第36話:骨笛は、声を持っていた
焚かれた香炉の煙が静かに立ち昇る中、ユウは手にした小片の布を睨んでいた。
それは――銀燕が縫い残した、最後の縫製品の裏地。
均等だったはずの縫い目が、ある一列だけわずかに斜めに歪んでいた。
「これは……文字だ。針で刺された文字列」
彼女は布を光にかざした。歪みに沿って香料の染みが濃くなっている。肉眼では読めない、だが熱を通すことで浮かび上がる“何か”。
ユウはそっと手元の火鉢に近づけた。瞬間、淡く浮かんだ筆跡。
「『灰は戻る。香は記す。骸は、再び口を開く』……?」
意味が曖昧だ。だが、一つ確かに思い当たるのは――**凍香草**だった。
あの“玉露に混ぜられていた成分”は、香りで記憶を封じ、後に特定の“香”と反応して開く性質を持つ。
「ならば……あの骨笛の音は、単なる呼び声じゃない。封じられた記憶を開く“鍵”か……」
ユウは将軍に差し出された骨笛の破片を指先で転がした。
「骨を媒介にした記録。まるで、音に記憶を塗り込める術……」
不意に、帳の向こうから足音が響いた。
姿を現したのは――後宮筆頭女官・朧月。
「ようやく、お気づきになられましたか、ユウさま」
朧月の背後には、あの黒衣の使いが静かに控えていた。彼が差し出したのは、完全な状態の骨笛。
「これは銀燕が最期に残した“語らぬ遺言”です。封を解かれし者にしか聴こえぬ“真の旋律”」
ユウはそれを手に取った。意識を集中させ、そっと唇を寄せる。
……ピィィ……
音ではない。だが、脳裏を何かが駆けた。
『……香の層を越え、視えよ。私は毒を縫い込みました。あの方の寝衣の裏に。殺すためではなく、“止める”ために。私を追わせたのは、あの人ではない……』
銀燕の声が、骨を伝ってユウの奥へと流れ込んだ。
「……自白だ。これが」
ユウの指先が震えた。全てが繋がる。毒を盛った犯人は、将軍ではない。銀燕自身が“止めるために”仕込んだ処置。つまり、その“対象”こそが本来の黒幕。
ユウはその名を言った。
「黄州判官、張叡――あなたですね」
幕の陰から現れた男は、冷ややかな笑みを浮かべた。
「ほう。小娘ひとりでここまでたどり着くとは。だが証拠が――」
「ありますよ。香りと縫い目が語ってくれました」
ユウは銀燕の布を掲げた。
「あなたの袖にも、同じ“凍香草”の反応が出ました。記憶を封じる香に触れた痕跡です。毒の出どころも、骨の記録も、すべてが――あなたの関与を示している」
張叡の顔から血の気が引いた。
「……ば、馬鹿な。記録が残るなど……っ」
「記録とは紙に書くだけではありません。香も、骨も、人の手も、時に声より雄弁なのです」
ユウは静かに言い放った。
その夜。
後宮では粛清が始まり、張叡は連行された。風牙の黒衣は姿を消し、骨笛は宮廷の禁書庫に収められた。
ユウは中庭で、銀燕の縫製品をもう一度手に取る。
「銀燕……貴女の声、確かに届きました」
将軍がそっと近づく。
「我は助かった。だが、おぬしの手は震えているな」
ユウは微笑む。
「骨の音は……冷たいんです。けれど、暖かい香も残ってました。だから私は、忘れません」
将軍はただ頷いた。
「ならば、次も聞かせてくれ。おぬしの“記憶を繋ぐ術”を」
月が、静かに香炉の煙を照らしていた。




