resonance
私の足元に転がる貴方の顔を見ようと、私はゆっくりと地に手を寄せる。貴方の鏡の瞳孔から、私はもう逃れることはできない。私は貴方を一目見て、貴方ならきっと私の鏡になってくれると思ったの。私以外の全てが生きて、死んでいくこの世界で、私は私自身の姿を見て見たかったんだわ。
貴方を此方の世界に引き寄せてみれば、何の言葉も紡ぐことのない貴方の頭部だけが残された。その目は閉じることがなく、だけれど私が意識的に視線を向ければ、貴方も此方を見てくれる。いいえ、正確には貴方を見つめる私の姿を映してくれているだけなのだけれど。初めて貴方と会ったとき、貴方は私を見て言ったわ。まるで鏡を見ているようだと。
貴方をすっかり手に入れた私に、もう欠落するものはなくなってしまった。完璧であるということは孤独なものね。一人で何もかも手に入れてしまえば、もう何も必要とすることもないのだし、必要とされることもないのだから。
時計に縛られた日常から遠ざかるようになって、一体どれほどの月日が経つのかしら。私と貴方しかいない今、如何なる基準からも、規律からも追放されてしまった。途方もない自由も、やはり孤独なものね。
◇
初めてその人形を見たとき、僕はまるで鏡を見ているようだと思った。人形には深入りするなと友人から釘を刺されてはいたものの、旅行先で展示会場の近くまで行くことになったのだ。立ち寄らない方が道理に合わないというものである。
今は亡き僕の祖母は、かなりの人形好きだった。祖母の家に赴けば、いつも人形たちが出迎えてくれたものだ。両親が共働きだったために、実家では一人になることが多かった。そのせいもあってか、祖母の家で人形たちと空間を共にしていると、不思議と孤独感は失せたものだ。僕にとって沢山の人形が佇む光景というのは見慣れたもので、生身の人間が多数蠢く様より余程心地よい。
入場の受付をしてくれた柔和な女性は気が付けば姿を消しており、僕が歩くたびに軋む床が小さく声をあげるばかりだった。平日の午後、会場に訪れる人間は僕一人くらいだったが、あとから友人に聞いた話では、休日にはそれなりに人が集まっているのだという。
一目惚れ、というと何やら冷やかしを受けそうだが、事実そうだった。透き通る陶器めいた肌、長い睫毛に物憂い瞳、艶めかしいまでの四肢が僕を誘う。圧倒的な美を前に、僕は人形の彼女を見つめるのに暫し躊躇した。周囲を二度ほど見渡した後で、背徳めいたときめきを胸に彼女の瞳を見つめる。彼女の瞳の奥で、おずおずと見つめる僕の顔が映り、そうして僕は思ったのだ。まるで鏡を見ているようだと。
「その場で終わったのなら良かったじゃないか。家に持ち帰るといよいよ取り返しがつかないことになっているかもしれないぜ」
「……それがどうも終わってない気がするんだ」
「何だって?」
「鏡を見るたびに彼女を思い出す。いや、思い出すというのも変だな……彼女が鏡に映るんだ。そうして僕を見ている」
「おいおい、やめてくれよ。そのうち実際に彼女がいるだなんて言いだすんじゃないか?」
「僕は、生きているんだろうか」
何を馬鹿なことを、と友人は僕の言葉を笑い飛ばした。僕自身、どう言えばいいのか難しいところだ。彼女が生きていて、僕が生きていないということはないだろうか、そんなことを思うのだ。見られているのは僕の方で、彼女が僕を鑑賞しているというのが実際のところではないのだろうか。しかし一方でこうも思う。もしそうだったところで僕はどうということもないと。もしかすると僕の方が人形なのかもしれないし、僕自身に意識は存在しないのかもしれない。今までの記憶が全て作られた幻影だったところで、それが何だというのだろう。僕には鏡がある。僕がどんな形をして存在しているかがわかる。それだけで十分だ。例え生かされた存在であろうとも、想定された自我であろうとも、僕は僕を映す鏡がある限り一人じゃない。
予てより行きたかった球体関節人形の展示会に行ってきました。
そこでの感覚を残しておこうと思って小説にいたしました次第。
あの独特の背徳感は何なのでしょうね、癖になります。