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咎人戦騎  作者: 81MONSTER
3/17

第三話【作家】





   壱





 韻を踏み、言葉を切り結ぶ。美しい言葉も、醜悪な言葉も、皆等しく愛でる。



 言葉は物書き(われわれ)に取って、道具で在り、武器で在り、親愛なる友で在る。



 物書き(われわれ)は、物語を喰らう。物語を観るでもなく、聞くでもなく、読むでもなく、喰らうのだ。喰らった物語は、物書き(われわれ)の血と成り、肉と成る。



 言の葉を紡ぐ作業は、事の他、容易い。だが、物語を書き上げるのは思いの他、困難だ。想い描いた物語は、生き物と成り、呼吸を始める。物書き(われわれ)は、物語かれらを言葉で捕らえなければ為らない。一度ひとたび、見失えば物語かれらは意識の底に沈み、息をひそめる。成りを潜めるのだ。



 物語かれらは物書き(われわれ)の経験を糧として、実体リアリティを得る。



 部屋の片隅で、老人は筆を走らせていた。老人の名前は、藤堂勲いさお。名も無き作家で在る。作家と言っても、本を出した事は一度もない。勲の存在を識る者は、誰一人としていない。此れまでに公募に出しては、落選を重ねて来た。一度として賞を取った事も無い。



 其れでも勲は、偉大なる大作家と成る気でいた。成れると確信していた。尤も、其の確信は盲信でしかない。詰まる処、勲に才能は無かった。



 近々、大作を書き上げて、己の名前を世に知ら占める。そう豪語して既に、半世紀程の時を要している。



 己には、使命が在る。貫くべき信念が在る。必ず己の名を膾炙かいしゃさせて、作品を世に知ら占める。偉人達に名を連ねてみせる。己の言葉で紡いだ物語は、人々を魅了してまなく成る。そう、必ずだ。時代が己を必ず導くのだ。



 いつも勲は、妻に言い続けていた。勲の妻は辛抱強い女で在った。勲の言葉を信じる訳ではないが、疑いもしなかった。只、勲の好きな様にやらせていただけだ。甲斐性が無く、稼ぎも少ない勲に、文句の一つも謂わずに附き従い続けた。



 三十年もの間、妻は勲に寄り添い続けた。勲を支え続けていた。其の根には、忍耐の二文字が在った。尤も、其の忍耐を拗らせた結果、妻は死んだ。



 死因は過労で在った。昼夜を問わず働いていた。昼間は近所の飲食店で、週五日のパート。深夜には、二十四時間営業のスーパーに務めていた。週三日で在ったが、九時間の労働をこなしている。そして朝夕には、ろくに眠らずに勲の世話を焼いていた。明らかなオーバーワークで在ったが、妻は不平不満を募らせる事は無かった。



 勲はそんな妻を心から愛していたし、妻も同様の想いを通わせていたと信じていた。誰よりも妻を愛していた。其の想いに嘘偽りは無かった。



 妻を失った勲を、果てしない悲しみが襲った。勲は悲しみに抗う様にして、筆を走らせた。己には、偉大なる大作家に成る使命が在ったからだ。



 使命がなければ、うに勲は妻を追って死んでいる。出来る事ならば、妻と共に死にたかった。しかし、己には使命が在る。大作を書き上げなければ為らない。間もなく最高傑作が完成する。作品の名は『人生は娯楽や』と言う。此の作品は、文学界の革命的作品となるだろう。現在の文学は殆ど全て、口語体で書かれている。しかし『人生は娯楽や』は違う。己の編み出した新しい文体で描かれている。



 口語体とは、説明文・地の文・台詞。此の三つの文で出来ている。明治時代の文学では、言文一致体が主流で在った。当時は言文一致運動が盛んに行われていたのも在って、言文一致体は世間に瞬く間に広まった。



 言文一致体を簡単に説明すると、先程に述べた説明文・地の文・台詞の三つの文が、全て一緒くたになった文体で在る。其の為に、我々が日常会話で用いている言葉に極めて近い。



 己が作った新しい文体は、此の二つの文体を兼ね合わせた物で在った。日常会話の言語に極限まで近づけた結果、方言との相性が非常に良かった。故に関西弁と組み合わせる事で、其の効力を高めたオリジナルの文体で在る。独特な語り口が、独自の世界観を創り出す画期的な文体だった。



 人生を賭して書き上げた大作で在る。身命を賭して生み出した渾身の一作で在った。



 其れが、間もなく完成する。



 執筆は今の処、順調で在る。物語に綻びは無い。読者に欺瞞を与える事も無い。読む者を必ず魅了させてみせる。



 只一つ、問題が在るとすれば、妻がいないと言う事だった。唯一にして、最大の問題で在った。



 妻を、心から愛していた。己の心を、悲しみのくいり込んで往く。心の臓を激しく撃ち貫かれる様な痛みに耐えながら、勲は黙々と筆を走らせ続けた。決して手を止める事は無かった。既に書くべき事は、最後の一字まで定めていた。妻への想いに胸を掻き乱されながらも、勲は物語を書き殴り続けた。



 妻には苦労を掛け続けていた。大作を書き上げて、世間に名を轟かせる。最高傑作を生み出して、大きな賞を取って、重版を重ねる。刊行物は飛ぶ様にして売れて、そうして得た金で、妻を喜ばせたかった。楽な暮らしをさせて、心労をねぎらってやりたかった。妻の欲しい物を与え、妻のしたい様にやらせたかった。妻を、幸せにしてやりたかった。誰よりも本当に、妻を愛していたのだ。



 妻を幸せにしてやりたかった。途方も無い悲しみが、心を穿とうとしている。だが勲は、決して涙を流さなかった。涙と共に、大切な物が全て流されてしまうからだ。溢れる想いは全て、筆に籠めてきた。悲しみも、悦びも、妻への愛も何もかも全て、渾身の想いと共に物語に乗せた。そうする以外の術を、勲は持ち合わせていなかった。



 黙々と勲は、筆を走らせ続けた。其の行為は決して堅実では無かったし、現実的とは言い難かった。けれど、立ち止まる訳には往かない。自分には前にしか道が無い。只々、一向ひたすらに、遣るしか無い。研鑽けんさん編纂へんさん諦観ていかんと探訪の連続で在った。



 もう、間も無くだ。本当に、もう間も無くなのだ。



 必ず結実させてみせる。でなければ、妻は浮かばれない。犬死で終わらせて堪るか。



 妻を愛している。其の妻の死に報いなければ、の世で妻に合わせる顔が無い。



 ――私は充分、幸せでしたよ。



 不意に何処からか、妻の声がした。そんな馬鹿な事はない。妻は、既に死んでいる。妻の声が聴こえる筈がない。恐らく、幻聴で在る。



 己自身が生み出した衒人まやかしに、耳を貸す訳には往かない。



 勲は構わずに、筆を走らせた。



 ――貴方は、幸せでしたか?



 幻聴に耳を貸す気はなかった。耳を貸せば、立ち直る自信がなかった。妻の声や言葉に甘え、使命を放棄してしまいそうだった。



 万年筆を握る手に、思わず力が入る。



 既に原稿は、最後の頁に差し掛かっていた。自然と頁を走らせる手に熱が入る。間もなくだった。



 間もなく完成する。



 そうなれば、半世紀以上にも及んだ悲願が達成される。執筆に人生を捧げた。妻さえも、犠牲にした。もう、後には退けない。必ず、成し遂げる。己には、使命が在る。



 偉大なる大作家に、必ず成ってみせる。其の一心で、筆を傾け続けた。



 完成した原稿を見て、勲は満足そうに頷いた。



「幸せだったに、決まっているじゃないか。私は、お前を心から愛していた。もう少しで、お前の元へ逝ける。間もなくだ。間もなく、私の使命は果たされる。其れまで、私を待っていてくれないか?」



 勲は、幻聴に初めて返事を返した。



 幻聴は、妻が死んでから直ぐに聴こえてきた。十年間、勲は幻聴を無視し続けていた。



 ――ありがとう。



 幻聴が、勲の心を優しく撫でた。



 勲の眼前に、妻の姿が浮かび上がる。恐らく、幻覚だ。勲は涙を流していた。妻の死後、初めて流した涙で在った。



 幻覚で在ろうが、構わなかった。



 勲は妻を抱き締めていた。懐かしい温もりと、込み上げる愛おしさに堪え切れずに、勲は嗚咽を漏らした。





   弐





「魔徒は何処に居る?」



 羅刹は、殺気立っていた。抜き身の刀の様に鋭い殺気が、周囲の空間を張り詰めさせる。道行く人々が、羅刹を避ける様にして歩いていた。屈強な肉体の強面の男が、羅刹と目が合った。其の刹那、殺気に当てられた男は羅刹から目線を外し、小動物の様に倉皇そそくさと逃げ去っていった。



「羅刹、落ち着きなさい」



 微かに魔徒の気配を感じたが、邪気がなかった。まるで、もやが掛かった様に、魔徒の気配が掻き消されて往く。此れでは何処に居るのか、特定するのが困難で在る。如何にタリムとて、邪気の源が解らない相手は見付けられない。



 こんな事は初めてだった。魔徒への手掛りが、余りにも少なかった。



 夜の街を羅刹は、闇雲に彷徨い続けた。




「どうして、奴から邪気が感じられない?」


「魔徒に憑かれた人間が、純粋な心の持ち主かも知れないわ」


「なら何故、純粋な者が魔徒に衝け入られる?」


「恐らく……愛する者が、死んだのよ。其の時の悲しみが、心の闇と成ったんだわ」


「じゃあ今回の魔徒は、邪気も殺気も持たないって事か?」


「恐らくね……」




 厄介な相手だった。



 一体、どうすれば魔徒に辿り着けるだろうか。



 羅刹は思案に暮れながら、気配を探った。苛立つ心が、思考を低下させていた。先刻から、殺気を感じていた。魔徒に依る物ではない。羅刹を苛立たせている原因の一つで在った。心辺りは無かったが、明らかな敵意を自分に向けていた。



 此の殺気の持ち主は、紛れもなく人間だった。人間を傷付けてはいけない。だが、例外が在る。



 人気のない裏路地に入り込み、羅刹は好戦的な笑みを浮かべる。




「出て来いよ。俺に、用が在るんだろう?」


「人間を傷付けちゃ駄目よ、羅刹?」


「そいつは無理だ」




 気配から、手加減が出来る相手ではない事が解った。相手は、かなり強い。



 古来から戦騎騎士と《禍人の血族》には、深い溝が在る。羅刹は短剣に手を添えて、腰を低く落としていた。其の瞬間、羅刹が支配している間合いが一メートル程、広がった。戦闘に於いて、間合いは非常に重要な役割を果たす。間合いの事を中国武術ではけんと称し、細かく分類していた。空手の用語でも、己が支配する間合いを制空圏せいくうけんと呼んでいる。



 制空圏のつかり合いは、陣取り合戦に良く似ている。拮抗した実力者同士の制空圏が、互いに打つかり合おうとしていた。



 冷たい夜気に殺気が混ざり合って、静かに張り詰めていた。自分の呼気に、風の音が纏わり附くのを羅刹は感じた。



 一陣の疾風かぜが、羅刹を襲う。相手が間合いに入った時点で、羅刹は其の動きに対応し始めていた。



 男の飛び蹴りを、羅刹は左腕で受けていた。男は其の儘、空中で体を捻っていた。



 其の反動を利用して、男は左腕を繰り出して来る。互いの制空圏が拮抗する中、羅刹の陣地が僅かに崩されていた。男の手の中には、呪符が在った。触れる事自体が危険な一撃が、羅刹の制空圏を瓦解させる。



 男の拳が、羅刹の顔に触れる。呪符が起爆剤と成り、羅刹の眼前で爆発が起きた。




「羅刹、無事?」


「当たり前だ!」




 紙一重で避けていた。間合いを保って、態勢を持ち直さなければ為らない。追撃が来る事は理解わかっていた。男の一連の動きは、自分の制空圏を崩す為の物だ。男の放った爆撃に依り、自分の纏っていた制空圏は掻き乱されている。



 窮地で在ったが、羅刹の心は自然と舞い上がっていた。死闘に身を置く事で、生の実感を得られた。満ち足りた心持ちに成れた。反射的に半歩だけ退がって、迎撃態勢を執っていた。一秒にも満たない世界に、羅刹は至福の悦びにも似た充足感を得ていた。



 自分は闘う事しか識らない。



 爆煙に紛れて、男の小太刀に依る斬撃が迫り来る。感覚的に、其れを予感していた。腰に提げた短剣を引き上げ、受け止める。其の動作と同時に、体を捻って左の拳を前に突き出していた。



 カウンターの一撃が、男の鳩尾みぞおちに入る直前。男の左手に依り、遮られた。



「何者だ?」



 鈍い殺意と視線が、羅刹の眼を捉える。憎悪の炎が、揺らめいている。



「妹が、世話になったな」



 羅刹の眼にも、同じ炎が滾っていた。男の顔の造りが、何処となく刹那に似ていた。



 纏う空気は刹那とは異質では在ったが、血縁者で在る事が窺えた。どちらにせよ男は《禍人の血族》で、自分は戦騎騎士で在る。互いにいがみ合うのが必定で在る。



「妹だと。お前、刹那の兄貴か?」



 短剣を打ち抜いた。男は小太刀で受け流し、体を捻って回転する。羅刹の制空圏が、再び崩れ様としていた。



 呪符を握った拳を、羅刹の腹に叩き込む。羅刹は両の腕で、其れを庇う。



 二度目の爆発と共に、両者共に後方へ飛び下がる。



「俺の名は、御法院香流羅。《禍人の血族》だ。必ず、お前を殺す」



 男は姿を消した。




「大丈夫、羅刹?」


「大した火傷じゃない」




 羅刹の両腕が、ただれていた。




「彼、強いわね」


「俺の方が、強い」




 確かに男は強い。未だ本気を出し切ってはいないが、其れは相手も同様の筈だ。制するには戦騎の力を借りる必要が在る。羅刹は短剣を納めると、懐から薬を取り出した。



 治癒力を高める薬だった。飲めば、どんな傷も治してくれる。



 一気に飲み干して、空になった容器を投げ捨てる。



 御法院香流羅。其の名を脳裏に焼き附けて、静かに怒りを鎮めた。



 ――此の借りは、必ず返してやる。





   参





「刹那、一緒に帰ろ!」



 帰り支度をする刹那に、クラスメートの馬上萌もうえもえが声を掛ける。彼女は一般家庭の生まれだった。



 私立晴明女学院は、富裕層のお嬢様が集まる学校で在る。



 萌の存在は、完全に学園から浮いていた。



 そんな萌に、刹那は親近感を抱いていた。



 どの生徒も派閥争いに身を投じ、今後の人選をする様に交友を深めている。



 刹那はそう言った事を疎ましく感じ、在る意味では浮いた存在で在った。生まれこそは、御法院家は由緒が在る名家では在った。だが刹那には、そんな事は別にどうでも良かった。



 だからこそ、何の気兼ねもなく接する萌とは、直ぐに打ち解ける事が出来た。




「今日はバイト、ないんだ?」


「うん。其れよりアンタ。最近、彼氏が出来たらしいじゃん。水臭いなぁ。親友なんだから、教えてくれたって良いじゃない?」


「えっ……?」




 刹那には一体、何の事を言っているのかが解らなかった。



とぼけちゃってぇ。イケメンの子と、一緒に居る処を見たって皆、言ってたわよ。私も、見たかったなぁ!」



 どうやら、羅刹の事を言っている様だった。



 確かに見た感じは、羅刹はイケメンに見えなくもない。と、其処まで考えてから、刹那は顔を赤らめた。




「アイツは、そんなんじゃないから。勘違いしないでよ!」


「やっぱり、居るんじゃん。顔、真っ赤にして。刹那ったら、可愛い!」




 どうやら否定しても、無駄の様だ。



 萌は、すっかり羅刹を彼氏だと決め付けている。




「今度、紹介しなさいよ」


「うん……」




 紹介しろと言われても、困る。



 羅刹とは実際に、付き合っている訳ではなかった。第一に彼が何者で、何処に居るのかも解らない。もしかしたら、もう会う事すらないかもしれない。



「じゃあ今度、バイト先の喫茶店に連れて来てよ!」



 目を爛々と輝かせる萌。



 如何にも、興味津々と言った感じであった。



 此のままでは、根掘り葉掘り聞かれてしまう。真実を話せば、萌は信じないだろう。



 魔徒なんて化物の存在を、知っている方が稀なのだ。きっと、揶揄からかうなと怒られてしまう。



 ――面白そうな事になってるわね?



「えっ……?」



 頭の中で、タリムの声が響いた。



 そう言えば、ペンダントを返すのを忘れていた。



 此のペンダントが唯一、羅刹との繋がりで在る。



「何、其のペンダント。彼氏からのプレゼント?」



 新しい玩具を見付けた子供の様に、萌は好奇の目を向ける。



「うん、まぁ……」



 微妙に、嘘ではない。



 ――良いじゃないの。羅刹で良かったら、紹介してあげなさい。あの子にも、良い刺激になると思うわ。



 タリムの口振りは、まるで保護者の様だった。



「其れより、バイトの方は順調?」



 刹那は無理やり話しを逸らそうと、切り出した。



「ん~……まぁ、順調かな」



 曖昧な返事を返す萌。



 アルバイトの経験のない刹那には、良く解らない世界だった。お金を稼ぐのは、楽な事ではない。



 きっと、色々と大変なんだろうな。




「常連さんで、変なお客さんがいるの」


「変なお客さん?」


「そう。近い将来、偉大なる大作家になるお爺ちゃん」


「何、其れ。作家さんなの?」


「う~ん……。聞いた事ない名前だったよ」


「何て名前?」


「藤堂勲、だったかな……」




 聞いた事のない名前だった。



 本は好きなので、色んな物を良く読んでいるが、全く心当たりのない名前だった。




「其の人、いつも変なんだけど……最近、更に変なの」


「変って、どんな風に変なの?」


「う~ん……。なんか、一人で喋ってるの」


「只の独り言じゃないの?」


「独り言ってより、見えない誰かと話してるって感じなの」


「まさか、其の人……変な物でも、視えてるんじゃないの?」


「止めてよ、刹那。私、そう言うの弱いんだからぁ~!」




 身を竦める萌を、可愛らしいと思った。



 ――もしかして、魔徒かもしれないわね。



 頭の中で、タリムが囁き掛ける。



 まさかとは思ったが、有り得ない話ではなかった。実際、此の数日で立て続けに魔徒と遭遇している。



「黙りこくっちゃって、どうしたの?」



 不思議そうに、此方を窺う萌。



「ううん、何でもない。早く、帰ろう!」



 立ち上がる刹那に、一人の男が視線を投げ掛けていた。半年前からやって来た新任の教師、東山昭久ひがしやまあきひさで在る。物静かで在ったが、若く淡麗な容姿から生徒の評判が良かった。尤も刹那は、昭久が苦手で在った。



 別に異性が苦手だと謂う訳では無いが、昭久の事を好きには成れなかった。



 微笑を浮かべる昭久に、刹那は会釈を返して去った。





   肆





 夜の繁華街を、勲は歩いていた。



 生まれ付いての仏頂面の所為か通り過ぎる人は皆、勲を避ける様にして歩いていた。其れ故か勲は、道の真ん中を我が物顔で闊歩する。



 処が中には、柄の悪い人種がいる。風切る勲に金髪のチンピラが、態と打つかりにいく。そんな事は、お構い無しに通り過ぎる勲。



「おい、ジジィ。ぶつかっといて、何の挨拶もなしか?」



 ――全く、若造が。偉大なる大作家に対して、爺呼ばわりとは失礼な奴だ。



 其れに風情のない髪の色をして、下品極まりない。見ていて不愉快で在る。



 こうゆう手合いは、ガツンと黙らせなければ為らない。



 昔から肉体労働をしていた勲の身体は、齢八十にして筋骨隆々としていた。



「みぎっ……」



 チンピラの鼻っ面に、勲の拳が見事に減り込んだ。鈍く硬い衝撃が拳に触れる。鼻骨が折れたのが解った。不快で在る。



 後方に吹き飛び、倒れるチンピラ。泡を吹いて、気を失っている。潰れた蛙を連想して、滑稽に思えた。鼻で笑い、勲は踵を返す。



 其れを見て、周囲で驚きや奇異の声が上がる。が、勲は何食わぬ顔で歩いて行った。



 ――貴方。又、喧嘩ですか。



 勲を咎める妻の声。



「あぁ言った輩は、体に教えてやらんと解らんのだ。何せ言葉が理解、出来んのだからな」



 ――年を考えて下さいよ。無理をしたら、御体に障りますよ。



「そうだな。私は偉大なる大作家なのだから、つまらん事で拳を痛めては大事だ」



 含み笑いを浮かべながらも、勲は歩いていく。



 どんどん、人気のない道へと歩いていく。そう、まるで何かを誘い込む様で在った。



「良い加減、出て来たらどうだ。私に用が有るんじゃないのか?」



 先刻から、何者かが後をつけて来ている事に気付いていた。此処最近、妙に感覚が鋭く成っていた。



 周囲の声や物音が、五月蠅くて敵わなかった。



 どいつもこいつも、自分を誰だと思っているのだ。



 皆、黙らせてやらなければ為らない。



「お前、既に何人か殺したな?」



 若い男の声がした。何処から聞こえてくるのか、全く解らない。



 察しの通りで在った。近隣の生活音が煩わしくて、執筆に差し支えていた。だから皆、ガツンと黙らせてやった。



 偉業を成し遂げる為には、犠牲は付き物だ。如何なる者も、己の使命を邪魔する事は赦されない。



「私に何の用かね。サインなら、特別にしてやっても良いぞ?」



 周囲を警戒しながら、勲は余裕の表情をしてみせた。最近の若い奴等は、何を為出しでかすか解った物ではない。迂闊に放っておけば、此方が痛い目に遭う事になる。




「頭のイカれた奴のサインなんざ、要らねぇよ……糞ジジィ!」


「汚い言葉を使うな。耳が腐ってしまうだろう。貴様、本を読まないのか?」




 不愉快で在った。



 ガツンと黙らせてやろう。



「本を読む事で、世界は一変する。荒廃した世界に、一筋の光を産み落とす。光の当てられた処だけ、死んだ世界が蘇る。其れが、物語と成る。どうやら、貴様には其れが解らぬ様だな?」



 長広舌が終わった時には、既に勲は鬼神化していた。全身を素晴らしいパワーが漲って往く。枯渇していた心に、泉の様に言葉が沸き起こって来る。溢れ出す言葉が、勲の感性を刺激して、物語が奔流と成って胸臆きょうおくに雪崩ている。



 ――書きたい。と謂う欲求に駆られて、勲は心が昂ぶった。気付けば自分の周囲を、何かが飛来していた。





   伍





 鬼神化した老人の姿は、禍々しい物で在った。



 植物を連想させる身体。其の周囲を、文字の様な物が無数に取り囲んでいた。



 さかしらな老人程、たちの悪い物は無い。横柄な態度で、全てを達観したと勘違いしている。其の様に、香流羅は虫酸が走った。其の本質は、魔徒に成ろうが変わらない。身の程を、解らせて遣る。老人を見遣りながら、香流羅は構えていた。前傾姿勢の好戦的な構えだった。




「香流羅、気を付けろ。奴の能力が、未だ解らん」


「一気に倒してしまえば、関係ない。赤丸、奴の動きを止めろ。青丸は俺に憑依しろ!」


「アイアイサ―!」




 二頭の獣が、香流羅の言葉に従う。《禍人の血族》の中には、契約した神から其の眷属で在る霊獣が与えられる。才覚の有る香流羅は、二頭の霊獣を使役していた。



 狼の姿をした赤丸。



 鷹の姿をした青丸。



 二頭を同時に使役するには、相当な精神力を有した。赤丸が俊敏な動きで、魔徒を攪乱している。魔徒は己の周囲に浮遊している文字を、赤丸に向けて放った。が、当たらない。赤丸がトップスピードに乗れば、香流羅ですら捉えるのは困難で在った。一介の魔徒では、触れる事すら至極困難で在る。



 青丸は青い光りと成って、香流羅の両腕に纏わり付いた。青い光りの羽根を宿した右腕を、香流羅は振り翳していた。氣の流れを、正確に把握しなければ、霊獣を憑依させる事は叶わない。圧倒的な才覚を、香流羅は有していた。



 無数の羽根が、魔徒を襲った。



 羽根の中に呪符の刺さったナイフが一本、紛れている。虚実を織り交ぜた攻撃を得意としていた。



 ナイフが魔徒に触れた瞬間、爆発が起きた。致命傷には至らないが、其れ為りの効果は期待できる筈だった。一足に間合いを詰めて、香流羅は小太刀を引き抜いた。



 立ち昇る煙幕を突き破って、文字が飛来する。反撃は予想していたが、得体が知れない。魔徒固有の能力で在る。全身をチリチリと、何かが焦がす。迫り来る危機を、肌が報せてくれている。



 『爆』の文字が香流羅の視界に入った瞬間、香流羅を爆発が飲み込んだ。



「危ない所だったねぇ……」



 青い光りが、香流羅の身体を包んでいた。



 咄嗟に青丸を使ってガードしていなかったら、只では済んでいなかった。




「けど、逃げられちゃったね?」


「何、奴の匂いは憶えた。直ぐに、見付かる」




 赤丸には、魔徒の追跡能力が在った。



「奴は、俺の獲物だ」



 香流羅は狡猾な笑みを浮かべていた。



「魔徒も騎士も、俺が殺してやる」



 其の瞳には、強い憎悪の光が宿っていた。





   陸





 鼻腔を擽る不可思議な薫りが、羅刹の足を止めさせる。



 羅刹は初めて嗅ぐ其の薫りに戸惑っていた。自分が生まれた時代には、無かっ薫りだ。



 不快ではなかった。寧ろ其の芳醇な薫りに、強く魅せられている自分がいる。何故だか知らないが、興味をそそられた。不思議と心が和らいでいる。



 刹那に半ば強引に連れられて、喫茶店と言う如何いかがわしい茶屋へ足を運んでいた。最初の内は面倒だと感じていたが、店先から漂う薫りを嗅いで、羅刹は考えを改めた。此の薫りの正体を知りたかった。



「どうしたの?」



 不思議そうな顔で、此方を窺う刹那。其の表情は、奇異に満ちていた。どうやら此の時代では、珍しい物では無い用だ。



「此の薫りは……一体、何だ?」



 真顔で問う羅刹。其の表情は真剣、其の物で在る。



「珈琲の薫りだけど。もしかして……飲んだ事、ないの?」



 刹那が不思議そうに、問い掛ける。穢れの一切を知らないと謂った瞳が、余りにも澄んでいた。覗き込む様に、此方を見ていた。心の奥底がざわつく様な感情から、逃れる様にして眼を逸らした。



「ない」



 言下の内に、刹那が声を上げていた。



「どうして、笑う?」



 此方を見て笑う刹那を見て、不思議な感情を覚えていた。



 其の感情に戸惑いながらも、羅刹は刹那に手を引かれて喫茶店へ入った。刹那の手の温もりが、心地良いと感じていた。不思議だった。闘う事と憎しみ以外の感情を、自分は識らない筈だった。



 其れなのに、刹那と居ると心に平穏が訪れるのだ。



「いらっしゃいませ!」



 店に入ると、自分と同じ年くらいの若い売り子が出迎えた。見た事もない、西洋の衣服を身に着けていた。其のおもてには、人懐っこい笑みを張り附けていた。




「刹那、来てくれたんだ。そっちの彼が、例のイケメン君?」


「何だ、知り合いか?」


「うん。彼女は萌。私の友達よ。……で、こっちの仏頂面が、羅刹」




 何故か不機嫌そうな顔で、刹那は売り子――萌を窺う。



「さぁ、奥へどうぞ!」



 案内された席に着く。




「珈琲とか言う奴をくれ」


「アイスとホット、どちらになさいますか?」


「あいす……其れは、何だ?」




 羅刹には、萌の謂っている意味が理解できなかった。刹那と同様に、萌が笑う。不思議な感情が、心を満たしていた。けれど其れは、不快では無かった。



 此方を愉しげに見詰めながら、萌は再び問い掛けて来た。



「冷たいのと、温かいのどちらが良いですか?」



 今度の問いは、直ぐに理解できた。




「温かい奴をくれ」


かしこまりました。刹那は、どうする?」




 刹那に向けた表情から、懇意の仲で在る事が理解わかった。




「私もホットが良いな」


「了解。じゃあ、待っててね!」




 去り際に、萌は刹那に何かを耳打ちしていた。其の表情は、悪戯を企む子供の様で在ったし、刹那が赤面しながら何かを喚いていた。



 其の様子を、不思議そうに羅刹は見ていた。本当に、不思議な感覚で在った。とても穏やかな感情に満ちていた。心地良い薫りと、温かな空間が羅刹の中で、何かを氷塊させていた。其の感情に戸惑いはしたが、居心地が良かった。



 ――直ぐ近くに、魔徒が居るわ。



 唐突に、頭の中でタリムが囁く。店に入った時から、僅かにだが魔徒の気配を感じてはいた。だがもう少しだけ、此の不思議な『温もり』に触れて居たかった。そう思う事自体が、自分でも不思議で在った。



 羅刹は無意識の内に、魔徒に意識を向けていた。



「もうすぐ、私の名前が世間に知ら占められる。そうなれば、お前に楽をさせてやれる!」



 真向かいの席に一人で座る老人が突然、叫び出した。周囲の人間は皆、怪訝な顔をして老人を見ていた。



「成る程。あいつか……」



 ――どうやら、其の様ね。どうするつもり?



「まずは、珈琲とやらを飲んでからだ」



 飲まなければ、後悔する様な気がした。純粋に、珈琲に興味が在った。



「もしかして又、魔徒が出たの?」



 耳元で刹那が、囁く様に問う。




「あそこの爺さんが、そうだ」


「まさか、店の中で暴れないわよね?」


「さぁな。其れは、爺さん次第だ」


「あぁ~! 二人して囁き合ったりしちゃって、刹那ったらぁ!」




 何故か妙に愉しそうに、萌が此方を見ている。刹那は何故か頬を赤らめていた。盆に乗せた飲み物を、萌は差し出してきた。黒色の不思議な飲み物で在った。珍妙だが、何故か心を惹き立たせる薫りがした。



 其の薫りを鼻腔いっぱいに楽しんでから、珈琲を飲んだ。



 芳醇な薫りとまろやかな苦みが、口内を仄かに刺激する。今まで味わった事のない物で在った。



「うん……」



 羅刹は満足そうに頷くと、静かに立ち上がった。



「直ぐに終わらせて来る」



 刹那は何も言わず只、頷いていた。



 珈琲が冷める迄には、決着をつける心算つもりだった。





   漆





「もう直ぐ、私の名前が世間に知ら占められる。そうなれば、お前に楽をさせてやれる!」



 勲は満足そうな笑みを、妻に向ける。穏やかな妻の表情が堪らなく愛おしい。二度と失いたくはなかった。此れからは、妻には幸せに成って貰わなければ困る。



 先日、書き上げた作品は、紛れもなく最高傑作で在った。間違いなく、世に知れ渡るで在ろう名作だ。必ず、妻を幸せにしてみせよう。



 ――私はもう、充分に幸せですよ。



「何を言う。此れからも、もっと幸せにしてみせるさ」



 楽しそうに笑って、勲は珈琲を口元に運ぶ。芳醇な薫りが、鼻腔に広がる。程良い苦みの奥に広がる濃密な薫りが、幸福な一時を誘い込む。



 此の店の珈琲は、偉大なる大作家をも唸らせる代物で在る。



 店の雰囲気もおごそかな静けさを秘めていて、好感をいだく事が出来た。こうして妻と共に、珈琲を嗜む時間が何よりも心静かに成れるいとまで在った。



 其れなのに、邪魔をしようとする輩がいる。



「小僧、戦騎騎士か?」



 ――全く。昨日の若造爾しかり、目の前の小僧爾り一体、自分を誰だと思っているのだ。



 此の空間は気に入っている。



 出来得る限りは壊したくはないので、場所を変えなければいけない。



 勲は立ち上がった。



「特別に相手をしてやるから、ついて来なさい」



 命ずるままに従って、小僧はついて来た。



 人気のない裏路地で向かい合う形で、勲は静かに口を開いていた。




「小僧よ、本は好きかね?」


「そんな物には、微塵も興味はない!」




 ――愚かな答えだ。矢張り、ガツンと解らせてやらねば為らん。



 勲は拳を放っていた。其れを小僧は左手で巧く受け流している。端緒から無粋な小僧で在る。不意に込み上げる怒りから、勲は叫んでいた。



「愚か者がぁ!」



 拳の勢いを殺さずに半身を捻って、左の裏拳を小僧の顔面に叩き込んでやった。たしかな手応えを感じた。真面に自分の拳を受ければ、決して只では済まない……筈だった。



「随分と軽い拳だな?」



 余裕の表情を浮かべる小僧。全く意に介していない様子で在った。



 ――小癪な奴だ。



「ならば、今度は本気で叩き潰してやろう」



 勲は鬼神化すると、言の葉を繰り出した。おきに為るまで、燃やしてやろう。



 勲の周囲を廻る言葉の珠には其々、力が籠められている。



 ――言霊。其れが勲の持つ能力で在った。



 言葉の珠に刻まれた文字を見た者は、其の言葉通りの事象に見舞われるのだ。



 『燃』の文字を、小僧に投げ放つ。



 物の見事に、小僧は言霊を見ていた。が、何故か言霊は小僧を通り抜けて、不発に終わっていた。



 そんな馬鹿な事が在る筈がない。



 きっと、何かの間違いに違いない。



 もう一度、言霊を小僧にぶつけてやる。



 ――が、何事も起きなかった。




「もう、終わりか?」


「ふざけるなぁ! 私は……私は――」




 ――偉大なる大作家だ。



 こんな処で、終わる筈がないのだ。





   捌





「ならば、今度は本気で叩き潰してやろう」



 鬼神化した老人が、何かを飛ばして来た。



「羅刹、避ける必要はないわ」



 タリムの言葉に従って、羅刹は避けなかった。



「奴の能力は言霊。言葉を操る力の様ね。尤も、文字を読めない羅刹には、効果がないみたいだわ」



 再度、言葉の弾丸を繰り出して来たが、何事も起きなかった。



 どうやら今回の魔徒は、自分とは相性が良い様だ。



「ふざけるなぁ! 私は……私は――」



 魔徒の背後には、香流羅が居た。



 羅刹と香流羅の放った剣撃に挟まれて、魔徒は消滅した。



「偉大なる大作家だ……」



 魔徒の最期の言葉を聞きながら、香流羅を睨み付ける。



「今度は、お前の番だ」



 此方を睨み返す香流羅。放たれた言葉には、憎しみが籠っていた。香流羅の憎しみの源は、自分にではなく戦騎騎士に向けられた物で在った。だからと謂って、状況は何も変わらない。自分が戦騎騎士で在る以上、香流羅は向かって来るだろう。



 香流羅の両のかいなを、青い光りが包んでいた。霊獣を使役している様だった。



 今度は本気で、命を獲りに来ているのだろう。だが、本来の実力を発揮しているのは、自分も同じで在った。



 たとえ刹那の実兄で在っても、手加減は出来ない。



「お前には、無理だ。止めておけ」



 挑発する様に、羅刹は言葉を返した。



「なら、試してみるか?」



 笑みをしたためる香流羅。



 背後に気配を感じて、羅刹は横に飛んだ。狼の霊獣が、襲い掛かっていた。既に敵は、羅刹の制空圏の中だ。



 決して、捉える事は出来ない。追撃が来るのは識っていたし、軌道も予測できた。



「逃がすかよっ!」



 光の羽根が無数の弾丸となって、羅刹を襲う。弾丸に紛れて、呪符の刺さったナイフが飛来していたのを、羅刹は見逃していなかった。先日の手合わせで、呪符の威力は学んでいた。香流羅は自分に、手の内を見せ過ぎた。そして、香流羅は識らない。



 ――既に香流羅は、手の内に在る。



 瞬時に戦騎を喚装して、身を護った。



 羅刹の全身を、白い炎が包んでいた。戦騎の力で、地獄の業火を召喚したのだ。



 光の羽根を焼き払い、ナイフを刀の鞘で受け流した。



 死角から、狼の気配が飛び込んで来る。躱せるタイミングではなかった。



 炎の出力を上げて、切尖きっさきに宿す。刀を持つ手を返して、斬り上げる。



 全く手応えが無かった。



「勘の良い奴だ」



 眼前に佇む狼が、此方を見据えていた。



「余所見している暇はないぞ!」



 距離を詰めていた香流羅が、小太刀を繰り出していた。



 其れをしのぎで受けながら、勢いを逸らした。真面まともに受ければ、刀が折れてしまう。




「どうして、俺を目の敵にする?」


「お前が、戦騎騎士だからだ!」




 香流羅の瞳の奥に、憎悪の光が灯っている。



 羅刹は其の瞳に、己自身の姿を重ねていた。



「俺はお前を、斬らなければ為らない!」



 至近距離から光の羽根を放って来る。其れを炎で焼きながら、香流羅の放つ弐の刃を薙ぎ払う。狼の霊獣の位置にも気を配らなければ為らない。何時如何いついかなる時に、奇襲を掛けて来るか解らない。隙を見せれば、必ず喰らい付いて来る。



 香流羅は自分に良く似ていた。



 憎しみに囚われ、魔徒を斬る一振りの刀。其れが自分だった。



「戦騎騎士が一体、何を護ったと言うのだ。魔徒に無惨に殺され、喰われていった人間が、此の世に何人いると思う?」




 繰り出される斬撃。


 繰り返される連撃。



 ――躱し、払い、受け流す。其の一連の動きに対応するが、隙が窺えなかった。



「戦騎騎士に見捨てられた者の気持ちが、お前には解るか?」



 反撃の機を見据え一向ひたすら、護りに徹していた。




「《禍人の血族》は、戦騎騎士に見捨てられた一族だ。一族の怨みは、お前の力よりも深い!」


「怒りや憎しみを抱えているのは、お前だけじゃない!」




 斬撃を受ける刀を捨て、香流羅の懐へと潜り込んだ。ほんの僅かな隙で在ったが、羅刹は見逃さなかった。



「香流羅!」



 叫ぶ霊獣。



 香流羅の鳩尾みぞおちに拳を叩き込んでいた。



 懐に忍ばせていた短刀を、香流羅の喉元に向けていた。



「此処は退け。手負いで勝てる程、俺は甘くない」



 香流羅の腹部が、血で滲んでいた。



 自分が負わせた傷ではなかった。恐らく、魔徒に依る物だ。




「殺さなかった事を、後悔するぞ?」


「今の俺なら。殺せばきっと、後悔している」




 どうしてか解らないが、脳裏に刹那が過ぎった。香流羅を殺せば、きっと刹那は悲しむ。心の中を、何かが乱そうとしている。胸裏に秘めた想いに、羅刹は気付かない振りをした。不要な感情を捨てなければ、刃が鈍る。自分は魔を斬る一振りの刀だ。憎しみ以外の感情は、必要ない。



 互いの視線が交わる。



 憎しみの秘めた眼だった。まるで、互いが互いを映す鏡で在るかの様に、憎しみが交差していた。



 羅刹の脳裏で、過去の記憶が過ぎっていた。鬼子と呼ばれ、札付きの悪として扱われてきた生前。



 其の念を払拭するかの様に、魔徒を斬り続けて来た。



「香流羅、此処は退け!」



 霊獣が怒りに奮える香流羅を促した。



 其の言葉に従う様に、香流羅は去った。



 戦騎の喚装を解いて、羅刹は呟いていた。



「珈琲、冷めちまったな……」



 気が付くと、雨が降っていた。



 嫌な雨だった。





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