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第39話:緋の香を継ぐ者

風が乾いていた。


都の西外れ。人の出入りも稀な荒れた郊外の薬舗――表向きは乾物屋。だが、その奥には、香材と香炉が幾重にも並ぶ異様な空間があった。


「まさか……こんな場所が都に残ってるなんて」


杏が戸口で目を瞬く。ユウは無言のまま、踏み出す。


この香の配置、火の温度、香材の湿度の置き方――《緋緋流ひびりゅう》に伝わる“練香の型”そのものだった。


「懐かしい。子供の頃、父の作業場で何度も見た」


まるで記憶をなぞるように、ユウの手が無意識に香炉の蓋を開けた。ふわりと立ちのぼるのは、沈香と甘草の混じった香り。だが、それに“何か”が重なる。


「――緋呂ひろ、そこにいるのね」


返答はなかった。


だが、一拍遅れて、奥の帳が揺れた。そこから姿を現したのは、痩せた中年の男。灰のような瞳と、長く伸ばした指。香師特有の“触覚”が指先に宿っている。


「……久しいな。〈ユウゆうき〉」


「その名で呼ばれるのは十年ぶりね」


緋呂は薄く笑う。だが、目は笑っていなかった。


「父上の死は、我ら緋緋流にとっても大きな損失だった。あの時、お前が“香を継がなかった”のは、裏切りとさえ思ったよ」


「私は、毒と香を見極める目を選んだだけ。――それが、“命を救う香”か“命を奪う香”か見極めるために」


「随分とご立派に」


緋呂は一歩、踏み出す。


「だが香月かげつは、私の香を選んだ。彼女は“忘れたかった”のだ。後宮の腐臭を、自らの過去を、そして――自分が何をしたのかを」


「記憶を抹消する香など……それは、“癒し”ではなく“隠蔽”」


ユウの声が鋭くなる。


「あなたが渡したのね。あの月下香と沈香を混ぜた香材を」


「証拠はあるか?」


「あるわ。“香木の削り癖”が、あなたの癖そのもの。私の父がかつて見抜いた、あなたの刃の歪み。あれがすべてを語っている」


緋呂の目が、ぴくりと動く。


「香月は、思い出してしまった。“後宮のある密謀”に自ら関わっていたことを。そしてそれを悔いた。だから沈香を焚いた。“香を打ち消す香”で、最後に正気を取り戻そうとしたのよ」


「……あの娘は、弱かった」


緋呂は吐き捨てるように言った。


「香に頼らずには、生きられなかった。お前のように毒にも香にも手を染めてなお冷静でいられる人間とは違う。彼女には無理だったんだ。真実に耐えることが」


ユウの視線が冷える。


「それでも、彼女は沈香を選んだ。最後の最後に、香に勝ったの。香月の死は、あなたの香の“敗北”よ」


沈黙が流れた。


やがて、緋呂がふっと息を吐く。


「お前の目には、父親譲りの業火がある。“香を使う者”としては未熟でも、“香を見抜く目”は一流だ。……それが憎らしい」


「じゃあ、教えて。あなたが渡した香――その“依頼主”は誰?」


緋呂は答えなかった。代わりに、ひとつの封をユウに差し出す。封蝋には、見覚えのある紋――


「この文様……“朱院しゅいん”のもの。東殿の官女部を統括する後宮最高位の女官、朱慶しゅけい……!」


「その香は、あくまで“命じられて”作った。私の意思ではない」


「でもあなたは、渡した。その時点で共犯よ」


ユウの声が張り詰める。


緋呂は黙したまま、香炉に火をくべた。香の煙がゆらりと立ち上る。


「最後に一つだけ……」


緋呂がつぶやいた。


「お前の父は、“ある香”を調合しようとして死んだ。“記憶を完全に封じる香”。だがそれは未完成だった。もし完成すれば、“人間そのもの”を上書きできる香だ」


「……なんですって?」


「それを、後宮の誰かが欲しがっている」


風が冷たくなった。


「お前が探している真実は、“香月の死”では終わらない。――もっと深くて、古くて、血にまみれた“香の闇”がある」


煙が、部屋いっぱいに広がる。


「気をつけろ、ユウ。お前の目は、真実を見抜くがゆえに、命を狙われる」


それが、緋呂の最後の言葉だった。


ユウは封を握り締め、背を向けた。香の煙の中、彼女の表情は凛と引き締まり、すでに次の一歩を見据えていた。

一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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