第10話:閉ざされた調香室の秘密
調香局の奥深く――関係者しか立ち入れぬ小部屋に、ユウはひとり立っていた。
天井まで届く薬棚の隙間からは、古い香木や干した花々の匂いが微かに漂い、床板の軋みがやけに耳に残る。
この部屋は、正式には「封香室」と呼ばれていた。
「これが……梅香さまが最後に立ち入った場所、ですか」
呟きながら、ユウは左手の袖から針状の鉄具を取り出した。留金で封じられた棚の鍵を、器用に開ける。
小さな音がした瞬間、ふっと、古い香の匂いが鼻先を撫でた。
(白檀。いや……違う。白檀にしては甘すぎる……乾いた果実?)
ユウは香りを確かめるように、鼻孔を細く動かす。
次に、棚の奥へと手を差し入れ、小さな陶器の瓶を見つけ出した。
瓶の側面には「景露六年 玉露香 二番調香」と刻まれている。だが――
「……これは、梅香さまの記録と一致しない。
二番調香は初夏のはず。にもかかわらず、凍香草の痕跡が……」
凍香草は冬にしか採れぬ薬草であり、梅香の使用していた調香とは本来交わるはずのない素材だった。
つまり、この瓶の中身は偽装されたもの。しかも精巧に。
ふと、ユウは足元に視線を落とした。わずかに残る粉塵。
誰かがこの部屋で作業し、そして痕跡を拭い切れなかった証。
(記録は改竄されている。けれど、なぜこんな小細工を?
目的は……玉露香をすり替えること? それとも、凍香草を“故意に”混ぜたかった?)
ユウは眉根を寄せた。
「つまり――梅香さまは、“誤って”毒を作ったのではなく、“誰かに作らされた”」
香りの連鎖は、やがて記憶を呼び起こす。
――数日前、調香局の別室で見かけた、あの男。
香官の一人、貴陽。地位こそ低いが、過去に凍香草を扱った記録があった。
(彼が何かを知っている)
ユウは立ち上がると、調香室を出て、迷わず香官の部屋へと向かった。
その途中、背後から声がかかる。
「……やっぱり来たのね、ユウさん」
振り返ると、そこには桂霞――薄紅の衣を纏った、女官の一人。
穏やかに笑うその瞳の奥に、わずかに揺れる影。
「あなたが調べてること、あんまり深入りしない方がいいわ。
梅香さまが亡くなった“あの日”、調香局にいたのはあなただけじゃない」
「……どういう意味ですか」
「記録が抜けてるのは、“あえて”よ。
だって、本当に香を混ぜたのは――貴陽じゃない」
ユウは瞳を細めた。桂霞の言葉の端々に、真実の匂いが混じる。
そして、彼女がふと懐から取り出したのは、一枚の記録簿。
そのページの端には、細く走った赤い線――
「これ……香の“再調合指示”……? でも、発令者の名が……消えている」
「それが本当に怖いのよ、ユウさん。
――この事件、“後宮の奥”から誰かが命じたのよ。梅香さまを、試すように」
香りを辿った先にあったのは、一人の香官の罪ではなかった。
もっと深い場所で、誰かが意図的に“毒と疑惑”を作っていた――。
ユウは、静かに言葉を落とした。
「なら……私は、その“匂い”の根を断ちます。
香を操った者が、誰であろうと」
目を伏せた桂霞の頬に、一筋の涙がこぼれた。
それが、梅香の無念と悔恨を代弁しているように思えた。
(香りは消えても、記憶は残る。
ならば私は、“香りが語る声”を聴きつづける)
ユウの背が、調香局の長い回廊を歩き去っていく。
その先に、さらなる謎が待っているとも知らずに。




