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斉家荘潜入作戦 二

 郭興は部屋を辞すると、州城の端に設えられた櫓に上り、眼下の街を目に収めていた。人口五十万の湖州である。一人の人物を見つけ出すのは容易なことではない。

 幸い時間はある。というのも、先程、王真景と謁する去り際に隣州の急使が飛び込んできたのである。隣州は新任の知州事による官制改革が苛烈を極めており、利権をほしいままにしていた官員が蜂起して官舎に立て篭もったということであった。それがあまり具合のよろしくない事態に陥っているらしく、その要請を受けて馬軍五十を引き連れて平和的解決に向かったため、幾日か留守にするということであった。ちなみに馬軍は火器類完備の重武装である。真に平和的解決が望まれる。

 さて、櫓を下りて州城の門を潜り、市の立つ広場の光景が再び現れる。朝とは客層が異なるものの、活況そのものは異なることがない。通りを右に左に、奥に手前にと、人でごった返している。件の少女と出会うことも、まさに九牛の一毛、気長に構えておく他あるまい。

 郭興はそのように思いつつ、ふと何気なく州城の城壁に沿って視線を走らせる。

「……」

 大きなトランクの上にちょこんと座り、膝を抱えて通りの方をぼんやりと眺めている件の少女がいるではないか。

 ここまで早く見付かるとは想像もしていなかったために、一瞬思考が止まってしまい、立ち止まったまま少女の方を凝視することしかできなかった。すると、視線に気付いたのか、少女は郭興のいる城門付近に顔の向きを変えた。

 視線があった瞬間である。

 少し不機嫌そうだった少女の表情が和らぎ、ぱぁっと笑顔が広がった。

 先日は闇夜でのことであったので、見てくれまでは詳しく確認していなかったが、こうして白日の下で改めて見てみると、造形に違いのある異人であるとしても相当の美形であると断言できる程の容姿であった。ただ、何故かその笑顔に嫌な予感を覚えた。

 声よりも先に指が動き、少女の方を指差した。そして、なんとか声を絞り出そうとすると、その声が重なった。

「「……いた!」」


 嫌な予感は、一先ず相当な重量でもって的中した。トランクは見た目通りの重さであった。

 トランクを両手で抱えつつ、その上に茶箱を二つ置き、それを落とさないように気をつけながら歩く。茶箱の端から見え隠れするのは、アニエラという少女の後姿。ひらひらとしたレエスの装飾を散りばめ、藍色を基調とした服装は以前に見たものと同じである。

「かわいいでしょ?」

 時折振り返ってそのようなことを言う。郭興は、なにか可愛さを認めることが負けを意味しているようにも思えるために何も言い返さない。しかしアニエラは勝手に喋り続ける。

「それにしても酷いよね。女の子を追い出すだなんて」

「聞いた限りでは宿賃を払わないお前の方に非があるように思えるがな」

「たかだか半年やそこらの滞納で! 寛容さが足りないね」

「俺の寛容さは半年も続かないとだけ言っておこう。一応大家に話は通すが、四、五日がせいぜいだろう」

 郭興は押しに弱いところがある。宿無し少女に泣きつかれて拒否できるほどの厳しさを持ち合わせていなかった。郭興としては、アニエラのような厄介事を抱え込みたいとは思っておらず、何かしら理由を付けて追い返したいと考えていたが、ある意味郭興にとって郭興は当てにならなかった。そのため、大家である陸前に、その役目を任せたいところであった。

 ――陸前ならば追い返してくれるだろう。

 郭興はそう思っていた。

 陸前は、歳は郭興とそう変わらないが、堅物で女に興味がない。むしろ女を疎んじる傾向にあるほどで、その陸前がアニエラのような、いかにも面倒な少女の長期逗留を許すとは思われなかった。

 ――近いうちに王真景様に突き出して厄介払いしよう。

 郭興は、漠然とそのようなことを考えつつ、アニエラと共に家路をゆっくりと進んで行った。

 しかし、郭興の考えは実にあっさりと裏切られることになるのだが。


 あと一月も経てば智達和尚の命日である。

 陸前は、店頭の椅子に座り、丸窓から外景をぼんやりと眺めていた。

 父と母の記憶はない。自身の記憶の始まりは、和尚との記憶の始まりと同義であった。自身がどれほどの歳かは覚えていないが、とにかく幼い頃であったのは間違いない。捨て子であった陸前を育てたのは智達和尚であったが、我が子のようにとはいかなかった。祖父と孫ほどに歳が離れていたからである。智達和尚は陸前を我が孫のように育てた。

 二人が住んでいた寺は公安寺と呼ばれており、その歴史などは全く伝わっていない。破れ寺のような場所で、智達和尚が亡くなると同時に廃寺となり、その外観は陸前の記憶の中にしか存在しなくなり、まぁその程度の寺であったのだろうと思われる。

 陸前は、和尚と過ごす日々の中で、仏の教えを一切学ばなかった。和尚は、陸前を自身と同じ身分にしたいとは考えていなかったようである。生きていくために必要なものを、和尚は陸前に教えたかった。だから、和尚は陸前に茶を教えたのである。

 公安寺は破れ寺であるが、智達和尚の元には月に何人もの客人が訪れた。その度に、陸前は客人に茶を出した。相手は相当の学識を持った文化人が殆どであったので、茶には煩いことこの上なかった。特に李鬼才と呼ばれる詩人は一等煩く、まず陸前の茶を誉めることはなかった。陸前は李鬼才を唸らせたいと考え、方々の書物を漁り、商人より茶葉を買い求め、夜を徹して茶の何たるかを学び、又、独自に研鑽を重ねていったのである。そして、ついには李鬼才をして「茶に於いて比肩しうる者なし」との評を受けた。

 李鬼才より評を受けたその一月後、智達和尚は亡くなった。陸前は思う。己と智達和尚との日々は、茶の日々であったのだと。

 陸前は公安寺を離れ、独立して茶舗を構えた。間口三間の店内には国中の茶葉が並べられ、店の奥には萎凋、揉捻、発酵、焙煎の各種工程を行う作業場、その奥には四つの部屋、さらに客人用の離れが一つ。一人で住むには十分すぎる広さであったので、郭興という青年に部屋を一つ貸し与え、訳ありの小間使いとして住まわせた。営業の方は、幸いなことに、李鬼才の評の影響で早くから固定の客がついたため、食うに困らない程度の収入を得ることができた。又、別の収入源もあるが、これは他人に口外できない類のものである。

 陸前の新たな人生は順風満帆と言ってよく、周囲もそう思っているからか、縁組の話がいくつか舞い込んでくることがあった。しかし、陸前としては乗り気でなかった。自身の生というものが茶とは切り離すことができず、茶の精神、清談の風が己の心奥深くに取り巻いているように感じられたからである。それは清冽且つ孤高の美しさであり、女が割って入る余地などないように思われた。事実、陸前は女を見ても美しいだの、可憐だのと思うことが一度もなかった。

 陸前はこのような人物であったので、女に興味のない、女っ気のない堅物だと周囲からは思われていたわけである。

 丸窓で区切られた空に、小鳥が消えては現れてを繰り返していた。そのうちの幾匹かが店舗の前の路面に降り立ち、しきりに地面をくちばしでつつき始めた。風に煽られた落ち葉が小鳥の側を流れていくが、小鳥達は意に介さない。すると、突然その小鳥達が一斉に羽ばたいて視界から消えていった。

現れたのは使いに出した郭興であった。茶箱二つを抱えて出ただけであるのに、何故かその何倍かはあるであろうトランクを抱えて戻ってきた。一体どうしたことであろうか。

「なに、道端で宿に困っているやつがいたから、四、五日の宿であればよかろうと思って連れて来ただけのこと。しかし、こいつが図々しいことに長期の滞在を求めたいなどと言っている。陸前の方から言ってやってくれ」

 と郭興は言う。言ってやってくれ、というのであるから、態よく断るなり釘を刺すなりしてくれということであろう。

 陸前は合点し、煙管に火を入れて姿勢を整え、郭興を促す。

「それで、当の本人は」

「ああ、すぐに呼ぶ」

 すると、郭興は店先から顔を出し、おい、こっちだ、と誰かしらに声をかけると、その声をかけられた誰かしらが現れた。

「こいつがその本人なんだが……」

 陸前は、全く予期していなかったものを見た気分であった。銀髪黄金眼の異人の少女であった。

 陸前は煙管に手をかけたまま、口を広げた状態で止まっていた。

「おい、陸前、どうしたんだ、何か言え」

 陸前の異変を察したのか、郭興が声をかけてくるのだが、当の陸前には何も聞こえていなかった。

 煙管が手から落ちる。陸前は言う。

「か、可憐だ」

「え?」

 陸前は女を見ても美しいだの、可憐だのと思ったことはない。女に興味のない堅物だと思われていたのである。

 しかし、そのようなことはなかった。

 なんのことはない。女の好みが、国単位で違っていただけのことである。


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