第1話【化物】
壱
全てが憎い。
目に映るすべてのものを、殺してしまいたい。
残酷で——冷酷な想像が、頭のなかを駆け廻る。気が狂いそうなほどの憎悪が内側から、己の身を焼き崩すような感覚に捉われる。
胸中で憎悪の蛇が、蜷局を巻いている。果てしもない憎しみが、どうしようも無く心を焼いていく。
深く——濃い闇が、憎しみとともに昏く淀んだ心に、澱のように沈んでいる。粘着質な執念にも似た憎しみの感情が、幸男の心に纏わりついて離れない。
全てを壊してしまいたい。己の内側の破壊衝動が、殺意と憎悪に結びついて、どうにも度し難い。頭のなかにある果てのない憎しみは、救いようがなく、心を壊していく。
暗闇を懐中電灯で照らしながら、幸男は工場内を歩いている。無機質な足音だけが、闇に木霊している。寒気が肌を冷やしていたが、幸男の額には汗が滲んでいた。暑い訳ではない。吐き気がするほどに忌まわしい記憶ばかりが、心を彩っていく。
今朝、工場長に三行半を突きつけられた。幸男の脳裏を、永井の言葉が蘇っている。
——もう、明日から来なくて良いから。
見下したような薄い笑みを浮かべながら、工場長の永井はクビを言い渡してきた。
その時に、永井を殺してしまいたいと思った。四肢を八つ裂きにして、腸を抉り出してやりたい。押し寄せる憎悪。滾る想いを直隠しながら、心を押し殺す。
陰鬱な感情は、いつだって幸男の心のなかに潜んでいた。
幸男は脅えたような、困惑したような、そんな視線を泳がせている。抑え難い殺意を内に秘めながら、その感情に気付かない振りをした。
そうしなければ、気が触れてしまいそうだ。不特定多数の人間に、明確な殺意の感情を抱いていたし、自殺を考えた事も数え切れないほどにある。
——お前みたいな役立たずは、死んだ方が良いんじゃないか?
生ゴミでも見るような永井の眼を見て、憎悪に殺意の炎が灯るのが解った。殺してしまいたい。幸男の懐には、常に彫刻刀が隠されている。持っていると、心が落ち着くからだ。彫刻刀を遣って、永井の喉を裂いてしまいたい。滅多刺しにして遣りたかった。
——何だよ、その目。俺が殺してやろうか?
幸男の胸倉を掴み上げながら、永井は声を低くする。
周囲の嘲笑の声。
冷やかな視線。
その全てが、憎かった。怨めしかった。周囲の人間を、鏖にしてしまいたかった。
吐き気がするような腐った空気が、幸男の感情を激しく狂わせる。そんな狂気を無意識の内に押し込めて、幸男は涙を浮かべている。
逃げるようにして、幸男は家路に着いていた。
幸男は永井への復讐を誓った。
今夜、自殺をしようと心に決めた。
遺書には地獄のように悲惨な半生。そして、永井たちへの怨みの言葉を書き殴っていた。
思えば何一つ、良い事なんてなかった。
幸男は己の人生を呪い。己の境遇も又、呪った。
母子家庭に育った幸男は、父親が誰なのかが解らない。
名前も素性も知らない破落戸との間に生まれた子供だと、スナックに勤める母は言っていた。幼いころの記憶が、頭のなかを過ぎっていく。
——アンタは、この世に産まれちゃいけない子だったの。
感情の籠らない声音が、幸男の心を冷たく撫でる。冷ややかに、憎しみの種が散蒔かれていた。
まだ幼い幸男の頬に、母は煙草の火を押しつける。
——アンタの父親は、何処の誰とも知れない行きずりの男。
いつも同じ事を言いいながら、母は幸男に虐待を繰り返した。
——アンタなんて、死んでしまえば良いのに。
何度も同じ言葉を浴びせながら、何度も何度も母は幸男を虐げ続けた。
——アンタは、私の子供なんかじゃない。
冷たい視線を投げ掛ける母。
ゴミ袋に首から下まで入れられた状態で、幸男の幼い体は縛られている。
幸男は母への情を保つかのように、母への憎悪の念を必死で振り払う。それでも憎悪の種は、確実に心の奥底に根付いていたし、育っていたのは間違いなかった。
長い年月をかけて、幸男の心には様々な人間への憎悪が蓄積していった。
幼いころから、幸男は周囲の人間に苛められていた。
——ほら、ワンって鳴いてみろよ。
ガキ大将のタケシが、四つん這いになる幸男の顔を蹴りつける。熱にも似た衝撃が、鼻頭に触れる。まるで火花が弾けるように熱かった。自然と涙が溢れ出して、憎しみが込み上げてきた。
——ポチ、あそこにエサが落ちてるぞ。
犬の糞を指差しながら、タケシは笑っている。
周囲の嘲り声。
残酷な子供達。
無関心な大人達。
——早く、食えよ。
囃し立てるタケシ。
期待と奇異の眼差し。
込み上げる殺意。
抑え難い憎悪を、子供ながらに捻じ込むように飲み込んだ。
殺してしまいたい。
けれど、押し殺した。
感情を塞ぎ、己を殺し、幼い幸男は犬の糞を口の中に含ませる。ぬちゃり……とした感触が、口の中を満たしている。吐き気が込み上げるような異臭が、鼻腔いっぱいに広がった。胃液が逆流して、据えたような何とも謂えない味と相まって、心をどす黒い何かが満たしていく。
——こいつ、本当に食いやがった。
殺してやる。
気味悪そうに、タケシは逃げていった。
殺してやる。
周りの子供達も、タケシを追うようにして逃げていった。
「殺してやる!」
幸男の絶叫が、工場内の闇に木霊した。
永井も母も皆、殺してやる。
「殺してやるぅぅぅーっ!」
ガソリンを撒き散らしながら、狂った様に叫んでいる。
「皆、殺してやるぞぉ!」
——なら、俺が協力してやろうか?
「何だ! 何処にいる?」
何処からか、声が聴こえてきた。男の低い声だ。
——殺したいほど、憎いんだろう?
「誰だ……。何処にいる?」
工場には、誰もいないはずだ。
辺りを懐中電灯で照らすが、誰もいない。
それなのに、声が聴こえる。
——俺が、最高の快楽を教えてやろう。
何かが己の内側に、ゆっくりと入ってくるような感覚がした。
不思議と恐怖はなかった。良く目を凝らすと、黒い靄のような物が全身を包んでいた。
「本当に皆、殺すことが出来るのか?」
黒い靄に問う。
もしも本当に、永井や母を殺せるのならば、迷う迄もなかった。復讐を果たせるので在れば、鬼でも悪魔にでも魂を売り渡そう。それほどに迄、己の人生には救いがない。一人残らず、殺してしまいたかった。
——約束しよう。
この世の者とも知れない声に、幸男は心を委ねていた。
声の申し出は、とても魅力的だった。今まで味わったことのないような、安心感を抱いていた。
「解った」
忌憚の無い言葉を発すると、ゆっくりと眼を閉じた。
靄は幸男の内側へと入っていった。心に掛かった煙霞が晴れるような想いが、心を満たしていく。心地良く、心が洗われていくようだった。迷いも惑いも、微塵もなく消え失せていた。
ゆっくりと眼を開くと、幸男の哄笑が工場内に轟いた。
「清々(すがすが)しい。晴れやかな気分だ!」
爽やかな笑みを浮かべて、幸男は生まれ変わった世界を眺めた。
弐
「羅刹、扉が開いたわ」
夜の闇に忍ぶようにして、歩いていた。吹きつける風に、邪気が紛れている。
「又、魔徒が出現したか」
羅刹は闇を見詰めていた。内に秘めた殺気を押し殺しながら、獲物を見定めるような視線を送っている。
——魔徒。人の心の闇に取り憑き、人を喰らう魔物。其の存在は、太古の頃より出現している。人が生まれた頃から、魔徒も又、生まれたと謂われている。
「——で。魔徒は、何処にいる?」
黒いコートに忍ばせた短剣に手を当て、羅刹は歩き続ける。心が滾り、身体が疼いていた。斬りたい——という衝動が、心を甘く誘う。魔徒は残らず斬り伏せて遣る。それが、己の役目なのだ。
「近いわ。其処の先にある工場にいる」
頭のなかに直接、響く女の声。
彼女の名は、タリム。
羅刹の相棒である。
その姿は、この世には存在しない。声こそは幼かったが、千年以上もの時を生きている。
「彼処か……」
視線の先には、何の変哲もない工場が聳えている。その中から微かに、邪悪な気を感じた。
「どうやら、奴はまだ鬼神化していないようだな」
邪気の強さから、魔徒の力を推し測る。今なら未だ、楽に倒せるだろう。尤も自分としては、鬼神化してからでも一向に構わない。周囲の人間が、どうなろうとも関係ない。
羅刹は静かに息を吸い込むと、疾走った。
一目散に目標である魔徒の元へと、疾走る。まるで風の如く、迅速に——しかし、気配は完全に消している。
工場内は暗く、様々な機材で入り組んでいた。そんな中を尋常ならざる速さで、障害物に当たることなく魔徒へと接近する。
気配だけを頼りに、間合いを計算して、羅刹は魔徒に斬り掛かる。
「何だ、お前は……?」
後退する魔徒。大した手応えは、得られなかった。
踏み込みが浅かったためか、魔徒となった男の胸を掠めた程度だった。
暗闇のなかから無数に飛来する殺意。風を切る微かな音。人並みならぬ羅刹の感覚が、それらを鋭敏に捉える。
たったの一呼吸で、難無く短剣で払い退ける。
金属音と共に、数本の何かが床へと弾かれた。魔徒に視線を送るが、その姿も気配も、消えている。
「逃げられたか」
すでに邪気は遠ざかっている。
「急がないと、犠牲者が出るわよ」
「知ったことか。俺は只、奴を斬るだけだ」
羅刹は魔徒を斬り滅ぼすために存在している。
その命は疾うに、果てている。だが地獄の底で、閻魔大王の計らいに依り蘇った。
魔徒を狩る戦騎騎士として、その命を懸けなければならない。それが羅刹に課せられた使命であった。
「貴方は、いつもそうね」
元来、騎士とは護るために存在している。魔徒から人々を護ることこそ、戦騎騎士たる定めである。
だが、羅刹は違う。
魔徒を斬ることだけに執着していた。まるで抜き身の刀のように、羅刹の心は殺気に囚われている。
人を護る心算など、ありはしない。人としても、騎士としても、羅刹の心は欠けている。
「戦騎騎士としての自覚を持ちなさい。そうしなければ、いつかきっと後悔するわ」
「関係無い。俺は只、奴等を斬れれば、それで良い」
本心だった。
羅刹に取っては、戦騎騎士としての宿命も、人々の平穏な日々も、どうでも良い。
只、魔徒の存在は気に入らない。だから、魔徒を斬る。
それだけの事でしかなかった。
本心を言うならば、己のなかに在る憎しみの憂さを晴らすためだ。滾る憎悪は、鎮まることを識らない。
抑え込む心算も、毛頭ない。復讐を果たす相手は、疾うに命が尽き果てている。
魔徒を斬ることだけが、唯一の救いだと感じていた。只の気休めではあったが、闘争の間だけは、心が紛れていた。
「奴は、何処へ行った?」
「解らないわ」
「どうやら、手掛りは此れだけか……」
魔徒が投げた武器を、拾い上げる。
「どうやら、彫刻刀のようね」
「辿れるか?」
「多分ね……」
タリムには、魔徒を感知する能力が在る。
彫刻刀に残った僅かな思念を頼りに、魔徒を追跡するしかない。
「とにかく、此処を出るぞ。腹が減った」
羅刹を動かすのは、殺意と本能だけであった。
参
「何なんだよ、アイツ。糞、血が出てる!」
幸男は胸を抑えながら、傷を見る。白いTシャツが朱に染まっているが、見た目ほどには深くない。それでも急襲に依る焦りが、尾を引いていた。胸中を掠める不安が、恐怖と混乱を呼び込んでいる。
「糞っ……折角、素晴らしい力を手にしたのに!」
戦騎騎士の存在は、魔徒に憑かれたことで理解していたが、実際に相対したことで、幸男の自我が戸惑っていた。困惑と恐怖で昂ぶる感情を抑えるため、幸男は彫刻刀を手に取った。
いつも幸男は嫌なことがあると、彫刻を掘るようにしていた。
彫刻をしている時だけは、嫌なことを忘れられる。無心に為り、心が落ち着くのだ。
幸男は黙々と彫刻を掘り続けている。随想する想いは母への怨みばかりである。自分はこの場所で、化物として扱われてきた。
真面な食事は、滅多なことでもないと、与えられない。母が食べ残した物ばかりを食べていた。皿の上に載っていれば、まだ運が良いほうだ。
大抵は流し台の三角コーナーに、ぐちゃぐちゃの状態で捨てられている。それを手で拾い上げて、口のなかに放り込んだ。
食事を愉しむ——と謂う行為を、幸男はしたことがない。兎に角、食べれる物ならば何でも、口に入れて育ってきた。いつか必ず、母を殺してやろうとばかり考えて、怨んで生きていた。
母への殺意を練り込むように、一心不乱に彫刻を掘り続けている。母だけではない。永井や周囲の人間もそうだ。必ず全員、残らず鏖にしてやる。
二時間かけて完成したころには、冷静さを取り戻していた。
「アンタ、いつ来たのよ?」
スナックから帰ってきた母が、疲れた眼差しをこちらに向けている。心が騒ついて、息が苦しくなる。胸が締めつけられるように痛かった。吐き気がするほどの殺意が、呪文のように脳裏を駆け廻っている。
——どうした。何を迷っている。お前は母が、憎いのだろう?
頭のなかに直接、内なる声が響いていた。その声が、幸男の心を冷ややかに落ち着けていた。覚醒された意識のなかで、静かに母を見据える。皺の目立つ厚化粧に、吐き気がする。
母に会うのは、半年振りだ。高校を卒業して、すぐに家を出た。リサイクルの工場に就職して、寮に入ったのだ。尤も、工場はクビになってしまったのだが。今となっては、どうでも良い。
お陰で生まれ変われたのだから、感謝しなければならない。今の自分には、想いを果たすだけの力がある。後は其処を、踏み越えるだけだ。
それは、意図も容易く行えるような気がする。呵責の念が、浮かぶこともない。ほんの少しの勇気も、必要としない。何故なら自分には、在り余るほどの殺意と憎悪がある。
「何しに帰って——」
母が言い終わる前に、彫刻刀で母の胸を刺し貫いた。積年の間に積み重なった想いが、握られた彫刻刀の刃先に蝟集している。生暖かくて、柔らかな感触が、幸男の心を蠱惑的に撫でつける。
「……あ、んたっ……どうして……?」
今際の際に、母が問い掛ける。
——どうしてだって?
「あんたが、憎いからに決まってるだろう。憎くて、憎くて、仕方なかったんだ!」
幸男の叫びは、すでに母には届かない。
事切れた母の体を、幸男は残酷に蹴りつける。
ずっと、こうしたかった。
ずっと、殺したかった。
ようやく、叶った。
幸男は笑っている。
笑う幸男の体に、異変が起きている。全身の皮膚はどす黒く染まり、昆虫のような甲殻に覆われてしまっている。
その出で立ちは、正に化物のようだ。これが、力を得た代償なのだろう。
だが、別に構わない。
自分は生まれた時から、化物として扱われていたからだ。今更、化物の体になったとしても、関係無い。
地獄のようなこれまでの人生に比べれば、今は天国だ。
憎い奴は、全て殺すことが出来る。
母のように、永井や工場の連中も鏖にしてやる。
——アンタみたいな化物、死んじまえ!
不意に、母の言葉が蘇る。
幼い幸男に、母は憎悪と憤怒の塊をぶつける。
幸男は奇形児として産まれてきた。顔のパーツが、大きく歪んでいる。本来、口が有る所に鼻が有るのだ。口は、右頬の位置。左右の目は、斜めに離れている。その所為で母だけではなく出逢う者達の全てが、幸男を化物として扱ってきた。
そしてそれは、常に幸男を苦しめてきた。暗澹とした想い出ばかりが、心を掠めていく。
中学生のころ、幸男のクラスに木下有紀という少女がいた。幸男は彼女に淡い恋心を抱いていたのだ。
皆が幸男を化物と罵るなか、有紀だけは自分を名前で呼んでくれていた。
皆に苛められる自分を、気に掛けてくれていた。
今まで優しく接してくれる者がいなかった幸男に取って、有紀は慈愛の女神のような存在だった。入魂の想いを有紀に抱くのは、必然のことだ。有紀への想いだけが、自分が生きるための薪炭となっている。
中学を出たら進学する高校が違うため、有紀とは会えなくなってしまう。幸男は勇気を振り絞って、有紀にラブレターを贈ることにした。優しく接してくれた感謝の気持ちを、拙い文に認め学校へと向かった。
振られることは、初めから解っている。自分なんかが、有紀のような女性と付き合える訳がない。
それは、覚悟の上だ。自分の想いを伝えることが出来れば、それで満足だった。
しかし、幸男を待ち受けていた結果は、余りにも残酷な物である。
卒業式が終わり、有紀にラブレターを渡す直前のことだ。幸男をクラスメートの男子数人が、面白がって取り囲んだ。
——木下さんに一体、何の用だよ、化物。
リーダー格であるタケシが、幸男を睨めつける。タケシとは、小学校からの付き合いだ。事在る毎に、幸男を苦しめ続けていた。
——タケシ君、こいつラブレターなんか持ってやがる。
クラスメートの一人が、幸男のポケットからラブレターを奪い取る。
——見せてみろよ。
タケシがそれを受け取ると、皆が聴こえるように大きな声で読み上げた。
周囲の奇異の視線が、幸男の心に突き刺さる。
羞恥が静かに苛み、憤怒が全身を愛撫する。憎悪が心を焼き焦がし、幸男の全てを負の感情へと促していく。
しかしそんな事は、此れから起こる悲劇の比ではない。
有紀がゆっくりと、幸男の元へと歩んでくる。
——貸しなさいよ。
タケシからラブレターを乱暴に奪い取ると、有紀は笑い出した。
今まで見たこともないような、軽蔑の視線を幸男に向ける。
——アンタが、私に惚れてるのは知ってたわ。
有紀は見せつけるように、ラブレターを引き裂いた。
——私がアンタみたいな化物、好きになる訳ないじゃない。
ラブレターを踏みつけながら、嘲り嗤う有紀を見て、幸男は本当の絶望を識った。
果てしない紅蓮の炎に焼かれて、幸男の心は殺意に染まっていく。蠕動する悪意が、心のなかで蠢くのが解る。
身も心も、本当の化物になってしまえれば、どんなに楽だろう。
そうすれば、なんの躊躇もなく皆を殺せる。
幸男は壊れた心の中で、いつも想い続けた。
肆
幼いころの記憶を辿ると、いつも同じ景色へと行きつく。そしてそれは、夢のなかに顕れていた。
刹那は微睡みのなかで、光の騎士の姿を捉えていた。
霧深い森のなかで、幼い刹那を怪物たちが取り囲んでいる。
この世の者ではない姿をした怪物たち。幼いながらに、刹那は死を直感していた。目を閉じて、死を覚悟した次の瞬間。聞くに堪えない唸りのような、鈍く恐ろしい叫び声が木霊していた。
その声は、怪物たちの断末魔の叫び声であった。
刹那の視界に飛び込んで来たのは、光に包まれた騎士の姿である。黄金色に輝く鎧に身を包んだ騎士は、誇らしげに雄々しく佇んでいる。その姿が余りにも美しくて、刹那は魅入っていた。
無骨な風貌だが、優しい眼をしている。騎士の穏やかな笑みが、幼い刹那の心を和らげていた。
その直後、刹那は気を失っていた。
「刹那、遅刻するわよ!」
姉の叫び声が、刹那を現実へと引き戻す。
時計を見ると、止まっていた。昨夜から電源をつけた儘にしていたラジオからは、八時の時報が流れていた。
「いっけない。急がなきゃ!」
刹那は飛び起きると、物凄い勢いで身支度を始めた。着替える刹那の鼓膜を、ラジオのニュースが撫でた。御影町を騒がす連続猟奇殺人事件に関するニュースであったが、今の刹那には近隣の情報よりも、迅速に登校することの方が重要だ。
刹那の通う私立晴明女学院は、校則の厳しい学校である。遅刻なんて、以ての外だ。
遅刻者には、厳しい罰則が課せられるのだ。
「刹那、朝ごはんはどうするの?」
姉が溜め息混じりに問い掛ける。
「要らない!」
髪を結い上げると、刹那は鞄を持って家を出た。
走りながら、刹那は腕時計を見る。後、五分しかない。学校まではまだ幾許かの距離があったが、刹那の足でならば、ぎりぎり間に合うはずだ。
何としても、間に合わせなければならない。
角を曲がった直後、刹那は何かにぶつかり転倒していた。
「何だ、お前は?」
「ごめんなさい!」
見上げると、自分と同い年くらいの少年がいた。
不思議な少年だった。全力疾走で激突したはずなのに、少年は微動だにしていない。ぶつかった時の衝撃はまるで、巨木か何かのように重かった。
黒いコートに身を包み、静かな物腰でこちらを見据えている。その顔には大きな斬り傷がある。尋常な事でつくような傷ではない。思わず刹那は息を呑んでいた。それに少年の眼が、こちらを睨みつけている。
その視線は、触れれば斬れるような鋭利な刃物を思わせる。他を圧倒させるその瞳に、刹那は何処か哀しさのような物を感じていた。けれど……ふと、我に返ると刹那は思わず叫んでいた。
「いけない。遅刻しちゃう!」
立ち上がると刹那は又、走り出した。
本当に不思議な少年だった。
雰囲気が何処か、幼い頃に出逢った光の騎士に似ている。
そう逡巡したのは一瞬の事である。
刹那は猛スピードで、学校へと向かった。
伍
幸男は工場の前に佇んでいる。
怪物の姿から、元の姿へ戻っていた。
もうすぐ、永井がやって来る時間で在る。自分と同い年の永井は、社長の息子と謂うだけで、何の苦労も無く工場長の地位を与えられている。其れ故に、重役出勤が黙認されていた。
いつも永井は、就業時間の直前にやって来るのだ。だから、待ち伏せしていたのだ。
工場は山道に面して聳えていて、人通りは殆どと謂って無かった。誰かに邪魔をされる心配も無い。
「もう、来なくて良いって、謂ったろう。何しに、来たんだよ?」
永井が幸男を見るなり、睨み附けてきた。
燃え滾る憎悪を、殺意に結び附けて幸男は嗤った。自分でも驚く程に、冷徹な声音で在る。
「永井。お前を、殺しに来たんだ」
永井を睨み返した。永井の瞳の奥が、僅かに揺れるのが感じ取れる。明らかに、永井は動揺している。そして其れは激しい怒りと結び附いたのか、見る間に険しい表情へと変わっていった。
以前の自分で在った為らば恐怖で狼狽えていたが、今の自分には、恐れる物など何もない。
「上等だよ。俺が、殺してやる!」
幸男の顔面、目掛けて永井は拳を叩き附ける。頬を撃ち衝ける衝撃が、肌を僅かに揺らす。けれど蚊程にも、効かなかった。どうして今まで、こんな奴を恐れていたのか不思議なくらいだ。気付くと自分が、薄い笑みを浮かべているのが理解った。愉悦に満ちた笑みだ。
此れ迄に鬱積した想いを、漸く打ち撒ける時が来た。笑わずには、要られなかった。
「殺してやる」
永井の腕を掴みながら、幸男は呟いた。強く握り込めば、容易に圧し折れそうだ。今の自分は人間の力を、遥かに凌駕している。
彫刻刀で、永井の右目を刺し貫いた。彫刻刀を媒介にして、生々しい柔らかな感触が伝わって来る。永井の眼球が潰れる感触だ。心地良く甘美な手触りで在る。
悲鳴を上げる永井の腹を、蹴り衝ける。加減をしなければ、簡単に絶命してしまう。人間は脆い。
激しく後方へと吹き飛ぶ永井。苦痛に歪んだ表情を、恐怖に染め上げたかった。
直ぐに殺してしまうのは、勿体ない。じっくりと時間を掛けて、甚振って苦しめてやる。自分が味わった以上の辛苦を与えなければ、復讐の意味を為さない。自分はずっと、地獄を生きて来たのだ。其れを理解らせてやる。
倒れる永井の右目を蹴り衝ける。何度も、何度も、蹴り続けた。靴底に触れる感触が、少しずつ柔らかく為って往く。余りにも気持ちが良くて、法悦の笑みが込み上げて来そうだ。愉悦の渦中に浸りながら、永井の顔を覗き込んだ。
右眼球は血に塗れ、グジャグジャになっていた。痛みと恐怖からか、残された左目で涙を流している。良い気味で在る。陶然とした快感が押し寄せていた。とても、健やかな気分だ。自分は今、永井を蹂躙している。殺す事も、其の身をぐちゃぐちゃに破壊する事も、自分の意の儘に行える。こんなに素晴らしい気持ちは、生まれて初めてで在った。
しゃがみ込み、永井の髪を掴み上げる。ぞくぞくする様な快楽が、脊髄を通して全身を充足して往くのが解った。
「許じで下ざいっ。お願いします!」
涙ながらに懇願する永井を見て、更なる欲求が沸き起った。そうか……永井は此れ迄、こんな気持ちで自分の人生を支配して来たのか。そう思うと、快楽で陶酔していた心に、再び憎悪の炎が燈った。もっと苦しめて遣りたい。膨らむ想いを抑え切れなかった。
幸男は彫刻刀を使い、永井の鼻をゆっくりと削いだ。悲鳴を上げながら、ジタバタと暴れ狂う永井。態とゆっくりと、長く、永く、痛みが続く様に削いだ。
堪らなかった。
心地良かった。
鼻を失った永井の顔を、撲り附ける。ぬちゃっ……と、した。拳を舐める永井の血が、生温かい。
ピクピクと痙攣しながら、永井は小便を漏らしていた。未だ未だ、足りはしない。
「失神するなよ、永井。お前への怨みは、まだまだこんな物じゃない」
冷淡な自分の口調。
声に為らない声で、助けを懇願する永井。
幸男は嗤いながら、今度は左耳を引き千切った。
「ほら、此処にエサが在る」
引き千切った耳を、永井の口の中に捩じ込んだ。
「喰え」
永井武に幸男は謂った。
幼い頃から自分を苦しめ続けた永井には百万回、殺しても殺し足りない怨みが在った。どんなに残酷な仕打ちをしても、赦す事が出来ない程の地獄を味わって来た。胸臆で増幅する殺意。此の程度の地獄では、生温い。狂った心には、生半可な悲鳴は届かない。断末魔の叫びですら、心は震えないだろう。
「どうした。喰えよ!」
永井の睾丸に、彫刻刀を突き附ける。押し寄せる欲求が、最高潮を迎え様としていた。
「お前に喰わされた犬の糞の味を、俺は覚えてるぞ。潰されたくなかったら、早く喰え!」
永井はゆっくりと、己の耳を咀嚼して飲み込んだ。既に倒錯する様な快感は、消え失せていた。弾切れそうな憎悪と、身を焼く程の殺意が心を満たして往く。もう、我慢の限界だった。
「こいつ、本当に喰いやがった!」
嘗て自分に向けられた言葉を、そっくり其のまま返してやる。
堪え切れなく為って、永井の睾丸を滅多刺しにした。刺して抉って、刺して抉ってを、繰り返して往く内に心を甘い感触が撫でて往くのが理解った。
睾丸が原型を留めなくなった頃には、永井はショック死していた。
幸男は嗤った。
狂ったように、嗤った。
否、疾うの昔に狂っていた。永井の所為で、幸男の精神状態は滅茶苦茶に狂わされていた。
気がつくと又、怪物の姿に変わってしまっている。
どうやら感情が最高潮に達すると、人間の姿を保つのが困難な様だ。
そろそろ残りの奴等も、殺しに行くとするか。
幸男は工場へと入って行った。
陸
ビルの屋上で、羅刹は横に為っている。アスファルトの堅く冷たい感触を背に受けながら、空を見上げていた。雲一つ無い群青の空が、広がっている。穏やかな日差しが、心地良く全身を照らしてくれている。
今朝、ぶつかった少女の事を考えていた。雲一つ無い様な、穢れの一片も識らない表情をしていた。何故だか知らないが、魅せられていた。心の片隅に、少女の姿がちら附いて離れない。
「可愛らしい女の子だったわね」
羅刹の心を見透かしたかの様に、タリムは茶化した。其の声は何処か、揶揄っている様にも思えた。別に怒りは無い。純粋に只、少女に興味が沸いていた。
「アイツから、不思議な力を感じた」
僅かにだが、何らかの力を感じた。戦騎騎士とは異なる力だ。此れ迄にも、異能の能力を操る人間を見た事は在ったが、少女は其の中でも異質だった。微弱な力しか感じられなかったが、羅刹の心は穏やかに落ち着いている。
「あいつは、何者だ?」
「解らないわ。其れより羅刹、例の魔徒はどうするつもり?」
気配から、魔徒が鬼神化したのは解っていた。其の結果、罪もない人が死ぬ事も、良く理解している。放っておけば、多くの犠牲者が生まれるだろう。
だが、何処の誰が死のうと関係ない。自分の仕事は、魔徒を狩るだけだ。
「昼は目立ち過ぎる」
誰かに見られたら、後が面倒だった。
遣るなら、夜が良い。
漆
幸男は困惑していた。
母を殺し、永井を殺した。其の結果、晴れやかな気分に為れていた。
其の後、工場の連中も鏖にした。殺せば殺す程に、己の殺意は大きくなって往く。
怨みを晴らせば晴らす程、憎しみは深くなって往く。
——殺せ。そうだ、もっと殺せ。
内なる声は、母を殺した時から聞こえてきた。
最初は、ほんの小さな声だった。其の声は、殺す度に大きくなっている。
ゆっくりと、ゆっくりと自分の中を何かが侵食していく感覚が在った。
己の意識とは別に、何者かが存在している。
其の存在が、自分を乗っ取ろうとしている。
——殺せ。本当に憎い奴は、誰だ?
中学校の卒業式の記憶が蘇る。自分の心を弄び、踏み躙った有紀が、誰よりも憎い。
——そうだ。殺せ。女を、殺せ。
有紀が憎い。
殺さなければ為らない。
幸男の目の前を、有紀とは似ても似つかない少女が歩いている。
幸男の心は既に、魔徒に支配されてしまっていた。
「有紀ぃぃぃー!」
幸男の叫びと、少女の悲鳴が交差する。
彫刻刀で全身を切り刻まれて、少女は殺された。
「違う。こいつは、有紀じゃないぃぃー!」
幸男の意識は、完全に崩壊していた。
捌
日が暮れる中を、刹那は家路についていた。
今朝の少年の姿が、不意に頭を過ぎる。不思議な少年だった。
彼は一体、何者なのだろうか。
幼い頃、刹那は不思議な場所に迷い込んだ。其の場所は、深い霧に包まれた森の中だ。幼いながらにも、危険な場所で在る事を理解していた。
刹那には、生まれつき危険を予期する能力が備わっている。大抵の場合は危機と遭遇する前に、無意識の内に回避していた。しかし其の時はどういう訳か、最も危険な場所に迷い込んでしまっていた。
気が付くと周りを、怪物達が取り囲んでいた。唸りを上げ、自分を見定める怪物達。彼等が何者なのかは、刹那には解らない。只、死を覚悟する事しか出来ない。
目を閉じて、死を迎え入れ様とした時で在る。
光の騎士が、自分を救ったのだ。
少年の雰囲気が、何処か光の騎士と似ている。
けれど、少年の目には深い闇が潜んでいる気がした。
彼は何者なのだろう。
刹那は心の中で、問い掛ける。
日が暮れる中を、歩いた。そしてふと、歩みを止めた。何故だか解らないが、何か良くない物が迫って来ている様な気がした。
危機が迫っている。瞬間的に、刹那は理解した。半年程前から、此の町には殺人鬼が出没する様に為った。一家惨殺事件を皮切りに、複数件の事件が起きている。被害者は何れも刹那と似た年の少女ばかりだった。
何かが直ぐ近くに居る。全身を迸る悪寒。突き抜ける恐怖が、冷やかに、刹那の脳裏に『死』を浮かび上がらせていた。
不意に、刹那は振り返っていた。
「有紀ぃぃー!」
奇形の顔の男が、彫刻刀を持って襲い掛かっていた。振り翳された彫刻刀を、刹那に目掛けて振り下ろす男。逃げられない事を、刹那は悟っていた。無慈悲に肌を焼く緊張感が、身体を強張らせて往く。
次いで鳴り響く金属音。黒い影が、刹那の視界を遮った。
今朝の少年が、二人の間を割って入っている。其の瞬間、不思議な事に、刹那は安堵していた。
少年が短剣で、男の彫刻刀を受ける。少年が男を蹴り衝けた。
後方へと飛ぶ男。
瞬く間の出来事だった為、何が起きたのかが理解できないでいた。けれど、少年が自分を護ってくれていると謂う事だけは、理解った。
「逃げろ!」
謂い放つ少年。
唖然とした様子の刹那。
構わず少年は、男との距離を詰める。
短剣を振り下ろし、男を斬った。
「小僧、矢張り戦騎騎士だったか!」
男の声は、不気味なまでに低かった。全身の肌を逆撫でする様な不快感が、刹那の心に纏わり附いていた。
肩を斬られたにも関わらず、男から血は流れなかった。
「為らば、殺してやる!」
男の全身が、膨れ上がる。どす黒く染まった皮膚を、昆虫の様な甲殻が覆う。
怪物の姿へと変貌する。其れは曾て見た化物と類似していた。
「タリム、喚装だ!」
少年の叫びと共に、光に包まれた鎧が出現する。純白の鎧には、鷹のレリーフが刻まれていた。
鎧を纏った少年の姿が、光の騎士と被り、刹那は驚愕する。
とても美しい其の鎧に、目を奪われていた。
刹那は一歩も、動けないでいた。
只々、騎士の姿に心を奪われている。
玖
「タリム、喚装だ!」
羅刹の体を、光輝く鎧が覆う。
鎧の名は、戦騎。生命の宿った鎧で在る。戦騎には其々、個別の色と獣が刻まれている。
羅刹が纏いしは、白鷹戦騎タリム。古より戦騎騎士と共に、幾千もの魔徒を狩った歴戦の戦騎で在る。
「羅刹、気を付けなさい。奴の能力が、まだ解らないわ」
人間が魔徒に憑かれ、人を殺すと鬼神化して怪物の姿となる。鬼神化すると軈て、憑かれた人格を支配する。
そして完全体と為った魔徒には、特殊な能力が宿る。タリムには、魔徒を感知する能力が備わっている為、魔徒の詳細や能力を探る事が出来た。
特定には、若干の時間が掛かった。
「小僧、咎人だろう?」
確かに、自分は咎人だった。生前に多くの罪を重ねて、咎人となった。閻魔大王の計らいがなければ、今頃は地獄の業火に焼かれている。
「だったら、何だ?」
無数の彫刻刀が、魔徒の周囲で宙を舞う。
「小僧も、我等と同じだと謂っているんだ!」
彫刻刀が、巨大化する。
「違う。貴様等と一緒にするな!」
「人を喰らう我等と、人を殺す咎人。何処が違うと謂うのだ?」
槍ほどのサイズの彫刻刀。真面に受ければ、危うかった。
其の内の一本が、羅刹を目掛けて飛来する。
大した速度ではない。羅刹は剣で薙ぎ払う。
「羅刹、残念な知らせよ」
剣が途端に重くなった。
「奴の能力は加重。彫刻刀に触れる度に、重力が増すわ」
次々に彫刻刀が、羅刹を襲う。其の全てを剣で薙ぎ、払い、受け止めた。
とてつもない重量となった剣を、羅刹は支えていた。余りの重みで、アスファルトの足場が割れている。戦騎を纏っていなければ、とてもではないが持ち切れない。
戦騎を纏うには、タイムリミットが在った。66、6秒。此れは、地獄の獣が持つ数字で在る。
「絶体絶命と謂う奴だな、小僧!」
駄目押しとでも謂う様に、一際に大きな彫刻刀が迫り来る。今ならまだ、ぎりぎりで躱す事が出来た。
しかし、羅刹は避けようとはしない。
「羅刹、避けて!」
戦騎騎士の短剣は、戦騎を纏うのと同時に剣へと姿を変える。そして羅刹の持つ剣は、更に姿を変える。
大剣で巨大な彫刻刀を受ける。
持ち切れず、大剣を地面に垂らす羅刹。
大剣の重量に依る衝撃で、アスファルトが砕け散る。
「どうして、避けないのよ?」
羅刹の実力なら、全ての彫刻刀を躱せていた。
なのに、其の全てを剣で受け流していた。
「俺が避けたら、アイツが死ぬ」
「羅刹、貴方……」
後ろで佇む少女を護っていた。
羅刹は此れまで、人を護ろうともしなかった。其れなのに、羅刹は少女を護ろうとしている。
「惚れたの?」
「黙れ!」
解らなかった。
何故、自分が少女を護りたいのかが、解らなかった。タリムの言う通り、少女に惚れたのかと聞かれれば、其れも解らない。只、少女を護らなければいけないと思った。
其れだけだった。それに、惚れると謂う感覚が解らない。今迄、自分は多くの人間を恨んで生きてきた。色恋の沙汰とは、無縁な世界に其の身を置いてきた。だが少女の存在が、自分の中で違和感を生み出している事は、間違いなかった。其れが何なのかは解らないが、不思議と穏やかな気持ちにさせられていたのだ。
だからこそ、死なせたくないと感じたのかも知れない。其れが、恋心かどうかは解らない。
今は只、目の前の敵に集中しなければ為らない。状況は芳しくはなかった。秋宵の月に照らし出された表情には、焦りは微塵も在りはしなかった。羅刹の眼には只、鋭い暉だけが浮かんでいた。
大剣を引き摺りながら、羅刹は走った。助走の勢いを其のまま利用して、羅刹は体を捻って回転した。助走の勢いと遠心力に依って、大剣は大きく宙を旋回する。
だが其の動きは、余りにも大振り過ぎた。
大剣の斬撃を、魔徒は躱す。
「何故、咎人の小僧が戦騎騎士になった?」
巨大な彫刻刀を構えて、魔徒は問い掛ける。
タイムリミットが、近付いていた。次の一撃で決めなければ、後がなかった。
羅刹は大剣を、もう一つの形態へと変化させた。納刀して、居合いの構えを取る。今の形態なら、大剣の時よりも重量は軽くなる。
「咎人が、正義の味方気取りか?」
「違う。俺は、悪を斬る一振りの刀だ!」
刀に依る斬撃が、彫刻刀ごと魔徒を捉える。
魔徒の体を断って、羅刹は鎧の喚装を解いた。
「良くやったわ、羅刹!」
初めて羅刹は、人を護った。
タリムには、其の事が嬉しかったのだろう。全く、うっとおしい目付け役だ。いつも、人を護れ。騎士の使命を全うしろと、喧しくタリムは謂う。
灰になった魔徒に歩み寄り、勾玉を翳す。
魔徒の魂を放っておくと、他の人間に憑いてしまう。人間の闇は底知れない。幾らでも、魔徒の依代は見付かる。
だから、勾玉に封じ籠めなければならない。
「あの……助けてくれて、ありがとう」
応えずに、羅刹は少女を睨み付ける。
「逃げろと謂った筈だ」
「ごめんなさい……」
俯く少女。
矢張り、解らなかった。
どうして少女を助けたのか、羅刹には解らなかった。
「私は刹那。(御法院刹那。貴方は?」
「羅刹だ」
そう言い放って羅刹は、闇の中へと消えて入った。