斉家荘潜入作戦 四
鏡のような湖面が月の光を浴び、淡い白色を漂わせている。湖の際、静まりきった林の中で、郭興は息を殺して機を窺っていた。湖を隔てた先にあるのは湖陽県で悪名高い斉一家の要塞。それを前にして、郭興は溜め息をついた。
「何故こんなことになってしまったのか」
話は昨日に遡る。
面倒がなければよいのだが、と思ったところで期待が裏切られるのは世の常といったところ。騒々しい客人が面倒事を起こさないよう願っていた郭興の期待は当然のように裏切られることとなった。
昼。部屋の整理が終わったのか、アニエラは茶舗にやってきては、あれは何? これは何? などと質問攻めを始めたものだから、郭興は簡潔に答えはするが適当にあしらう態で接していたところ、背中に陸前の蹴りが来た。それで質問を受ける役割を陸前に譲ることとしたまではいいのだが、陸前がアニエラに付きっきりであるために郭興一人で客の相手をしなければならなくなり、こんな時に限って忙しいものであるから、徐々に腹が立ってきて機を見ては陸前の頭をはたいてみるも、三発食らわせたところで旋風脚が返ってきた。謎の老師直伝の必殺技で死にかけるものの、茶舗の客足が落ち着いてくると郭興も落ち着きを取り戻し、周囲に目をやる余裕が出てきた。すると、通りを挟んだ向かい側に一人の旅芸人が立っていることに気が付いた。郭興はそれを陸前に目で知らせると、流石の陸前も合点したのか、茶舗に客の姿がない頃合を見計らって旅芸人を店の中へ招き入れたのである。
旅芸人は呂堅という名で、剣舞を披露して方々を回っている男である。村々の祭りに参加して日銭を稼ぐことを生業としている。というのは表向きの姿で、その実、公儀の隠密であった。旅芸人や旅劇団は地方を巡回するのが常であり、それが一般的に普通であると思われているために、人々から怪しまれず地域の情報収集を行うことができるのである。中には金持ちの屋敷にあたりをつけて強盗に押し入る者もいるが、呂堅は斥候使の身分を持つ歴とした隠密であったので、そのような輩とは一線を画する存在であった。呂堅のような公儀隠密は多数おり、その情報収集の窓口の一つとなっているのが陸前なのである。
その呂堅が言う。
「湖陽県の斉一家が東藩の妖術書を手に入れたという噂を耳にしたので、これを調べてみたのですが、それはどうやら本当のようですね」
東藩というのは過去に存在した小国の名で、まぁこれはいいとしてとにかく湖陽県の斉一家が妖術書を手に入れたというのが重要な情報であった。
呂堅はそれだけを伝えると、茶を一杯飲んですぐに発っていった。
ここで大変重大な問題が発生した。公儀隠密の情報は秘匿されるべきものであり、他人に聞かれてはならないものであった。しかし、
「魔法書があるなら取りにいけばいいじゃないか!」
郭興はアニエラがいることをすっかり失念していたのである。
本来であれば上官である王真卿に事の次第を伝え、下命を待つだけのことであるが、今はその王真卿が他県へ遠征に出ているために判断を仰ぐことができない。そうなると、待っていられない性格の者であれば待っていられなくなるわけである。勿論、アニエラは待っていられない性格である。
「いや、しかし、ここは……」
郭興としては勝手に事を進めてはならないと思っているのだが、
「だってだって、逃げたり隠したりするかもしれないじゃないか!」
とアニエラが煩い上に、
「おい郭興、アニエラちゃんの言う通りにしろよ!」
陸前も煩いのである。
「そう簡単に逃げたり物を隠すことはしないと思うが。あと陸前、お前は黙るか今すぐ隠密を辞めろこのロリコン野郎」
などとバシッと言ってやるも二人が引くことはなかった。結局二人に押し通され、次の日には早速斉一家に忍び込むこととなってしまったのである。実に迷惑極まりない。
夜。茶舗を閉めると、陸前は数枚の図面を取り出した。斉一家の屋敷の図面であった。斉一家は元より要注意の賊徒であったので、情報は既に集められていた。情報が集まっているのであれば、さっさと攻め落としてしまえばいいだけのことであるが、そう簡単な話でもないというのが現状であった。というのも、令を出して軍を組織し、それを差し向けるとなれば斉一家は屋敷の防備を堅めてしまうのである。防備が堅ければ容易には落とすことはできない。力攻めをすれば被害が増えるのは必定であるため、今の今まで攻めきれずにいるのである。まぁ、それはよい。
忍び込むに当たっては屋敷の形状を知っておく必要がある。目当ての場所がどこであるのか、人が詰めている場所はどこなのか、動線はどうなっているのか等、知っておくべきことは多いが、とりわけ賊の屋敷ともなると屋敷中に張られた罠、つまりカラクリの類を事前に把握しておく必要があった。斉一家の屋敷……というより最早要塞であるが、やはりその要塞にはカラクリが多数あった。郭興はそれを頭に叩き込み事に備えた。
屋敷の形状を知るのは重要である。しかし、最も重要なのは
「どういった作戦を取るのか」
である。陸前は棒で指し示しながら立案した作戦を説明し始めた。
「まず、地形図を見てくれ。斉一家の根城、要塞の背後は険しい山になっていて人馬に通る術はない。逆に背後以外は半円形の湖になっている。湖の側から侵入する他ない」
斉一家の要塞は自然の地形を利用した天然の要害である。自然物は時として人為的なものよりも堅固で揺ぎ無い防衛施設となりえるわけであるが、地形図を覗いていたアニエラが、なにやら人為的なものを見つけたようで、陸前に向かって問い掛けた。
「この湖の中心を走る道はなあに?」
「それはいくつもの浮島に橋をかけ、表門から山門まで繋げたものだよ。斉一家の面々はその浮島の道を使って出入りしているんだ」
「そこから侵入するの?」
「いや、斉一家としても当然浮島の道は常に警戒しているから、そこを真正面から突破するのは難しい」
「えー、そんなぁ」
正面突破が難しいと聞いてアニエラは不満を漏らすが、郭興としては正面突破が困難であるのは当然に思えた。郭興は問う。
「ではどうするべきなんだ?」
「うむ、湖の周りには森が広がっている。その森を利用して湖の際までは問題なく行くことができるはずだ。そしてその湖の際から船を出して要塞の壁に迫り、その壁を越えて侵入するのが得策と考える」
陸前としては力づくで突破するのではなく、気付かれないように上手く忍び込むことを考えているようであった。現有の戦力を考えれば必然的にそうせざるを得ない。しかし、郭興には気になることがあった。
「なるほど、しかし浮島ほどではないにしろ警戒されている可能性が高いと思うが?」
郭興がそう訊ねると、陸前は微笑を浮かべた。我に秘策あり、といった表情であった。