ACT.2
8月23日 午前11時 通学路
学校を脱出した玲とかおりの二人は徒歩でいつもの通学路を通り、まずは玲の家へと向かっていた。
かおりも普段は時間の違う通学用のバスを利用しているとのこと。さらに家は玲の家よりももう少し離れたところにあるということで、まずは例の家に向かい、家族の安否を確認するのが良いと提案してくれた。
正直彼女には命を助けてもらったという借りがあるために、優先してあげたいのであるが彼女は「それは必要ない」と言って来た。
何故なのかと尋ねる玲に対して、
「私が今生きていられるのは、きっと高宮くんがいてくれたから。だから私のことは気にしないで。それに距離的には高宮くんのほうが近いんでしょ? ならなおさらそうした方が良いと思うよ」
そう言いながら一歩先を歩く。
武器になるようなものがないために、お互いに注意をしていかなければいけない。
どこかで鈍器になるようなものがあれば良いのだが。この辺りには人の気配がないために家に隠れているのか、それともここから逃げたのか、はたまたゾンビに襲われて生者を求めて歩き回っているのか。
住宅が立ち並ぶ通学路。今のところ運が良いためにゾンビたちの姿は見られない。だがいつどこから現れるかわからないのがゾンビの怖いところだ。香りがふと例から目を離している間に玲はすばやく一軒の住宅の玄関へと歩み寄った。そしてインターホンを押す。
ピンポーンという聞き慣れた音が鳴る。
だが中から声が聞こえてくる様子もなく、完全に無音である。周りに目を配り、今の音でゾンビたちが寄ってはいないかと確認する。そしてそっと玲はその住宅の玄関ノブに手を触れさせ――開けた。
怜の行動に対してかおりは目を見開く。
「もう不法侵入とかって言ってられないよな……」
「えっ? ま、まさか……高宮くん?」
そう呟いた怜に対してまさかという表情のまま彼女は尋ねる。
無言のまま人差し指を口元に持っていき、シーっと息を吐く。そしてにやりと笑みを浮かべる。
かおりは彼が今から何をしようとしているのかを理解し、慌ててやめた方が良いと止めるようにする。だがこの状況下で先ほどのインターホンにまったく出てこないというのは中に誰もいないということだと思っていた。もしかすると立てこもっているのかもしれないとも最初は思ったが、ドアノブを捻るとそれは簡単に開いた。
つまりそこにはもう誰もいないか、それとも死んでしまったかのどちらかになる。
取り敢えず持っていけるものは貰っていこうと考えていた。
もうこの地獄のような状況下だ、法や秩序などといちいち守っていたらすぐにでも殺されてしまう。
正直気も引けるが、こうなってしまっては仕方がないと割り切っていた。中に入るとそこは一般的な二階建ての住宅だった。最初に目に入ったのは玄関に広がっている血痕だった。やはりこの家に住んでいた者たちも襲われてしまったのだと判断しても良いと考えた。
後ろから付いてきているかおりに対してまだ言えの中にいるかもしれないからということで鍵は閉めないでそっとドアを閉めるように言う。彼女もそれを聞いてコクリと頷いた。
すぐに逃げ出せるように土足のまま中へと入る。取り敢えず食料と水が欲しかった。ここまで一時間近く歩いていたが、やはり季節的にまだ暑かったのでいくらワイシャツや夏用のセーラー服だといっても日差しが強かったので徐々に体力を奪われていっていた。
玄関にはこの家の主の趣味だろうか、ゴルフバックが置かれており、その中には何本ものゴルフクラブが入っていた。それを見てこれは使えると思った怜はその中から手軽なものを数本抜き取る。すべてを担ぐわけにも行かないために適当に中に入れられるものは無いだろうかと探してみる。
怜がそうしている間、かおりは別行動をとる。
ひとつひとつの部屋を恐る恐るというように覗き込み、安全を確認しながらそこに何か使えそうなものはないだろうかと見ていく。
どの部屋も争ったような状態であり、正直早くこの場所を離れたいとも思っていた。
取り敢えず台所を目指すことにした。
奥の方に行くと、そこには他の部屋同様に周りに血が飛び散った状態のダイニングがあった。テレビがつけっぱなしであるがそこには誰もいない。
窓の向こうには庭のようなものが広がっているのが見える。その窓ガラスが割られているということはそこからも侵入されてしまい、襲われたのだろうと思う。
かおりは戸棚や引き出し、そして冷蔵庫の方を覗き込む。そこにはまったく手のつけられていない食材 や玄関には子供サイズの靴があったということから、子供用のおやつなどがいくつか置かれているのを発見した。
持って行けそうなものを選別しながらそれをテーブルに置いていく。
空のペットボトルが現れた状態でそれ用のゴミ袋に入れられて縛られているのを発見したので、それをもう一度洗いなおしてから、中に冷蔵庫に入っていた麦茶や水道水を入れた。できれば冷えているのが良かったのだが、この状況下でワガママは言っていられない。これで数本の飲料水を手に入れられたことにホッとする。
テーブルの上には箱に入ったクッキー系のお菓子、菓子パン、袋入りのチーズなどとても腹の膨れるような量ではない食料が置かれていた。これら以外はこの季節冷蔵庫から持ち出すとすぐに悪くなってしまうようなものばかりであったので今回であっても自重することにした。
今度はこれらを入れるものが必要だった。
やや大きめのバッグに入れられれば良いだろうと思う。それにここから例の家に向かう間、もしゾンビにあった場合戦うのは間違いなく怜になる。そのためにほとんどの荷物をかおりが持たなければいけなかった。
かおりは入れるためのバッグを探すためにもう一度よく部屋を探す必要があると思う。まだ怜が来ないので取り敢えず護身用の庖丁を片手に先ほど回った部屋やまだ回っていない部屋に向かうことにした。
ここに来る前に通った廊下に階段が見えたのを覚えていた。上にはおそらくこの家に住む子供の部屋などがあるのだろうと思う。ゆっくりとなるべく音を立てないようにして階段の方に向かう。
階段に向かう間にも特に大きな音やゾンビと遭遇することはなかった。
考えてみると当然なことなのだが、やはり突然このような状況に放り込まれたために警戒は限界を突破していた。このままでは精神的に先に狂ってしまいそうだと不安を抱く。これは何もかおりだけではないことも分かっていた。一緒に来ている怜だって最悪狂ってしまう可能性だってある。生き残ったとしてもこの世界自体が終わっていたらもう生きる意味など無くなってしまうから。そうなったらおそらく自分も同じように狂ってしまうだろうとかおりは不安ばかりの胸の中で考えていた。
階段に辿り着き、やや急な角度の階段を上っていく。
鼓動が強くなる。
ようやく登りきる。その先には両脇に二つの部屋、正面には外を眺められるスライド式の窓があった。そこから外の太陽の光が差し込んでいる。右側の部屋のドアにはネームプレートが掛けられており、この家に住む子供の名前が書かれていた。
そのドアの前に立ち、ゆっくりとドアノブに手を触れさせて、捻った。
小さく音が鳴るが気にするほどではない。
まずは顔だけを部屋に入れる。そこにはやや広めの部屋が広がっていた。学習机の上は綺麗に片付けられており、それと対面する形でタンスや大きめの本棚があり、本棚にはたくさんの漫画や雑誌が入れられていた。部屋の様子からして男の子のものだと思う。
学習机の横にはおそらく部活に入っているためなのか、やや大きめのリュックサックがあった。これは使えると思い、それに手をかける。
その時だった――突然に扉が弾かれるように開いたのだ。慌ててそちらに振り返りながら両手で包丁の先を突き出すようにして構える。かおりの瞳に映ったのはこちらに対して白目を向きながら腕を伸ばしている女性のゾンビだった。恐怖のあまり、かおりは悲鳴を上げる。
「イヤアアァァァ! 来ないでっ!」
恐怖とともに焦りが彼女の身体を支配する。その悲鳴がそのゾンビをさらに呼び寄せることなど考えていない、考えられるはずもない。今ここには怜はいない。彼女の悲鳴には気付いているだろうが、玄関からは離れているために数秒という僅かでも致命的な時間がある。かおりはがむしゃらに持っている包丁を振り回す。それが僅かであるが腕を伸ばしてきていたゾンビの身体を切り裂いた。服を裂き、その下の肌を切ったために僅かな血が舞う。だがそれだけの傷、痛みを知らないゾンビにとってはほとんどないに等しいものだった。徐々に後退していくかおりをゆっくりと追い込むようにして迫っていく。かおりはその辺りにあるものを手当たり次第に掴んではゾンビに向かって投げつける。漫画や目覚まし時計などがゾンビに当たっては虚しく足元に落ちる。
「い、嫌ぁ……」
震える手に握られた包丁だけが彼女を守ってくれるものだ。だがそれで何ができるだろうか。それでも彼女には今助けは来ない。生き残るには目の前にいるゾンビという歩く屍を殺さなければいけない。心優しすぎる彼女の性格から、目の前にいるのはそれがいくら自分を殺そうとしていてもどうしても人間を殺してしまうのではないかという考えが彼女の動きに制限を掛けていた。
――殺さないと、殺さないと!
どす黒く、どろどろとしたものが彼女の思考を染めていく。震えの止まらない身体を抑えることもできない。その震えはゾンビに対するものと、そう考えている自分に対するものであった。
そしてゾンビがかおりの肩を手で掴んだ。悲鳴を上げながらかおりは後ろにあった子ども用のベッドに倒れこむ。馬乗りの状態になったゾンビが大きく口を開いて襲い掛かってくる。かおりの力では抵抗などしても徒労に終わる。
だが死にたくないという思いが彼女の恐怖を少しだけ上回った。かおりは無意識の内に両手で握り締めていた包丁を下から突き上げるようにして振り上げた。それがゾンビの喉元を見事に貫いたのだ。そこから吹き出す真っ赤な血。それは水道管が破裂したかのようにかおりに向かって降りかかる。真っ白な肌とセーラー服が真っ赤な血へと変わっていく。彼女の思考も最初は何が起こったのかまったく分からないという真っ白な状態であったが、それがすぐに真っ赤な血を見たことでそれすらも真っ赤に染め上げられる。口元をまるで口裂け女のように限界まで吊り上げ、その口から快楽を感じているように高い笑い声を上げる。仰け反っていたゾンビを逆に押し倒し、馬乗りになる。そして掴んでいた包丁を再び振り上げるとゾンビの喉元を何度も突き刺した。起き上がろうとしていたゾンビも何度も喉元を突き刺されたために限界が来たのかピクリとも動かなくなった。だがかおりは包丁を振り下ろすという行動をとめようとしなかった。首から上と胴体が完全に離れてしまったために次は顔面に目掛けて包丁を突き立てる。
グチャリ、グチャリとまるで挽き肉を叩いているような音と感触がかおりの耳と手に届く。
「死ねっ! 死ねっ! シネエエエッ!」
どれだけ血を浴びようが、その手を真っ赤に仕様が関係なかった。ただ恐怖と何か変な感覚が彼女を突き動かしていた。ドアの向こうからドタドタという慌しい音が聞こえてきた。そしてそこに現れたのは息を切らし、先ほど見つけた新しい武器であるゴルフバットを両手で握り締めた怜だった。
「な……なんだよこれ。それに、お前……」
そこに現れた怜は目の前にいるかおりがまるで別人に見えた。彼女が返り血を浴びて肌も服も真っ赤にしてしまっているからではない、彼女の顔があまりにも異質に見えたからだ。戸惑いを隠し切れない怜。呆然とそこにいるかおりを見つめたままでいる。
どうして、笑っているんだよ……――。
包丁を振り上げた状態でこちらに笑みを浮かべた顔を見せてくる彼女。緊張していた身体から一瞬にして毒気が抜かれたように力が抜けていくような感覚を覚えた。呆然としている怜の顔を見て彼女はどうしてそんな顔をしているのだというように小首を傾げる。投げ捨てるようにしてゴルフバットをその場に置くとゆっくりと零はその真っ赤な血色の部屋へと足を踏み入れる。床に広がった地を踏んで吐いている靴下が真っ赤になるのはこの際無視していた。ゆっくりと彼女の元へと歩み寄る。そして片膝をつき、振り上げている手から包丁を奪った。彼女は表情を固まった状態のままこちらを見つめてくる。
「……もういい、もういいんだ」
「っ!?」
怜自身、なんと声をかけたら良いのか分からなかった。だからありきたりなそんな言葉を彼女にかける。すると彼女はまるで石化していた状態から、魔法の呪文によって石化が解けるかのように徐々に感覚が身体に蘇る。そして先ほどまで一体自分が何をしていたのかを濁流のように流れ込んできた記憶で理解する。そして彼女は自らの犯してしまった罪を知る。その罪は彼女の身に纏っている真っ赤になったセーラー服と返り血によって全身がまるで罪で染められた状態の自身が証明していた。
「い、イヤアアァァァ! 私は、ワタシハッ!」
「っ!? 落ち着け!」
完全にパニック状態に陥ってしまっているかおり。その寛恕が暴れそうになるのを抱きしめることで抑え付ける。ベッドに押し倒し、彼女の身体の自由を奪う。こんなこと、普通なら逮捕されてもおかしくはない行為だ。だが今の彼女を止めるにはこうするしかなかった。さらに彼女の悲鳴で先ほどは見られなかったゾンビがここにやってくる可能性もあった。だから今も続いている悲鳴を何とか止めなければいけなかった。大きすぎるショックにはそれを上回るショックを与えるしかない。だから怜は申し訳なさを感じつつ、覚悟を決め――彼女の開かれた口を自身の口で覆った。
8月23日 午後13時 通学路・とある住宅
あれからお互いに冷静になるのに時間が掛かった。
怜は申し訳なさから何度も彼女に謝った。色々なことに対するショックで彼女はそんな怜に対して許すこともけなすこともせず、ただ一言、シャワーを浴びたいと言った。
確かに今の彼女の姿は酷いものだ。全身をバケツに入った血ひっくり返され、浴びたような状態であった。さらに血の特有の生臭さが冷静になるまで気付かなかったが、酷いものだった。流石に女性がその状態のままというのはかわいそうだと思った。
運良くまだ水やガス、電気は使えた。そのために後退でシャワーを浴びることにしていた。怜はかおりが見つけていた菓子パンと水を椅子について食べながら時間を潰していた。
グロテスクな後継を目の当たりにした後であるためにとても食事がのどを通る状態ではなかった。しかし少しでも腹を満たしておかなければいけなかったので無理やりに水で押し込んだ。どんな味をしていたのかも覚えていない。いつ何が起きても良いように手元には手に入れていたゴルフバットを置いていた。すべてを持っていけないということでそれが丁度収まるような細長い入れ物がないかと探した結果、細長いゴルフバット入れがあったのでそれに二本ほど予備のそれを入れておいた。何本持っても不安でしかないが、あまり持っていても逃げる時に余計なものにしかならないと思い、二本だけにした。
今も風呂場の方からはシャワーの音が聞こえて来る。
何を考えているのかは分からない。彼女がいくらゾンビだからといって、相手を殺してしまったことには変わらないということから罪の意識を感じているのかもしれないと思うと、何故もっと早く駆けつけてやれなかったのかと後悔の念が押し寄せてくる。
そう考えているとシャワーの音が途切れていることに気付く。そして顔を上げると同時にゆっくりと扉が開けられ、そこから着替えを終えたかおりが顔を出していた。
この家に住んでいた女性の服を拝借したようだ。動きやすさを重視した服装になっている。シャワーを浴びに行く前よりも顔色は良いようでホッとする。取り敢えず彼女にも座って休むべきだと言う。彼女もコクリと頷き、怜の隣のいすを引き出し、それに座る。手元に水の入ったペットボトルと適当に菓子パンを取り出し、渡す。
「少しでも食べておいた方が良いよ……」
「……うん、ありがとう」
消え入りそうな声で、無理に微笑もうとしている。
そっと手渡された菓子パンの袋を開け、小さく千切って口に運び始める。彼女が食事をしている間、礼は話しかけることはしなかった。かおりもただ淡々と食事を続けるだけで、話しかけるようなことはしてこない。時折こちらに視線を向けてくるのは分かったが話しかけることはなかった。
半分ほど食べたところでかおりは袋を畳んで怜に手渡してきた。それを受け取り、二階から降りる時に部屋から持って来ていたリュックに詰め直す。心もとない食料であるが、取り敢えず怜は自分の家に行けばまた手に入れることができるかもしれないと思った。だが自分たちがしたと同じことを他の人間がしていないとは限らない。そう考えると急いだ方が良いのかもしれないと考える。
だがここで焦るわけにはいかなかった。何よりかおりの精神状態が落ち着かなければどうしようもない。気丈に振舞う彼女であるが、今またゾンビと遭遇し、殺す光景を見せてしまえば、今度こそ取り返しのつかないことになりかねない。こればかりは彼女自身にかかっているが、少しでも落ち着けるだけの時間が欲しかった。
怜自身先ほどのことはショッキングだった。まさか彼女にあのような一面があったとは考えたこともなかったからだ。とはいえ彼女のことを軽蔑するつもりはない。彼女はたかが一体のゾンビを殺しただけなのだ。それを人間だと考えてもそれだけだ。だが怜はもう何体ものゾンビを殺している。それを人間で加算すればもはや死刑は免れないだろう。
「ありがとうね……さっきは」
ふとぽつりと零すようにかおりが言う。
ハッとして彼女の方を見る。
大分持ち越してきたようであるが、それでも心身ともに疲労困憊という様子。あまり話したことはないが、何度か授業などでも一緒に活動をしたことがあったためにお互いに顔と名前は覚えていた。今回は僅かながら繋がりがあったのでこれくらいで収まっている。これが見ず知らずの者だったら、あの時の止める行為はお互いに悪手だっただろう。
「そ、そんなこと……」
慌てて両手を突き出して左右に振りながら言う。違うという意を伝える。
「俺の方こそ……ごめん」
頭を下げて謝る。
例え止めるためとはいえ、あんなことをしてしまったのは、普通は許されるはずもないことだ。ひっぱたかれてもおかしくはない。
頭を下げる怜に対して、かおりはそんなことはせず、ただ黙って言うのだ、
「……そうしないと、いけなかったのなら、仕方ないよ。こんな状況なんだし」
「桜田さん……」
ショックなのは当然だろう。
普通なら好きな人同士がする行為だ。それがただ同じクラスに所属している、なんら変哲もない男子生徒に理由があれど、ファーストを奪われたのだから。怜としても理由有り無しに関わらず、大きな罪悪感を抱いていた。
「これからどうするの? 高宮くんの家までは、あとどれくらい?」
「十分も掛からないと思う。後は通る道によって前後するかも」
先ほども確認したがゾンビたちの姿はなかった。
だが進むに連れておそらく増えてくるだろうと思う。
だから少しでも良いので体力を回復させておきたかった。
座っている椅子の背もたれのもたれかかり、天井を仰ぎ見る。小さくため息を吐く。どうしてこんな世界になってしまったのか――そうふと思った。今日の朝までは確かにいつもどおりの日常の世界だったはずなのだ。それが突然崩れた。自然的に発生したものなのか、それとも人工的に発生させられたものなのだろうか。人間の科学が発達し始めてからもう長い年月が経つ。その年月の分、人間は神の頂へと向かい、近づこうとした。その結果昔は違法とされていた人間に対するクローン技術の使用が部分的に合法化されるなどされていた。さらに人間は肉体だけでなく、魂にすら干渉するようになる。それはまるで神にでもなるかのようにだ。地上を這いずり回り人間が果たして空高くに居座る神に手が届くだろうか。
「そろそろ行かない? あれがいつ来るか分からないから」
「桜田さんは、もう大丈夫なの?」
そろそろ出発しないかと提案してきた。
大丈夫なのかと尋ねる。無理をして倒れられてしまっては大変だと思っていた。彼女もその辺りは分かっているからそう言うのだろうというのも分かる。彼女の手が、小刻みに震えているのが分かる。ペットボトルに入っている水が何度も波紋を発生させている。それは彼女の心の乱れを表しているようだ。
「大丈夫、私は……大丈夫だから」
気丈に振舞おうとする彼女の笑顔が痛い。
どうしてあの時……、と何度も悔やむ。そんなことをしても時間はまき戻せないと分かっているのに。それにそれを口にすることはできなかった。そうしたらきっと彼女は怒るだろうから。彼女が必至に絶えているのを侮辱するように思えたから。
ここで無理やりに休ませることもできる。だが彼女の気遣いを無碍にもしたくなかった。
一度頭を垂れ、良し、と気合を入れるように一言言い、立ち上がる。ペットボトルと残した菓子パンをリュックサックに放り込み、口を閉じる。
そして自分はゴルフクラブを片手に、後二本を入れた入れ物を肩から下げるように持つ。口を閉めたリュックサックをかおりに手渡す。
「無理はさせないよ」
「ありがとう……」
気遣うように言う怜。
かおりはそれをそっと受け取る。
怜はそれを確認し、頷いて背を向ける。両手にゴルフクラブを握り締めて警戒するようにしてそっと玄関へと向かっていく。その後ろをかおりは付いて行く。当然彼女も後方を確認しながらだ。
そっと玄関のドアを開け、外の様子を見る。そこにはここに来た時と同じようにゾンビたちの姿はなかった。ホッと小さく息をはきながら音を立てないようにしてドアを開ける。太陽の光に思わず手で遮るようにする。眩しいと思うことでまだ自分たちは生きているのだと感じることができた。
よし、と気合を入れ家へと向かうことにした。
8月23日 午後13時 通学路
肩で大きく息をする。
額からにじみ出る汗がほほを伝い、顎から地面へと落ちる。
グレー色をしていた道路に転々と染みができていく。隣に立つかおりも膝に手をついて大きく息を乱していた。怜の手にあるゴルフクラブは大きく拉げてしまっており、先のほうはすっかり血で真っ赤に染まってしまっていた。返り血を浴びたために、休憩を挟むために立寄った住宅で拝借していたワイシャツが所々赤く染まっていた。折角変えたばかりのものであるが、早速だめにしてしまったようだ。仕方ないとはいえ、家に近づく度に増えていくゾンビたちに苦労していた。
いつものバス停辺りに辿り着いた怜たちの瞳に映ったのは交通法などを無視して道路を堂々と歩いているゾンビたちの姿だった。周りには衝突事故を起こしたままの状態で止まっている車がいくつも見られ、最も大事なことでは近くの住宅に丸々一台が追突していたことだった。よく見るとそれはタクシーであった。おそらくかまれた人物が病院に向かわせていた途中にゾンビ化し、運転手を襲ったのだろうと思う。
地面と靴が擦れる音に彼らがこちらに気付き、ゆっくりとであるが向かってきたのだ。回り道をするために走り出した二人。角を曲がった先にも現れたゾンビたち。怜は手に持っていたゴルフクラブを構え、そのゾンビたちに向かって走った。数は片手で数得られるくらいのものだ。だが彼らが固まって集まられるととてもじゃないが対抗できない。そのために集まってくる前にこちらから出向いて叩き殺すしかないと考えていた。冗談に構えられたゴルフクラブを思いっきり脳天めがけて振り下ろした。ゾンビの脳天を半ばまで叩き潰したそれ。スイカを叩く方がまだ好感触だった。とてもじゃないが慣れることができないものがゴルフクラブを伝って怜の掌にそれが伝わった。
思わず表情を歪める。それだけ感触が受け入れがたいものだったのだ。角材の時にも感じていたものであるが、ここから先、決して避けられないものだ。一体目のゾンビが、顔が潰れたためにその場に前のめりに倒れる。その後ろから現れた女性のゾンビ。服を引き裂かれているために上半身をはだけさせている。いろいろと着飾っているのを見るとまだ若い女性だったのだろうというのが分かる。その顔を殴るのに一瞬だけ躊躇いが生まれる。だがこんなところで立ち止まっていられないのだ。
「お、オオオォォォ!」
戸惑いを闘気へと変える。腰だめに構えた血糊の付いたゴルフクラブを思いっきり振り抜いた。こめかみに叩き込まれたそれが頭蓋骨を粉砕する。さらに首の骨が折れる鈍い音が聞こえる。横にあった塀に叩きつけられ、頭が完全に潰れる。
残り僅か、怜は一体の足を思いっきりなぎ払い、足の骨を折ると同時に点灯させる。その隙に接近していたもう一体のゾンビの顎目掛けて振り上げる。跳躍しながら振り上げたゴルフクラブが完全にヒットし、完全に仰け反る形になる。後方に倒れたゾンビを一旦無視して、先に倒れていたゾンビが立ち上がろうとしているのを確認する。そんなことはさせまいと冗談に構えたそれを思いっきり顔面目掛けて叩き込む。顔の真ん中が完全に陥没する。あまりに強く叩きすぎたためか、クラブの方からも軋む音が聞こえた。
――まだだ、あと一体!
足を止めては駄目だ。腕を振るのを止めても駄目だ。
ゆっくりと上半身だけを起こし、こちらに視線を向けてきたゾンビ。それに対して地面を穿つようにして踏みしめ、走る。思いっきりためを作り、ゴルフのスイングの要領でゾンビの顔面に叩き込み、上へと振り抜いた。クラブが砕けそうになるのが分かる。だがまだ代えはあるということで戸惑いはなかった。完全に振り抜かれた時、クラブは完全に真っ二つに折れた。先のほうが中へと舞い上がる。それと共に今しがたクラブを叩き込んだゾンビの頭部もまた宙を舞い、塀を飛び越えて住宅地へと飛び込んでいった。
――おお、ホームラン……。
などとふざけてみるもまったく笑えない。
後ろに立っているかおりのことを肩越しに見てみる。
ビクッと肩を揺らし、慌てて視線を逸らした。口元をハンカチで覆っているのは目の前の惨状を見ていたからだろう。フラッシュバック的なことが起きなくて良かった。
ホッと一息を付こうと思い、構えていた折れたクラブを下げた――その時だった。
「っ! 高宮くん、前!」
「っ!?」
十字路の目の前で戦闘があったために周りからゾンビたちを呼び寄せてしまったようだった。
両脇からぞろぞろと現れるゾンビ。
慌てて後ろを見るかおりであるが、その方向を見て思わず後ずさりしてしまう。慌てて肩から斜めにかけていた入れ物から新しいゴルフクラブを取り出していた怜の背中とぶつかる。
一体どうしたのかと思い、怜はかおりの方に肩越しから様子を見る。そして彼女と同様にギョッとせざるを得なかった。足を引きずるような音を響かせてこちらに迫るゾンビたち。前も後ろも埋め尽くされているという状態だ。まったく一難去ってまた一難。とても一難に収まるような状況ではない。
この危機的状況に陥り、歯噛みする。
下手に動くこともできないし、その間にもゾンビたちが生者である二人を求めてゆっくりと近づいてくる。背中に抱きついてきたかおりを庇うようにして壁に彼女を押し付け、その上に背中から覆いかぶさるようにして武器を構えながら立つ。
一体のゾンビが手を伸ばしてきた。それを下からかち上げるようにして振ったクラブで弾き、そのまま腹部を蹴って後退させる。その合間に逆方向から迫ったゾンビが肩に手を触れさせた。ざわりという冷たい感覚が身体を襲う。その恐怖に対して、身体の捻りを使ったフルスイングでゾンビの頭を近くにあった電柱に叩きつける。それによってゾンビの顔面も完全に粉砕され、血肉の雨が降り注ぐ。
たった一体を殺しても周りには無数のゾンビが群がっているために意味がまったくない。
背中に隠れているかおりの悲鳴を上げるようにして怜のことを呼ぶ。そんなに大きな声で言われなくても何とかしなければいけないということくらい分かっている。分かっていてもどうすれば良いのか分からないのだ。
――万事休すか……。
そんな風に諦めが頭を過ぎった。
スッと点に助けを求めるように空を仰いだ。こちらの心は今にも黒く塗り固められそうだというのに、憎たらしいほどに青空が広がっている。姿なき何者かが空のようなはるかな高みからこちらを見下ろしているように感じられた。
赤く染まったワイシャツにしがみ付く彼女の手の力が強くなる。二人に群がってくるゾンビに対して無駄な抵抗をするように怜はゴルフクラブを振り回す。二体まとめて頭部を潰す。二体目の頭部にめり込む形でクラブが止まる。一体目のゾンビは頭部を半分失っているためにその場に崩れ落ちる。だが二体目は頭を潰されているというのに、こちらに向かって突き進んできたのだ。肉の間に挟まってしまったゴルフクラブを抜き取るのに手間取る。両肩を掴まれ、上顎を失った口が迫る。悲鳴を上げる怜は無我夢中でゾンビを蹴り飛ばす。その反動で怜も後ろに倒れてしまった。背後にあったコンクリートの塀に後頭部をぶつける。
「きゃあっ! 高宮くん!」
怜が倒れこんだとなりにしゃがみ込んでいるかおりが悲鳴を上げた。
激痛に目の前がチカチカとする。漫画ではないがまるで星が目の前を回っているようにも見えた。鈍い音がしたので痛む後頭部をそっと手で触ってみる。ぶつけたところが大きくこぶになっており、さらにヌルリとした感触があった。それを良く見てみると掌が赤く染まっており、血であるのが分かる。
地面に横たわる怜。力が入るどころか徐々に腕の力が抜けていく。ばたりと地面に転がる掌から地面の感触が伝わる。この感触も彼らにかまれれば感じることもなくなる。助けを求めるかおりの声が聞こえる。徐々に近づいてきているゾンビたち。もうどう抵抗しようにも無駄だろう。こんな時ゲームであれば誰かがまるでヒーローのように助けに来てくれるだろうし、強力な武器を使って一網打尽にするのだろうと思う。だが今の二人にはそんなものはなく、目の前には立ちふさがるように大きな塀が存在している。
――ちくしょう……まだ、死にたくないな。でも……。
無数の腕が我先にと求めるかのようにこちらに向かって伸びてくる。
殺すならできるだけ痛みはくれないで欲しいと願う。最後くらいは楽に死にたい。とはいえ死んでもまたゾンビとなって立ち上がるだろう。ならばいっそのこと、自殺した方が良かっただろうか。
――悪い広大、大河……俺は、もう無理そうだ……。
学校で分かれた二人の悪友の顔が思い浮かぶ。馬鹿をやりまくった夏休みの思い出が走馬灯のように駆け巡った。こんな地獄のような世界にならなければ、きっと来年も同じようにしていられたのにと思う。
悔しかった。世界がこんなことになってしまったことに対して。
憎かった。世界をこんなことにしてしまった何かに対して。
『なぁに、そんな辛気臭い顔をしてるのよ、怜』
――ああ、懐かしいな……姉ちゃん。
いつも自分のことを元気付けてくれたたったひとりの姉。この歳になっても何かと世話を焼いてくるので鬱陶しいとも思っていた彼女であるが、小さい頃からずっと一緒にいてくれた。
学校で行方が分からなくなった彼女を探すために走っていた怜。逆に彼女も同じように自分の事を探していてくれいたのだろうか。もしそうならば……、と思うとこそばゆかった。
視界が狭まってくる。瞼が重い。体が石になったかのように動かない。
――ごめん、俺、もう……。
ゆっくりと瞼を閉じた怜。視界が真っ暗になり、意識が途切れた――。