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第40話:香を記す掌

火は燃え尽き、香炉の底には白い灰だけが残っていた。


ユウは、それを見つめていた。

緋呂から受け取った封書――そこには、**朱慶しゅけい**の花押とともに、後宮のある儀式の記録が記されていた。


「後宮の香席にて、皇太子の脈動乱れ、一時的な記憶混濁を確認。

緋緋流・香師緋呂により調香。

主成分:降神香・黄心丹・蘇合香……記憶抑制を目的とした配香。」


「……やはり使われていたのね。“香で記憶を削ぐ”処方が」


ユウの眉間に皺が寄る。

沈香や蘇合香は、確かに鎮静作用を持つが、それを特定の神経系に作用させるには、**“導香”**という調整香が必要――それを使える香師は、緋緋流に限られていた。


その夜。

ユウは密かに後宮・東殿の奥、朱慶の私室へと忍び込んでいた。


薄闇のなか、朱慶はすでにそこにいた。


「来ると思っていたわ、緋緋の娘」


その声音には年輪の静けさと、獣のような警戒心が潜んでいた。


ユウは堂々と進み出る。


「あなたが緋呂に依頼したのね。皇太子に“記憶を封じる香”を」


「それがどうかした? 皇太子は弱っていた。政の重圧と、ある“事件”の記憶に苦しんでいた。私は、ただ救おうとしただけ」


「“香で記憶を抑える”のは、一時の救済。でも、それは“意志”を奪う行為よ。皇太子自身がその香を望んだの?」


朱慶は目を伏せる。そして静かに言った。


「……皇太子は、かつて正妃を死なせたと思い込んでいた。実際は、あれは“謀”だった。だが真実を知れば彼は壊れる。だから私は香を使った」


「香は、道具よ。使い方次第で癒しにもなる。でも、真実をねじ曲げるために使えば、それは“毒”」


「毒か癒しか、それを決めるのは私たちじゃない。歴史よ。後宮は、“過去”を忘れることで成り立っているの。真実を知った者は、排除されるだけ」


「……だから香月も?」


朱慶の口元が、かすかに動く。


「彼女は……記憶を戻しすぎた。緋呂の処方は“半端”だった。もともと彼女は、自分の意思で香を焚いたのよ。“思い出したい”と願って。罪を――背負いたかったのかもしれないわね」


一瞬、静寂が落ちた。


ユウはゆっくり歩み寄る。


「私は、香で人を操る後宮のやり方に与しない。だから、ここに来た。“記録”を、持ち帰らせてもらう」


「それを暴けば、皇太子もあなたも危うくなる」


「それでも、誰かが“忘れられた真実”を拾わなきゃ」


朱慶の目が細くなる。


「……あなたの目は、あの人に似ている。緋緋の前宗主、――あなたの父」


「父は、香を“記録する術”として残そうとした。それが、私の道」


静かに記録帳を懐に入れると、ユウは背を向けた。


その時――朱慶が低く囁いた。


「――その帳を追って、もう一人、動いている者がいる。“香を記す掌”を奪おうとする男。……“宦官・徐廉じょれん”よ。気をつけなさい」


ユウの背中がぴくりと動く。


「徐廉……。あの、皇太子付きの」


「ええ。彼は、すべてを記憶し、すべてを操る。香ではなく、人の“声”と“仕草”を使って」


「香を使わずに記憶を奪う者……」


「香と毒は表裏一体。そして、言葉もまた“香”になりうる。忘れないことね」


その夜。

ユウは、帳の記録をひもといた。


香月の最後の手記。そこに記されていたのは――


「私は、自ら香を焚いた。最後に“正気”を思い出したかったから。

私の罪は消えない。でも、せめて真実を知る誰かに、香の中に託したかった――

《掌に記された香文こうもん》を見つけて。そこにすべてを書いたから」


掌に記された香文――?


ユウの目が冴える。


「……香の粒子を、皮膚に記す技術。“皮香文ひこうもん”……そんな技、緋緋流の中でも、知っている者は……」


脳裏に浮かぶ影。


「……緋呂じゃない。誰?」


風が、帳を揺らす。

そして、そこに挟まれていた小さな“手袋”が落ちる。


――掌の内側に、かすかに浮かぶ“微細な焼香痕”。指の節に沿うように刻まれた文様は、まさに“香の筆跡”だった。

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