菜の花揺れて 作:春野天使
目の前には一面の菜の花が広がる。
海から吹いてくる潮風に、小さな黄色い花々が揺れている。風に揺られてダンスを踊っているみたい。菜の花畑が舞踏会の会場みたいに見える。
もしかしたら菜の花達も、優希兄ちゃんのために踊っているのかな? 旅立ちのダンス。お別れのダンス……。
三月初めのある土曜日。私は菜の花畑の真ん中の道を自転車で駆けて行った。頭上には雲一つない真っ青な空。菜の花畑の向こうには真っ青な海が広がってる。一年前、私は都会からこの小さな田舎町に引っ越してきた。一、二時間に一本の一両編成の列車が止まるだけの寂しい田舎町。外を歩いていてもすれ違う人はほとんどいない。高層ビルも繁華街も映画館も何にもない田舎。私はなかなかこの町に馴染めなかった。
けれど、青い空と青い海、黄色い菜の花畑のコントラストだけは、一目で気に入った。穏やかな春の風、キラキラと光る青い海、揺れる菜の花、平和そのものの風景。
私は栗原もも。この春から高校生なる。中学を卒業する日まで後僅かになった。頑張って高校に合格出来たのも、優希兄ちゃんのお陰かな? 優希兄ちゃんとは今日でしばらくお別れだけど、私は泣かないよ。笑顔で見送るね。こんな晴れた旅立ちの日に涙は似合わないから。
菜の花畑を途中で抜けて、私は道路の向こう側の無人の小さな駅へ向かった。高い位置にある駅を見上げると優希兄ちゃんの後ろ姿が見えた。優希兄ちゃんはホームに立って、駅のすぐ前に広がる海を見ていた。黒いスーツを着てトランクケースを横に置いている。
やっぱり、今日行っちゃうんだ……。みんなには明日出発するって言ってたのに、一人でこっそり行っちゃうんだね。優希兄ちゃんは恥ずかしがり屋だから、昨日の壮行会だって居心地悪そうだったもの。優希兄ちゃんは私と似ているのかも。私も人がたくさん集まって賑やかな所は苦手だから。
優希兄ちゃんが私の本当のお兄さんだったらいいなって思うこともあった。そしたらずっと兄妹で繋がっていられるものね。でも、本当の兄妹だったら恋人になるとか結婚するとか出来ないよね。優希兄ちゃんは私のこと完全に子供扱いで、女として見てくれないけど……。この春からは高校生なんだよ。今年十六才になるの。優希兄ちゃんは今年高校を卒業したばかり。今は十八才で今年十九だから、親の承諾があれば結婚だって出来るんだよね。
でも、そんなの無理に決まってるけど。優希兄ちゃんはピアニストになるんだから。これからドイツの音楽学校で勉強しなきゃならないんだから。私のことなんか忘れちゃうよね……。ダメダメ、また涙が出そうになってきた。
私が自転車を止めて駅を見上げていたら、優希兄ちゃんが振り返って私に気付いた。優希兄ちゃんは私の姿に驚いたみたい。目を丸くしてこっちを見てる。皆には内緒のつもりだったんだものね。
私がニッコリ微笑むと、優希兄ちゃんは私に手を振った。
「ももちゃん、上がっておいで!」
優希兄ちゃんが手招きする。私は嬉しくて自転車を下りると駅への階段を駆け上がって行った。優希兄ちゃんの名前は、天宮優希。優希兄ちゃんのお祖母ちゃんはドイツ人だから、優希兄ちゃんはクウォーター。薄茶色の瞳で鼻筋が通っていて、髪の色も栗色に近い。背も高くてスラッとしてて、すごくカッコイイ。ドイツにも何度か行ったことあるみたいで、ドイツ語も少し話せるらしい。 ドイツに行ってもお祖母ちゃんがいるから寂しくないよね。
「ももちゃんにはばれたか。家族にしか言ってなかったのにな」
他に誰もいない小さな無人の駅に私が上がっていくと、優希兄ちゃんはそう言った。
「私、誰にも聞いてないよ。優希兄ちゃんは今日行っちゃうんじゃないかなぁって、なんとなく思っただけ」
「へぇー、スゴイなももちゃんは」
「だって、優希兄ちゃん、大勢に見送られるの嫌そうだし」
私は上目遣いに優希兄ちゃんを見つめた。優希兄ちゃんと向かい合って話しをするの、本当はとてもドキドキする。いつもはピアノがあるから平気なんだけど。
「そ、学校中の生徒や先生も来そうだからね」
「きっと、町中の人が見送りに来るよ」
「わ、見送りの垂れ幕とか旗とか振られそうだよね」
優希兄ちゃんはハハッと笑った。
「でも、明日優希兄ちゃんがもう出ていったって知ったら、皆がっかりするね」
「そうかもな。後でさんざん文句言われそうだね。けど、僕はもう日本にはいないからから平気だ」
日本にはもういない。優希兄ちゃんは笑顔でそう言った。でも、そう思うと寂しいな。
「ももちゃん、昨日の壮行会はどうしたの? 僕の演奏中に急にいなくなったりしてさ」
「あ、いつもの気まぐれ……人がたくさんいるの苦手なの」
「そうか、でも僕のピアノは最後まで聞いて欲しかったな」
「ごめんなさい」
私は舌を出してヘヘっと笑った。本当は、優希兄ちゃんのピアノの曲を聴いていたら大声で泣きそうになったの。だって、あまりにも悲しくて切ないメロディだったから。
「……あの曲、ショパンの『別れの曲』だよね?」
「うん、正式には『エチュード作品10−3 ホ長調』だけどね」
「綺麗な曲だった。でも、ちょっと悲しい曲だった」
「そうだね。ショパンが『別れの曲』って命名 した訳じゃないらしいよ。けど、副題には『悲しみ』ってついてるらしい 」
「そうなんだ……」
悲しみ……。まるで私の気持ちを表しているみたいだった。だから、どうしても最後まで聴けなかったの。
「ももちゃんも四月からは高校生だね」
つい俯いてしまった私に、優希兄ちゃんが優しく言った。
「ももちゃんが元気に学校行けるようになって良かったよ」
「うん、ありがと。優希兄ちゃんのお陰だから……」
私は転校して来てすぐ、学校へ行くことが出来なくなった。登校拒否を約半年近く続けた。特にいじめられたとか辛い思いをしたとか、そういうのじゃないけど。どうしても新しい環境に馴染めなくて、友達を作ることも出来なかった。仲の良かった友達達と別れてひとりぼっちになって、違いすぎる環境で心を開けなかった。田舎の人達の優しささえ、時におせっかいでうっとうしいと思った。
小さな町では会う人ほとんどが顔見知りで、私は外へ出ることさえ嫌になりずっと家に閉じこもっていた。
でも、去年の秋のある雨の日、気分転換で散歩に出かけた時、私は初めて優希兄ちゃんのピアノの音を耳にした。人に会うのが嫌で、わざわざ雨の日を選んで傘を深く差して歩いていた私の耳に、優希兄ちゃんのピアノの音が雨の音と混じって聞こえてきた。少し開いた窓の向こうから、優しいピアノの音色が響いてきた。
その曲はショパンの『雨だれ』だって、後から優希兄ちゃんに教えてもらった。優希兄ちゃんのピアノがあまりにも素晴らしくて、私は優希兄ちゃんの家の前でずっと立ち止まって聴いていた。優希兄ちゃんは何時間もピアノを弾いていた。そして、優希兄ちゃんのお母さんが外から帰った時、私に声をかけてくれた。
私、何時間も雨の中で優希兄ちゃんのピアノを聴いていて、知らない間に涙を流していた。音楽を聴いて泣いたのは、初めてだったんだよ。優希兄ちゃんのピアノの音が優しく私の心に響いて、私の閉ざされた心をゆっくりと開けてくれたみたい。
私は家の中に案内されて、初めて優希兄ちゃんと会った。ピアノの音と同じくらい優希兄ちゃんは優しくて、ピアノを弾く姿もすごくかっこよかった。
それから、時々私は優希兄ちゃんの家に行ってピアノを聴かせてもらうようになった。優希兄ちゃんとの会話とピアノの音色が、私を段々明るくしていった。そして、少しずつ学校へも行けるようになったの。
「ももちゃん、勉強頑張ったもんな。高校生になっても頑張れよ」
「うん、頑張る!」
「ま、無理しないでほどほどに頑張ってればいいさ」
優希兄ちゃんは私に微笑みかけて、チラッと腕時計を見た。もうすぐしたら電車が来る。駅のすぐ前に広がる青い海が日の光を浴びて、キラキラと穏やかに輝いていた。そのキラメキが眩しくて、私は目を細めた。
こんな美しい日の穏やかな時間。優希兄ちゃんとの別れが来なければいいのに。時間よ止まれって私は心の中で叫んでいた。
「優希兄ちゃんも頑張ってね」
「あぁ、ドイツに行ってみっちり修行してくるよ」
「優希兄ちゃんはピアノコンクールで優勝したんだから、もう修行なんて必要ないと思うのに。もうりっぱなピアニストだよ」
優希兄ちゃんは入学が難しいドイツの名門音楽学校に合格した。ローカルテレビにも出演したし、新聞にも載っていた。
「まだまだ甘いね。僕は世界一のピアニストを目指すよ。『世界の天宮』って言われるような歴史に名を残すような人物になりたいな」
「ショパンみたいにね」
私はクスッと笑った。
「ショパンはピアニストというより、作曲家だったけどね。何百年も後の世でも語り継がれるようにはなりたいよね。僕はまだまだほんのひよっ子さ」
優希兄ちゃんと私は顔を見合わせて微笑んだ。優希兄ちゃんの笑顔が眩しい。海の光よりもずっとキラキラしてる。私は急に悲しくなった。
「……今度、いつ帰ってくる?」
「今度? そうだなぁ」
優希兄ちゃんが首を傾げていると、小さな一両編成の電車がゆっくりと近づいて来るのが見えた。
「まだよく分からない。なかなか長い休みはとれそうもないんだ」
優希兄ちゃんは電車の方に目を向けて、トランクケースを持ち上げる。
私の心臓の鼓動が早くなる。また涙がこみ上げてきた。駅に止まらないで! 優希兄ちゃんを連れて行かないで! 私は電車に叫びたくなる。
「でも、また必ず帰って来るよ。ここは僕の故郷だから」
優希兄ちゃんは私の顔を見つめて言った。電車がホームに止まり、ゆっくりとドアが開く。
「じゃあね、ももちゃん。元気でね」
「……」
私は優希兄ちゃんの顔を見つめたまま、何も言えなかった。何か言ったら、泣き崩れそうだったから。
「今度会う時のももちゃんは、今より大人になってもっと綺麗になっているだろうね」
優希兄ちゃんは微笑みながら、ゆっくりと電車に乗った。ピーと車掌さんの笛の音がしてドアが閉まりそうになる。
「優希兄ちゃん、私追いかけるね!」
私はそう言うが早いか、大急ぎでホームを走り、階段を駆け下りて行った。電車のドアが閉まる音がした時には、私は自転車に飛び乗っていた。
ゆっくりと進んでいく電車と同じ方向を、私はスピードを上げて走って行った。上を走る電車を見上げながら、電車と平行に走って行く。段々とスピードを上げて行く電車。
私は必死でペダルを踏み、立ち漕ぎで自転車を走らせる。
ちょうど電車と並んだ時、電車の窓に優希兄ちゃんの姿が見えた。優希兄ちゃんは笑顔で私に手を振っている。私も大きく手を振った。
「優希兄ちゃん、さようなら! 頑張ってね! また会おうね!」
私はいつの間にか泣いていた。涙が次から次へと溢れて流れ落ちた。最後まで泣かないって決めたのに、ダメだったね。でも、電車の中の優希兄ちゃんは、私が泣いてるの気付かなかったかな?
やがて電車は私の自転車を追い越し、トンネルの中に姿を消して行った。
私は忘れない。今日のこの日。真っ青な空と真っ青な海と黄色い菜の花畑のコントラスト。今日は悲しい別れの日ではなく、輝かしい旅立ちの日。
優希兄ちゃんにはとうとう告白出来なかった。本当は『大好き!』って大声で叫んでみたかった。でも、優希兄ちゃんにはまた会えるから。その時は勇気を出して告白するね。
『優希兄ちゃんのこと愛してます!』って……。その日が来るまで、私は一生懸命勉強して元気に学校に通って、素敵な大人の女性を目指していくね。
私は涙を拭って、自転車を走らせた。菜の花畑の間を駆け抜ける。そよそよと揺れる菜の花から、優希兄ちゃんの弾く『別れの曲』のメロディが聞こえてきそうな気がした。
それは悲しい別れの曲ではなくて、再会の日までの希望に満ちた別れの曲……。 完
お題小説に参加させていただいた春野天使です。
私が何気なく提案したショパンの「別れの曲」を使ってもらいありがとうございました!この時期になると聴きたくなる曲です。
小説の舞台は、県内のとある場所をモデルにして書きました。今ちょうど菜の花が満開だと思います。別れ、旅立ち、出会いの春は、一年中で一番好きな季節です。
今度はまた別の曲のイメージでも書いてみたいと思います。