第五章「漂白の檻」
記憶を捨てて強さを得た少年。
記憶を守って弱さを抱える少年。
交差する二つの選択――その衝突が、仮想記憶領域の中心で始まる。
「お前に、記憶の重さがわかるか?」
《エクスファリア》最深部《記憶漂白区》。
真白な空間は、すべての感情と記憶が脱色された世界。
アークたちはここに、《アーカイブス》の前線指揮官である少年の存在を追っていた。
そして、ついに現れる――
「……ようこそ。君たちの記憶を、処理する」
クライヴ=ゼルファード。
わずか15歳にして《アーカイブス》最強の実働部隊を率いる、異端の天才。
感情の欠落した双眸は、一瞬で空気を凍らせる。
「……敵意ありと判断。全員、即時記憶抹消対象とする」
次の瞬間、視界が閃光に包まれた。
「くるぞッ!」
アークの声と同時に、クライヴの身体が残像を残しながら突進。
空間すら歪む《記憶断裂刀・エクセリオン》が、アークの胸元へ突き立つ寸前――
「はあああっ!」
アークが間一髪で剣を交差し、衝撃波が周囲に吹き荒れる。
「なっ、なにこの速さ……!」
セラが咄嗟に防壁を張るが、クライヴの追撃は止まらない。
「感情はノイズ。記憶は毒。僕は“それ”を捨てて強くなった」
斬撃、回転、跳躍、光の粒子が弾けるたび、空間が破砕されていく。
完全に“戦闘に最適化された人間”――それがクライヴだった。
アークは食らいつきながら叫ぶ。
「お前……本当に、それでいいのか!?」
「何が?」
「誰かを想う気持ちも、過去の痛みも! ぜんぶ、捨ててまで手に入れた“強さ”が、ほんとにお前を救ったって言えるのかよ!!」
「……記憶を抱えて、生きられるほど人間は強くない」
剣と剣がぶつかり、火花を散らす。
クライヴの瞳に揺らぎはない――だが、微かに、声が震えていた。
「俺は、違うと思う!」
アークの叫びとともに、剣に青白い光が宿る。
「忘れたい過去だって、あって当然だ。だけど!
忘れたくない過去まで消しちまったら、“今”って何なんだよ!?」
「……黙れ!」
クライヴが初めて声を荒げる。だがその攻撃は、わずかに乱れた。
セラがそこを突き、魔法で視界を撹乱。リノアが援護射撃を浴びせる。
「クライヴ! あなた、本当は忘れたくなんてなかったんじゃないの!?」
「うるさいッ……僕には、もう思い出せない……!」
クライヴの手元が乱れたその瞬間、アークが真正面から彼に突っ込む。
「だったら、俺が教えてやる!! お前の“記憶”の重さを!!」
その声とともに、アークの剣がクライヴの《記憶遮断装置》に命中。
制御が崩れ、クライヴの瞳に激しい痛みと光が走る。
――そして、断片的な記憶が流れ込む。
「クライヴ、大丈夫。忘れたって、私はずっとそばにいるよ」
「また泣いてたね……でも、それでも笑ってくれて嬉しかったよ」
その声は、姉――ユナ。
「……姉さん……?」
──《記憶遮断装置》の破壊により、クライヴの中で断片的な記憶が甦る。
「泣かないで……ずっと一緒だよ」
「クライヴ、大丈夫。わたしは、君を忘れない」
「……姉さん……なのか...?」
その名を呟いた瞬間、クライヴの目からは涙がこぼれ落ちた。
「思い……出した……俺……忘れたくなかったんだ……」
アークは血を流しながらも笑った。
「……お前にも、大切な記憶があったんだな」
だが――その一瞬の静寂を、無機質な電子音が裂いた。
《強制プログラム No.44-B 発動認証》
《記憶逆流反応、危険域に到達》
《対象・クライヴ=ゼルファードへ再同期プログラムを注入》
「……っ、ぐっ……!? ああああああああッッ!!」
白銀の光がクライヴの身体を包み込む。
彼の瞳は再び無機質なものに戻り、腕からは漆黒のブレードが顕現する。
ノワールの声が響く。
「記憶に心を縛られた兵器は、兵器として失格です」
「修正完了。再起動。対象・全記憶処理へ移行」
「……俺は、もう……迷わない」
再び立ち上がったクライヴ。
だが今度は、先ほどまでとは比較にならない――異形の力を纏っていた。
「記憶は毒だ。お前たちが証明したんだよ」
重力すら歪める一撃が、アークたちを襲う。
「ぐっ……っ!!」
アーク、セラ、リノア、誰一人、クライヴの一撃にまともに抗えない。
アークは盾となりながら、必死に叫んだ。
「……やめろ!! クライヴ!! お前は、そんな奴じゃない!」
「黙れ。俺は“記憶”を捨てて、ようやく完全になったんだ!」
ノワールが続けて宣言する。
「最終プログラム《DELETE》を実行します」
「クライヴ=ゼルファード、記憶構造ごと初期化」
「……ッ!」
膨大な光が、空間に展開される。
ノワールは、クライヴごと“記憶”を破壊しようとしていた。
その瞬間だった――
「やめろッッ!!」
アークが、光の中心へと飛び込んだ。
「なにっ……!? なぜ貴様が……!」
「クライヴを、守りたいんだ……!」
光に焼かれ、意識が遠のく。
だが、その中でアークは――確かに感じていた。
クライヴの震える手が、自分の腕を掴んでいたことを。
「……どうして……お前が……」
「誰かを、救いたいって思ったのは……俺だけじゃないだろ……」
「……やめろ、やめてくれ……俺は……」
そして、アークが意識を失うと同時に、クライヴの中で何かが崩壊した。
「なぜだ……なぜ……俺を……」
涙が止まらなかった。
心が、熱かった。
誰かを想う記憶が、確かに自分の中に息づいていた。
「……記憶って、こんなにも……あたたかいものだったのか……」
記憶を消すことでしか生きられなかった少年が、
記憶を守るために初めて“涙”を流した。
そして、それを信じて庇ったアークの想いは――
クライヴの心を、少しだけ救ったのかもしれない。
次章、「エデンの審判」では、ノワールの正体と、
この仮想世界に隠された最大の真実が暴かれる。