別れの曲を君に〜 作:水樹 裕
薄闇が、人のまばらになった校舎に淡い影を落とす――
二月――春はまだ遠く、吐く息はまだ充分に白い。
その校舎の二階の廊下を、少女が一人とぼとぼと歩いていた。
「ああ、もうこんな時間っ!うわぁ、外、真っ暗じゃない」
彼女は、渡瀬 綾、十六歳。この、開明高校に通う一年生。
今日は、図書委員の貸し出し当番の日で、結局下校がこんな時間になってしまった。
ついていない時は、とことんついていないらしい。
いつもなら、二人一組でやる貸し出し当番が、もう一人が病欠で、一人でやる羽目になってしまったのだ。
夜の学校って、何となく不気味で、苦手だ。
廊下の窓から見える、もう消えかけている夕焼けを見詰めながら、溜息を付く。
「美智め、薄情なやつだ。女の友情より、男を取るなんて……」
いつもなら、親友の美智が、帰りを待っていてくれていた。
「ゴメンっ綾っ!今日は、先帰るねっ!」
両手を会わせて、上目使いに謝る美智の表情は明るい。綾は、すぐにぴーんと来た。
「……男だな?」
「えへっ♪」
「二年の、坂崎先輩?」
「そうなのよ〜。一緒に帰ろうって誘われちゃってさぁ♪」
「今日はごめんねっ。今度おごるからさ」
(そりゃぁ、親友の恋が実るのは嬉しい。応援しちゃう。
でも、それとこれとは別問題よ。
私、お化けって信じてるし、怖いし、こういうシュチエーションって、いかにも何かが出そうで、一番嫌いなんだからっ)綾は、心で思わず愚痴る。
「こう言う時に限って、良平は、いないんだからぁ」
ん、もうっ。と頬を膨らます。
幼なじみで、ご近所さん。
同じクラスの矢部 良平とは、友達以上恋人未満の、微妙なそれでいて心地良い関係だった。
「一番の男友達」それが一番当たっているかも知れない。
いつもなら、こんな時頼りにするのだが、今日は「ピアノの日」で、やはり定時でさっさと帰ってしまっていた。
運動もそこそここなす元気少年なのに、何とピアノの腕前は、「何とかコンクール」で入賞するくらい、凄い変なヤツ。
「はぁ……。今日は厄日よきっと」
綾は、我知らず、早足になる。
校舎の東の突き当たりの階段を下りれば、すぐ昇降口。
こんな日は、早く家に帰って、ゆっくりとお風呂にでも入るに限る。
「あれ?」
ふと、彼女の足が止まる。
今、何か聞こえたような気がしたのだ。
ぽろん。ぽろん。ぽろん――
「ピアノの、音……?」
それは、廊下の突き当たりの音楽室から聞こえた。
ぽろん。ぽろん。ぽろん――
空耳では、ない。確かにピアノの音だ。
ごくり、とつばを飲み込む。
誰かが、居残ってピアノの練習をしているにしては、変だった。
もう既に、校舎の中は真っ暗になっている。
なのに、音楽室は真っ暗のままだ。
誰が弾いているにしても、電気を付けないで居る理由が分からない――
「ま、まさか、学校の怪談……とかじゃないわよね」
薄闇に目を凝らしてみると、音楽室の引き戸が、半分開いていた。
綾の位置から、ほんの七、八メートルで階段がある。
でも、音楽室の前を横切らねば、階段にはたどり着かない。
このまま突っ切るか、それとも反対の西階段まで行くか、迷っていると、つま弾き程度だったピアノの音が、突如、綺麗なメロディを奏で出した。
「あれ?この曲……」
聞き覚えのある曲だった。
良平が、好きだと言って良く弾いて聞かせてくれる曲。
確か――ショパンの「別れの曲」
美しい、切ないメロディが、夜のとばりに包まれた校舎に響き渡る。
綾は、ふらふらと、何かに引かれるように音楽室へと入って行く。
暗い音楽室。
置かれている、黒いグランドピアノ。
そこに、男がいた。
多分、高校生じゃない。もっと大人の男の人――
街灯の灯りに微かに浮かび上がるシルエット。
なめらかに踊るように鍵盤の上を滑って行く、繊細な長い綺麗な指。
ああ、良平の指に似ているなぁ。
とても、綺麗。
部屋の入り口で、立ちすくんでいる彼女の気配に気付いたのだろうか、男が、ふっと視線を上げた。
重なる視線――
驚きに見開かれる瞳。
ぴたりと、ピアノの音が止む。
「き……みは?」
男の発した声を聞いて、綾は驚いた。
やだ、声まで良平に似てる――
もっと低くて、深みのある声だけど、良平が大人になったらこんな声になるのかも知れない。
「あ、邪魔してしまってごめんなさいっ」
綾は、思わずぺこりと頭を下げる。
「……いや、良いんだよ」
その声が、微妙に揺れる。
「あの、電気、付けましょうか?真っ暗で何も見えないでしょう?」
「……このままにしておいて貰えるかい?」
「あ、はい」
音楽室に沈黙が落ちる。
「あの、私はもう、帰らないと……」
本格的に、外は夜になっていた。いくら何でももう帰らないと、家で心配するだろう。
「それじゃぁ、さようなら」そう言って綾が部屋を出て行こうとすると、男が声を掛けて来た。
「ずいぶん遅くなったようだけど、どうしたんだい?」
やはり、無理に感情を抑えているような、揺れる声音。
何だろう、この人、泣きそうなんじゃないかな? そう思った。
「あ、今日は図書委員の貸し出し当番で……。いつもは友達が待っていてくれるんですけど、今日は用事があって、先に帰ってしまって……」
「……そうだったの」 声に微かに、笑いの微粒子が含まれる。
「あの……新しく来た先生ですか?」
唯一、思いついた、この人の素性について聞いてみる。
「ああ。そんな所です……」
ああ、やっぱり。綾はやっと納得した。
明日、早速美智に教えてあげなくっちゃ。
この高校、若い男の先生率がもの凄く低いから、女子の間では、結構不評だ。
若くて、良い声で、顔は見えないけど、ピアノが上手な先生。きっとモテるに違いない。
「今の曲、ショパンの”別れの曲”ですよね?」
「そう。別れの曲。……良く分かるね。好きかい?」
「はい。ちょっと切ない、優しい曲ですよね」
「今日は素敵な観客さんが出来たから、ちょっと真面目に弾いてみようかな」
「一曲、付き合って貰えるかな?」
もう少しなら、まぁ、良いか。この先生のピアノも、聞いてみたいし。
「はい。一曲ですね。良いですよ」
彼女は、ピアノに近い席にちょこんと座る。
外は、淡い月の明かりが広がっていた。
「それでは、君の好きな”別れの曲”を――」
それは、まるで洪水の様な、音の奔流――
繰り返す切ない、優しいリフレイン――
(何故だろう?)
綾は、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
後から、後からあふれ出す涙。
(何故、こんなに切ないんだろう?)
(何故、こんなに、恋しいのだろう?)
綾の脳裏に、何故か良平の顔が浮かんだ。
「綾……」
良平の声が聞こえた。
「綾、やっと君に会えたよ――」
「えっ?」
思いがけず、自分の名前を呼ばれて、綾は驚く。
ピアノを弾きながら、語り掛けているは、「先生」
彼女は、先生に名前を、教えていない。
「君に、ずっと伝えたい事があったんだ……」
揺れる声音――
先生の瞳に光るのは、涙?
「綾、君が好きだよ」
「誰よりも、大好きだった……」
「だから……、守ってあげられなくて、ごめんな……」
先生の頬を月明かりに照らされた涙が、きらきらと伝い落ちる。
「良平……?」
この人は、良平に似て居るんじゃない。
この人は、良平だ。
そう思った瞬間、綾の脳裏にフラッシュバックする、強烈な記憶――
あの日、綾は図書当番で一人で、夕闇に包まれた学校を出た。
急いでいた。
早く家に帰りたかった。
点滅を始めた、学校前の信号機。
彼女は、渡ってしまおうと駆け出した。
右折してきた大きなトラック。
視界一杯に広がる、トラックのライト。
身体に突き抜けた衝撃――
後は、何も感じなくなった。
ふと見ると、誰かのお葬式で泣き崩れる自分の両親の姿が見えた。
涙をぼろぼろこばして、しゃくり上げている美智。
唇を噛んで、ただ黙って涙を流している、良平――
「ごめんな……」
ピアノの音が止む。
シンと静まり返った音楽室に響く、低い嗚咽。
良平――
泣かないで。
泣かないで。
私も、あなたが、大好きだったよ。
綾は、良平をそっと抱き締めた。
触れることは出来ないけど――
伝える温もりは、私にはもう無いけど――
この気持ちは、あなたにきっと伝わるはずだから――
「ありがとう、良平……」
ぱちん。
不意に音楽室の電気が付く。
「あれぇ? 矢部先生、こんな真っ暗の中でピアノの練習ですか?」
良平の顔見知りの、巡回のガードマンが、笑顔で声を掛ける。
「……ええ。今日はバレンタインなので、一人で感傷に浸っていたんですよ……」
「もう少ししたら、帰ります」
「良いですよ、思う存分練習して下さい」
「はい。ありがとうございます」
あの日、八年前のバレンタインの日。
たった一人で、学校の交差点で事故死した綾。
良平にとって彼女は、誰よりも大事で、誰よりも守りたい女の子だった。
トラックに巻き込まれ、潰された鞄の中に在った、良平宛のチョコレート。
そのカードの中に書かれていたのは
あなたが、好きです――
伝えられなかった思い。
近くに在りすぎて、無くしてみるまで気付けなかった、思い。
もう、ピアノなんて止めてしまおうと思った。
あの時、ピアノの練習に行かなければ、綾は事故に会わなかったんじゃないか。
後悔の念ばかりが募った。
結局、彼は、ピアノを止める事は出来なかった。
教師になり、この母校に赴任が決まったとき、嬉しくもあり、又怖くもあった。
一番、最良で、最悪の場所――
そこで耳にした、「バレンタインの少女の霊」の話。
すぐ、綾だと直感した。
でも、良平には霊感など皆無だった。
毎年、こうして音楽室であの頃綾に良く聞かせていた「別れの曲」を弾きながら、ずっと願っていた。
どうか、どうか自分の前に現れてくれ――と。
そして今日、彼女は現れた。
あの頃のままの、愛しい姿で――
君は、迷わず、天国に行けたのだろうか。
最後に聞こえた「ありがとう、良平」 という声。
「綾、君の為に、別れの曲を――」
淡い月明かりの中、人気の無い音楽室から聞こえる、優しいリフレイン。
それは、天空に登って行く、少女の魂に、確かに届いていた――