第3話:偽りの香と真夜中の声
──真夜中。第三別館の西棟にて。
部屋の扉が、かすかにきしんだ。
薄闇の中、音を殺して忍び込む影がひとつ。
灯りはつけない。足音も残さない。
静かに寝台へ近づくと、そっと小さな瓶を枕元に置いた。
影が立ち去るその直前──
「……いい匂いだね、それ」
低く静かな声が闇を裂いた。
影が振り向く。そこには、洗濯用の籠に身を潜めていた一人の少女。
「……誰だ」
「ただの洗濯下女。名前はユウ」
ユウは籠からゆっくりと立ち上がる。
「でもまあ、薬草の匂いにはちょっと敏い。……それ、“キバナムシカの粉末”だね」
影の人物が一歩後退る。手にした瓶を懐へしまう。
「用が済んだなら、忘れろ」
「残念だけど、それができる性格なら、こんなとこに攫われてきてないよ」
──瞬間、空気が張り詰めた。
影は鞘から短剣を抜こうとしたが、その前に足元へ転がったのは、粉末の入った小瓶。
それはユウが、影の手元から“すり替えて”いた。
「……観察眼だけで生きてきたからさ、手先も多少は器用なの」
影は舌打ち一つ残し、暗闇に紛れて消えた。
瓶だけが、ユウの手の中に残された。
(“キバナムシカ”……微量なら胃を落ち着かせるけど、使い方を誤れば流産薬になる)
寝台の王妃は眠ったままだ。
ユウはその枕元の香炉を、じっと見つめた。
「“寝香”に混ぜてたのか……」
そして、再びあの言葉が蘇る。
──「望んで、いけないかしら?」
朝、王妃の部屋には異様な緊張が漂っていた。
「……昨夜、誰か部屋に入った気配がしたと王妃さまが」
「犯人などいるはずがない。これは……“呪詛”です」
そう言ったのは、宮内の香官である老女。
名をカカといい、香を調合し王妃に献じていたという。
「香にはすべて、私が目を通しておる。“毒”など、あるわけが……」
ユウは黙って差し出された香包を受け取り、爪先で粉末を軽く砕いた。
(……これは、“七香”の基本型。だが、妙に甘い)
(通常より多く“テンレン花”が混ざってる。血行促進作用があるけど──妊婦には禁忌)
「この香……妊娠を促すどころか、流産させますよ」
場が凍りついた。
「な、何を言う! そんなはず……!」
「おばあさん、配合変えたでしょ? 最近、香りが“薄い”って王妃さまが言ったから」
ユウは香灰を茶碗に落とし、湯を注ぐ。ふわりと立ち上る煙の匂いは、淡く、甘く、そして、刺すように鋭い。
「濃くすれば効く、ってわけじゃない。薬と香は、量を間違えれば毒になる」
カカは震える手で香包を握りしめた。
「わ、わしは……ただ……妃が、子を望んでおられたから……」
「“望まれていたように見えた”だけじゃないですか?」
ユウは囁くように言った。
「香が欲しいと言ったのは、夜に眠れなかったからでしょう? 気を遣っていたかもしれないし、誰かにそう“言わされていた”だけかもしれない」
──王妃は、昨夜から口を閉ざしている。
何も語らず、誰の顔も見ようとしない。
その日の夕刻。
第三別館の裏手、古井戸のそばで、ユウは手に入れた瓶を火にかけていた。
沸騰する液体、気泡と共に浮かぶ細かな沈殿物。
(……やっぱり、“キバナムシカ”だけじゃない)
微量の“金根草”が混ざっていた。
これは……子を望む者にとって、命取りになる。
(あの影……誰だった?)
(どうして王妃の部屋に……?)
後宮の妃には敵も多い。
王妃の座に近いというだけで、周囲は爪を研いでいる。
けれど──
(もし、王妃自身が“子を望んでいない”のだとしたら?)
ユウの胸に、ひとつの仮説が灯る。
望まぬ懐妊、望まぬ夜伽。
香で眠りを誘い、薬で流す。
すべては、誰にも言えぬ静かな抵抗なのではないか──
夜。
王妃の部屋の前に、ユウは一つの香包をそっと置いた。
そこには、彼女が調合した**無香の“睡眠香”**が入っている。
扉は開かず、誰も出てこなかった。
だが、その夜から、王妃の寝室からは──香の匂いが、ぴたりと消えた。