながら、ふと自分の手牌を覗いてみた。

「……」

 さっと目線を上方に戻し、正樹さんの顔を見やった。

「この半荘一回きりですよ。あとは通常通りの麻雀に戻すという事で、いいですね?」

「おー、ようやく分かってくれたか。それじゃあ再開だ」

 大丈夫だ、手牌を見た事はバレてない。胸の高鳴りを感じながら、俺は改めて自分の手を確認した。いきなりデカい手が来ている……! 断公九(タンヤオ)・平和(ピンフ)・ドラ三のイーシャンテン。深呼吸して第一ツモを引く……来たっ、テンパッた!

 しかし三色への手変わりがある。そうなれば倍満の一万六千点で、この半荘はほぼ決まる。このまま一巡目によるダブルリーチをかけても跳満の一万二千点は確定でそれでも勝てるとは思うが、倍満の方がいい。それに流石にダブリーをかけては、手を見たから勝負を受けたんだと非難を浴びそうだ。(倍満をアガってもそうなるかも知れないが)

 とにかく様子見のためにリーチはかけずに安全牌の西を切る。上家の克君、第一ツモの後しばらく手牌を眺め、西を切る。対面の正樹さん、「しゃーねえなあ」と言いながら西を切る。……俺はしばらく卓に顔を突っ伏した。


「ん、どうした?」

「こういうのってどうなるの?」

 真っ暗な視界の中、全てを忘れてしまいたいと現実逃避をしている最中に正樹さんと岸田さんの声が耳に響いてきた。

 ……いつまでも落ち込んでいる訳にはいかない。ああ、それにしても手牌に目惚れて、俺は何という過ちを犯してしまったのだ。

「四風連打(スーフーレンダ)。この局は流れて、やり直し。一本場」

 顔を上げて体裁を整えるべく、いつもの解説役に戻る。牌山を崩して皆再びジャラジャラと牌をかき混ぜる。

 いかんいかん、何としても妹を守らねば。気楽なはずの麻雀が一転して修羅場と化してしまったが、冷静に状況を考えてみる。役もキチンと覚えていないような克君と岸田さんに負ける気はない。敵は正樹さん一人と考えていいだろう。だが俺の方が総合的に麻雀を知っているし、実際に俺の方がだいぶ勝ち越している。とは言え絶対に勝てるとは限らない。克君や岸田さんにしたって、こちらが運が悪くて向こうが調子良ければいくらでも負ける可能性はある。それが麻雀というものだ。

「……とにかく気を引き締めて、慎重に行こう……」

 小声で自分にそう言い聞かせた。


「克君は二次元専門じゃないの?」

 牌を切りながら訊ねてみる。

「んー、まあ別にいいじゃん。三次元の女の子とデートして、それをゲームの攻略に活かせば」

 おいおい、なんだよそりゃ。思わず脱力しかけた。だけどこの男とのデートなら安全かも? という考えも浮かんだ。いや、待てよ。家庭用ゲーム機専門だった彼だが最近中古でパソコンを購入したと誰かが言ってたような……?

「どんなゲームやるんだっけ?」

「中古で安いのを探してやってるけど。結構昔のが多いかな。『臭作』『鬼畜王ランス』『裏生徒会よ、肛門を制圧せよ!』……」

 ……やっぱり克君にも勝たせる訳にはいかないな。

 そうこうしているうちに巡目は進み、当たり牌が克君から出た。

「ロン、二千三百点」

「あちゃー」


「岸田さんは彼女いるんじゃなかったですか?」

「ああ、あれは彼女とは言わない。『財布』と言うんだ」

 ……やっぱり駄目だ。この男には勝たせられない。

「正樹さんは彼女いなかったですか?」

「前はいたけど、今はいないよ。まあ次に付き合う相手とは結婚を考えなきゃ、と思ってる」

 正樹さんの奥さんなら、それはそんなに悪くない話ではないのか? いやいや

、デキる男は本気と遊びをキチンと分けているという。時期がどうこうではなく、妹がどうおメガネにかなうかという問題だ。見てくれはともかく精神的にまだ幼い。俺の目から見てとても正妻に選ばれる自信はない……。そんな事を考えていると、待っていた牌が来た。

「ツモ、千点オール」


 東場(トンバ)が進んで折り返し、南場(ナンバ)に入った。現在トップ目で、二位の正樹さんとは満貫一回分くらいの差をつけている。セーフティーリードとまではいかないが概ね順調で、好感触を得ていた。

 いける、と感じた。このままの流れで行けば勝てるはずだ。

『ジリリリリリリリリ……』

 突然電話が鳴った。手の空いている押本君が受話器を取る。

「……はい報読新聞です。そうです。はい。ああ、申し訳ありません。直ぐにお持ちします。ご住所をお願いします……中野台五丁目……」

 中野台五丁目と言ったな? 嫌な予感はしたが余計な情報は排除して、目の前の闘牌に神経を集中するべく俺は真っ直ぐに卓上を見詰め続けた。

 だが押本君はノートに必要事項を書き込んだ後、『ガチャン』と受話器を置いてこちらの方を向き、無情にも事実を告げた。

「五区、不着!」

「……!」

 不着とは着いてない・届いていない、という意味。ポストを見ても新聞が入っていなかった、配るべき新聞を配っていなかった、という事だ。お客さんからそのように連絡を受けたら、速やかに届けなければいけない。そして今朝五区を配達したのは……俺だった。

「井本くううん。たしか五区を配ったのは君だったよねえ?」

 正樹さんが妙なアクセントで声を発しながら俺に向かって嬉々とした表情を浮かべている。

「……はい、そうです」

「直ぐに持って行かないといけないよねえ?」

 不気味な笑みをたたえながら語気に力を込めてくる。何がそんなに嬉しいのだろう?

「そうですね。おーい、押本君。代わりに持って行ってくれない?」

「駄目だよ。不着は原則として配った本人が届けるものだよ。分かってるだろ?」

「……」

 俺は固まってしまった。

 確かにその通りで、配った本人がその場にいなければ電話番が代わりに届けるが、本人がいる以上は本人が持って行くのは至極当たり前の事でそれが正論である。

「ああ、別にいいですよ。代わりに届けても」

 そう言う押本君を正樹さんが制した。

「甘やかしちゃいけない。それより君の集金の担当を八区に変更しようという案が出ているんだがね……」

「えっ、そ、それは……」

 集金の業務とは非常に面倒である。数百件の家をくまなく周る必要があり、日にち指定があればその日以降に行かなければならないし、深夜にしか会えない客もいる。滅多に会えない客もいれば、会っても払う気がない輩も存在する。一人のチンピラが、一人の不良読者の存在が、集金をやる人間の気持ちを憂鬱にさせる。そして未回収が多ければ自分の給料にも影響を及ぼすのだ。八区は中でも厄介な区域として従業員の間で嫌われている。

 それにしても正樹さん、こんなキャラだったか? 段々と人が信じられなくなってきた……

「や、やっぱり、井本君が持って行ってくれよな。は、は、ははは……」

 押本君はその長身を横に大きく反らしながら、さっきTVを観ていた席に戻って行った。俺の背中を嫌な汗が流れていくのを感じた。

「それなら、一時中断して……」

「駄目だな。今は真剣勝負の最中だ」

 なんだ、それじゃあ一体どうしろというのだ? 困惑した表情を浮かべる俺に対して正樹さんは言う。

「この真剣勝負にアカの他人の代打ちは認められないが、肉親だったら許そう」

 ん、肉親? それは、まさか……

「直ぐそばにいるだろう。君の掛け替えのない、大事な大事な妹の舞ちゃんが」

 後ろで観戦していた妹に視線を移す。キョトンとした表情を浮かべる舞を見て

「駄目ですよ。舞は麻雀を打てないんだから。話にならないですよ!」

 俺はたまらず叫んでしまった。

「でも、他に方法はない。それとも棄権して負けを認めるかい?」

「あー、お兄ちゃん。ドンジャラだったら……」

「だからっ、ドンジャラと麻雀は違うんだって!」

 気休めのつもりか何なのか分からない妹の言葉に、思わずキレた。……いかん、落ち着かねば。深く呼吸をして、息を整えた。

「……分かった。いいか、舞? 急いで届けて戻って来るから、それまでの間、ただ俺の代わりに座っているんだ。牌を選んで捨てたり、余計な事はしなくていい。何もしないでただ待っているんだ。分かったか?」

 舞の顔をじっと見詰めて言う俺に横槍が飛んで来る。

「おいおい、それじゃあおかしいだろ」

「いや、おかしくはない。そもそも一打に時間制限なんて設けていないはずだ。ルール上は何の問題もない。とにかく、舞。絶対に牌は切るなよ。俺が戻って来るのを待ってるんだぞ」

「う、うん」

 俺は毅然とした態度で正樹さん、岸田さん、克君の三人を順に睨んで、それから再び舞の方へ向き直って念を押した。そして不着した家を確かめ、今日の朝刊を掴んで足早に外へ飛び出した。

「……どうして今朝の新聞が入ってなかった、って今の時間になって電話がかかってくるんですか?」

「それは人それぞれ事情があるから。朝早くか或いは昨日から出掛けていて、さっき帰って来て新聞を読もうとした、とか……」

 後ろの方で舞の質疑が聴こえてくる。妹の成長を祈りながら俺はバイクに差し込んだキーを回す。


「どうもすみませんでした」

 丁寧に頭を下げて新聞を渡した後のバイクでの帰り道、俺は今朝の配達を思い出していた。持って出た部数はちゃんと数えている。たいていは二・三部は余計に持って配達に出る。今朝は三部余る予定で出発して、そして配り終えた時に残ったのは三部だった。

 しかし空家だった家に人が引っ越して来ている気配があったので一部をポストに入れてきた。そうしてサービスをしておき後で営業に行くのが新聞屋の常套手段なのだが、その一部を計算に入れるとその時点で不着は予想出来た。だが勘違いという可能性もあった。結局その時はどこに入れなかったのかが分からずそのまま店に戻ったのだった。

「やっぱり不着だったな」

 そう独り言ちた。不着は気を付けなくてはいけない。今のお客さんはそれ程怒ってはいなかったが、場合によってはそのせいで紙が止まる、即ち契約を切られてお客さんが離れていく原因となる。でもこれでもう不着はないはず、そう思い直して店に戻った。

 ん? ジャラジャラ、という音がする。聞こえるはずのない音が……

 嫌な予感に、息を切らせて卓の置かれた部屋へと戻ると――

「いやー、舞ちゃん惜しかったねえ」

「そうですねえ。もう少しでアガれる所だったんですけどねえ」

「ドンマイ、ドンマイ。これからだよ」

 皆で牌をかき混ぜている。……その様子が目に飛び込んできて俺は額を手で押さえた。どうやら先程の局は終了してゲームは進行しているようだ。何局進んだのかは分からない。点棒状況を確認しなくては。その前に――

「ストップだ、舞。代われ」

「あ、お兄ちゃん。お帰り」

 お帰りじゃないだろ、とにかく代われ、と妹をどけて卓に着く。

「どうして牌を切ったんだ? 何もするなと言ったはずだ」

「あー、あんまり妹さんを責めるなよ。俺達も無理強いしたつもりはないんだけどなあ。まあ色々と麻雀のマナーとか勝負の心構えとかについて話をしたりはしたんだけど。舞ちゃん自身の可能性を否定してもいけない、とか自己啓発についてとかも」

「そうですか……」

 過ぎた事を言っても仕方あるまい。この妹の精神力や会話能力等を考えると丸め込まれてしまうのはむしろ自然な結果と思える。不思議と俺は冷静になれた。

 現在、南三局。順位は二位で一位の正樹さんとは三千六百点差。親はもう過ぎてしまって残り二局。たったの二翻(リャンハン=役が二つ)の手で逆転出来るとは言え、さっきまではトップ目で後は逃げ切るだけという状況だったのだから天地の差とも言える。それに恐らくは妹が代わりに打った事によって、流れそのものが変わってしまっているはずだ。

 だが泣き言を言っても始まらない。地力では俺が一番上なはずなんだ。それを信じて残り二局に挑むよりない。

 配牌を取る。やはり先程までの流れは去ってしまっているようだ。手牌が冷えているような感じがした。だがこれで頑張るしかない。

 第一ツモを山から取ってくる。どうもしっくりこない。手牌から捨てる牌を選択し、切る。数巡繰り返すがテンパイする気配がない。そうしているうちに――

「あっ、これは、リーチだな」

 岸田さんが珍しくリーチをかけた……こんな時に限って。それが麻雀の面白さでもあり怖さでもあるが、この場で俺にとっての悪い目は出ないで欲しいと心底思う……。駄目だ、追いつけない。ベタオリすれば振り込む事はないだろうが、それでは流れがますます遠のくような気がした。ベタオリではなく回し打ちで、何とかギリギリの所で粘る。しかしテンパれない。何とか流れは変わらないものか……

『ジリリリリリリリリ……』

 その時再び電話が鳴った。皆、ビクっとしたようだったが、押本君が有無を言わさずに受話器を取る。

「はい、報読新聞です。はい、はい……」

 沈黙が流れた。

「はい、ああそうですか、申し訳ありません。直ぐにお持ちしますので……ご住所を……二上町二丁目の……」

 二上町二丁目なら三区だ。今朝三区を配ったのは――正樹さんだ。

 よしっ! 不謹慎ながらそう思った。リーチをしているのは岸田さんだが、これで流れは変わるはずだ、そう信じた。

「おい、まじかよ」

 正樹さんが呻いた。

「正樹さん、自分で言った事は守らないと」「そうだよ正樹君、持ってかないとね」

 正樹さんの家族、即ち所長一家はこの近所に住んでいる。しかしこんな用事でわざわざ呼びつける訳にもいくまい。正樹さんが脱落すればかなり大きい。

「はい、はい。ああ、すみません。はい。そのように……」

 それにしても電話はまだ続いていて、押本君がなかなか受話器を置く事が出来ないでいる。

「なんか、えらく謝っているね」

「こりゃあ、止まるかもね」

「……」

 時間が経つにつれて正樹さんが不安を募らせているのが分かる。気の毒ではあるが、俺も自分の妹を守らなければならない。流れの好転の予感に胸を膨らませた。

「正樹さん、三区不着だけど……」

 ようやく押本君が電話を終えて正樹さんの方を向いた。正樹さんの顔面は蒼白になっている。皆が死刑の宣告の瞬間を固唾を飲んで見守る。

「とりあえず新聞は持って来なくてもいいから、集金の時に今日の分引いてくれって……」

「お、おう、そうか……分かった……」

 正樹さんのホッとしている内心が見てとれた。

 ……うーむ、悪運の強い男だ。ゲームは再開された。


 克君が岸田さんの親を安上がりで流して、いよいよ南四局のオーラスを迎えた。

「オーラスか。アガりやめはあるんだよな?」

 とラス親の正樹さん。くそっ、余計な知識を持っていやがる。アガりやめとはオーラストップ目の親がアガった場合に通常なら連チャンでゲーム続行だが、そこで終了して勝ちを確定させる事が出来るというものだ。

 最悪の流れは脱しているような気がするが、まだ何か足りないようにも感じる。何か変化が欲しい……

「それにしても麻雀やってると、煙草吸う量が増えるねえ」

「そうだな」

 煙草をふかしながらの克君の言葉に岸田さんが相槌を打つ。煙草か。俺は吸わないからなあ、と思いながら上着のポケットをさぐってみる。おやっ? アルミホイールの感触がした。直ぐに思い当たる物があった。

 今朝、妹がくれた焼きいもだ。全部食べきれず三分の一くらい残したのを包んで、後で食べようと思ってたのを忘れていた。これだけ頻繁に焼きいもをもらうと、無意識のうちにポケットに入れている事が時たま生じるのだった。

 その焼きいもを口に含む。とっくに冷めているが、そのボリューム感に力を込めて咀嚼を続けるうちに、脳にある種の刺激が与えられたような気がした。下がりがちだった視線が一段上から見下ろせるような感触を得た。

 とにかく腹を決めて、最終局に挑もう。

 オーラスが始まった。


 麻雀とは運によって配牌が与えられ、運によって山からツモ牌を引いてくる。それを手牌からどの牌と取り替えるかを選んで河(ホー)に捨てる、これが自分の判断=実力だ。他人の捨て牌を鳴くかどうかの選択も実力。運と実力を繰り返すゲーム。

 目に見えない所から引いてくる牌をどう予測するか、何に期待するか。全くの運任せにする人もいるし、独特の哲学を持っている人もいる。四人で打つ事によってさらにイレギュラーが生じて、下手な人が上手い人に勝つ事も珍しくなくそこに面白さも存在する。だけどトータルでは上手い方・強い方が勝つと俺は信じている。その場での運の偏りはどうしようもなくこの勝負の行方はどうなるか分からないが、とにかく俺は神経を尖らせ持てる力の全てを振り絞ってこの最終局に挑んだ。

 八巡目、祈りが通じたのかどうか分からないが俺は平和・ドラ一をテンパった。克君や岸田さんからはアガれないが、正樹さんに直撃するかツモれば逆転トップとなる。他の三人にテンパイ気配は感じない。どうにか勝てる状況を作り上げた。ここはダマ(リーチをかけずに黙っている事)だ。いける、あともう少しだ。

『ジリリリリリリリリ……』

 みたび電話の音が鳴り響いた。

 四人の頭が下がった。

 そんな様子を尻目に押本君が電話を取りに向かう。

「皆、不着が多いぞ。気をつけろよな、ったく……」

 正樹さんが叱責を飛ばした。だが内心は自分かも知れないとビクビクしているのが伝わった。

「はい、報読新聞です」

 押本君の声が異様なまでに響くのを感じた。全員の視線が集中した。

「はい、そうです。ああ、そうですか。ご住所を……」

 どこだ? 一体どこなんだ!

 押本君がノートに向けてボールペンを傾ける。

「中野台五丁目の……」

「……!」

 な……まさか……そんな……

「そんな馬鹿な! だって、今朝は一部だけ余って。それがさっきの不着だったはずで、もうあるはずが……」

 心底おかしいと思った。こういう感覚は配達をする者としては確信している事なのだ。

「それがあるんだな」

「だって五区だって、言ってるじゃん」

 克君と岸田さんが半笑いで同調した。

「往生際が悪いぞ、井本君」

 正樹さんも引導を渡すように言い放った。

「はい、では担当の者を向かわせますので……」

「聞いたか、担当者だろ井本君。これは絶対に君が行くしかないようだな」

 ダメを押されたようだ。理屈の上では不着ではなくても、運が悪ければ不着となる事もある。例えば子供がイタズラでどこかにやってしまって見付からず、お客が不着と判断したり。時には酷い話だが、通行人や或いはライバル新聞店の従業員や拡張員(勧誘員)が新聞をポストから抜いて盗むという事が本当にある。或いは今日の新聞ではなく昨日以前の新聞の不着だったりとか。

 恐らくは逃れようがないだろう。無念の表情の俺に舞が両の拳を握りながら陽気な声をかける。

「お兄ちゃん。今度は頑張るからね」

 ……もう駄目だ、終わった。俺はがっくりと肩を落とした。わざわざ担当者を呼び付けるとは、止まる可能性すらありそうだ……。そんな俺に向かって受話器を置いた押本君が正式な通達を行った。

「五区、引越しの即入。契約しに来てくれって」

「へ?」

 引越し? 即入? それはつまり、新しく引越して来たから、新聞を直ぐに入れてくれという事。

「入居ね? ああ、そうか。そうなのか。ハハハハハ」

 不着ではなかった。そうだよな。不着と即入では大違いで、担当者としては嬉しい事この上ない。そうか、今朝見付けた引越しの家がかけてきたんだな。

「そうか、契約はこの半荘が終わったら行くよ」

「ああ、今日はずっと家に居るって言ってたよ」

 すっかり気分が良くなった。体に力が漲ってくるのを感じた。


「ツモ! 七百点・千三百点」

 三巡後にツモ・平和・ドラ一をアガった。二千七百点だが親の正樹さんの払いは千三百点だから差し引き四千点の出入りで、これで辛くも逆転してトップとなった。終わった……僅か半荘一回の麻雀がこれ程長く感じられた事はなかった。

「これで終了か。ええと、何点なんだろ……」「うーんと……」

 点棒の精算を終えて、克君と岸田さんが合計点を数えている。俺としてはとっくに分かり切っている事なのだが、この辺が点棒状況を把握しながら何点の手が必要かを考えながら打っている者と打ってない者の違いだ。正樹さんは黙って数えているが、流石におおよその結果は分かっているだろう。

「うーん、井本君が一位か。やられたな。約束通り、五千円だ」

 正樹さんが自分の財布から五千円札を取り出して気持ち良く払ってくれた。

「……ありがとうございます」

 俺は下向き加減に神妙な顔つきで両手を差し出してそれを受け取った。

「お兄ちゃん、良かったね」

 舞が何事もなかったように笑顔を浮かべている。お前のおかげでえらい目にあったんだがな。とにかく無事で良かったよ。胸をなで下ろしている所へ、

「そうだ、舞ちゃんも麻雀やろうよ。教えるよ」

 克君が言い出した。

「そうですね。面白そう」

「駄目だ」

 疑いもなく応える妹を俺は制した。

「何だよ、硬い事言うなよ。ただ麻雀を打つだけだよ」

「……分かったよ。とにかく舞。賭けるのは絶対に駄目だぞ」

 俺は舞をじっと見詰めて言い聞かせた。

「俺がお前のトレーナーだ。俺が許可するまで絶対に賭けたら駄目だ。分かったな、ドンジャラは賭けてやらなかっただろ?」

「う、うん」

「ドンジャラと麻雀は違うんじゃないのか?」

 横から野次が飛んだ。

「舞の頭がドンジャラだからいいんだ! とにかく俺の目の黒いうちは絶対に許さん」

「あー分かったよ。賭けないから安心しろ。とにかくお前は早く契約に行ってこいよ」

 正樹さんに言われて思い出した。集金カバンに契約カードが入っているのを確認して俺は店を出た。舞が麻雀を覚えるんなら俺が基礎からキチンと教えないとな、思った。連中のやり方だと筋の悪い打ち手になってしまう。というか、本音を言えばあんまり覚えて欲しくはないんだけどな。

 妹を守るために必死になって打った麻雀だけど、その妹のくれた焼きいもに助けられたような気もした。何かプレゼントでも買ってやるか、何がいいかな。そう思案にくれながら俺はバイクを走らせた。

                                                   <了>

本編を書く前の外伝ですが……いずれ本編も書きたいと思います。兄・圭、妹・舞という非常に安易なネーミングです(本編では恭・大の兄弟も……)。麻雀というと賭け事というイメージがいまだに根強いように思いますが、健全な麻雀の普及に尽力している人達もいます。最近は打とうにも人を集めるにしても時間的にもかなり厳しいですね……

(これを書いて、自分の中では「ドンジャラ」がブームになりそうです……)

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