第2話:神託と赤い水
(人が倒れても、誰も動かない)
薬館──正式名「第三別館」の朝は、静かだった。
昨夜の発作騒ぎの張本人、若い侍女ハナは、今も部屋で伏せっている。
誰も見舞いに行こうとしないし、医師も呼ばれていない。
(“呪い”って言えば、全部説明がつく便利な言葉だこと)
ユウは洗い桶を抱え、館の西棟へ歩いていた。
使い込まれた廊下の木はところどころ歪み、年に一度しか塗り直さない朱塗りの柱にはひびが入っている。
都の中心に建つ第一別館とは比べものにならない、旧い場所だった。
その西棟に、“神託”はあった。
部屋には香の煙がうっすらと漂っている。
奥に敷かれた布座に、白衣の僧侶のような者が一人。
ユウは桶を置き、目を細めた。
「お祓いでもしてるの?」
「……薬匂がしますな」
声は男とも女ともつかない、中性的な響きだった。
「君が、昨夜“毒”を見抜いたという、辺境の鑑定士か」
「別に、毒ってわけでもない。使い方を間違えただけ」
神官は口元だけで笑った。
「だが、呪いとは言わなかった。それは、珍しい」
「知ってたら言わないでしょ。呪いなんて、便利すぎて怪しい」
部屋の片隅に、大きな鉢が置かれていた。
薄紅色の水が張られていて、中央に一枚の蓮の花びらが浮いている。
「これが“神託”?」
「正確には、“神水”と呼びます。毒ある者が近づくと、赤く濁る」
「……へえ。毒を視る水?」
ユウは興味なさげに見ていたが、観察の視線は鋭い。
(これは……蓮じゃない。“血蓮華”の属種。水に溶け出す色素は……)
「そういえば昨夜の騒ぎ、あなたは?」
「私は神の声を聴く身。女たちの喧噪に混じる必要はありません」
(つまり、面倒事はノータッチ)
ユウは足元の木床を踏んだ。微かな軋みと音。
その音に、神官の眉が一瞬、ぴくりと動いた。
「何か用かね」
「“赤く濁る”って言ったよね」
ユウはさっと指を水鉢に突っ込んだ。
「おや──!」
神官が止める前に、ユウの指先は赤い水に沈み、小さく波紋を描く。
だが水は、何も変わらなかった。
「……毒を持つ者ではない、と証明したかっただけ」
指を拭いながらユウは言う。
「けど、これ、“血蓮華の色素”でしょ。微量の鉄分と温度差で赤に変化する。つまり……」
神官は表情を変えずに言った。
「黙っていたほうがいい。ここは、知りすぎると死ぬ場所だ」
ユウは薄く笑った。
「……じゃあ、もうすぐ死にそうだね、あなた」
その日の夕刻、王妃から呼び出しが来た。
「昨夜、倒れた侍女に薬を与えたとか」
「ただのハーブ湯。解毒作用があるやつを」
王妃は細い指で頬杖をつきながら、ユウを見下ろしていた。
装飾の多い部屋、重たい香の匂い。
目元には疲れがこびりつき、唇は乾いている。
「最近、食が細くてね。夜も眠れない。……神託は“身の内に病あり”と告げているけれど」
「神託より、顔色を見たほうが早いですね」
ユウは薬包を取り出すと、王妃の前に置いた。
「胃と肺が弱ってる。香の焚きすぎですね。あと……子を望んでますか?」
王妃のまなじりが、わずかに吊り上がる。
「……望んで、いけないかしら?」
「構いません。ただ、あの香を続けると、できても育ちません」
沈黙。
部屋にいた侍女たちが、一斉に息を飲む音がした。
「……退いて」
王妃の静かな声。ユウは深く頭を下げ、退出する。
その夜。
侍女ハナは完全に回復したが、神官が姿を消した。
誰も探そうとしない。
「神託の者は風のように現れ、風のように去るものだ」と。
だがユウは知っている。
あの神水は、本物ではない。
──毒を隠すための“嘘”の道具だ。
そして、王妃の身体の異常も、香だけが原因とは限らない。
「神託」
「呪い」
「赤い水」
──この館には、見えない毒がいくつも沈んでいる。
ユウはそれを、一つずつ掬い上げていくつもりだった。
たとえ、それが宮中の誰かの“怒り”を買うとしても──