第13話:紅花の毒、涙の色
冷たい朝露が、緑禁城の苔むした石畳にきらめいていた。
――血のように赤い花弁が、ひらひらと地に舞う。
庭園に咲いた紅花は、秋の終わりを告げるかのように鮮やかに染まり、しんと冷えた空気の中に仄かに香っていた。
「……やっぱり、この匂い、気になる」
ユウは紅花の花弁を指先で摘み、顔を近づけて確かめた。ほのかな鉄臭さ――それは紅花に本来含まれぬはずのものだった。
脳裏に浮かぶのは、倒れた女官の異様な吐血と、青白くなった唇。症状からして、出血を促す毒が使われた可能性が高い。だが、それを意図的に引き起こすには……。
(止血を抑える薬――いや、毒……)
ユウは手元の薬箪笥から一枚の紙を取り出した。それは、過去に彼女が記録していた「宮廷で用いられる薬草と毒物の交互作用」についての草稿だ。
「紅花に〈蝮胆〉を併せれば、止血が困難になる……。でも、そんなものをなぜ……」
思考を巡らせながら、ユウはふと“涙の色”という女官の最期の言葉を思い出す。
(涙の色……それは“目薬”じゃない?)
かつて、南の医館で目の病を癒すために用いた薬――「露睛」という目薬には、紅花とともに微量の鉱石が混ぜられることがあった。その鉱石が毒性を持つ場合、誤って目から吸収されれば、命にかかわることもある。
「……香りと、涙。見落とすはずだった」
ユウは立ち上がり、すぐさま宮中の女官詰所へと足を向けた。途中、顔を見知った下女が目を丸くして振り返る。
「ユウ様? 何かあったんですか?」
「少し、薬棚の記録を見せてほしいの。紅花の処方が変わった時期が知りたい」
「紅花……あれは、美容の湯に使われるくらいで……」
「美容の湯?」ユウの足が止まった。「どこの妃?」
「翠珠妃様ですよ。最近お肌の張りが……って、女官の間で噂でした」
(翠珠妃。先日、侍女の一人が倒れた……)
全ての糸が、ひとつに繋がった気がした。
翠珠妃の居所へ足を運ぶと、香り高い湯気とともに、部屋の奥から笑い声が漏れていた。
「まあ、ユウではありませんか。何かしら?」
翠珠妃はあくまで優雅に微笑むが、その手元に置かれた香炉の香りに、ユウは目を細める。
「紅花湯に、目薬を加えてはいませんか?」
「まあ、どうしてそんなことを……?」
「女官の死と、目に入れた薬。それらに共通するのは、香と、色です」
ユウは懐から、小瓶を取り出した。中にあるのは、淡い紅色の液体。死んだ女官の目から採取した涙の成分だった。
「この中に、〈蝮胆〉の痕跡がありました。さらに、赤い鉱石由来の金属毒も……。これは医術の知識がなければ調合できない」
翠珠妃の表情が、わずかに揺れた。
「まさか……貴女に、そこまで見抜けるとは思いませんでしたわ」
「どうして、あの女官を?」
「彼女は……あの方に、手を伸ばそうとしていた」
その目に浮かぶのは、狂気ではなく嫉妬だった。愛されたくて、傍にいたくて、それでも手に入らないものを、奪うことで確かめたかった。
「毒とは、怖いものですね」
ユウはそっと呟いた。
「香りに惑わされ、記憶をたどれぬまま、人の心までも蝕んでしまう」
後日。
翠珠妃は静かに退妃され、宮廷を離れた。
女官の死因は「持病による突然死」として処理されたが、記録の片隅に、ユウが書き記したひとことだけが残る。
――紅花、涙を染める。
そしてユウは、また薬棚の整理へと戻っていった。
「……これで、しばらくは静かになるかな」
そう呟きながら、彼女は次の“匂い”に気を配っていた。




