第12話:茗香と涙、影の中で濡れる真実
夜が更け、霧が深まるごとに宮中の気配が鈍くなる。
緑禁宮の東側、誰も通らぬ回廊の先にある「香館」で、ユウは手帳を片手にひとり香炉の前に立っていた。
火は落とし、香も絶やしてある。しかし空気の奥には、わずかに残る――青磁香の香り。
「……この香、やっぱり“削ぎ落とされたもの”がある」
ユウは鼻を近づける。甘く、涼やかだが、どこか人工的な薄さを感じた。
この香りは、凍香草――つまり、記憶を和らげる作用を持つ薬草が炊かれた痕跡がある。しかし、凍香草は単体では使われない。何かしらの基礎香と混ぜられ、香りの“記憶”に作用するよう調整されるものだ。
「……やっぱり、あの玉露と同じだ」
“あの玉露”。すなわち、貴妃・麗真に献上されたもの。だがあの玉露には、凍香草のような香が潜んでいた。
そして、それを飲んだ麗真は、過去の記憶の一部を喪った――。
これは偶然ではない。誰かが、意図的に記憶を薄めようとしている。
そこに、そっと足音が近づく。
「……ユウ殿? こんな夜更けに香館でなにを?」
現れたのは沈祥、太医院の若き医師だった。彼もまた、ここ最近の“玉露事件”に不審を抱いていた一人だ。
「資料を見てたら、香館の記録に妙な“空白”があるのに気づいて。献上品の香木の納品日が、丸一週間飛んでいるの。しかも、その日付の前後には、妙に似た成分の香が複数混入されていた形跡がある」
「つまり、誰かが“香り”を使って記憶を撹乱しようと?」
ユウは頷いた。
「それも――おそらく、貴妃さま自身の記憶を、選んで削っている」
「まさか……貴妃さまご本人が?」
「違う。削ったのは、貴妃さまではなく……おそらく、“あの人”」
ユウは視線を横に流した。沈祥はその先を追う。
「……誰かに、見られていた?」
香館の窓の外に、わずかに揺れる影があった。
それは、女官の姿をした何者かだった。
翌朝。
ユウは、香館で見つけた香成分の記録を元に、太医院の調香室に向かった。そこには、納品書を整理していた白衣の老医師がいた。
「この時期に入った“青磁香”と“凍香草”の納品、確認できますか?」
「ふむ……おかしいな……凍香草は記録されていない。青磁香だけだ。だが、その青磁香には“灰白”の粉が混ざっていたと後で報告があったがな」
ユウの目が鋭くなる。
「“灰白”――つまり、凍香草を乾燥させた粉……」
それはつまり、“誰かが香に混ぜた”証拠だった。
「納品書を操作できる人物が、この宮中にいる……」
ユウは静かに書状を握った。
午後、ユウは香館の裏でひとりの女官を呼び止めた。彼女は名を「桂芝」といい、香館で働く低位の女官だった。
「桂芝さん。この納品日、あなたが香を管理していた日ですよね?」
「え、ええ……」
「あなたが“記憶を薄める香”を混ぜたのね?」
「――違います!」
桂芝は怯えた。が、その瞳の動きがわずかにユウの問いを否定していた。
「あなたは……“命じられてやった”のね」
桂芝の目に、涙が浮かぶ。
「……私は、ただ、命じられた通りに……。あの方が、“貴妃さまには、もう思い出してほしくない”って……」
ユウはそっと彼女の肩に手を置いた。
「“あの方”って……」
「……尚香さま。貴妃さまの妹御です」
その夜、ユウは香の成分を再現し、実験香を作り、香館の床の間に置いた。
青磁香に凍香草を混ぜると――心がほどけるような、懐かしい香りが立ち上った。
それは、記憶を呼び起こすのではなく、ふんわりと“隠す”香だった。
「これは“記憶の隠れ蓑”……か」
その香りの中に、ユウは一通の古い書状を見つけた。
――“姉上へ。あなたがあの夜、何を見たのか、私は知っています。けれど、それを思い出すたび、あなたは泣く。ならば、私は香でその記憶を、少しだけ遠ざけてあげたかったのです”――
尚香の筆跡だった。
優しさが罪になる。記憶を守るために香を使った妹の想いは、果たして――。
ユウは香炉を見つめながら、小さく呟いた。
「香りで嘘は隠せても、真実は、やっぱり……人の奥底に残るんだよ」