表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/45

第12話:茗香と涙、影の中で濡れる真実

 夜が更け、霧が深まるごとに宮中の気配が鈍くなる。


 緑禁宮の東側、誰も通らぬ回廊の先にある「香館こうかん」で、ユウは手帳を片手にひとり香炉の前に立っていた。


 火は落とし、香も絶やしてある。しかし空気の奥には、わずかに残る――青磁香せいじこうの香り。


「……この香、やっぱり“削ぎ落とされたもの”がある」


 ユウは鼻を近づける。甘く、涼やかだが、どこか人工的な薄さを感じた。


 この香りは、凍香草とうこうそう――つまり、記憶を和らげる作用を持つ薬草が炊かれた痕跡がある。しかし、凍香草は単体では使われない。何かしらの基礎香と混ぜられ、香りの“記憶”に作用するよう調整されるものだ。


「……やっぱり、あの玉露と同じだ」


 “あの玉露”。すなわち、貴妃・麗真れいしんに献上されたもの。だがあの玉露には、凍香草のような香が潜んでいた。


 そして、それを飲んだ麗真は、過去の記憶の一部を喪った――。


 これは偶然ではない。誰かが、意図的に記憶を薄めようとしている。


 そこに、そっと足音が近づく。


「……ユウ殿? こんな夜更けに香館でなにを?」


 現れたのは沈祥しんしょう、太医院の若き医師だった。彼もまた、ここ最近の“玉露事件”に不審を抱いていた一人だ。


「資料を見てたら、香館の記録に妙な“空白”があるのに気づいて。献上品の香木の納品日が、丸一週間飛んでいるの。しかも、その日付の前後には、妙に似た成分の香が複数混入されていた形跡がある」


「つまり、誰かが“香り”を使って記憶を撹乱しようと?」


 ユウは頷いた。


「それも――おそらく、貴妃さま自身の記憶を、選んで削っている」


「まさか……貴妃さまご本人が?」


「違う。削ったのは、貴妃さまではなく……おそらく、“あの人”」


 ユウは視線を横に流した。沈祥はその先を追う。


「……誰かに、見られていた?」


 香館の窓の外に、わずかに揺れる影があった。


 それは、女官の姿をした何者かだった。





 翌朝。


 ユウは、香館で見つけた香成分の記録を元に、太医院の調香室に向かった。そこには、納品書を整理していた白衣の老医師がいた。


「この時期に入った“青磁香”と“凍香草”の納品、確認できますか?」


「ふむ……おかしいな……凍香草は記録されていない。青磁香だけだ。だが、その青磁香には“灰白”の粉が混ざっていたと後で報告があったがな」


 ユウの目が鋭くなる。


「“灰白”――つまり、凍香草を乾燥させた粉……」


 それはつまり、“誰かが香に混ぜた”証拠だった。


「納品書を操作できる人物が、この宮中にいる……」


 ユウは静かに書状を握った。





 午後、ユウは香館の裏でひとりの女官を呼び止めた。彼女は名を「桂芝けいし」といい、香館で働く低位の女官だった。


「桂芝さん。この納品日、あなたが香を管理していた日ですよね?」


「え、ええ……」


「あなたが“記憶を薄める香”を混ぜたのね?」


「――違います!」


 桂芝は怯えた。が、その瞳の動きがわずかにユウの問いを否定していた。


「あなたは……“命じられてやった”のね」


 桂芝の目に、涙が浮かぶ。


「……私は、ただ、命じられた通りに……。あの方が、“貴妃さまには、もう思い出してほしくない”って……」


 ユウはそっと彼女の肩に手を置いた。


「“あの方”って……」


「……尚香さま。貴妃さまの妹御です」





 その夜、ユウは香の成分を再現し、実験香を作り、香館の床の間に置いた。


 青磁香に凍香草を混ぜると――心がほどけるような、懐かしい香りが立ち上った。


 それは、記憶を呼び起こすのではなく、ふんわりと“隠す”香だった。


「これは“記憶の隠れ蓑”……か」


 その香りの中に、ユウは一通の古い書状を見つけた。


 ――“姉上へ。あなたがあの夜、何を見たのか、私は知っています。けれど、それを思い出すたび、あなたは泣く。ならば、私は香でその記憶を、少しだけ遠ざけてあげたかったのです”――


 尚香の筆跡だった。


 優しさが罪になる。記憶を守るために香を使った妹の想いは、果たして――。





 ユウは香炉を見つめながら、小さく呟いた。


「香りで嘘は隠せても、真実は、やっぱり……人の奥底に残るんだよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ