第八話【武芸】
壱
強く成りたかった。
誰よりも、強く成りたかった。其の一心で修練を積み、己を研磨する。身体を鍛え只々、一向に強さを求める。武に身を置く者は、本来そう在るべきだ。
幼い頃から、爪倉戎三は武の道を歩んできた。江戸時代から在る流派の家に生まれ、弟と共に技を磨いてきた。其の弟は悪を討つ為に、警察官の道を選んだ。
其の一方で、戎三は強さを求め続けた。修練を積む程に、強く成る。其れを実感するには、実戦しか無い。様々な門派を叩いては、己が力を振るった。ボクシング、空手、ムエタイ、柔道、レスリング。其の他のあらゆる格闘技を相手にして来た結果、国内で戎三に勝てる者は居なく成った。
更なる強敵を求めて、世界を渡った。素手だけでは無い。刃物、鈍器、果ては銃火器ですら相手にした。其れも多対壱での闘いが多く、常に利は相手側に在る状況。けれども全力を振るえる相手には、一度として巡り逢えなかった。
戎三は強く成り過ぎていたのだ。一体、どれ程の力を習得したのかが、解らない。全力を振るう相手が居ないのだから、己の底を測り得ないのだ。
「おい、オッサン。何見てんだよ?」
若い盛りのチンピラ風情が三人、戎三を囲む様にして見ていた。皆、一様に柄が悪い。人気の無い裏路地で、華奢な女に不埒な行為を働こうとしていた。全く、反吐が出る。
「助けて下さいっ……お願いします!」
半裸姿の女が、涙を浮かべて懇願していた。
男の一人が、女を抑え付けて離さない。
白昼から、堂々と恥知らずな輩で在った。全く見知らぬ女で在ったし、正義の味方振る気は毛頭ない。だが其れでも、見過ごす訳には往かない。
「あ~……在れだ。お前達、怪我をする前に女を、離してやりなさい」
欠伸を噛み殺して、戎三は男達に忠告した。隙だらけの男達。制圧するのは、赤子の首を捻る程に容易い。
「嘗めてんのか、てめぇっ!」
戎三の胸座を掴む男。
其の行為が如何に愚かで在るかも知らずに、粋がる小童。余り滑稽過ぎて、笑いが込み上げていた。
「何笑ってやがんだ、てめぇ……っ!」
間接に逸る様にして、男の腕を捻って遣る。大した力は入れていない。
「痛でっ……痛でぇ!」
苦悶に顔を歪めながら、男は酷く情けない表情を浮かべていた。男で在る為らば、如何なる時で在っても、そんな顔を見せては為らない。
戎三は何の躊躇いもなく、男の腕を折った。短い悲鳴。情けない声だ。骨の音が、枯れ木の様に軽い。栄養不足なのか、骨密度が低い。間髪入れずに、顔面に拳を叩き込んだ。鼻骨もスカスカなのか、容易く破砕できた。最近の若者は、見掛けだけで軟弱で在る。簡単に壊れてしまう。
力なく倒れる男。地に伏しながら、何やら呻いている。残る二人が呆気に取られた表情で、此方を見ていた。擦り足で間合いを詰めて、女を抑え付けている男に寄る。耳を狙って、ゆっくりと手刀を放った。
小指と中指で挟み込んで、耳を引っ張ってやる。大きく体勢を崩して、女を離していた。肩から体をぶつけると、あっさりと倒れた。
思いっきり、顔面を踏み付ける。
歯が砕け散るのが、足の裏に伝わる感触から解った。蛙の潰れた様な悲鳴を上げる男。全く、情けない奴だ。悪に染まるなら、端から覚悟を決めておくべきだ。今更、後悔しても遅い。
残る男が、鉄パイプで殴り掛かっていた。其の表情は既に、恐怖に染まっている。大抵の人間は恐怖すると、武器に頼ろうとする。
どんな獲物でも、間合いの内側に入ってしまえば無力と化す。男の懐に潜り込んで、襟と袖を外側から掴んで投げ飛ばした。逆関節を取って、踏み付けると容易に骨が折れた。此の男も骨がスカスカで在る。全く、貧弱極まり無い。
女を見ると恐怖に顔を歪めて、小便を漏らしていた。
「つまらん……」
強い相手と闘いたい。己の力を存分に、振るってみたい。心の奥底から沸き起こる願望を、満たしてくれる相手が欲しい。無聊を提げて生きる日々に、辟易としていた。死闘の末に、全力を尽くしてみたい。
戎三は一度として、全力で戦った事が無かった。未だ見ぬ強敵に想いを馳せ、常に苦慮を寄せている。決して満たされぬ想いで在る。強さに惹かれ、強さを求めた。強き者を求めて、渇きと飢えを感じている。
戎三は強く成り過ぎていた。
女を残して、立ち去った。
弐
深淵よりも更に深く濃い闇が、何処までも広がっていた。果ての無い、何処までも終わりの無い終焉の闇。
何者にも抗う事の出来ない闇。何者にも抜け出す事が叶わぬ闇。其れは、極界の在る場所に存在していた。【闇の牢獄】の中を、一人の少年が囚われている。四百年近くも、底知れぬ闇の中で過ごしている。
常人ならば、完全に自我を喪い無に帰している。けれども、其の少年は違った。深い怨みを懐いていた。
深い悲しみも又、抱いていた。其の想いに引かれる様に、囁く声が在った。
四百年もの時間を、自我を喪わずに居られたのは、其の声のお陰だった。声は少年に、知恵を授けた。戦騎に附いて、魔徒に附いて、天界や極界に附いて。様々な知識を与えて、力の使い方を授けた。時には曾ての英雄の話しも語り継いだ。声には幾千もの知識が在る。少年には、果ての無い時が在る。語る言葉も時間も、尽きる事が無い。其れが、少年に取って救いと成った。
少年は声と共に、牢獄を抜けだす術を探した。どうしても、此処を抜け出したかったのだ。何としても、現世に舞い戻りたい。
晴らしたい想いが、少年には在ったのだ。曾ての友が、戦騎騎士として蘇っている。自分が【闇の牢獄】に投獄される前に、其の事実を知っていた。閻魔大王が、其の判決を下したのを少年は見ていたのだ。憎悪が弾ける様に、心を粉砕しようとしていた。四百年の時の中で、共に対する想いは更に深く成っていた。
必ず現世に舞い戻って、曾ての友を自らの手で討つ。
其の想いが、四百年の間に何かを産み出していた。
産まれたばかりの其れは、神と呼ぶには余りにも幼かった。けれども、其の力は絶大だった。神の力を以ってすれば、此処を出る事が出来る。声がそう、教えてくれた。
少年は、神と契約していた。
己の産み出した禍神と契約した事に縒り、少年は《禍人の血族》と成った。尤も産まれたての神には、《地の掟》も《血の定め》も課すだけの知恵は無い。
声が少年に囁いた。
――間もなく【闇の牢獄】は破られる。
【闇の牢獄】に幽閉されているのは、少年だけでは無い。直接には彼等と話した事は無いが、声を通じて其の存在は知らされていた。そして彼等が、禍神と契約していた事も知らされた。彼等は少年と違って、強大な力を有している。禍神を通じて【闇の牢獄】を破る為の力を錬成している。声が全て、手引きしてくれている。
現世に舞い戻る術が間も無く整う事を知って、少年は深い闇の中で笑った。
参
「いい加減、出て来たらどうだ?」
人気の無い公園で、立ち止まる羅刹。時刻は午後九時を回った頃合いだ。時折だが、人の往来が在る。余り派手な立ち回りは出来ない。だが、手加減の出来る相手では無い。
先刻から、附けられている事に気付いていた。気配の正体にも、憶えが在る。今宵は魔徒の気配は無い。戯れるには調度、良い相手だった。
狐面の女が姿を現していた。
此の間の様に、奇襲を掛けずに此方を見ている。
「俺に用は、無かったんじゃないのか?」
「少し、お前に興味が沸いた」
「奇遇だな。俺も、お前に興味が在る。お前は何者だ。何故、此の間は俺を襲った?」
「此の間は、本当に只の勘違いだ。私が探していた男に、お前は良く似ている。尤も……其の男は、もう此の世には居ない!」
狐面の女――菴は、腰に差した二本の短刀を静かに抜いた。其の構えに、憶えが在る。
「お前、其の構えを何処で憶えた?」
「此れは……私の兄が使っていた技だ。矢張り、そうか。お前は、兄を知っているんだな」
菴は、静かな殺意を纏っていた。其れは鋭く研ぎ澄まされた刃の様に、冷たく空気を張り詰める。獰猛な獣の放つ殺気だ。気を当てられただけで、鈍い重圧を感じる。
菴の短刀二刀流の構えが、曾ての友の姿と被る。
前傾姿勢で、此方を見据える菴。面の下は一体、どんな表情をしているのだろう。羅刹はそんな事を考えながら、短剣を引き抜いた。
「あら、羅刹。私を喚装しなくて、良いのかしら?」
「其の必要は無い。調度、此奴を試してみたかった処だ」
羅刹は右手を翳して見せた。
《護りの刻印》が青白く光って、籠手と成る。確かに、菴は強い。以前に合見えた時には、戦騎の力が必要だった。だが、今の自分には更なる力が必要だ。戦騎無しで、何処まで闘えるのか試してみたい。
気が付いた時には、菴は此方に向かって仕掛けていた。瞬時の内に、間合いを詰められている。全く隙が無い。有無を謂わさずに、先を取る気だ。
左から壱の太刀が、振り降ろされる。短剣で払った刹那、弐の太刀が迫る。籠手で受けて、其の手を捻る。遠心力に捲き込まれる様にして、此方に向かって体勢を崩す菴。既に菴は其れに対応しようと半身を捻って、重心を下に降ろしている。だが、羅刹の方が一手、勝っている。
参の太刀を繰り出す前に、羅刹は短剣を突き出していた。
「何故、剣を止める?」
菴の胸を短剣が刺し貫く寸前で、羅刹は剣を止めていた。
「お前を斬る理由が、俺には無い」
「いいや、理由なら在る」
面を外して、菴は微笑を浮かべていた。妖しく鈍い暉を孕んだ微笑。其れは、人成らざる者の笑みだ。全身が総毛立つ様な寒気を感じて、羅刹は身を引いた。僅かに距離を取って、菴を見据える。
其の額には、赤黒く光る刻印が浮かび上がっていた。術式からして、其れが《禍人の血族》の力だと悟る。だが、菴から放たれる邪気は、人の物では無かった。
「お前、魔徒か?」
「嗟、そうだ。お前達、騎士が忌み嫌う魔徒だ」
突然、菴から魔徒の邪悪な気配が強く成った。
同時に《禍人の血族》特有の不思議な力も、強く感じられた。
「鬼神化した私は、かなり強いぞ!」
迸る程の殺気を受けて、全身がひりついていた。
菴は鬼神化していたが、姿形が変わらなかった。己の自我が、魔徒の意思を凌駕している証拠だ。其の手の魔徒は、決まって強い。
籠手を前に突き出す様な姿勢で、腰を落とした。
短剣を持つ手を、だらり……と、垂らしている。其の構えは、ボクシングのヒットマンスタイルに酷似していた。
此の構えならば、如何なる攻めにも対応する事を、羅刹は本能的に理解していた。
ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出す。丹田呼吸をしながら、菴の動きを注視していた。周囲の喧騒が、はっきりと聴こえる。車の駆動音や風の音。菴の息遣いですら、手に取る様に解る。あらゆる感覚が、鋭敏に研ぎ澄まされていた。まるで、時が止まったかの様に、一秒が長い。
ゆらり、ゆらり……と、菴は身体を揺らしている。構えこそは酷似していたが、菴の剣は友の剣とは全く違った。
――にたり。
薄気味の悪い笑みを浮かべた刹那、菴は動いていた。其の瞬間、羅刹は短剣を撓らせる様にして突き出した。
――其の剣速は、零コンマ壱秒にも満ちていなかった。通常の人間ならば、攻撃を認識してから対応するには零コンマ五秒の誤差が生じる。例え魔徒で在っても、宿主の脳が人間で在る以上は、羅刹の剣速に対応する事は不可能で在る。
そう、通常ならば――回避は不可能だった。
左手の刀の鎬で、羅刹の突きを受ける菴。其れと同時に突きの勢いを殺す様にして、左側に身体を捻っている。武の心得が在る魔徒を相手にするのは、初めてで在る。紛れも無い強敵で在るが、戦騎の喚装を無くして対応し切れている。羅刹の中で、慥かな手応えが在った。
迫り来る右の太刀を、羅刹の眼は捉えている。
在れを回避して来た事には驚いたが、羅刹は冷静に籠手で受けて往なしていた。
追撃を繰り出す菴。
反撃の太刀を放つ羅刹。
互いの剣が、互いの急所を捉える寸前、互いの剣が止まった。
「二人共、其処までだ!」
身体の自由が、効かない。
声の主には、全く憶えが無い。視線を向けると若い女が、此方を見ていた。色の白い美しい女だ。不思議な力を感じる。邪気は一切、感じられない。術の類いが《禍人の血族》に酷似しているが、次元が違った。
此の時代の寺子屋の着物に身を包んでいる。
「お前は何者だ?」
「何……私は只の禍神の化身。半神半人の半端者だ。名は、舞織神楽と言う」
あっけらかんと笑う女。
禍神とは《禍人の血族》達が契約している神の事を指す。
「そいつは、私の従者でね。ちょっと、君の力を試させて貰ったよ」
其の双眸は、澄んでいた。無邪気に笑う神楽を、羅刹は睨み附けた。
「何が目的だ?」
「何、只の暇潰しさ。私達は、長い時を生きている。目的も無いんで、毎日が退屈なのさ」
先から術を解こうと試みるが、全く身体の自由が効かない。闘いに為れば、今の自分は瞬殺されてしまうだろう。
だが騎士として、退く訳には往かない。
「其の女は、魔徒だ。今、此処で斬る!」
「そうは、往かない。菴は、私の大事な従者だからな。其れとも、私も斬るか?」
其の刹那、異様な迄に強い力を感じた。全身を途轍も無く、鈍い重圧が圧し掛かる。半端の無いプレッシャーが、身体中の筋肉を強張らせる。其の辺の雑魚とは、訳が違う。
神だと言うだけ在って、其の力は測り知れなかった。
「尤も、私に戦う力は無い。身を護るので、一杯一杯だ」
「羅刹、戦いは避けた方が、賢そうよ」
半神とは言え、相手は神だ。
敵に回すのは、得策ではない。
「我々は基本的には、人間に無害だ。だから、目を瞑って貰いたい」
「……で、お前達は何が目的なんだ?」
「さっきも、言っただろう。只の暇潰しだ。今の香流羅とお前、どちらが強いか興味が在ってな」
「奴を、知っているのか?」
「知っているよ。何れ、見える時が来るだろう。其の時は精々、私を楽しませてくれ」
女は菴と共に、消えた。
舞織神楽と言ったか。気に喰わない女だった。何処かエリザに似ている。同じ神の眷属なのだから、似ていて当然なのだろう。
好きには成れない手合いだ。
「良い加減、お前も出て来たらどうだ?」
苛立っていた。
先程から、人間の気配がしている。魔徒でもなく《禍人の血族》でもない。只の人間の気配だった。
「気付いていたか」
「俺に一体、何の用だ?」
三十代半ばぐらいの男だった。良く鍛えられた体躯から、並の手練れではない事が窺える。
只の人間が、自分に何の用が在るかは解らない。だが、好意が在る様には見えない。
「羅刹、人間を相手にしちゃ、駄目よ!」
「解っている」
「何を、ぶつぶつと言っている?」
普通の人間には、タリムの声は聞こえない。
「貴殿の立ち合い、見させて貰った。我が名は爪倉戎三。是非、立ち合って欲しい」
「断る。俺には、お前と戦う理由は無い」
男に背を向ける羅刹。
「逃げるのか?」
羅刹は相手にしなかった。
背後から、此方に駆け寄る気配がした。駄々漏れの殺気が、何故か心地良く心を愛撫する。逸る心を抑えながら、羅刹は振り向いていた。
空を裂く拳を、振り返り様に左手で受け流す。体を横に回転させながら、右手で追撃を往なす。
「強いな、小僧!」
「お前も人間にしては、やるな!」
交わる視線。男には笑みが浮かんでいた。邪気の類いは一切しない。
「剣を抜け。俺は、本気のお前と戦いたい!」
純粋に、闘いを愉しんでいるのだ。
「駄目よ、羅刹!」
「解ってる」
追撃の手を緩めない男。
全てを躱し、往なしているが、予想以上に男は強かった。傷付ける事無く往なす事が、至極困難で在る。
気が付いたら、サイレンの音が近付いていた。御用と成る訳には往かない。
相手も同じなのか、攻撃の手を止めた。
「此の勝負は一旦、預ける!」
迅速に立ち去る男。
又、厄介な奴が増えたな。
全く、今日は厄日だった。
肆
「おっはよー、刹那!」
萌が人懐っこい笑顔を浮かべて、抱き付いてきた。
「そう言えば、知ってる?」
萌は目を爛々と輝かせていた。
「今日から、転校生が来るらしいよ」
二年生の三学期。時期的には、かなり中途半端で在った。
しかも刹那が通う私立晴明女学院は、お嬢様ばかりが通う学校だ。
余程に裕福な者が、何か特別な事情で転校して来たに違いない。
「どんな娘だろうね?」
萌が奇異と期待の籠った声音で言った。
「きっと、お金持ちのお嬢様じゃないかな?」
「刹那も、やっぱりそう思う?」
そうこうしていると、予鈴が鳴った。
暫くして、担任の教師と共に綺麗な女の子が来た。
「え~……転校生を紹介する。舞織神楽さんだ。皆、仲良くするようにな」
担任の青山が、気懈そうに言った。今年で定年退職の所為か、いつもやる気が無さそうだった。
「舞織神楽と申します。皆さん、仲良くして下さい」
鈴とした佇まい。透き通る様な、綺麗な声。其の落ち着いた物腰は、高貴な品格を漂わせていた。
「其処の空いてる席に、着いて下さい」
青山が、刹那の隣りの席を指差す。
言われる儘に、神楽は席に着いた。
「舞織さん、私は御法院刹那。宜しくね」
「お前の事は、香流羅に聞いているぞ」
「えっ……?」
何故、神楽は兄の事を知っているのだろう。
刹那は明白に動揺していた。
「どうして、お兄ちゃんの事を……?」
「成る程……珍しいな。お前は《捧ぐ者》の様だな」
「捧ぐ……者?」
言っている意味が、解らなかった。
「どうやら、何も知らされていない様だな。其れに、封印の術式が施されているな」
周りの者には聞こえない様に、神楽は囁いた。
「貴方は、一体……」
「何、只の半神半人の半端者だ」
笑みに染まる声で、神楽は応えていた。
伍
道場で座禅を組む戎三。
昨夜、見えた少年に想いを馳せていた。
まるで思春期の少年が、意中の少女に恋い焦がれる様な心中で在った。初めて出逢った真に強き者。在の少年ならば、本気で死合える。
此れまでの修練を、試す時が来たのだ。己の武を、存分に振るえる相手が遂に現れた。
内奮える心を、抑え切れなかった。幼い頃に一度だけ、強き存在を見た事が在る。
光り輝く鎧を、身に纏い。醜く凶悪な魔物を討ち斃した騎士。魔物の正体は、父で在った。不思議と怒りや悲しみは無かった。共に居合わせた弟は、悲しみに涙していた。憎しみに染まった眼を、光の騎士に向けていた。
だが、己の胸中に在った物は、全く別の感情で在る。
其の騎士は真に、強き男で在った。猛る様な、雄々しき鎧。迸る程に鍛え上げられた体躯。全てを射抜くかの如き眼差し。
包み込む様な優しい笑顔を受けて、こう想った。
――何時か光の騎士よりも、そして誰よりも、強く成ってみせる。
昨夜の少年は、光の騎士に何処か似ていた。
目を見開いて、戎三は眼前の刀を見た。
――打刀・篠ノ雪。
銘こそは不明で在ったが、其の切れ味は折紙付きで在る。笹の上の雪を落とす程の切れ味から、付いた其の名は伊達では無い。
其の刀身は通常の太刀よりも、少し長いが敏捷性は打刀の方が優れている。打撃力こそ優れているが、太刀は抜刀後、刃を返さなければ、相手を斬る事が出来ない。だが打刀の場合は、刃を上に向けて帯刀する為、速やかに敵を斬る事が出来た。
戎三は篠ノ雪を手に取って、立ち上がっている。
磨上無銘の刀を腰に差し、静かに笑った。
少年に想いを馳せて只々、笑った。
――相手に取って、不足は無い。
陸
――天界。
神々の住まう居城に、二人の騎士が跪いていた。
一人は初老の男だった。鮮やかな赤毛が印象的で在る。
もう一人は、三十代の男。其の鍛え上げられた体躯は、洗練されている。
二人は共に、天界の神と契約した天仕で在った。
《禍人の血族》と違って、天仕は何の制約も受けない。そして天仕には、不老と強大な力が与えられる。言わば、神の御遣いと成るのだ。
「良くぞ、参った。邪悪なる魔獣・タタラが復活した事は、知っているな?」
神が言った。
「我々に、タタラ討伐の命を御与え下さい」
赤毛の男――矢紅が言った。
「タタラ討伐は、矢紅。貴方、一人で赴きなさい」
「何故、大軍を率いないのですか?」
若い騎士が問う。
「【闇の牢獄】が先程、破られました」
「【闇の牢獄】が……。では、例の戦騎が解き放たれたと言う事に成る。其れと同時に、皇渦陸仙が動いた事を意味する」
「だからこそ、同じく皇渦陸仙で在る貴方達を喚び寄せたのです」
――皇渦陸仙。
天界の賢人・仙人達の頂点に位置する六人。其の内の三人が、闇に墜ちて【闇の牢獄】に幽閉されていた。
「天界は今、非常事態に在ります。天界の戦力を、タタラに割く余裕は在りません。竟、貴方は暗黒戦騎・ガルム並びに、皇渦陸仙の討伐を命じます。最強の騎士《金獅子》と呼ばれる貴方にしか、任せる事が出来ません」
「畏まりました」
二人は深々と頭を下げて、其の場を去った。
漆
「こんな所に呼び出して、何の用だ?」
学校の屋上に刹那と神楽が居た。
「貴方に教えて貰いたいの……私の力の事を、貴方は私の事を《捧ぐ者》と言ったわ」
「矢張りお前は、何も知らずに育ったのだな。お前の家族は、優しいな。何も知らずに、普通の女子として過ごした方が、お前に取っては幸せだぞ?」
妖艶な笑みを浮かべて、神楽は問う。
「私は……皆の力に成りたいの。何も知らずに、護られてばかりじゃ嫌なの!」
「危険な日常を生きるよりも、平穏無事な日々を過ごした方が幾分、幸せだと思うがな。まぁ……私の知る物は皆、決まって命知らずばかりだ。ならば、教えてやろう」
「有り難う……!」
目を輝かせる刹那。
自分の背負う定めを知れば、其の笑みは消えるだろう。護られる日々を、無難に過ごす事だろう。
「《捧ぐ者》とは、其の名の通り己を捧ぐ者の事だ。己の命を削り、他人に力を与える事が出来る。傷を治す能力も、備わっている。軽い怪我ぐらいなら、代償も少ない。……だが、命に関わる傷を治すならば……寿命が数年、無くなる物と思った方が良い」
「凄い……。私に、そんな力が在るなんて」
嬉しそうに、頬を紅潮させる。
其の表情も、直ぐに消える事に成る。
「そして《捧ぐ者》の大きな特徴は、其の身を魔徒に捧ぐ事が可能だと言う事だ。例え其れが、魔徒の王族で在ってもだ。故に、魔徒や邪悪な者に狙われ易い。尤も……お前には、封印が掛かっている。狙われる可能性は、宝くじ程度にしかない」
表情を少し曇らせる。間違っても、封印を解きたいとは言うまい。
「戦騎騎士の力に成る方法は、無いの?」
「在るぞ。騎士を、とびきり強くする方法がな」
「どうすれば、良いの?」
「簡単な事だ。願えば良い。《捧ぐ者》の力は、祷りの力だ」
「だったら、御願い。私の封印を、解いて頂戴!」
決意に満ちた表情。
曇り無き其の眼を見て、神楽は満面の笑みを浮かべた。
「お前は面白い奴だな。気に入った。封印を解いてやる代わりに、私とも契約してみないか?」
「そんな事が、出来るの……?」
驚いた表情を浮かべて、刹那が問う。
「出来るさ。私は一応、神だからな。お前の負担を、私が軽減してやろう。其の上で、力を抑える術式を授けてやる」
「どうして、其処までしてくれるの?」
「単なる私の気紛れだ。気にする事は無い。《血の定め》や《地の掟》等と言う、まどろっこしい奴も要らない。但し、私を楽しませろ。良いな?」
笑みを浮かべて、刹那に問う。
神楽はいつも笑みを浮かべているが、其れは表面上の事に過ぎない。本心から、笑った事が無かった。だからこそ、心の底から笑ってみたかった。刹那と契約する理由も、菴の時と同じだ。
神楽は友として、刹那を気に入ったのだ。友と親しく成れば、愛着が湧く。菴の様に昵懇の仲に成れば、情も入る。
刹那は、呆気に取られた様な表情を浮かべていた。
「解った。楽しませる。……けど。貴方、変わってるわね?」
「お前も充分、変わり者だ!」
神楽は手を翳して、刹那の胸に触れた。
「今、封印を解いてやる!」
捌
「又、お前か……」
羅刹は溜め息混じりに、男を見た。
時刻は深夜二時。場所は公園。昼間とは打って変わって、煩雑が無い。電球の切れ掛かった街灯が、胡乱な明かりを照らしている。闇夜には調度、良い。
昨夜の男は、刀を携えていた。
静かな殺気を湛えている。
「俺は、お前と戦う気は無い!」
無言の男。
只、此方を見据えている。
「羅刹、魔徒の気配よ」
「此奴か?」
男を見るが、そんな萌しは無かった。
「彼は只の人間。昨日も言ったでしょ?」
「だろうな。じゃあ、魔徒は何処に居る?」
「彼の腰に差している在の刀。彼処から、邪悪な気配を感じるわ」
「なら……此奴は、魔徒に操られてるのか?」
「其れも違うわ。彼が魔徒を操っている。魔徒の意思を、凌駕しているわ。彼、強いわね」
「そんな事は、初めから解っている。実の処、俺も此奴と戦ってみたかったからな」
「殺しちゃ、駄目よ。あくまでも、相手は人間なんだから」
「解っているさ」
羅刹は短剣を引き抜いて、男を見据えた。
「漸く、剣を抜いたな。我が名は、爪倉戎三。貴殿の名は?」
「羅刹だ。悪いが、手加減は出来んぞ!」
羅刹は男に目掛けて、斬り掛かっていた。
玖
羅刹の初撃を鞘で受けて直ぐ様、斬り払った。が、籠手で防がれた。
足払いで、態勢を崩しに掛かる。其れも半歩、下がって躱される。僅かに振れた隙を衝かれて、羅刹の蹴りを腹に受ける。
「……ぐぅっ!」
予想以上に重く鈍い。
羅刹は蹴りの勢いを活かして、飛んで上段斬りを放って来た。
体を捻って躱しながら、廻し蹴りを放つ。
――確かな手応え。
空中で回転しながら、羅刹は蹴りの勢いを逃がしていた。同時に短剣の一撃を放っている。刀で払った直後、額を鞘で割られていた。
――だらり、と垂れる鮮血。痛みは余り感じなかった。脳内でアドレナリンが、分泌されているからだろう。
追撃を放つ羅刹。
体を捻りながら、刀で受け流した。脇ががら空きに成っている。鞘で打つと羅刹は、苦悶の表情を浮かべていた。
矢張り先の蹴りで、肋が何本か折れていたか。
後ろに飛んで、羅刹は距離を取ろうとする。逃がす心算は無い。
間髪入れずに間合いを、ぴたりと詰める。羅刹から繰り出される短剣の一撃を、刀で受け止める。
「……強い。本当に、強い!」
肝胆と感嘆の声が漏れ出ていた。此れ程迄に強き者と闘うのは、生まれて初めてで在った。心が充溢している。此れまで、貪婪に強さを求めていたのは、此の時の為だったのだ。
蝟集された想いが今、結実する時が遂に来た。陶然とした感覚に身体が包まれている。
「お前も、強いな……」
交わる声。
重なる刃。
高鳴る鼓動と抑え切れぬ衝動。ひりひりと身を焦がす様な、空気に包まれていた。此れ程までに満たされた事は、未だ曾て無かった。
「だが、まだ全力ではない。俺は、本気のお前と戦いたい!」
刀で払い、飛び蹴りを放つ。右の蹴りは、躱された。左の蹴りは、腕で受けて防がれた。身体を捻って、回転した勢いで再び右の蹴りを操る。
空中での三連脚。
「技の名は蓮華。よもや……此の技を使える日が来るとは、夢にも思わなかったぞ」
況してや、三連撃目に合わせて、短剣を放って来るとは思わなかった。
右足の靭帯を斬られていた。
「諦めろ。其の足では、真面に動けない。大人しく、其の刀を渡してくれれば、命までは奪わない!」
「興が醒める様な事を言うな。お前も武人ならば……解るだろう?」
死ぬならば、戦いの中で死にたかった。
互いに死力を尽くした上で、逝きたかった。
「成らば……俺も全身全霊の剣で、応えてやる!」
羅刹の真っ直ぐな瞳には、一点の曇りも無い。
「礼を言う」
拾
擦り足で、間合いを詰める。
【糸游】を使い間合いを、狂わせるのが目的だった。
どんな事情で在っても、人間を殺す訳にはいかない。刀だけを砕けば、其れで良かった。
魔徒を討つ。其れが己の使命だ。
人間を護る。
其の想いに、反する真似はしない。
戎三の放つ斬撃は、空を切っていた。既に自分は、背後を取っている。
「見事だ!」
叫ぶ戎三。
腹に鈍い痛みが走っていた。
一瞬、何が起きたのかが理解らなかった。
戎三は己の腹を貫いて、攻撃してきたのだ。其の捨て身の奇襲を、全く予測していなかった。
「不味いわよ、羅刹。彼が魔徒と同化したわ」
羅刹は後ろに退がっていた。
「其れに……己を殺した事に縒り、鬼神化したわ」
戎三の傷が癒えていく。
「気を付けて。彼の能力は《練磨》よ。既に貴方の技は、学習されてしまっている」
「戦騎を喚装しろ!」
叫ぶ戎三。
鬼神化しても、其の姿が変わっていない。
そういう手合いは、決まって強い。
「何故、魔徒に身を委ねた?」
「言っただろう。俺は、本気のお前と戦いたい!」
戎三は、斬り掛かって来た。
戦騎を喚装して、籠手で受けた。
短剣を、刀に変化させて斬撃を放った。
「お前ならば、騎士に成る道も在った筈だ!」
極界の炎を、身に纏う。
「正義の味方は、性に合わん!」
《糸游》を繰りながら、刃を放つ。上下に打ち分けながら、隙を窺う。
だが、隙など微塵も見出せなかった。
「俺も同じだ。だが、今は護りたい者が居る!」
先程、戎三が見せた蓮華を放つ。
三連撃目に、刀を合わせて来る戎三。
「そして……其の存在が、俺を強くする!」
更に身体を回転させて、鞘で刀を打った。炎の出力を、刀に集中させて五連撃目の斬撃を放った。
「見事だ。最早、一分の悔いも無い!」
炎の斬撃を受けて、戎三の身体は燃えていた。
本当に強い相手だった。無聊を携えて掛かった己を、恥じなければ為らない。此の傷は、其の報いだ。薄れる意識の中、煌めく一陣の暉を見た。其れは戎三が放つ最期の暉だ。灰に成りながら、全霊の剣で斬り掛かって来ている。
既に戦騎の喚装は解いていたが、問題は無い。
「誠にッ……天晴だッ!!」
放たれた短剣を胸に受けて、戎三の身体は灰燼に帰した。
――爪倉戎三。其の強き者の名を、確りと心に刻み込んで短剣を鞘に納める。
「……糞。思ったよりも、傷が深い」
眩暈がして、膝を着く羅刹。腹部が血に染まっている。其の出血量は、尋常ではなかった。此の儘では不味い。
息が荒れている。身体に力が入らない。血と汗にへばり附く衣服が、異様に重い。脱力が全身を襲う。血に伏せば、途端に意識を失うだろう。抗い切れぬ睡魔が、曾て経験した死を誘う。
意識が薄れて往く。
此の儘では、不味かった。眠れば、確実に死ぬ。自分は未だ死ねない。漸く見えて来た光を、護りたい。
刹那を、守護りたい。こんな処で、死ねる訳が無かった。
何処か遠くで、声がした。
自分を呼ぶ其の声が、とても温かくて心地良かった。気付けば、地に伏していた。
温かい暉が、身体に触れている。意識が甘やかな微睡みに墜ちて、溶け込んでいった。
拾壱
「羅刹!」
タリムに誘われて、駆け付けた時には、既に羅刹は崩れ墜ちていた。
息も絶え絶えに、苦しそうな表情をしている。夥しい血を、腹から流している。此の儘では、羅刹が死んでしまう。
「羅刹っ……!」
涙ながらに、叫んでいた。
羅刹を救いたかった。
――《捧ぐ者》の力は、祷りの力。
神楽の言った言葉を思い出して、羅刹を抱き締めていた。
刹那の全身を光が包んでいる。刹那の両の手には、白く光る刻印が浮かび上がっている。温かな暉で在った。不思議な力が今、自分の中で息衝いているのが解る。今為らば、其の力の使い方が理解る。
刹那は内に在る想いを、一心に籠めた。
――羅刹を救いたい。
其の想いが願いと成り、祷りと成った。
そして其の祷りは、力と成った。
刹那から発せられる暉が、羅刹の身体を優しく包み込んで往く。次第に癒えていく傷。羅刹の血色は、みるみると良く成って往く。先程まで荒れていた呼吸も、穏やかな寝息に変わっている。其れを見て、刹那は安堵していた。
「其れが、貴方の力なのね……刹那ちゃん。羅刹を救ってくれて、ありがとう」
「ううん……。私はいつも、羅刹に護られているもの。私は少しでも、羅刹の力に成りたい」
「貴方の其の優しさが、羅刹を変えてくれた。本当に……感謝してるわ」
「ありがとう、タリムさん……」
急に眩暈がした。
力を使った所為だろう。
其れにしても、どうやって羅刹を運ぼうか。
眠る羅刹を見ながら、刹那は思案した。
拾弐
矢紅は思案に暮れた。
《開門》に次いで、タタラ討伐の命を受けた。何方も片手間には出来ない。だが、何方も確実に果たさなければ為らない。でなければ、多くの命が失われる。既に《開門》に関する資料は、全て目を通していた。必要な準備や術式も、調べ上げている。天承院附けの騎士団に通達して、施さなければ為らない術式は現在、錬成中で在る。
此れまでに二度、天承院は壊滅的な被害を受けている。
たった一体の魔徒に依る被害で在る。
現在、其の魔徒を討つ術は無い。贄を捧げて、帰って貰う以外の術を知らない。如何なる騎士とて、対抗し得る術が無い。天界の神々の力も及ばぬ程に、其の力は強大なのだ。其の詳細も、神ですら知り得ぬのだ。故に討つ術は無い。封印する事すら敵わない。魔徒の住まう極界に只、帰って貰うだけで精一杯なのだ。
過去にも数度に渡って神々が極界に赴き、件の魔徒を討つべく部隊を編成した事が在る。其の何れも部隊は壊滅した。神をも喰らった魔徒は、更に増大した。故に全く手が附けられない。何者にも、討てないのだ。
被害を食い止めるには、帰って貰う縒り他は無い。
神々は常に魔徒を監視し続けている。先の未来を詠む力の在る神は、魔徒の出現時刻を割り出す事に全霊を尽くしている。故に魔徒が何時、何処に出現するのかだけは、在る程度は解っている。多少の誤差は在れども、其の時刻は概ね正確で在るらしい。
らしい、と謂うのは、矢紅が其の魔徒と相対した事がないからだ。天承院の永い歴史の中でも、稀有な事例で在る為、矢紅ですら事態を飲み込めないでいた。
《開門》に必要な贄の選出は、常に人間の住まう現世にて行われる。詰まり件の魔徒が、現世に送り込まれる事を意味する。下手をすれば、人の世が滅ぶ事態を招いてしまうのだ。
其れに加えて、タタラ復活が重なってしまった。頭を悩ませる最中、矢紅の脳裏を在る閃きが掠める。かなり突拍子も無い事だが、上手く往けば全て纏めて解決する。タタラ討伐の任が重なったのも、何かの運命を感じていた。
魔徒が天界に出現するまでに後、一月程の猶予が在る。其れまでに全ての事を運び通す事が出来れば、或いは死者の数を最小限に留められるかも知れない。
必ず皆を守護ってみせる。
其れが矢紅に課せられた使命なのだ。