第九話【銭奴】
壱
此の世の中は、金が全てだ。
山村冴子が生きてきた五十年で、学んだ事は此の一点に尽きる物だ。子供の頃から、冴子は劣等感を抱いている。自分と違って、他の子達は可愛らしく見えた。愛嬌が有って、周りの大人達に可愛がられている子供達が、羨ましかった。其れに引き換え自分は、醜い見た目をしている。自分をブスに産んだ両親を、幾度となく恨んだ。
暗い性格に育ったのも、不細工な外見の所為。ブスで不愛想な女の人生は、暗く悲惨な物だ。
誰からも相手にされずに、面倒な事ばかりを押し付けられる。中小企業のOLをしていた時も、クレームの対応ばかりをやらされていた。ブス、不細工、不愛想。そんな言葉を毎日、浴びせられる。もっと酷い言葉も、数え上げられないぐらいに叩き付けられた。正に罵詈雑言の嵐だ。
其の度に冴子は憎悪の心を、内に孕ませていた。
最初の頃は、涙を流していた。其の度に周りの者達は、己を嘲笑っていた。ブスが泣いても、滑稽にしか見えない事を知った。其れ以来、冴子は泣く事を止めた。
代わりに憤怒と憎悪の念を、積もらせた。やり場の無い感情だけが、無残な燃え滓の様に残った。
――今に見ていろ。自分を嘲て見下している全ての人間を、いつか見返してやろうと想い野心を直隠した。其の感情だけが、冴子を支えていた。
冴子が二十五歳の時、一つの転機が訪れる。
生まれて初めての彼氏が出来たのだ。相手の男は、新入社員の若い男だった。高卒で冴えない男で在ったが、真面目そうな外見。直向きな其の姿勢に、冴子は好感を持った。見掛けも平凡で在ったが、逆に其れが冴子には安心感を抱かせていた。もしも此れが、誰もが振り向く色男ならば、敷居の高さに尻込みしていただろう。
仕事に慣れていない為か、事在る毎にミスをしては上司の叱責を受けていた。冴子はそんな男に優しい言葉を掛けて、励まし続けた。自分でも驚く程に、積極的に男に近付いていった。
食事に誘っては、男の事を褒め湛えた。言葉を変え、心を尽くし、男を喜ばせていた。
其の甲斐が在ったのか、程無くして冴子と男は交際を始める。数ヶ月の間は、冴子に取っては夢の様な日々で在る。初めての経験に、感激で胸が高鳴っていた。男の温もりに、心が癒され、幸福の絶頂にいる。生まれて初めて、生まれて来て良かったと感じた。
幸せを知った。
男を知った。
そして、失恋を知った。
――お前みたいな不細工で暗い女、本気で好きになる訳がないだろ。
男の言葉に、冴子の心は深く鋭く抉られていた。
――年上で誰からも相手にされていないから、貢いでくれると思ったのに、見当違いだったな。
男の吐き捨てた言葉に、悲しみよりも、憎しみの感情が込み上げていた。慥かに交際費の殆どは、冴子が捻出している。けれども金額にしてみれば、そこそこと謂った額で在ったかも知れない。だが其れは、冴子の好意で在ったし、金額を問う事でも無い。況してや貢ぐ云々の問題では無い。冴子は只、愛する男に喜んで貰いたい一心で在ったのだ。そんな冴子の恥じらぐ様な乙女心を、男は踏み躙ったので在る。
冴子は涙を流しながら、男に掴み掛かっていた。
――ふざけるな。貴様みたいな男げな、此方から願い下げたい。
そう叫ぶ冴子の表情は、鬼気に染め上がっていた。九州訛りも在ってか、冴子の気迫に押されて男は其れ以上、何も言えなくなっていた。
冴子の心中は、愛憎の蛇が蜷局を巻いている。信頼して全てを捧げ様としていた者の裏切りは、確実に冴子の中の不可侵の領域を破壊して往った。決して修復される事は無い。誰かを愛する事も今後、一切も無い。
男と別れた冴子は其れ以来、誰にも心を許す事は無かった。誰も信用、出来なかった。誰も愛したくは無かった。
此の世界で、頼れるのは自分一人だけだ。近付く者は、全て敵。そう思う様に成っていた。
冴子が三十代半ばの頃に、再び転機が訪れる。
十年前から買い続けていた宝くじが、当たったのだ。其の額は、七億円。冴子が生涯を懸けても、稼げない様な金額。其れがたったの一枚の紙切れと引き換えにするだけで、手に入るのだ。正に行幸で在った。
――人生が一瞬で、一変した。
冴子は糞喰らえな神に、生まれて初めて感謝した。此れで、全てが変わるのだ。自分は生まれ変われる。心の奥底から、鬱積していた感情が込み上げていた。此れまでに自分を見下してきた糞喰らえな連中を、遂に見下して遣る時が来たのだ。誰にも文句は謂わせない。腹の底から笑いが込み上げていた。獣の唸り声にも似た冴子の哄笑が、自分自身の鼓膜を静かに震えさせているのを憶えている。
気が触れたかの様に、冴子は一晩中、嗤い続けた。
金を手にした冴子は、真っ先に高級ブランドを買い漁った。身に纏った物の総額は、一千万円を優に超えている。ホストクラブに行って、数百万円の金を一晩で溶かした事も在った。冴子に取って、サラリーマンの平均年収は小銭に等しく成っていた。金は麻薬の様に、冴子の脳内を麻痺させて往った。心地良く甘美な快楽の中、冴子はホスト達に金をばら蒔いた。
美形の男達が、自分を称賛する。だが、心が埋まる事は無い。愉悦に浸る心の奥底には、積もり積もった憎悪が沈んでいた。幾ら金が在ろうと、復讐を果たさなければ、自分は前には進めない。
冴子は夜遊びを止めて、出社する事にした。元の惨めな生活を送る気は、毛頭ない。
既に冴子は一週間、会社を無断欠勤している。遊び回って、一億円の金を溶かしている。
豪遊する事に飽きた冴子は、男達への復讐を始めた。一週間振りに出社すると皆、奇異と嫌疑の視線を冴子に注いでいた。其れも、其の筈だ。無断欠勤をした上に、ふてぶてしい態度で現れたのだ。着てる服も身に附けているアクセサリー類も、高級ブランドで固めていた。まるで其れは、自分を馬鹿にして見下して来た者達への当て付けの様で在った。
金を切り詰めながら、身の丈に合った生活をする者達は時折、小さな見栄を張る。貧乏人が附けるアクセサリーは、見栄の塊だ。そんな彼等彼女等の見栄を、完膚なきまでに叩き潰して遣りたかったのだ。
――山村君。此の会社に、君の席はもう無いよ……。
いつも強気な山下が、遠慮がちに言った事を今でも憶えている。山下は明らかに、動揺していた。狼狽の色を見て冴子は内心、ほくそ笑んでいた。
以前までならば、自分を罵倒していただろう。弱い者にしか、強く当たれない愚かな男だ。こんな詰まらない男に、自分は今まで蹂躙され罵られて来た。肚の底から憎しみが込み上げていた。
――知っとうばい。其れが、どげんしたと?
小馬鹿にした様に、冴子はせせら笑う。脂ぎった山下の肌を、汗が伝っていた。汚らしい男だ。大した成績も上げられずに、専務の小さな椅子に座るのが精一杯。小生意気な部下の面倒を見ながら、上司の機嫌を取り続ける毎日。面倒な客のクレーム処理に追われ、取引先の接待を夜な夜な熟す惨めな人生。家庭ではどんなポジションに甘んじているのかも、大体の想像が附く。
醜く肥えた山下の髪は、無惨に禿げ上がっている。中間管理職の抱えるストレスが、そうさせているのだろう。だが、そんな事は別に、どうでも良い。
――今日はお前等に、今までの事を謝罪して貰おうと思って、こげんむさ苦しい所に来てやったんばい。
狼狽える山下に、百万円の束をちらつかせる。其の瞬間、明白に周囲の人間が目の色を変えた。金の力は、人を変える。惨めな犬畜生どもに、其れを教えて遣る。
ぎらつく目線が、冴子の手元に蝟集している。皆、金が欲しい。例外など、在りはしない。金が無ければ、惨めに忘れ去られるのだ。冴子の父が、そうで在った。
冴子が中学生の時に、父はリストラに遭った。再雇用の話しも見つからずに、惨めな時を過ごしていた。父は首を吊り、母はスナックに勤める様に成った。冴子は高校生に上がって、アルバイトを始めた。複数のアルバイトを掛け持ち、死ぬ気で金を貯めた。アルバイト先では、陰湿な虐めを受けた。高校も学費が足りなくて、中退した。
だけど、金は冴子を裏切らない。溜めた金で、冴子は自立した。
詰まる処、冴子の人生は金で決まるのだ。
――全裸で土下座して謝罪した者には、100万ばくれてやるたい。
其の場に居る全員が、息を呑むのが解った。
冴子がバッグを逆さまに振ると、中から札束が大量に出てきた。三千万円の現金を、持って来ていた。
其れを見た途端、男達の一人が服を脱ぎ始める。其れを見て又、一人。又、一人と次々に服を脱ぎ始めた。五分も経たぬ内に、男達は皆、全裸に成っていた。高々、百万。其れだけで、人は醜悪な姿を途端に曝し出す。
――なんば、ボサッと立っとるんね。さっさと、土下座ばせんね?
言われる儘に、男達は冴子に土下座をしていた。
快感だった。
今まで自分を馬鹿にして、見下してきた男達が、自分に媚び諂っている。
金の魔力の前には皆、従順な犬畜生に成り下がる。其れがたった今、証明された。
更なる快感を求めて、冴子は金を求めた。金は使ってこそ、なんぼだ。使わなければ廻らない。巡り廻って又、己の元に返って来る。幾ら金を貯め込んでも、金は廻ってはくれない。金の使い方次第で、金は幾らでも増えるのだ。
会社を起こして、金融業を始めた。土地を買って、駐車場も経営した。金に対して貪欲に成った冴子は、みるみると金を稼いでいった。
正に冴子は、金の亡者と化している。
此の世の中は所詮、金が全てだ。
金以外に信用、出来る物なんて何一つ無い。
不細工で不愛想な女が、人以上の幸せを求めるならば、金が要るのだ。
そして自分には、唸る程の金が在る。
――其れなのに何故、こんな目に遭っているのだ。
冴子は、運命を呪った。姿も見えない神を、罵倒して遣りたかった。漸く得た幸せを、神はいつも最悪の形で取り上げる。
「社長が悪いんですよ……。俺の事を散々、馬鹿にしておいて……クビにまでして。……俺、納得してないんですよ」
狂気に染まった顔の山崎が、冴子の胸にナイフを突き立てながら言った。胸の奥が、狂った様に熱い。痛いのではなくて、熱いのだ。まるで、身体の中に熱湯を流し込まれている様な感覚で在る。じんわりと熱が広がり、全身に死が伝って往く。そんな感覚が、冴子の胸中を際立てる。
山崎は冴子が、営んでいる金融屋の社員だった。
大した能力も無くて、人並み以下の仕事しか出来ない男だ。冴子に罵倒される毎日を送り、遂には解雇を言い渡される事と成ったのだ。本当に無能で、糞の役にも立たない男。見てるだけで、虫酸が走る。解雇は正に、正当な行いで在った。
其れなのに山崎は腹を立て、強行に及んだのだ。こんな溝の様な男に、殺されるなんて納得できない。金ならば、幾らでも在る。溝に捨てる程に在るのだ。こんな処で、斃るなんて御免だ。
――死にたくない。
薄れる意識の中で、冴子は想った。
折角、此処まで成り上がったのだ。こんな事で、死にたくはなかった。助かるの為らば、何でもする。
――俺が、助けてやろうか?
冴子は事切れる寸前で、声を聞いた。地獄の底から聞こえる様な、禍々しい声で在った。
――誰でも良い。助けてくれるなら、誰でも良い。
声の主が鬼でも悪魔でも、どちらでも構わなかった。自分が助かるのならば、何でも構わない。
――為らば、俺を受け入れろ。
何かが内に入り込んで往った。気が付けば、傷は塞がっている。
魔徒と成った冴子は、山崎を喰らって狂った様に嗤った。
弐
「香流羅よ、どうした?」
「入らないの?」
家の前で立ち止まる香流羅に、二匹の霊獣が問う。
霊獣は普段、其の実体を表には現さない。香流羅の衣服に、霊体として憑依しているのだ。
「邪悪な氣を感じる」
《ガイア》の数珠を身に着けてから、感覚が鋭く成っていた。
【人外の書】に依って、香流羅は遠くの氣の流れを察知する術を得ていた。故に以前にも増して、邪気に敏感に成っている。
邪悪な氣は、一つでは無かった。複数の邪気が、別々の位置から感じられた。其れも、相当な力を有している。今の自分で在っても、果たして勝てるだろうか。
――此の御影町で一体、何が起きている。
邪気の一つは、間違いなく魔徒に依る物だ。だが其れ以外の邪気は皆、気配が違う。幸い今は、成りを潜めている。事が起きれば、此の町は恐怖と混乱が渦を巻いて、死に包まれるだろう。他人が死のうが別に、どうだって良かった。家族さえ護れれば、香流羅は其れで良い。だが未だ、今の自分で在っても及ばない。
闇が動き出す前に、更なる力を身に付けねば成らない。其の為には矢張り、神威が必要で在る。だが、神の許しがいる。
「……お兄ちゃん。そんな所で、何してるの?」
背後から、声を掛けられた。
振り向くと刹那が居た。
「何故、封印が解けている?」
刹那から力を感じた。
砂羅と共に掛けた封印の術式が、完全に消えている。刹那に封印を解く術は無い。此れまで、何も教えずに普通の暮らしをさせていた。其の命を削りながら、力を使わぬ様に。無用な危険を、避けさせる様に。全ては刹那の事を想って、掛けた封印だった。
其の封印が、何者かに解かれている。
一人、思い当たる者が居る。
「神楽と契約したのか?」
無言で頷く刹那。
香流羅の問いに、刹那は狼狽えた様子は無い。
全てを知った上の事なのだと、香流羅は悟った。
「まぁ、良い。ならば、お前も力を付ける事だ。自分で選んだ道ならば、覚悟は出来ているんだろうな?」
厳しくも優しい光が、香流羅の瞳には宿っていた。
香流羅に取って、刹那は大切な妹で在った。
護るべき大切な存在だ。
「こいつを常に、持っておけ。必ずお前の力に成る」
「此れは……?」
小さなナイフ程の短剣だった。
「《正者の剣》だ。お前の心に共鳴して、相応しい姿と成る」
「ありがとう……」
はにかむ様に笑う刹那。
何よりも、愛しい存在だった。
参
奥深い薫りが、鼻腔を擽る。
其の薫りを楽しむ様に、羅刹は目を閉じていた。
優美で心地良い薫りで在った。珈琲とは、此れ程迄に心を満たしてくれる物なのかと、厳かに感心していた。自分が生まれた時代には無い代物。奥深い薫りに羅刹はすっかり、魅了されている。
口に含むと、味わい深い苦みが口内を満たした。
刹那に珈琲豆を貰って以来、目覚めた時と眠る前に、珈琲を飲むのが一日の愉しみと成っていた。不思議と心が落ち着き、健やかな気持ちに成れるのだ。
「お楽しみの処、悪いけど……羅刹、魔徒が現れたわ」
「又、珈琲が冷めちまうな……」
立ち上がり、短剣を手に取る。
黒いコートを身に纏い羅刹は、疾走った。
魔徒の気配を探る。
「処で、タリム。俺に、何か隠してるだろう?」
「あら、何の話かしら?」
「惚けるな。でかい邪気の存在に、俺が気付かないとでも思ったのか?」
先日から、とてつもなく邪悪で強大な力を感じていた。
只成らぬ気配に、肌が恐怖で逆立っていた。何者にも恐れを抱かない自分が、気配だけで恐怖を感じるのだ。
只事では無い。
「今の俺に勝てるのか?」
試す様に、タリムに問う。力の差は、問うまでも無い程に、痛感している。
「あら、随分と弱気ね。貴方の事だから、てっきり斃しに行くと思ったのにね?」
「俺も、馬鹿じゃない。無策で勝てる相手かどうかぐらいは、解っているさ」
本心では、恐れているのかも知れない。
生まれて初めて、感じる恐怖。其れを克服、出来ぬ内は勝てない。
「此の気配の主は一体、何者だ?」
「貴方も名前ぐらいは、聞いた事が在るでしょう。邪悪なる魔獣・タタラの名は、全ての騎士が知っているもの……」
「伝承で聞いた名だな。確か……タリムはタタラと闘り合った事が、在るんだろう?」
「長い歴史の中……三度、見えたわ。其の内の二度は、契約した騎士の命を喪っている」
其れ程迄に、タタラの力は強大なのか。
正直な気持ちを晒すならば、見えたくない相手で在る。
「だから、羅刹。タタラと遭遇したら、迷わず逃げるのよ……?」
「解っている。俺だって、タタラは恐い」
「なら……どうして、嗤っているの?」
羅刹は知らず知らずの内に、好戦的な笑みを浮かべていた。
恐怖は在ったが、タタラと闘いたいと言う気持ちも在った。もしもタタラと遭遇したならば、逃げずに闘う道を選ぶだろう。其れ故に、恐いのだ。
己よりも遥かに強い存在なのは、初めから解っている。だが、闘いたいのだ。
恐怖と好奇心が、羅刹の内側には在った。
「とにかく今は、目先の魔徒に集中しなさい」
「解っている!」
昂ぶる気持ちを抑えながら、羅刹は駆けた。
肆
「早よ、金ば返さんか!」
冴子は、女を睨み付けていた。
女の名前は宮城静香。年齢は二十五歳。専業主婦をしていたが、重度のパチンコ依存症を拗らせている。冴子が経営するアネスト金融の客で在った。
「もう此れ以上は、ジャンプ出来んばい。利息の十万だけでも、返して貰わんと此方にも、考えが在るんやが!」
ジャンプとは、追加の貸付を受けて利息だけを返す事を言う。
借金が雪ダルマ式に増える危険行為だ。だからこそ、冴子は女にジャンプを勧めて借金を膨れさせた。最初はたったの二万円だった借金が、今では二千万円まで膨れ上がっている。女には地方銀行で在るが、重役の席に座る旦那が居る。回収する術は、充分に在る。だが、目的は其処では無い。
「もう少しだけ、待って下さい。本当に今、お金が無いんです!」
涙目で懇願する女に、冴子は虫酸が走った。
ほんの少し見た目が良いだけで、今まで男に持て囃されていたのだろう。そう言った輩が、冴子は気に喰わなかった。
客層を若くて綺麗な女に搾ったのも、女達に地獄を見せてやる為だ。地獄の底の底を、厭と謂う程に味わわせて遣る。地を這い廻る獣の様に、惨めな生涯を送らせて遣る。全てを搾取した上で、無惨な人生を全うさせて遣る。
若くて美しい女達の不幸が、冴子に取っては極上の愉悦と成る。だからこそ、女を破綻させるのだ。
「なら、風俗を紹介してやるたい。男の下半身ば、喜ばせてやるだけやが。好きやろうもん?」
賤しい笑みを張り付けて、冴子は女に問い詰める。女衒は此の業界では、別に珍しい事では無い。尤も冴子が斡旋する業者は、悪徳な輩だ。本番行為を強要している。避妊を態とさせずに、旦那と揉めさせるのが目的だ。女の人生を破綻させる事が、冴子に取っては最優先事項と成っている。想像するだけで、笑いが込み上げて来る。
周囲の男達も、同じ様に嗤っていた。
事務所には冴子と女以外に、三人の男達が居た。皆、一様に厳つい顔をしていた。金の前では獰猛な男達ですら、従順な獣と化す。今の自分には、全てが意の儘に働くのだ。
「そんな事をしたら、旦那に殺されてしまいます。勘弁して下さい!」
「なら、良か。旦那に取り立てに行けば、良い事やが!」
大抵の女は、其の一言で謂う事を聞く。
「そんな事されたら、困ります!」
「なら、さっさと金ば返さんか。ウチらも、商売にならんたい!」
俯いて噎び泣く女。本当に、虫酸が走る。殺してしまいたい衝動を抑えて、冴子は煙草に火をつけた。メンソールの薫りが、鼻腔を擽る。紫煙を女の顔に吹き掛けながら、睨み附ける。女が落ち着く迄、待って遣る心算など無い。此処では自分がルールだ。
誰にも、曲げさせる気は無い。
「泣くな。さっさと、決断せんか。風俗で働くんか、旦那に泣き付くんか。どっちか、決めんか!」
契約書を突き付けながら、冴子は悪魔の様に囁いた。
暫くの沈黙。
女は遂に観念したのか、弱々しい声音で呟いた。
「……働きます」
其の言葉を聞いて、冴子は嬉々とした表情を浮かべた。
……と、其の時だった。
事務所の扉が、乱暴に開け放たれた。
「何だ、てめぇ……!」
叫ぶ男。
顔に傷の在る少年が、其処に居た。
――全く、忌々しい戦騎騎士だ。
「――どけ。お前に用は無い」
「何だと、此の糞ガキが!」
少年に殴り掛かる男。
難無く躱され、足払いを受けて派手に転んでいた。全く不甲斐の無い。結局は、誰も当てには出来ないのだ。
「坊や、ウチは金貸したい。返済能力の無いガキには、用はなか!」
「魔徒のお前には、金なんて必要ない!」
短剣で斬り掛かって来た。椅子を蹴り上げて、少年を遮る。少年は、椅子を斬り払った。
冴子は横に飛んで、ナイフを投げ放っている。
左腕に突き刺さるナイフ。其れを見て、冴子は高笑いを上げていた。
「確かに、貸し付けたばいッ!!」
そして、全速力で逃走した。
「逃がすか!」
後を追う少年に、男達が掴み掛かる。
従業員達は既に、死者と成っている。
冴子の意の儘に動く傀儡だ。
大した戦力には成らないが、足止めぐらいには使えるだろう。時間を稼ぎさえすれば、勝てるのだ。冴子はそう謂った能力を、身に附けている。譬え騎士とて、自分の課すルールからは逃れられない。
伍
「久し振りだな、姉さん」
穏やかな表情を浮かべて、香流羅は砂羅を見た。
「どうやら、禁忌の術を会得した様ね?」
険しい表情をする砂羅。
無理も無い。
今の自分は、危険と常に隣り合わせの処に居る。力を得た代わりに一歩、間違えれば闇に墜ちてしまう。そうなれば恐らく、砂羅は自分を斬るだろう。其れだけの力も、砂羅は有している。
「言いたい事は、解っている。だが、俺達には力が要る。そうだろう?」
「嗟。其の通りだ。だからこそ、己を見失うな……香流羅」
砂羅の其の瞳には、哀しみの光が宿っている。
十数年前、幼い自分達の前で母は殺された。
闇に墜ちた騎士の手に依ってだ。
力を抑え切れなければ、自分もそうなるかも知れない。
其の事は重々、承知の上だ。
決して自分は、闇には染まらない。愛する姉と妹を、必ず護り抜いてみせる。
「姉さん達を護れるならば、俺は修羅の道を行こう。必ず俺は、強く成ってみせる」
「だったら、お兄ちゃん。羅刹とも歪み合わずに、協力しようよ」
刹那が割り込んで来た。
「其れは、出来ない」
「どうして?」
「《禍人の血族》と戦騎騎士は、互いに相容れない存在だからだ」
「そんな事ない。現に私は、羅刹と打ち解けてるじゃない!」
「其れは、お前が特別だからだ。其れに……俺には、戦騎騎士を許す事が出来ん!」
脳裏に蘇る記憶を押し込めて、必死に冷静さを保った。
――忌々しい記憶。禍々しい凶刃。舞い散る血飛沫の中、母は騎士に抱かれて死んだ。幼い自分と砂羅は、何も出来ずに見ている事しか出来なかった。そんな自分が何よりも憎かった。弱い自分が、決して赦せない。
だからこそ、自分は強く成らなければ為らない。
「待って……お兄ちゃん!」
立ち去る香流羅を、追い掛ける刹那。
「帰って来て早々、落ち着きの無い子ね」
溜め息混じりに、砂羅が呟いた。
陸
「ガルムよ。此処は一体、何処だ。現世ではないのか?」
戌咬出狗は戸惑っていた。
漸く【闇の牢獄】を、暗黒戦騎ガルムと共に破る事が出来たと言うのに。漸く現世に舞い戻ったと思ったのに、目の前の光景は、不可思議で溢れ返っている。見た事も無い様な建物が聳え立っていた。
無数の鉄の塊が、町を走っている。町行く人々は、見慣れぬ衣服に身を纏い。手には、奇怪な板を持っている。
此処は一体、何処なのだ。自分の識る現世とは、余りにも掛け離れている。
「間違いなく、此処は現世だ。出狗よ、お前には人々の闇が見えぬか。時が変われば、人の世は変わる。しかし、人の闇までは変わらぬ」
饒舌に、ガルムが応える。自分を闇から抜け出し、此処まで導いてくれた。其のガルムの言葉を疑う訳では無いが、出狗は呆気に取られていた。其れ程までに、現世は様変わりしていた。
此の世界の何処かに、羅刹が居る筈だ。地獄で閻魔大王が、羅刹に言い渡した裁きを聞いていたから間違いない。戦騎騎士として、罪を償う為に羅刹は現世に蘇っている。尤も魔徒に討たれていれば、話は別だが簡単にくたばる奴ではない。
そう易々と、くたばられては困る。
自分は羅刹を殺す為に、現世に蘇ったのだ。
「其れにしても、此の強い邪気の持ち主は……一体、何者だ?」
途轍もなく強大な気配を感じていた。心の奥底から恐怖を掻き立て様とする程に、邪悪な闇が肌へと侵食しようとしている。
真面に闘り合っても、勝ちの目は薄い。
「邪悪なる魔獣・タタラ。其の名ぐらいは、聞いた事が在るだろう?」
突然、背後から声がした。
気配は全く、感じられなかった。
「お前、何者だ?」
不敵に笑う男。
異様に高い背。鍛え上げられた体躯。金色の長髪。其の身からは、圧し潰されそうな程の威圧を感じた。自分と同じく戦騎騎士で在る事は、間違い無い。為らば、闘いは避けられない。
「不味いな、出狗。全力で、逃げろ!」
「四百年振りに、剣を振るう機会が訪れたんだ。其れも此れだけの上玉。逃げるのは、勿体ない!」
其の顔を狂喜に染めながら、出狗は抜刀していた。久しい刀身の重みが、何処か心地良く懐かしい。再び剣を握る悦びに、心が滾る。闇が出狗を怪しく鈍く照らして往く。獣の様に、静かに押し殺した息遣い。呼吸を読むのは、至極困難だ。出狗から先を奪う事が、困難を極める事を意味している。
短刀二刀を構えながら、出狗は男を窺う。獣の本能が、警告している。肌を死の気配が纏わり附いている。先に動くのは得策では無かった。出狗は元々、後の先を取るのを得意としている。
格上の相手と相対するのは、初めてでは無い。出狗の心は、静かに弾んでいた。
「其の男の名は、夷蕗竟。最強の騎士だ。闘うのならば、我を喚装しろ」
「ほう。此奴が、話しに聞く《金獅子》か。ならば、ガルム。喚装だ!」
出狗の身体を、禍々しい程の黒い鎧が包み込んだ。暗黒に染まった獅子のレリーフが、禍々しく嗤う。
出狗が纏いし戦騎は、暗黒戦騎ガルム。曾て最強と称された二対の戦騎の一つで在る。
「凄いな小僧。鎧に喰われていないのか。俺の目的は、暗黒戦騎ガルムを斬る事だ。小僧……鎧を置いて去れば、見逃してやるぞ?」
「嘗めてるのか、貴様。咬み殺してやる!」
安い挑発で在ったが、出狗は動いていた。
前傾姿勢の構えから、男に飛び掛かる。短刀二刀流に依る上下段への斬撃を放っていた。
「疾いな。其れに、斬撃が重い」
男は一本のナイフで、出狗の攻撃を往なしていた。
「……竟。仮にも我が兄者を相手に、ナイフ一本では足許を掬われるぞ?」
男の戦騎らしき声が聞こえた。
「そうだったな、レオン。小僧の戦騎は、お前とは兄弟分。なら、此方も喚装といこう!」
男の身を金色の光が包んだ。
金色に輝く鎧には、荘厳な獅子のレリーフが刻まれていた。其のレリーフが、何処かガルムのレリーフと似ている。
「ガルム、どういう事だ?」
「知れた事よ。奴の纏う金獅子戦騎レオンは、此のガルムの弟。奴等は強いぞ」
男は腰に差した大剣を、引き抜いていた。
優雅に構えながら、此方を見据えている。
「来るぞ!」
ガルムが声を発した時には、既に男は突進を始めていた。
出狗は極界から、暗黒の炎を召喚して身構える。大柄な男の見掛けからは想像も付かぬ程、素早い動きで間合いを詰めて来た。
男の斬撃が、出狗の頭部を捉える。完全に男の間合いの内に居る。
大剣が、出狗を両断した。
其の刹那、炎の揺らめきと共に、出狗の姿は消えた。炎の陽炎は、鬼火の様に唐突に姿を現した。
――完全に背後を捉えている。【糸游】を駆使して、間合いを制する事に成功した。此の気を逃せば、勝機は無い。
右の太刀を、男の背に叩き衝ける。
だが、振り向き様に大剣の柄で受けられた。構わず左の太刀を、下段から放った。其れも防がれる。尚も連続して、斬撃を放つ。出狗の剣撃は、決して軽い物では無い。速く重い刃は、受ける者の身体を大きく揺さぶり続ける。
上下左右と縦横無尽に放たれた連撃。其の速度は、目で捉えられる物では無かった。
出狗の剣は、まるで獰猛な獣の様で在る。故に其の剣は、獣刃と名付けられた。
「ぬるいッ!」
僅かな隙を突いて、男は大剣を放った。
出狗の剣は弾かれ、大きな隙が生まれた。
「終わりだ……小僧!」
大剣の追撃が、出狗の身体を捉える。
漆
「不味いわね……」
タリムの声が、苛立ちに拍車を掛けた。
左腕に力が、全く入らなかった。ナイフを受けた時は、大した傷では無かった。其れなのに、出血が止まらない。赤黒く変色して、どんどん悪化して往く。こんな事は初めてで在った。毒や呪いの類いでは無い。
此の儘では、死に至る。此れ以上に悪化する為らば、腕を斬り落とさなければ為らない。
「どうやら……奴さんの能力は《貸付》みたいよ。受けたダメージを返さなければ、利息が付く様ね」
「奴を斬らないと、傷の悪化は止まらないと謂う訳か……」
魔徒を追いながら、羅刹は焦りを感じていた。
「タリム。喚装して、奴を追うぞ!」
戦騎の羽根を広げて、羅刹は飛んだ。
飛行には通常よりも力が消費される為、喚装していられる時間が極端に短く成る。猶予は余り無い。
魔徒との距離を、一気に詰める。既に相手は、鬼神化していた。
「せからしかッ!」
二本のナイフを、投げ放つ魔徒。
剣で薙ぎ払う。だが三本目のナイフで、右腕を斬り付けられた。
「其の両腕ば、貰うけん。覚悟しんしゃい!」
構わず魔徒に、斬り掛かる。
剣先には炎を宿していた。羅刹の刃が、魔徒の胴を捉える。……が、ダメージには繋がらなかった。
平然とした表情で、反撃をする魔徒。
醜く肥大化した身体から、複数のナイフを飛ばして来た。
虚を突かれて、羅刹は咄嗟に防御体勢を執っていた。全身をナイフが、五月雨の如く襲う。
ナイフを躱し、払うが、其の内の何本かが羅刹の身体に突き刺さる。
全身に痛みを感じた。此の儘では不味かった。
「何故、攻撃が効かない?」
「貴方が受けたダメージを、相手に返さなければ無駄みたいね。本当に厄介な相手だわ……」
魔徒は又、距離を置こうと逃走を始めていた。
攻撃と退避を繰り返して、此方が自滅するのを待つ心算の様だった。
長期戦に成れば、羅刹に勝ちの目は無かった。受けたダメージの利息が貯まって、死に至ってしまう。其れに、戦騎を喚装していられる時間も、既に残り僅かだ。
非常に苦しい展開で在った。焦りが羅刹の心を、秘めやかに撫で附けている。死のイメージが、羅刹の脳裏を残酷に抉り取って往く。此の儘では本当に、不味かった。策も時間も、皆無と謂うしか無い。
所謂、絶体絶命の危機で在る。
「此の程度の相手に、何を梃子摺っている?」
冷酷な声音が、背後から聞こえて来た。其の声に、敵意は感じられなかった。
振り向くと、其処には香流羅が居た。意外で在った。
雰囲気が、以前とは異なっている。其れに全身を纏う氣の密度が、段違いに濃く成っていた。明らかに、以前よりも強く成っている。
「青丸、奴を討つぞ!」
「イエッサーッ!」
香流羅の声に呼応して、青白い光の鷹が出現した。
香流羅の使役する霊獣は、周囲の氣を取り込んで、みるみると巨大化していった。
巨大化を続けながら、魔徒の元へと凄まじい速度で飛行している。
「人に仇為す魔徒は、此の俺が討ち滅ぼしてやる!」
鷹の霊獣が、魔徒を撃ち貫いていた。
音も無く、魔徒が消滅した。
「戦騎騎士など、必要ない!」
小太刀の切尖を、羅刹に突き付ける。
香流羅に向けられた眼差しは、相変わらず憎しみに染まっていた。
手負いで勝てる程、今の香流羅は甘くは無かった。
「だが……今回は、見逃してやる。此の間の借りが、在るからな」
小太刀を納める香流羅。
「後悔する事に成るぞ?」
「今、お前を斬れば、彼奴に嫌われる」
微かに、香流羅が笑った様に見えた。
少し先の方から、刹那が駆け寄って来る。
「其れは、不味いな……」
羅刹は、苦笑いを浮かべていた。奇妙な感覚で在った。
憎しみが消えた訳ではないが、其れ以外の感情を共に共有している。其れは、刹那へと向けられた想いで在る。護りたい者が、互いの利害を結び附けているのだ。
「だが、忘れるな。何れ、決着は付ける。必ずだ!」
香流羅は去っていった。
何れは、死合う定めに在るのかも知れない。戦騎騎士と《禍人の血族》の間柄は元来、そう謂った物なのだから仕方が無い。
――仕方が無いのは理解っている。
羅刹は刹那を見ながら、短剣を納めていた。
捌
大剣が出狗の身体を捉える寸前で、竟の身体は弾き飛ばされた。突如として現れた女の飛び蹴りを、今日は真面に受けていた。
「危ない処だったねぇ!」
出狗に駆け寄る女。
全く面識の無い女だった。だが、人懐っこい笑みを向けている。自然と、警戒が緩んでしまいそうになる。
「其奴を連れて、逃げるのじゃ。今、ガルムを喪えば……我々の計画は、大きく狂う事と成る」
出狗の前方には、小柄な老人が胡坐を掻いて宙に浮かんでいた。
気配からは、其の力を推し測れない。
「はぁ~い、老師!」
どうやら、女と老人は師弟関係に在る様だった。
「矢張り、お前等が絡んでいたか」
竟が、老人を睨み付けながら言った。
「皇渦陸仙と暗黒戦騎ガルム。同時に相手取るのは、流石に不味いな」
「馬鹿を申すな。御主は……最強の名を、欲しい儘にしとる。戦力的には、未だ未だ足りておらぬぐらいだ」
何時の間にか、周囲を無数の人影が囲んでいた。
まるで気配を持たなかった。
「《嘲りの鉈椰九》に其処まで言われるとは、光栄だな」
竟は、余裕の表情を浮かべていた。
「死者を使うとは、お前等も随分、人手不足の様だな」
辺りを見廻す竟を、出狗は睨み続けた。
「そんな顔をしなくても、ちゃんと斬ってやるさ」
竟が何かを投げて、此方へ歩み寄って来た。其の刹那、周囲の死者達の首が飛んだ。力無く倒れる死者達。
投げられた武器が、持ち主の元へと帰っていく。どうやら、円月輪の様だ。
「役に立たない駒だったな?」
小馬鹿にした様に、老人を見る。
「そうでもない」
刹那、邪悪な気配が現れた。
死者達が、魔徒と成って蘇っていた。どう謂う理屈なのか、老人は魔徒を操っている。
「御主の相手は、其奴等がしてくれる」
竟に襲い掛かる魔徒達。
「流石に、数が多いな。こいつは、骨が折れそうだ」
言葉の割には、余裕そうな表情で在った。
竟の両側から、二つの影が近付いて来る。円月輪を両手に投げて、後方に飛んだ。
二体の魔徒が、飛散していった。
「さぁ、今の内に逃げるわよ!」
女が出狗に笑い掛ける。
自分と年恰好は、余り変わらない。可愛らしい顔をしていた。人の気配を、感じなかった。
「出狗よ。此処は一旦、退いた方が良策の様だ」
逃げる様に、促すガルム。
「解っている!」
苛立ちながらも、其の言葉に従う。
《金獅子》――夷蕗竟。
其の名は、憶えた。
次に相手取った時は、必ず斬ってやる。