第9話:香りを辿りて、記憶をさかのぼる
朝靄の残る後宮の裏庭で、ユウは静かに薬包紙を開いた。
白く、柔らかな粉末。見た目はただの「玉露の粉」として届けられたもの――だが、ユウの鼻はそれを赦さなかった。
「……やっぱり、違う」
ほのかに感じる“涼やかさ”は、玉露だけでは出せない香気だ。
冷たい水に指先を浸したような清涼感。あれは、凍香草――山間部に自生する薬草の香り。
それは本来、熱を下げ、神経を沈める薬効を持つ。だが摂取しすぎれば、逆に意識が鈍り、記憶にも曖昧な靄をかける。問題は、それが「玉露に意図的に混入された」可能性だ。
しかもこの粉は、誰もが飲むような「妃たち用の調合」ではなく――
「……皇后さまのお茶、ですね?」
ユウの背後から、穏やかな声がした。振り返れば、そこには明鏡が立っていた。
彼は帳簿と調薬記録を手にしており、ユウの目の前に差し出した。
「この三日の記録、あなたが見て違和感を覚える箇所は?」
ユウは目を通し、一点だけ眉をひそめた。
「ここ。『三日前の玉露、庫の番号が三七一……でも、昨日と今日の分は三七四になってます』」
「……どうしておかしいと思った?」
「庫番は原則固定です。とくに皇后さま用の茶葉は、二重の封をして厳重に保管されているはず。なのに、三七一の記録が途切れてる」
記録が「抜けている」のだ。それは、“誤記”で片付けられるにはあまりに不自然だった。
つまり、本来あるべき茶葉が一度、意図的に消された。
そして、代わりに「別の玉露」が補充されたのだ。しかも凍香草入りの。
誰がその茶葉を差し替えたのか?
どうしてその香草を使ったのか?
ユウの思考が絡みあった糸を解きほぐし始めたそのとき、ふと鼻先に微かな香りが漂った。
「……これだ」
香りは、帳簿そのものからしていた。
ユウはそっと指先で帳面の角をこすり、その指を鼻先へ。そこにはわずかにだが、凍香草の残香が残っていた。
「帳面を触った誰かの指に、粉がついていた。つまり――」
「その人物が、混入に関わった可能性があるということか」
明鏡は声を低めた。
だがユウは、そこからさらに先を読む。
「……この香り、純粋な凍香草じゃない。練香とまぜてある」
「練香?」
「はい。これは、若い女官たちが好んで使う安価な香り――でも、皇后さまの侍女は使わない」
ならば、その香を使う者が帳面を触ったのだとすれば。
「――内官か、あるいは下級の記録係……」
そこで、ユウの記憶が一つの場面を蘇らせた。
三日前。薬館に立ち寄った、若い内官の一人が、不自然に書架を探っていたことを。
「……誰だろう? 確か、名札に“智”の字が……」
ユウがつぶやいた瞬間、背後で控えていた玲玲が目を見開いた。
「ユウ様、それってもしや、“智春”では?」
「知ってるの?」
「以前、宦官の配達係として名簿にありました。でも一月前に、薬庫の勤務から香房に移ったって――」
「香房……」
ユウの表情がわずかに引き締まる。
香房は、後宮の香を司る場所。練香の調合や保管は、すべてその部署に委ねられている。
凍香草を混ぜる機会も、香料とすり替える知識も、そこにある。
「明鏡さん。この“智春”の異動記録、調べてください。あと……香房の出庫記録も」
明鏡は頷く。
「わかりました。三日、いや、五日前まで遡ってみます」
ユウは、ふたたび手元の粉末を見やった。
香りは、記憶の鍵になる。
香を辿れば、意図も動機も、過去の行動までもが浮かび上がる。
「この香は、忘れられるために使われた。……なら、私は逆を辿るだけ」
――忘れさせられた“記憶”の方へ。
ユウは立ち上がった。
凍香草の香りの向こうに、過去の誰かの手がかりがあるはずだ。




