第五話【拳闘】
壱
井上六は、幼い頃から問題の多い存在だった。周囲の人間に溶け込めずに、人を遠ざけていた。孤独を好み、誰とも口を利く事も無い。誰にも心を開かない子供で在った。まるで、何かに怯えている動物の様で、周囲の人間も困り果てていた。
六は人と関わるのが恐かったのだ。触れる事で傷付くのが、恐いのだ。人の心が恐い。交わるのが、恐い。だから六は、誰とも関わらない。
其の背景には、両親の存在が在った。虐待を受けていた。暴力を与え、罵声を浴びせ、六の体と心は傷付けられていった。幼い六は心を閉ざし、人を遠ざける様になった。其のサインは小さいながらも何処かしこに顕れてはいたが、無関心な大人達には届く事は無かった。
そして遂には、事件が起きた。
六が八歳になった頃、両親の仲は劣悪な物となっていた。父が浮気をしていたからだ。其れが切っ掛けで、母は父を殺した。其の場面を六は、障子越しに見ていた。
血相を変えて怒る父は、恐ろしい形相で在った。母の髪を引き、其の拳を母の顔に、何度も何度も打ち衝けていた。血に塗れ、鼻が拉げる母の顔が、苦痛に歪んでいた。幼いながらも、往き過ぎた行為で在る事は理解していた。けれど足が竦んで動く事が出来なかった。幼い六には、声を押し殺して泣く事しか出来なかった。母が殺されるかも知れない。虐待を受けてはいたが、六は母の事が好きで在った。崩れる様にして倒れる母に、父は罵声を浴びせ掛けていた。
一頻り怒声と罵声を投げ掛けると、父は煙草に火をつけた。紫煙を燻らせる父は、母になど興味が無いと謂った様に携帯を取り出していた。電話の相手は浮気相手だったかも知れないが、幼い六に其れを確認する術は無い。ゆっくりと立ち上がる母には見向きもせずに、父は電話の相手に語り掛けていた。六や母には掛けた事の無い様な、穏やかな声音で在った。
母の手には、包丁が握られていた。肉を捌く時に使う様な、出刃包丁で在った。父は全く気付いていない様子で在った。其の事に六は気付いていたが、動く事をしなかった。母の形相は、修羅の様で在った。金属を掻き毟った様な悲鳴とも叫び声とも附かぬ声を上げて、母は父に向かって組み付いていた。握られた包丁は、父の腹に深く刺さっていた。
口を魚の様にパクパクと開く父は、何が起きたのかを、理解が出来ていなかったのだろう。其の後は母が、一方的に父を滅多刺しにしているだけで在った。直ぐに父は絶命していたが、母は何度も何度も繰り返し、包丁を父の身体に入れていた。
軈て疲れたのか、包丁を握る手が力無く降ろされた。呆然と立ち尽くして、暫く宙を見ていたかと思うと、突然――母は涙を浮かべ始めた。そして大声を上げて、泣き出した。
血に塗れて泣き崩れる母を、息を潜めてじっと見ていた。
本当は声を上げて泣きたかった。母の胸に飛び込みたかった。だけど、そうすれば酷い事をされる。きっと母の哀しみや怒りの矛先が、自分に向けられるに違いない。
幼いながらに、六は悟っていた。
だから六は泣くのを堪え、声を抑え、己の心を殺した。
其の日の夜、直ぐに母は逮捕された。母が自分で通報したからだ。
一人残された六は、両親の親戚にも疎まれていた。
結果、六は施設に預けられる事となる。
●
六が中学生に上がった頃、随分と明るくなってはいた。他人と会話もするし、笑う事も在った。
けれど、問題が多い存在で在る事には違いなかった。
六は喧嘩ばかりしていた。人を恨み、己を憎むかの様に他人を傷付けた。全ての事が、どうでも良かった。全ての物が、憎かった。幸せそうな町並みが、どうしようも無く六の心を蝕んでいた。だからこそ無意識の内に、壊したく成るのかも知れない。吐き気がする程、此の町が嫌いだった。
全ての物が、気に喰わなかった。
誰も信用、出来なかったのだ。
愛を知らずに育って来たからだ。
そう、六は愛情に飢えていたので在る。孤独の寒さに震えるばかりで、人の温もりを知らないのだ。温かな愛情を知らないからこそ、他者が憎いのだ。
六には、愛が必要で在った。
●
高校生になった六は、地元でも有名な不良に成っていた。
誰も寄せ付けず、触れる者全てを噛み殺す。まるで獣で在った。獰猛で他者を食い荒らす野生の獣だ。
誰とも交わる事もせずに只、近付く者を傷付ける。眼に映る全ての者が、六に取っては敵で在った。だからこそ、噛み付いて傷付ける。結局、六は恐いのだ。
――人が恐い。人と交わるのが、恐い。其れは幼い頃から、何も変わっていない事だ。弱いからこそ、恐い。だから孤立する。孤独だからこそ、人が恐い。だからこそ、六には愛情が必要なのだ。
六は人として大切な物が、明らかに欠落していた。どうしようもない渇きの中で、六は何かを求める様に喧嘩に明け暮れた。他者を傷付けながら、他者を求めていたのかも知れない。
そんな六の人生と心に、劇的な変化が訪れたのは、高校を卒業して直ぐの事で在った。
弐
全ての物が気に喰わなかった。
目に映る物全てを、ぶち壊してしまいたかった。幸せそうに歩く人々が、六の孤独を絞め付けていた。そんな六の心を嘲笑うかの様に、宙を雪が舞っていた。心が落ち着かない。どうしようもない不安が、胸臆を渦巻いていた。其れに気付かない振りをした。そうすればする程、孤独な気持ちは肥大化していった。
孤独の寒さに只、震えているだけの自分が酷く惨めに感じる。どうして自分だけが――畜生。心の中で嘆息しながら六は只、闇雲に歩いていた。
「離して下さい!」
直ぐ近くで、女の声が上がった。
視線をそちらに向ける。若い女が、柄の悪そうな三人組に囲まれていた。
「俺等と遊ぼうよ」
「絶対、楽しいって!」
「なぁ、行こうよ」
一様に卑しい笑みを張り付ける男達。嫌がる若い女。ふと、血に塗れ泣き崩れる母の姿が脳裏に浮かんで、六の心を憎悪が満たした。全てがどうでも良く成り、壊してしまいたく成った。押し寄せる衝動に、六は抗う事をしない。
気が付くと、三人組に殴り掛かっていた。ぶち壊していまいたかった。目の前の男達も、現実も――そして、弱い自分自身も全て壊してしまいたかった。
打ち衝ける拳が、じんわりと熱い。其の熱だけが、生を実感させてくれた。生暖かい血の感触だけが、ほんの僅かな間だが、孤独を忘れさせてくれた。気に喰わなかった。全ての物が――何よりも、自分自身が気に入らない。暴力に依存する事が唯一、己の心を護る術で在った。
冷静になった頃には、三人組を一蹴していた。よたつきながら、逃げ去って行く。若い女に目を向けると、力強い眼差しを向けられていた。真っ直ぐな瞳で、ジッ……と、此方を見ていた。
一瞬、息が詰まっていた。胸が締め付けられた。若い女に見詰められると、何故だか心が苦しかった。
其の直後、頬に衝撃を受けた。
一瞬、何が起きたのかが解らなかった。
若い女から、平手を受けたのだ。
「暴力は嫌いです!」
此の時、渇き切った六の心に、僅かな雨が降っていたのかも知れない。
六は若い女に、惹かれていた。だけど、どうすれば良いのかが、解らなかった。其の事が、無性に悲しかった。自分には、傷付ける以外の術を知らない。人との接し方が、解らなかった。だから、何を話せば良いのかも解らない。だけど、関わりを持ちたかった。生まれて初めての感情で在った。
「助けてやったのに、随分と冷たいんだな」
本当は、そんな事が言いたい訳じゃなかった。だけど、言葉が見付からない。酷く自分が情けなかった。
「解ってるわ。だから一応、お礼は言ってあげる。助けてくれて――ありがとう……」
向けられた眼差しが、凍り付いた心を溶かしていた。優しい笑顔が温かくて不意に、涙が溢れそうになった。
「急に黙り込んじゃって、どうしたの……あ、もしかして。私に惚れちゃった?」
無邪気に笑う若い女。
初めて抱く感情に、六は戸惑っていた。心の底から沸き起こる此の感情に、六は抗い切れなかった。
「もしかして、本当に惚れた?」
「惚れた……」
「え……?」
即答する六に、若い女は戸惑う様な視線を向ける。
自分でも、良く解らないでいた。出逢って直ぐ恋に墜ちる等、ドラマや映画の世界での出来事だ。
ましてや、自分がだ。両親に虐待を受けて、愛情を知らずに育った。誰かと交わる事もなく、友達もいない。人を傷付ける事しか知らない。誰からも愛される事もなく、誰も愛する事もなかった。
そんな自分が、一瞬で恋に墜ちたのだ。
信じられなかった。
だけど、目の前の女と関わりを持ちたいと思った。何故だか知らないが、惹かれてしまっていた。
「自分でも、驚いてる。其れに、俺は真面な奴じゃない……」
急に後ろめたくなって、六は顔を背けた。
「貴方の事は知ってるわ。井上六。此の町じゃ、有名だもの。色んな噂を聞いてるわ」
「なら、どうして逃げない?」
「だって……貴方がレザボア・ドッグスみたいで、放っとけなかった」
「レザボア・ドッグス……どういう意味だ?」
「野良犬……けど、狂犬じゃない事は確かね?」
冗談めかした様に笑う若い女。
不意に堪らなくなって、女を抱き締めていた。
「ちょっと……気持ちは嬉しいけど、駄目よ。離して……?」
堪え切れず、六は泣いていた。
悲しい様な、嬉しい様な。不思議な感情が、心を満たしていた。彼女ならば、きっと自分の孤独を理解してくれる。そんな気がした。一方的な想いを、六は打つけていた。人との関わり方が、解らなかった。交わる術を、持たなかった。
「大丈夫……。大丈夫だから……ね?」
六は只、泣き続けた。
融け出した孤独を、全て吐き出す様に只、泣いた。
其れが、伊藤志穂との出逢った経緯だった。
参
其の後も、六は喧嘩に明け暮れる日々が続いた。
本人から喧嘩を仕掛けている訳ではないが、行く先々で絡まれるのだ。絡まれては打ちのめして、絡まれては打ちのめしていた。相手を倒せば又、別の人間が喧嘩を吹っ掛ける。自分でも悪循環だと解ってはいるが、どうすれば良いのかが解らなかった。
喧嘩は嫌いではなかった。寧ろ今までは、自分から好んで喧嘩を吹っ掛けていたぐらいだ。けれど志穂に出逢ってからは、喧嘩をする度に虚しくなっていた。相手を打ちのめし傷付ける事しか出来ない自分が、愚かしく思えて為らなかった。志穂と出逢った事が、切っ掛けで在るのは間違いなかった。
在れから三度、志穂に会った。近くのファミレスで食事をしながら、たわいのない話をするだけで在ったが、とても楽しかった。志穂と居るだけで、幸せな気持ちになれた。志穂を幸せにしたかった。其れなのに、自分を変えれずにいた。たった今も、喧嘩を終えたばかりだった。そんな自分に、憤りを感じていた。
怒りを呑み込む様にして、静かに溜め息をついた。
「今の喧嘩、見とったけど……兄ちゃん、まるで獣やなぁ」
突然、声を掛けられて振り向く。
妙に筋肉質な初老の男が居た。全身、傷だらけで異様な雰囲気を纏わせていた。鋭い眼光を向けられただけで、ひりつく様な感覚に包まれる。
「おい、爺ぃっ……今、何て言った?」
「恐くて人に噛み付く事しか出来へん、野良犬って言うたんや。違うんか?」
「上等じゃ、こらぁ……!」
頭に血が昇って、男に殴り掛かっていた。
男は上半身を逸らして、六の拳を躱していた。続けて繰り出す拳も、軽快なステップやスウェーで避けていた。男の動きは、ボクシングの其れで在った。軽やかなステップで、一方的に殴り衝けようとする六を翻弄していた。驚くべき事に、男は攻撃を繰り出す事なく、六を後退させていった。
拳が空振る度に、六の頭は冷静さを取り戻していく。防御だけで圧力を掛けられていた。気付くと壁へと追い込まれている。無力な自分が、酷く情けなく成って雄叫びを上げた。
渾身の力を拳に籠めた。だが、掠りすらしない。
――遠い。
男は直ぐ目の前に居るのに、其の存在が随分と遠く感じた。
「とろくっさい、パンチやなぁ。そんなん何発、打っても当たらへんで。兄ちゃん、此の町一番の不良とちゃうんか?」
小馬鹿にした様に、男が笑う。只、空を切るだけの拳。喧嘩しか能がない自分。孤独な自分。腹が立った。己には何もない。人に誇れる物も、才能も何もなかった。
そんな自分が、志穂を幸せにする。
「――笑わせるな」
冷徹な男の言葉と、胸臆の声が重なる。と、同時に鼻っ面に鋭い衝撃を受けた。今迄、味わった事の無い痛みだった。
一体、何が起きたのかが解らなかった。
「今のは、ジャブっちゅうんや。人類の最速の拳やで。何や、えらい大人しなって。もう、萎えてもうたんか?」
じんじんと痛む鼻。ドクドクと流れる鼻血。
六は憤怒の炎を宿した瞳で、男を睨み付けていた。
「ほぅ。ちょっとは、真面な面になったやないか。ほな……2ラウンド目、行くで!」
一瞬で間合いを詰める男。右のジャブから、左のフックを受けて倒れた。
其処で六の意識は、完全に切れていた。
肆
目が覚めると、冷たいマットの感触に包まれていた。
「……お、起きたな。気分は、どないや?」
「……最悪」
体が怠かった。
頭も靄が掛かった様に重い。
感じた事のない倦怠感に包まれて、無理に立ち上がるとふらついた。
「もうちょい、寝とっても良かったんやぞ。恐らく、初めてのダウンやろ?」
そうだ。自分は目の前の男に、文字通り打ちのめされたのだ。
初めて喧嘩に負けた。
今まで自分が負ける等、想像も付かなかった。其れなのに、六十は越えていそうな此の男に、いとも容易く負けた。
「あんた……一体、何者なんだ?」
「兄ちゃん。ボクシングに、興味ないか?」
興味ならばたった今、溢れ零れるぐらい沸いていた。
「俺に、ボクシングを教えてくれ。強く成りたいんだ」
――そう、誰よりも強く。志穂を護れる強さが欲しかった。変わりたかった。今の自分には、何も無い。人に誇れる物なんて、在りはしない。余りにも無力で、酷く情けない存在。そんな自分に、無性に腹が立つ。人に噛み附く事しか出来ない野良犬。そんな自分に心底、嫌気が差した。
ボクシングを始めて本気で上を目指せば、何か変わる気がした。死ぬ気で頂点を狙えば、何かが見える様な気がした。志穂の為に、強く成りたかった。
己を変える。
強く成る。
志穂を護れる様に――。
志穂に相応しい男に成る。一人前の男に成って、志穂を幸せにする。
「又、面構えが変わったな……まぁ、良い。明日から、毎日五時に来い!」
初めて、男から笑みを向けられた。
と言うよりも、笑みを向けられたのは、志穂を除けば初めてだった。
志穂の時とは又、違った高揚感。多分、嬉しかったのだ。
「有り難う御座います!」
初めて誰かの為に、心から頭を下げていた。必ず報いてみせる。
生まれて初めて、生きる意味を見付ける事が出来た気がした。
伍
「六……又、喧嘩したでしょう?」
開口一番に、志穂が問い詰めて来た。不機嫌そうな顔をしていた。そんな表情も、可愛らしくて胸がときめいた。どうしようもない程に、志穂に惹かれている。愛おしくて、堪らない。一緒に居るだけで、心が癒されていた。
「……けど、酷い顔ね。もしかして、負けたの?」
今の自分は、酷い顔をしている。上目遣いで覗き込む志穂の瞳が、胸の鼓動を加速させる。
饅頭の様に腫らした顔を志穂は、まじまじと見ていた。まるで、珍しい物でも見る様な眼で在った。
「負けたよ……けど、喧嘩にじゃない」
そう、在れはボクシングだ。
「……嘘。六が負けるなんて、信じられない。誰に負けたの?」
興味津々と言った感じの笑みを向けて、志穂は顔を近付けて来る。
無邪気に笑う志穂が、愛おしかった。
志穂の為ならば、何だって出来た。
志穂の為ならば、幾らでも変われる。
志穂の為ならば、何にでも成れる。
そう、何にでもだ。
「俺、ボクシングを始めたんだ。まだ基礎の基礎しか、教わってないけど、本気で上を目指してる。志穂の為に、チャンピオンに成ってみせる。約束する」
「本気で、言ってるぅ……?」
からかう様に、試す様に、志穂は意地悪く笑う。愛しさが込み上げて、溢れ出す。どうしようもなく強く成る想いが、心を秘めやかに打ち衝ける。抑え切れない感情が、言葉と成って口を附いた。
「本気だ。誓うよ。志穂の為に、チャンピオンに成る。だから……俺がチャンピオンに成れたら、俺と結婚してくれ。絶対に志穂を、幸せにする。必ず志穂を、護り抜いてみせる。誰よりも、志穂を愛してる。世界一、幸せにする。誰よりも、志穂を大切にする。志穂と供に、ずっと生きていきたいんだ」
真っ直ぐに、志穂を見詰める。嘘偽りの無い想いで在った。溢れ出す感情は、志穂だけを捉えていた。志穂以外、眼に映らない。志穂だけを、ずっとずっと愛していたい。何が在ろうと、どんな苦難を迎え様とも、必ず志穂を幸せにする。譬え何が起きようとも、必ず志穂を護ってみせる。
驚いた様な顔をして直ぐに、はにかんで目を伏せた。そんな志穂の仕草が、可愛らしくて堪らない。
そして、一瞬だけ間を空けて、顔を上げる。潤んだ瞳に見詰められて、胸が張り裂けそうな程に愛しさが加速する。そんな自分を他所に志穂は――そっと、呟いた。
「……良いよ」
六の胸に、顔を預けながら――。
「六がチャンピオンになったら、結婚してあげる……だから、私も六に誓うね」
顔を上げる志穂。
「私は、貴方と供に生きます」
穏やかな表情。優しい眼差し。ふっくらと潤った唇。軟らかな肌。甘やかな髪の薫り。熱い吐息。志穂の温もり。其れ等を感じながら、志穂の頬にそっと手を添える。
優しく唇で、唇に触れる。愛しい感触。微睡む様に蕩ける意識。夢見心地の中で、志穂への想いは更に強く成る。
もう一度、見詰め合って。ぎゅっ……と、抱き締めた。そして、誓った。幸せにしてやる。護り抜いてやる。必ず――。
そう、必ずだ。
陸
そして、六年の月日が流れた。
乾いたマットの上で、二人の男が殴り合っていた。
一人は六。
そして、もう一人は藤堂晃と言った。OPBF東洋太平洋チャンピオンで在った。
此の試合に勝てば、六は約束通りチャンピオンに成れた。
此の六年の間、六は文字通り死に物狂いでボクシングに打ち込んでいた。気が遠くなる様なトレーニングで、何度か血尿も出た。幾度となく、試合でパンチを貰い顔を腫らした。其の度に志穂に励まされていた。志穂の温もりが、堪らなく愛おしい。志穂への想いだけが、地獄の様な日々を支え続けてくれていた。
血反吐を吐き、痛みに耐え、数多の血と汗を流し続けた。其の結果、六は本当に強い男に成っていた。志穂が居たからこそ、自分は此のリングに立つ事が出来た。勝利を手にして、得られる全ての物を、志穂に捧げたかった。志穂の喜ぶ顔が見たかった。だからこそ、自分は死に物狂いで一向、強さだけを求め続けてきた。
六年前の無力な自分は最早、何処にも居ない。
志穂への想いが、六を強くした。
其れでも藤堂の強さに六は、追い詰められていた。
六のボクシングは、相手から距離を取って、多彩なジャブと軽快なフットワークで相手を翻弄する物だった。所謂、アウトボクサーで在る。
対して藤堂は、強引に距離を詰めて相手の懐に潜り込むインファイターで在った。
近距離で掠める藤堂の剛腕が、六のボクシングスタイルを崩していた。
丁寧に六を、コーナーへと追い詰める藤堂。張り付け状態と成る六。
剛腕の雨が、嵐と成って六を襲う。唸る連続ブロー。辛うじて堪えてはいるが、撃沈されるのは時間の問題で在った。焦りばかりが、心を掠めて往く。志穂に勝利を捧げる。そして――もう一度、プロポーズをする心算でいた。必ず勝って、志穂を抱き締める。
六を襲う嵐が、激しさを増して往く。此れ以上、凌ぐ事は困難で在った。
残り時間は、既に二十秒を切っていた。けれど今の六には、永遠よりも永く感じている事だろう。心の中には、いつも志穂が居た。どんなに窮地で在っても、志穂の為なら乗り越えて来れた。
六の眼は、未だ死んでいない。闘志は未だ、尽きてはいなかった。けれど、僅かな隙が生まれていた。間隙を穿つ拳が、六を襲う。
気が付いた時には、藤堂の渾身の一撃を受けていた。捨て身の体勢から、全体重を乗せた藤堂の必殺のブローだった。幾人ものプロボクサーを、マットに沈めてきたブローで在った。受ければ、全てが終わってしまい兼ねない一撃で在った。
事切れた様に、六は倒れていた。
カウントを始めるレフェリー。其の声が、遠い。
意識を失いながら、六は温もりに包まれていた。志穂の軟らかな肌。温かな体温。
――嗚呼、温かい。志穂は、温かいなぁ。
志穂の為ならば、何だって出来た。志穂が笑うならば、何にだって成れた。チャンピオンにだって成れる。そう、志穂の為ならば――。
漆
「……3、4」
カウントを続けるレフェリー。意識が鮮明に蘇ってきた。
どうやら一瞬、夢を見ていた様だ。チャンピオンに成る夢を、見ていた。此の儘、夢を見続けていたら、チャンピオンに成り損ねていた所だ。
「……7、8」
どうやら、志穂が目を醒まさせてくれた様だ。
志穂は、何時だって供に居てくれる。何時だって、力を与えてくれる。
志穂が居たから、自分は変われた。
志穂が居たから、強く成れた。
志穂が居てくれたから。
今から、其れを証明してみせる。
――ありがとう。
志穂が付けてくれた灯火のお陰で、心に闘志の炎が再び宿った。其の炎は業火と成って、嵐を打ち消して――魅せる。
「9……」
カウントが止まった。
六がファイティングポーズを執った瞬間、4ラウンド終了のゴングが鳴った。
正直、危うかった。もう少しで、負けていた。身体に蓄積しているダメージは思いの外、甚大だった。だけど、不思議と力が溢れていた。志穂の為に、必ず勝つ。
何が在ろうとも、負ける訳には往かない。
捌
「危ない所やったな、六。喋らんで良いから、良う聞け。今の儘やったら、勝てん。もう、出し惜しみは止めや。世界戦の為に、取って置いた左を使え。そしたら、今日からお前がチャンピオンや!」
初老の男――猪狩勘十郎が活を入れる。初めて敗北を教えてくれた男。孤独の恐怖を振り翳す事しか出来なかった自分に、闘う術を与えてくれた。
無力だった自分に、ボクシングを与えてくれた。勝利を掴み執る悦びを、厳しく教えてくれた。本当に、感謝している。
野良犬だった自分を、変えてくれた。
志穂を護る為の力を与えてくれた。
幾ら感謝しても、足りない。必ず報いてみせる。
「次のラウンドで、決めて来い!」
背中を押す力に、心を押された。立ち上がる六の背を、志穂の声が突き刺さる。
「必ず勝って、私を迎えに来てっ……。ずっと……ずっと、待ってるんだからねっ!!」
志穂の眼には、大粒の涙が浮かんでいた。気丈な志穂が、涙を流すのは初めての事だった。
込み上げる想いを飲み込んで、六は拳を上げた。
玖
5ラウンド目にして、六の構えは変わっていた。右構えから、左構えに成っていた。そう、六は両利き(スイッチヒッター)だったのだ。加えて、右腕をだらりと下げていた。
――ヒットマンスタイル。此の構えから繰り出されるジャブは、腕を鞭の様に速くしならせる。元々、ジャブとは世界最速の拳。其の最速を、更に磨き進化させたジャブが、此の技だ。
間合いを詰めようと近付く藤堂を、斜め下から最速にして変幻自在のジャブが襲う。
技の名は、フリッカージャブ。世界を執れる拳の一つで在る。
被弾する藤堂。逆に距離を詰める六。六から藤堂に接近するのは、初めてで在った。通常のジャブからのワン、ツー。全て被弾する。六の拳は、決して軽くは無い。ポイントはかなり奪われてしまっているので、判定には勝機が無い。KO以外には、勝ちの目は無い。
尤も、端からKO勝ち以外は狙っていない。
打ち衝ける拳の連打。業火の拳が、嵐を呑み込んでいく。ラッシュに次ぐラッシュ。藤堂は手を出せないのでは無い。手を出さないのだ。そんな事は、解っていた。
何かを狙っているのは、理解っているが、今は打ち続けるしかない。
熱が入る場内の喚声。やがて其れ等が、六の耳に入らなく成っていた。藤堂が、拳を放ってきた。被弾する六。拳を返す六。被弾する藤堂。激しい撃ち合い。激しくぶつかる業火と嵐。
間もなく、どちらかが消滅る。
僅かな六の隙を衝いて、藤堂の拳が六を刺す。
藤堂の必殺のブローが、六の顔面に触れる。
――其の寸前、藤堂は崩れ墜ちた。
六の左のクロスカウンターが、藤堂の顔面を被爆していた。
燃え滾る闘志の炎。
震え轟く志穂への想い。
其の二つの炎が、業火と成って嵐を消し去った。
其の瞬間、レフェリーが試合を停めた。
クリスマス・イヴの夜、井上六はOPBF東洋太平洋チャンピオンに成った。
沸き起こる喚声の中、気高き獣は勝利の雄叫びを上げた。
拾
試合を終えて、病院へ行った帰り道。六はタクシーの中で、志穂を想っていた。
チャンピオンに成る約束。
結婚の約束。
漸く、果たす時が来たのだ。ポケットの中で、指先に触れる幸せを噛み締めた。志穂に内緒で、バイトをして金を貯めた。本当に小さなダイヤで在ったが、今の精一杯の指輪で在った。
志穂は喜んでくれるだろうか。馳せる想いが、心を逸らせる。早く志穂に逢いたかった。抱き締めたかった。
志穂のお陰で、愛を知った。温もりに、初めて触れる事が出来た。
志穂のお陰で、幸せを教わった。孤独の恐怖を覚えた。
志穂に出逢えた事を、神に感謝した。
――と、其の時だった。
六の乗ったタクシーが、信号無視のダンプカーにぶつかった。
運転手も六も、即死だった。
肉体を喪い、思念だけと成った心中で、六は神を呪った。
――何故、全てを手に入れた瞬間に、総てを奪う。
運命を嘆いた。
志穂への想いを遺す様に、ダイヤの指輪だけが残った。縋る様に、六の思念はダイヤの指輪に宿った。其れも又、軈て消え去る運命で在ったが、神は残酷で在った。
――消えたくないか。
六の思念に、内なる声が囁く。
――消えたくない。自分には、志穂を幸せにする使命が在る。此れからなんだ。本当に、此れから始まる所なんだ。
悲痛なる叫びが、闇を舞った。
――成らば、お前を生き返らせてやろう。
六は魔徒と成って、蘇っていた。
拾壱
部屋に墜ちる薄暗い照明。曇る窓の外には、雪が舞っていた。温かな空気が、部屋を満たしている。
優しく志穂を抱き締める。軟らかな温もりが、生を実感させる。甘い髪の香りが、心を震わせる。
「志穂……誰よりも、愛してる」
「私も、六を愛してるわ……」
愛しい温もりを、何時までも、何時までも、感じていたかった。
誰よりも、大切な志穂を愛している。此の命に換えてでも、護り抜いてみせる。
けれども、其れを邪魔する存在が居る。
「ごめん……そろそろ、行かなくちゃいけない」
「行くって、何処へ……?」
訝る志穂を置いて、部屋を去る。
「ちょっと、六っ……!」
慌てて追い掛けて来る志穂。
部屋の外には、顔に傷の在る少年が居た。我等、魔徒を滅ぼす戦騎騎士の少年だ。
「出来る事ならば、争いたくはない。俺は決して、人を傷付けない。此の儘、立ち去ってはくれないか?」
穏やかに、諭す様に少年に問い掛ける。決して嘘では無かった。魔徒と成ってしまった以上、ボクシングも辞める。就職して、人としてひっそりと暮らしたい。志穂と共に、暮らしたかった。たった其れだけの細やかな望みが、今の自分には赦されない。そんな事は解っている。
「悪いが、そう言う訳にはいかない。俺は、お前を斬る!」
答えを聞く迄も無く、既に覚悟は出来ていた。
「残念だ……」
ヒットマンスタイルを執る六。
少年は今日、闘った藤堂よりも遥かに強い。だけど、逃げる事は叶わない。為らば倒す以外には、生き残る道は残されていない。
「ちょっと、六。一体……どういう事なの?」
「ごめん、志穂。直ぐに終わらせるから、ちょっとだけ待ってて」
間合いを詰め様とする少年に、六はフリッカージャブを浴びせる。打ち衝ける拳から伝わる感触に、全く手応えが感じられ無かった。少年と自分の力量の差は、歴然で在った。勝てるイメージが、全く沸いて来ない。志穂との未来が、次第に薄れて往く。どうしようもない程に、残酷な現実だけが心を撫でて往く。埋め様のない恐怖が、心を焼いて往く。其れでも奮い立つ心は、志穂を求めていた。
「今のお前では、騎士には勝てん」
内なる声が囁き掛ける。
「其処の女を殺して、鬼神化するのだ」
「ふざけるな。お前は、黙ってろ!」
内なる声に、叱責する六。人を殺したく無い。心が魔徒に成ってしまえば、本当の意味で自分は終わる。
譬え肉体が化物に成ろうとも、心だけは人で居たかった。
「成る程。確かに、魔徒を抑え込んでいるな。だが何れ、魔徒に負けて大切な者を傷付けるかも知れないぞ!」
フリッカージャブを受け続けながらも、少年は前進して来る。
全く怯む事のない少年。血の滲む努力の果てに獲た技も、少年の前では児戯に等しかった。
勝てない事は、初めから解っていた。
仮に勝てたとしても、軈ては身も心も魔徒と成ってしまう事も、理解っていた。けれども、どうしても承け入れられなかった。志穂を幸せにしてやれない事実を、受け入れる事が出来なかった。
死ぬ訳には往かないのだ。志穂を幸せにする。何が在ろうとも、必ず幸せにする。だから、死ねない。
――死にたくない。志穂との日々が、本当に幸せだった。生まれた時から、ずっと孤独で在った。無力で孤独な人生を、独り怯えながら過ごしてきた。暴力に頼り、人を傷付けてばかりいた。何も出来ない癖に、周囲の人間に不幸な自分を当たり散らしてきた。自分勝手で、どうしようもない自分が、本当に大嫌いだった。そんな自分が、人を好きに為れた。大好きで堪らない存在に巡り逢えた。
生まれて初めて、暗闇の人生に光が差した。心の底から、人を愛する事が出来た。本当に心から感謝している。愛する喜びを知った。愛される事で、温もりを知った。どうしようもなく愛おしくて、堪らない。何が在っても、志穂を護り抜くと誓った。
必死に足掻き藻掻く様に、拳を繰り出すが、悉く躱されていく。けれども、闘志の炎は尽きる事はなかった。
志穂への想いだけが、六を生に縋り付かせていた。
志穂の存在が、生きる意味を与えてくれた。本当に幸せな日々で在った。たったの六年で在ったが、志穂と過ごした日々が、掛け替えの無い物と為っていた。此れからもずっと、志穂の傍に居たかった。共に生涯を添い遂げたかった。
短剣を放つ少年の太刀筋を、辛うじて捉える事が出来た。身体に染み付いたボクシングが、少年の攻撃を回避していた。
間合いを保ちながら、フリッカージャブを変幻自在に放つ。
死にたくない。消えたくない。志穂を幸せにするんだ。一生、懸けて護り抜くんだ。自分の願いは、たった一つだけだ。
志穂の幸せを誰よりも、願っている。
たった一つだけで良い。
志穂の幸せを、儚く舞う雪に願った。
振り降ろされた短剣が、フリッカージャブを放つ腕を斬った。
上がる志穂の悲鳴。
雪に舞う六の右腕。
最早、此れまでか。諦めが脳裏を掠めた瞬間、見知らぬ少女が眼に入った。
「其処の少女を、殺せ。そうすれば、我が力を存分に振るえるぞ!」
囁き掛ける内なる声。
最早、今の六には抗う精神力は残っていなかった。
「鬼神化すれば、戦騎騎士の小僧を殺せるぞ。さぁ、殺せ。あんな少女、どうでも良いだろう。さぁ、殺すのだ!」
そうだ。自分には、無関係な少女だ。
殺せば、志穂を護る為の力が手に入る。
「羅刹。又、魔徒が出たの?」
少女が少年に問う。
どうやら、二人は顔見知りの様だ。
「刹那、退がっていろ。どうしてお前は、いつも魔徒に狙われるんだ?」
皮肉を籠めた様な少年の口調から、二人は随分と親しい間柄だと解った。
成らば、人質として使える。
幸い少女との距離は、自分の方が近い。今ならば、少年よりも速く少女を抑えられる。
――志穂を、愛していた。
何よりも、誰よりも、志穂を愛していた。だからこそ、格好悪い姿は見せられなかった。志穂に顔向け出来ない真似は、死んでもしたくなかった。
「どうした。何故、動かない。死にたくないのだろう。大切な者を、護りたいのだろう?」
「うるせぇよ、化物。俺が、間違っていた。おい、騎士の小僧!」
叫ぶ、六。
真っ直ぐな瞳を向ける少年。
「良い眼をしてるな。護りたい者が、存在する者の眼だ。俺は、愛する女を護りたい。さっき……ほんの一瞬だったが、生き残りたい一心で……其処の少女を殺そうと、思っちまった。我ながら、情けないぜ……全く。お前の言った通り、本当に俺の心が化物に成る前に、俺を斬ってくれ。俺が未だ人で在る内に、俺から志穂を護ってやってくれ」
次第に降り積もっていく雪の様に、自分の中で悪意が積もるのならば、何れ自分は魔徒と成る。
そうなれば、志穂を殺してしまう。
其れだけは、避けなければ為らない。
「お前の覚悟、聢と受け取った」
真っ直ぐに向き直る少年。ゆっくりと、此方へと歩いてくる。
志穂の生涯に添う事は、もう叶わない。志穂を幸せにする使命も、もう果たせない。けれども、最後に祈ろう。
志穂の人生に、多くの幸が訪れるよう。
「待って……!」
庇う様に、志穂が六を抱き締める。
「六が一体、何をしたと言うの。殺さないで……お願い!」
悲痛な志穂の叫び。
「もう、こうするしかないんだ……志穂。解ってくれ。俺の肉体は、既に事故で滅んでるんだ。化物と契約して、今の俺は存在している」
「そんなの、嘘よ。嫌ぁっ……!」
泣きじゃくる志穂を、優しく抱き締める。
温かい。本当に、温かい――。
「何れ俺が本物の化物になったら、多くの者を殺してしまう。俺は、志穂を殺したくない。其れが、俺に取ってどんなに残酷な事か……志穂になら、解るだろう?」
優しく問い掛ける。
誰よりも、愛しかった。何よりも、志穂が大切だった。
「だから、お願いだ。俺から、離れてくれ。そして、必ず幸せに成ってくれ。愛してるよ……志穂」
首を横に振る志穂。
「私は、貴方と供に逝きます。其れが、私の幸せです」
真っ直ぐに見詰める志穂。
こうなった志穂は、梃子でも動かないのを知っていた。
「成らば、纏めて斬るだけだ!」
少年は、戦騎を喚装した。
拾弐
羅刹は、戦騎を喚装した。
「愛する者と供に、逝くが良い!」
刀身に炎を宿して、刀を振り降ろす。
炎の斬撃が、二人の元へと飛来する。其れを真面に受けて、魔徒は消滅した。技の名は【灯燕】と言った。
斬ったのは魔徒だけで、女の方は傷一つ付いていない。
哭きながら、女は羅刹の頬を平手で打った。
「お願いだから、とっとと消えて……人殺し!」
「済まない……」
立ち去る羅刹。黙って、後を追う刹那。
大切な者だったのは、解っていた。
互いに愛し合っていたのは、解っていた。
けれども、魔徒は斬らねば為らない。何故ならば、自分は戦騎騎士なのだから。其れなのに何故か、胸の奥が痛かった。初めて感じる痛みで在った。
――羅刹。其れが、人の痛みよ。
頭の中で、囁くタリムの声。
「人の……痛み?」
――そう。貴方に、足りなかった物の一つよ。
「そうか。此れが……」
過去が脳裏を過ぎる。
「羅刹。さっき女の人が言った事、余り気にしないで……」
絞り出したかの様に、刹那が口を開いた。
「いいや。本当の事さ……。俺は、人殺しだ」
「え……?」
哀しそうな羅刹の横顔を、刹那は見た。
お互い其れ以上、何も言わなかった。
雪と共に只、哀しみだけが降り積もっていた。