第5話:紅蓮の宴と沈黙の香炉
「──あれが、第三別館の“幽妃”か」
翠玉の間に集った人々のささやきが、静かに広がっていた。
この日、後宮では春の豊穣を祝う“紅蓮の宴”が開かれていた。
妃たちと女官たちが一堂に会する年に一度の大祭。
その舞台に、久しく姿を見せなかった**王妃・煕蓉**が現れたのだ。
だが──
「まるで、魂が抜けたみたい……」
「やはり毒の噂は本当だったのか……」
沈んだ瞳。焦点の定まらない眼差し。
背筋も伸びず、声も弱々しい。
ユウは王妃の後ろに控え、心の中で奥歯を噛んでいた。
(解毒茶で一時的に症状は和らいだけど……まだ抜けきってない)
(しかも、今朝も“例の香”が焚かれていた。誰かが継続的に毒を──)
宴は始まり、楽が奏でられ、食が運ばれ、舞が披露される。
だがその平穏は、突如として破られた。
──ガシャァンッ!
銀盆が倒れ、香炉が床に転がる。
そのすぐ傍らに、女官が仰向けに倒れていた。
「ひ、人が──!」
「誰かっ、医官を──!」
ユウはすぐに駆け寄る。
その女官は、王妃付きの香調係。
倒れた香炉は、王妃の居室に用意されていた“専用の香”。
「……意識がない。脈拍は速く、呼吸は浅い。唇に痙攣」
ユウの目が鋭く光る。
(これは、“吸入型”の毒──)
周囲には騒然とした空気が広がるが、ユウは床に散った香炉の破片と香の灰を慎重に集める。
そして、香炉の底部に“薄く刻まれた印”を見つけた。
──「白梅」。これは、王妃が信頼する香調師の銘だった。
(“白梅”の調香なら、毒なんて仕込むわけない……)
(つまり、この香は“すり替えられた”)
ユウはポーチから“判別粉”を取り出す。
香灰に混ぜると、すぐに灰色が赤みを帯び──やがて、毒性反応の証である紫色へと変わった。
「この香には──“澱毒花”が使われてます」
その場にいた者たちが息を呑む。
澱毒花──吸引によって、幻聴や記憶混濁を起こす植物毒。
だが、長期摂取すれば脳に深刻な障害を残すこともある。
「この香は“王妃の香炉”ですわよ!?」
と叫んだのは香司長。だが、ユウは毅然と答えた。
「ええ、でも──これは、**“すり替えられた王妃用香”**です」
「元々の香炉は、白梅さまの手によるもの。でも今朝、王妃の部屋に届けられた香炉は“別物”でした」
「きっと、誰かが白梅さまの香と“似せた毒香”を作り、すり替えたんです」
女官が倒れたのは、香炉を王妃の席に運ぶ“直前”。
もしあと数歩進んでいれば──
この毒は、王妃に吸わせられていた。
「……白梅さま、ですか?」
その夜、ユウは香調師・白梅を呼び出していた。
歳は二十代半ば。色香を漂わせる美しい女性。
「この香、わたしが調香したものじゃないわ」
彼女はすぐに香灰の匂いを嗅ぎ分け、断言した。
「そもそも、私は“澱毒花”など扱わない」
「でも、この香の組み立て……わたしの処方を知ってる者の手よ。香材の火入れ時間、配合順序、焚き染め方──全て私の癖を真似てる」
ユウは息をのんだ。
(つまりこれは、“白梅を陥れるため”の偽装)
「ユウちゃん、あなた……一つ聞くわ」
「あなた、毒を見抜く“鑑定眼”があるんでしょう?」
「さっきの宴で見たわ。香灰の反応。普通の医官じゃ、あんな処理できない」
「……それは、秘密です」
「ふふ。よくあるのよ、“異能”を隠してる人って」
白梅は微笑んで、それ以上は聞かなかった。
だが、最後にぽつりと呟いた。
「わたし、昔──“煕蓉さまの妹”の香も調香していたの」
「え?」
「……その子はもう亡くなったけどね」
「煕蓉さまは今も、毎日その子のための香を焚いてるわ。あの香は、わたしが“たった一人”のために作ったもの」
「でも──その香にも、最近“変な匂い”が混じってるの」
ユウは、胸の奥が冷えるのを感じた。
(王妃の“想い”に寄り添った香すら、毒に染められている──)
翌日、香司長の部屋が調べられた。
ユウが見つけた“香材の混入痕”と、管理簿の矛盾により、
香司補佐の一人が拘束された。
しかし、本人は言う。
「私はただ、指示された通りに調香しただけ……」
「“ある妃”の命令でした──とても抗えなくて……」
だが、その妃の名は、口にされなかった。
証拠も曖昧なまま、事件は“偶発的な香材事故”として処理された。
ユウは、白梅とともに夜の薬庫で帳面を整理していた。
「事件は収まったけど、“毒の流れ”はまだ続いてる」
「今のところ、“香”が主だけど……次は“薬”そのものを、仕掛けてくるかも」
ユウの目は、闇の中で静かに光っていた。
その背には、王妃がまだ見ぬ“深い闇”が、少しずつ迫っていた──。




