第11話:月下の白露と仄かな灯(はんなりと)
白露の季節。夜が明けるころ、都の空には薄く霞が立ち、冷気にぬれた桂の葉がしずくを宿していた。
香炉から静かに立ち昇る煙は、凍香草を混ぜたときのような刺すような香りではなく、ふくよかでやさしい柑橘の香り。宮女たちは「長夏を越えた薬香」として、湯殿や居間に好んで焚いていた。
「凍香草は──やはり混ぜられていたのですね」
ユウは、小さく囁いた。
膳の下に隠されていた乾燥葉を火にかけて検証した結果、間違いなく香りの芯には凍香草が使われていた。ただし、単体ではなく「玉露香」との混合だった。
玉露香──高貴な妃や皇太子に供される、極上の練香の一つ。使用には厳格な記録が残され、製造に関わる者も限られている。
「記録にないはずです。なぜなら──」
ユウはひとつの帳簿を開いた。
調香司の記録帳。細筆で丁寧に書かれた香の配合表。しかし、その一行だけがぽっかりと抜けていた。
七月十六日、「桂明妃」のもとに届けられた香の記録が消えている。
調香司の筆跡で書かれた隣の行からは、配達の流れや使用者が読み取れる。だが、その日だけが奇妙に飛ばされていた。
「帳簿の抜けは、“故意”だ」
ユウは確信した。
「香りの混合により──妃の嗅覚や判断力に“影響”を与える。たとえば、強すぎる凍香草を、玉露で包めば……」
毒にはならずとも、心を緩め、眠気を誘い、夢か現かの境に留まらせる──。
その状態で、何かを見せ、何かを聞かせる。
真実と嘘を混ぜれば、混乱は深まる。
記憶が、歪められる。
「……誰が、何のためにそんなことを?」
香道に通じた宦官・陽蓮が、目を細めて問うた。
その表情には、どこか既視感があった。
そう──この事件の「始まり」の香りと、どこか重なる目の奥の光。
ユウは、微かに笑った。
「その答えは、香りが知っていますよ。いえ──香りが“記憶”を運んでいるのです」
月明かりの下、ユウは密かに貴人寮の一室を訪れていた。
桂明妃の侍女だった〈紅花〉が寝所に伏していた。あの夜、奇妙なうわごとを口にして倒れて以来、ずっと香を避け、怯えるように暮らしていた。
「……あの夜、なにがあったの?」
紅花は、かすかに身を震わせた。
「妃さまが……香炉を前に座っておられて……。何度も“香りが重なる”って……そうおっしゃって……」
「それは……玉露と凍香草が、交互に焚かれたということ?」
「はい……最初は穏やかな香りだったのに、急に、冷たい匂いがして……私、気を失って……」
その証言が、ユウの胸にひとつの像を浮かび上がらせた。
「凍香草を使えば、記憶は薄れる。けれど、玉露の揮発成分とあわせると、嗅覚の感度が一時的に“上がる”」
「記憶を消すどころか、むしろ、強く焼きつけることが……」
誰かが、「あえて」その香りの配合を試みた。
記録からそれを消し、妃の頭に“ある記憶”を深く刻ませるために。
──それは、偽の記憶ではない。
けれど、それを信じることが“真実から遠ざける”という、もっとも巧妙な欺瞞。
「嘘はついていません。ただ……“見せたいもの”だけを見せたんです」
ユウはそうつぶやき、香の記録と日誌を照らし合わせた。
その夜、月は冴え冴えと高く、宮中の庭には白露が輝いていた。
ユウは香炉に、ひとつの香包をくべた。
玉露に、極微量の凍香草。
すると──。
「……ああ……この香り……!」
紅花が、目を見開いた。
その目に、光が戻る。
「思い出しました。妃さまの隣には……“黒衣の男”がいたんです。調香司の着る……あの、黒い装束の──」
その瞬間。
ユウの脳裏に、浮かんだ。
宮中にひとりだけ、調香司でありながら「香の帳簿」を操作できる存在。
──それは、あの人物。
「そろそろ、表に出てきてもいい頃ですね」
ユウは、白露の夜に静かに笑った。
香りは記憶をさかのぼる。
仄かな香りが、真実の姿を導いてくれる。
仮面の下の顔も、香りに嘘はつけないから。




