第一章 十五年後
ラファエル王国領内にある、とある城町の酒場。
夕暮れ時の店内は、酒の匂いと人々の声で満ちていた。
仕事を終えた男たちがテーブルを囲み、杯を交わしている。
「なあ、お前ら聞いたか?」
そのうちの一人が声を潜めて言った。
「最近、帝国のほうでまた兵の招集が始まったらしいぞ……」
男は大きくため息をつき、酒を一気にあおる。
「はぁ……いつ何が起きるかわからねえ日々を、いつまで続けりゃいいんだか……」
向かいに座る男が、眉をひそめて応じた。
「でもよ、ラファエル王国も最近は国境の巡回を強化してるって話だ。
さすがに、大事にはならねえんじゃないか?」
しかし、最初に話していた男は首を横に振る。
「そんな簡単な話じゃねえよ。
帝国の連中、最近どうも様子がおかしいんだ」
周囲を気にするように視線を巡らせ、声をさらに落とす。
「少し前の小競り合いじゃ、帝国兵がまるで命知らずみたいに突っ込んできたって話だ。
それに……中には、魔族みたいな気配を纏った兵もいたらしい」
その言葉に、酒場の空気が一瞬で重くなる。
「……まったく」
「レド様や、大賢者様がまだご存命だったらな……」
男はそう呟き、杯を見つめた。
「あの二人がいりゃ、帝国だって、ここまで好き勝手はできなかったはずだ」
誰も、その言葉を否定しなかった。
◆◆◆
そして同じ頃――
人里から遠く離れた、深い森の奥。
一人の少年が、手にした木剣を振るっていた。
簡素に作られた木製の人形に向かい、何度も剣を振り下ろす。
乾いた音が、森の中に響き渡る。
「くっ……くそっ!」
少年は動きを止め、悔しそうに歯を食いしばった。
「あと少しで、コツが掴めそうだったのに……!」
額の汗を拭い、ふと空を見上げる。
「……あれ?」
「もうこんな時間か?」
腹の虫が鳴り、少年は苦笑した。
「お腹、空いたな……」
視線の先には、森の中にひっそりと佇む小さな木小屋があった。
この危険な森の中で、そこだけが不思議と安らぎを与えてくれる場所だった。
少年は木剣を放り投げ、勢いよく走り出す。
「母さーん!!」
勢いそのままに扉を開け、声を張り上げる。
「母さん!ご飯できてる!?
お腹ぺこぺこなんだけど!」
台所のほうから、聞き慣れた少し呆れた声が返ってくる。
「はいはい、もうすぐよ。
先にお風呂に入ってきなさい。出てきたらすぐ食べられるから」
「やった!」
少年の表情が一気に明るくなる。
「今日は、僕の好きな料理だよね!」
上機嫌のまま、足音を立てて風呂場へ向かっていった。
◆◆◆
木小屋の中に、鍋や食器の触れ合う音だけが残る。
アリシアは、子どもが風呂場へ消えていく背中を静かに見送っていた。
そして、ゆっくりと視線を落とす。
自分の手を見つめると――
指先が、抑えきれないほど微かに震えていた。
「……」
次の瞬間、強烈な吐き気が喉元まで込み上げる。
「……っ、かはっ……!」
思わず口を押さえるが、鮮血が指の隙間から床へと滴り落ちた。
アリシアは机に手をつき、なんとか身体を支える。
荒い呼吸が、なかなか収まらない。
(まずい……)
胸の奥から、重苦しい圧迫感が押し寄せてくる。
(魔王の核心……反応が、どんどん強まっている……)
それは痛みではない。
存在そのものが、内側から主張してくる感覚だった。
(封印が……もう、限界に近い……)
アリシアは顔を上げ、風呂場のほうへと視線を向ける。
壁の向こうから、水音が微かに聞こえてきた。
(この子……)
彼女は、震える指を強く握りしめる。
(……もう、時間がない)
◆◆◆
しばらくして、風呂場の扉が開いた。
蓮は、まだ少し濡れた髪を拭きながら食卓につく。
テーブルの上には、湯気を立てる料理が所狭しと並んでいた。
「わあ!」
思わず声が漏れる。
「母さん!
今日もすごいじゃん!」
箸を伸ばしながら、楽しそうに続けた。
「なんか、いつもより豪華じゃない?
いいことでもあったの?」
アリシアは、その様子を見つめ、いつもと変わらない優しい微笑みを浮かべた。
「……ふふ、傻孩子ね」
穏やかな声で、そう告げる。
「食べ終わったら、少し外に出ましょう。
お話があるの」
蓮はその言葉の意味に気づかないまま、素直に頷いた。
「うん!わかった!」
夜の森は、静かにその色を深めていく。




