パイロットと酔っぱらい
世界は音速の時代に突入していた。
休暇で自宅に帰ってきた青年は、いつもの光景に内心脱力しながらそこに座っている。
「だからなぁ、若造……!」
母と息子を前にして、ビールのジョッキを片手にしてくだを巻く年寄りに、金髪にブルーの瞳の青年はあきれた様子で溜め息をついてから、ニコニコと穏やかな笑顔をたたえたままの母に横目をくれた。
かなりの泥酔状態だ。
「いいかぁ、まかり間違っても俺らのひよこちゃんに手ぇ出すんじゃないぞ」
「ダメだ、この酔っぱらい……」と青年は思うが言葉にはしない。
彼が物心ついた頃から、休日はたびたび父母の友人たちがビールを片手に集まっていた。穏やかで人の良い母親は、いつも彼らがくだを巻くのを笑顔をたたえて聞いているのがいつもの光景だ。
「出しませんよ」
泥酔状態で目の前の青年が、彼らの言う「ひよこちゃん」の息子だということもどうやら区別がついていないらしい。
曰く、彼らは母親の戦友で、かつての第二次世界大戦においては珍しい女性パイロットだったという。さらに珍しいのは彼女が攻撃機のパイロットだったということだ。戦後、彼女は結婚して高齢出産ながら息子を得た。
その息子は一九五六年に新たに再編されたドイツ連邦共和国の空軍の戦闘機乗りで、簡単に言うとかの世界最多のエース・パイロット――エーリッヒ・ハルトマンの育て上げた戦闘機部隊の一員だ。
加えて、青年の両親は共に前大戦をくぐり抜けた歴戦の飛行士だ。
青年の父親は、戦闘機のパイロットを選んだ息子に対して少々つまらなそうに「なんだ戦闘機のほうか」と言っただけで、それ以上はなにも言おうとはしなかった。
「だいたいな、ひよこはいつまでたっても甘ちゃんだからな。俺らが、目ぇ光らせてないと他の隊の連中がすーぅぐそうやって手を出そうとするんだ」
ぶちぶちと不明瞭に呟く男の言葉に、青年はうんざりとした眼差しを天井に上げてから母親の服の裾を軽く引っ張る。
この歳で女だてらに元ドイツ国防軍空軍の爆撃機のパイロットを務めた母は、儚げな印象とは裏腹に芯の強い女性だと言うことは息子のほうもよく知っている。戦後、ドイツ空軍が再編されてから、飛行士の初級学校ではパイロットの育成に貢献し、敗戦の不安と鬱屈したドイツ連邦共和国で家庭を父親と共に支えて今に至る。
ちなみにその息子は母親譲りのハニーブロンドに、父親譲りの青い瞳を持った長身の青年で、ドイツ人男性の平均身長を軽く十センチメートルほど越えていた。そんな二枚目を絵に描いたような彼の生まれ故郷ではちょっとしたアイドルで、近所の同年齢の女性たちからは人気が高い。
「そうやって」もなにも手を出そうとなどしていないし、何度も言うが、彼らの言う「ひよこちゃん」は青年の母親だ。
爆撃隊のパイロット仲間だという年寄りたちは、現在のドイツの状況になにかしらの欲求不満でもあるらしく、いつも彼女の前に現れてはそうやってくだを巻いて帰っていった。
「だからな、若造。俺らの目が黒いうちはひよこに手を出したらただじゃおかねぇぞ……」
――だいたいなぁ、今の飛行士には美学も覚悟もねぇときたもんだ。本当に戦争になったら敵を吹っ飛ばす覚悟もないんだろうよ!
永遠と続く両親の友人の酔いどれ話に、青年は降参ポーズで再三の溜め息をついた。
そもそも、問題の「ひよこちゃん」に手を出したのは青年ではなく、青年の父親で、その父親が「ひよこちゃん」に手を出したから青年がこの世に存在するのだ。
ビールのジョッキにカンカンとフォークを打ち付けている男に、くすんだ金髪の女性はクスクスと笑い声を上げてうつむいたままでいびきをかき出した六十代半ばを当に越えた男の肩に自分のショールをかけるとそっと足音を忍ばせた。
「いつもあれだよね、母さんの友達」
居間を出て行く母親に大股について歩きながら、青年は自分の胸の辺りにある頭を見下ろしながら告げれば、彼女はそっと優しげな笑顔を口元にたたえてから室内を振り返って睫毛を伏せた。
「今と昔の区別がついていないのよ。酔っぱらいだから」
一応、彼らも母親と同じように飛行学校の教官をしていたらしい。
しかしそんな教官としての仮面を外して訪れる時の彼らの顔はただの偏屈な年寄りだった。
「母さんはいやじゃないんだ? 昔の話ばかりされて」
「わたしが心配ばかりかけていたから仕方がないわ」
天才的なパイロットとしての技術を持つ母親の資質は、父親のそれよりも軽く上回った。その母親から直接初歩的な飛行技術をたたきこまれた青年は、今は音速機を飛ばすパイロットだ。
「……わたしは、あの人たちにとってはいつまでも”ひよこちゃん”なのよ」
苦笑する。
頼りなくて、危うげな。
「わたしが心配ばかりかけていた印象が強いんでしょうね」
「嘘だろ……」
音速機を飛ばす彼が今考えてみても、六〇歳を越えた母親の飛行技術は天才的だ。
男顔負けと言ってもいい、丁寧で正統派な飛行の技術を持つ母親はかつて危険な急降下爆撃機ユンカースJu87を飛ばしていた。もちろん、第二次世界大戦後に生まれた彼は母親がスツーカを飛ばしているところなど知らないが、それでも多少の想像力は働くものだ。
そんな母親が、目の前の男たちにとっていつまでたっても「ひよこちゃん」だという印象しかないというのは、想像が苦しいものがある。
「軍隊は男の世界だし、相手がソビエトだったから……」
そう告げられて、息子は「あぁ、なるほど」と納得した。
「よくもまぁ、無事でいられたね」
「そうね……、いろいろあったから」
気軽な息子の言葉に母親の金髪の女性は、ちらりと視線を横に滑らせた。
視線の先には白黒の写真が飾られている。
四十名ほどの男たちの姿の中にひとりの女性士官がいる。
部隊の集合写真かなにかだろう。整列した列の端に控えめな笑顔で写っている女性こそ青年の母親だ。
――特殊任務航空部隊第七六急降下爆撃航空団第二飛行隊第五中隊。
そう書かれた紙切れがフォトフレームの間にはさまっていた。
「連中は寝たのか? ザシャ」
「すっかり酔っぱらいだけど」
「まぁ、……なんだ。寝かせておけ」
面白くないんだろう。
ドイツが分断状態になったことや、ソビエト連邦やアメリカやイギリスのふてぶてしい態度。全てが気に入らない。
「おまえもさっさと寝ろ。今日は安息日だ」
長身の夫に告げられて女はハグを受けると寝室へと引き返した。
「ベタ惚れだな、親父は」
寝室へ向かう後ろ姿を見送る老いた父親の優しい眼差しに、青年が肩をすくめれば煙草をくわえたままの彼はフンと鼻を鳴らして目を伏せた。
「あいつは初恋を引きずっている……」
時代は彼女の夢も希望も全てを引き裂いた。けれど、彼女は彼女自身を失うことは決してなかった。
「大した奴だ」
「……つまり親父は母さんの初恋の人の代わりでいいってことか?」
「大人の事情は複雑なんだよ、ガキンチョ」
ばっさりと切り捨てるように告げた金髪の元爆撃機パイロットはそうして、自分の隣にある息子の後頭部をかるくひっぱたいた。
――彼女は、強い女性だ。
白黒の集合写真のフォトフレームには、すっかり鉄錆びた小さな鉄の板きれのペンダントがひっかけられている。
それは、幸福のお守りだ、と青年の母親は告げた。