黒山羊
1.
大平原の軍は、四千増えるという話だった。それだけ、兵站は上手く繋がっているのだろう。対してこちらは上手くいっておらず、三万の動員でやっとといったところだった。
大王直属の将軍が、そろそろ来るらしい。そういう情報も、ヘルブレヒトは入手していた。向こうも本腰を入れてきたということだろう。
ひとつ妨害に出て、相手にも苦しい思いをしてもらわなくてはなるまいといったところだった。そのあたりを高稜峻とも話をした。勝手を知っているヘルブレヒト自身が出るべきとも。
マイザリウスの戦の目的については、高稜峻自ら確認してもらうことにした。ヘルブレヒトとしては、到底理解の及ばない話だったからだ。
ヴァーヌ、というより、それ以前から続く信仰に関する話だった。それはもはや、マイザリウスや高稜峻のような長い血でなければわからないことだ。だから、ヘルブレヒトとしては、理解することを放棄し、ただ盲信するよりか選択肢はなかった。
あるいは原罪とでもいうべき使命。凍った背筋で、それしか思い浮かばなかった。
五百程度を伴い、兵站の妨害に向かうことにした。副将は、高稜峻からヨーセンを借りてきている。軍監ではなく将としての参戦とあって、ヨーセンは張り切っていた。
今年の冬は寒くなる。いくらか多くでも羊を散らして、腹を空かせてもらわなくてはならない。
バルハドルに代わって指揮をとっているのは、トゥルム・アフドゥという将軍だそうだ。瑞国攻略にて功績を上げたらしく、その勢力を拡大しているという。
バルハドルは人の下であれ如才なく立ち回るだろうから、内部不破は期待できないかもしれない。その下、デドゥユムやエイリン・ツォルホンなどとぶつからせてどうか、といったところか。
いずれにしろ、今の酒姫の枚数ではどうにもならないだろう。
集積拠点ひとつ、見つけた。おそらくは支流。まだ小さいが、ここひとつでも焼ければ、動揺は煽れる。
「よし。まずはヨーセンからぶつかれ。その後、私の百が行く」
「承った」
それで、まずはヨーセンの軽騎二百が動いた。
ヘルブレヒトの軍は、大平原と戦うことを前提として構築されている。中でも、長らく赤羽氏とは敵と味方をやっていたため、騎兵についてはほとんど大平原のそれに準じていると言ってもいい。ヨーセンに任せた軽騎には、馬上での短弓を使えるものも多かった。
集積拠点は、牧と糧秣庫で構築されている。ここに、軽騎たちが火矢を射かけていく。早くも牧の馬たちが混乱状態に陥っているようだった。
「閣下、北から増援。黒に青の旗」
「知らん紋章だな。もしかしたら本軍かもしれん」
「如何なされます?」
「三百すべてで当たる。ヨーセンはこのまま続けよ。無理はさせるな。難しくなったら散開し、こちらに合流するように」
そうやって、馬に鞭をくれた。
「旗を」
おう、と声が上がる。
赤地に黒の山羊頭。イヴィシャの黒山羊。中心の百騎は、それに倣うように、黒い具足でまとめていた。ヘルブレヒトの面頬も、山羊の頭骨を模したものである。
馬蹄。嘶き。大地が揺れる。眼前、およそ八百。その半分が歩兵だった。
勢いそのままにぶつかった。塞がるものは少なかった。両手にひと振りずつを握り、左右のものを斬り倒していく。
反対側に抜け出た。一度固まる。こちらの被害はなかった。
救援の軍ではない。たまたま近くにいたものたちだろう。となれば、とっとと頭を叩いて撤収したい。
見えた。黒に青の旗。
「百のみで行く」
それだけ、告げた。
踵をくれる。それで、動く。馬だけでなく、黒い百が。大平原との争いで磨き上げた漆黒の軍容。
少しもしないうちに、敵陣からは悲鳴が上がりはじめた。
右から槍。いなしながら、左の剣で裂き斬る。正面。すれ違いざまに、首。降る矢を剣ではたき落としながら進む。血の駆け巡りが、指先を熱く焦げ付かせる。
一対の剣。槍のごとく作るようにと、鍛冶に言って作らせたもの。全体として、重く鈍い。切っ先のみを鋭くしていた。
鐙に、最大の力をくわえた。右腕を突き出す。
首ひとつ。高く、宙に飛んでいた。
「外したか」
離れながら、舌打ちをしていた。
将の隣りにいたものが、身を挺したようだった。
ヨーセンが合流したらしい。となれば、そろそろ頃合いだった。
喇叭を吹かせる。それで、ひとかたまりになった。
「閣下、また鐙が壊れておりますな」
並んだヨーセンが呆れたような声を上げた。
「馬もじゃ。戻ったら牧士に診てもらわねば」
「お突きは馬上ではお出しなされますなと、申しておりますのに」
「体が選ぶのだから、仕方あるまい」
剣を収め、面頬を上げながら、それでもため息しか出なかった。
剣の腕は、磨きに磨いた。それに則った体になったがために、具足や馬具、そして馬にはいささか苦労していた。まして西の剣は突きが主軸である。鐙も馬も、ヘルブレヒトの脚力にはついてこれないのだ。特に馬は生き物であるので、出会いがすべて。戦場の中で駄目にするにしても、鞍上の足に負けるというのも、馬にしてみれば可哀想な話になるのだし。
「その、馬なのですが」
帰りの道中、そういう話の中で、ゾンダーハが近づいてきた。
「もしよろしければ一頭、見ていただきたく」
「輓馬ではなかろうな」
「ちゃんと、騎馬の馬です。平原の馬。艶やかな、漆黒の毛並みにございます」
言われた言葉に、ヘルブレヒトは、ふうん、と鼻を鳴らすぐらいに留めた。軍馬は見目でなく、骨で見なければ何の意味もない。
本陣に戻ったあたりで、牧士と一頭、待っていた。確かに見目のいい馬だった。
牧士の隣。見覚えのある、細い目の男だった。
「バブガイ殿ではござらぬか」
驚いていた。赤羽氏の家令、バブガイである。
「敵陣にひとり乗り込んでくるとは、お主も実に豪胆よのう」
「はは。悍馬ひとっつ売り先ができたと思えば、よもや閣下のところだとは思いもしませなんだ。いい笑い話でございます」
「本当かね?私のところだと踏んで、高値で売りに来たのではなかろうな?」
「滅相もござらん。ささ、どうぞご覧くださいませ」
呵々と笑いながら、バブガイは身を引いた。
黒鹿毛。体はしっかりと大きい。骨も悪くない。何より肉がよかった。がっしりとして、それでいて触るとしなやかで、柔らかい。
ひとまずの馬具を乗せてみることにした。あえて重装にして、それでも走れるかを見てみたかった。
気性は荒い。しかし、御しきれないほどではない。手綱なしでも動かせる。
「側対歩か」
そこに気付いた。バブガイが悪そうな顔で笑っている。
「生まれつき、そうなのです」
「襲歩はできるのかね?」
「勿論。しかし、これは側対歩のままでも最高速を出せますぞ」
ほう、と思った。
踵をくれる。衝撃は少ない。ほとんど揺れのない状態で、かなりの速度が出た。
何しろ安定している。これなら馬上での突きにも耐えられるかもしれない。今までなら襲歩の呼吸を見ながらで放っていたが、これはそれを気にする必要もない。
「気に入った。言い値で買おう」
「ありがたき幸せ」
「不思議ですな。車輪のごとく、足が回っておりました」
「これがな、ヨーセン。上下にはまったく揺れないのだよ。左右のぶれはいくらかあるが、本当に馬車に乗っているようだ」
言って、もうひと駆け。バブガイが自身の馬で並んでくる。
「トゥルム・アフドゥというひとは」
本営から離れたところで、バブガイに寄った。
「黒に青じゃな?」
「流石はイヴィシャさまにございます」
「大した男ではない。赤羽のバルハドルが傅くほどのものではな」
「然れども、あれも御旗にござりますれば」
こともなげに答えてみせた。
バブガイ。先王イルウェスの頃からの付き合いであるが、食えないところが強かった。今回も何かしら裏があって来ているとしか思えない。
「我らが兵站を巡って、もうひと合戦、あるかと思います。そこでトゥルム・アフドゥ殿は、我らが勢力を削ってくるなり、取り込もうとするなりをするでしょうな」
「バルハドル殿は、如何する?」
「殿は英傑にござりますれば、小手先の策ならば真正面から突き破りましょう。それでトゥルム・アフドゥ殿はますます躍起になるかと」
バブガイが足を早めた。腿で馬体を締めるだけで、すぐに追いつけた。
「あれは奸物ですぞ、閣下。それも、どこにいても毒を撒く類の」
「ほう」
「大王は何故に、そんな男をここに送ったのか。それは我々だけでなく、閣下にも関わってくることかと」
「こちらに寝返るか。それも、お主らにとって最悪の時宜に」
「左様、左様」
悪い笑みが飛んできた。それで、こちらも悪い笑みを返した。
「バブガイ殿」
「はっ」
「近く、ロクを向かわす。酒でも振る舞ってやってくれ」
「かしこまりました」
「それでは、戻ろうか」
そうやって、馬を返した。
大王の縁者に取り入ったか。あるいは、大王をだまくらかしているか。力量は不足なしとして、余計なものを備えているとなれば、それを大王は看破したうえで、ここに寄越したはずだ。
あるいは、既にマイザリウスによって工作が済んでいるか。そう考えた方が、諸々が自然かもしれない。
戻れば、ゾンダーハが嬉しそうな顔で待っていた。馬を気に入ったのが顔に出ていたのだろうか。
「すごい馬です。私はこれほどのものを見たことがない」
「流石に、あのゼルグレイには劣るかな。それでもいい馬だ。オライオンと名を付けようか」
「よき名です。私は、嬉しいです。閣下のお役に立てたのですから」
「それと、ゾンダーハ」
言いながら。
轟音。それで、ゾンダーハの顔が青くなった。
「あとは鐙じゃ」
引き千切れ、ひしゃげた鐙を投げつけながら、ヘルブレヒトは笑った。
オライオンは、骨も肉も問題なかった。
2.
集積地ひとつ、焼かれたという。それもトゥルム・アフドゥが近くにいたときだそうだ。
着任早々、災難だな。そう思いつつ、いい刺激になっただろうと、エイリン・ツォルホンはほくそ笑んでいた。自分自身、直接やり合ったことはなく、人聞きでしかその恐ろしさを知らないわけだが、それでもあのイヴィシャの黒山羊である。瑞国攻略で功績を立てたと浮かれている御仁には、いい薬になっただろうさ。
襲われた集積地とは、案外近いところを任されていた。報告が来た時点で、将ひとりは欲しいということで伝令を出したところ、ドラーンとシドゥルグが来てくれた。
「おう、若君殿。今回はここが最前線だぞ」
「今回も、甘えさせていただきます」
「おっさんに甘えるのが板についてきたな。ドラーンもいるから、首級には困らんだろうよ」
「何を仰る。俺もまだ至らぬ若造です。俺もエイリン・ツォルホン殿に甘えたく思います」
「むさい男が冗談を言うんじゃないよ、まったく」
三人、早速笑ってはじまった。
「親父が一頭、馬を売ったらしくてですね。結構なじゃじゃ馬らしかったのですが、上手く乗りこなしたようです」
「話題に出したとあらば、さぞ不都合があるのだな?」
「ヘルブレヒト・イヴィシャさまといえば馬上の突きですが、あまりに脚の力が強すぎるものですから、鐙を踏み壊し、馬の脚を痺れさせるほどなのです。それがあの黒馬め、その蹴りを食らって、平然としていたそうですよ」
「ほお。聞いていたが、首を飛ばすほどの突きだろう?つまりは本領発揮というわけか」
「父上は、赤地に黒の山羊頭を見たら逃げろ、と申しておりました。ご領主さまは、そこまでのおひとなのですね」
「そこまでのひとらしいぜ。そして今回、その逃げ場はない」
言った言葉に、シドゥルグの顔は引き締まった。
「はは。籠城戦だもの。逃げたら負けだ」
「考えが甘うございました」
「逃げるのは、粘りに粘って、へとへとになってからだ。なに。立て籠もっていれば、得意の突きも出せはしまい」
「流石に壁に穴は空けられませんでしょうしね」
ドラーンは豪快に声を上げて笑っていた。父親に似て豪胆である。
斥候は都度、出していた。すぐ側にある川を伝って下ってくるということはないだろうが、そちらの方も念を入れて見るようにはしている。
オルリアントには密偵は入れられないようだったが、その他の地域には、比較的容易に入れることができるようだった。そこからの情報を突き合わせて、オルリアントやヴァルハリア本陣の情報を作っていくということは可能だった。
ヴァルハリアは兵站が上手くいっていない。十五万を五年動かすという計画に対し、現状で三万から五万という話だった。
トゥルム・アフドゥの話では、平原の兵は二十万を予定しているらしい。それであれば、数の上でも練度の上でもこちらが優勢だ。都度の都市攻略になるだろうから、兵站もある程度無茶がきく。
こちらの本軍が到着すれば、即座に決着が付く。それをさせないための戦を、向こうはしてくるだろう。そのひとつが、こういった兵站の妨害である。
「俺がヴァルハリアの王なら」
軍議の席、馬乳酒を飲みながら、エイリン・ツォルホンは思いついたことを言ってみることにした。
「他国を戦争に巻き込む」
「エルトゥールルですか」
「それだけではない。北のアルケンヤール、東の瑞。そうやって、全方向から囲い込む。俺たち平原の遊牧の民は、どこかひとつに拠点を持っているわけではないから、それが一番効率がいい、というより、そうするより他はない」
シドゥルグが喉を鳴らした。
「お互い、滅びまで戦うということですか」
「こちらはもとより利のない戦だ。向こうもきっとそうだろう。ただひたすら、人を殺すだけの戦になる」
「それでもいずれ、どちらかの長が戦場に出るとなれば、きっと」
「確かに、それが決着になりうるかもな。となれば、先に動くのは大王だろう」
「つまりは、大王を戦場に引きずり出すために?」
「そういうこった。そのために、何かをしたいとなると」
言って、思いついたことをひとつ。
「バルハドルだな」
「父上が、何か?」
「あれは今、前線の将というより、ひとつの国の長のようなものだ。それが不測の事態で死んだとならば、大王自らが前線に出ざるを得なくなるだろう。いくら軍備が整っていない状況であれ、だ」
馬乳酒を煽った。それで、大体が見えた。
「決戦を早める。向こうが十五万を揃えられなくても、こちらの二十万が揃う前に大王を引きずり出しさえすれば、勝ちの目は見えてくる」
「馬鹿馬鹿しい。仮定に過ぎぬ」
「そうだ。だからこそだ。真相がわかるまでは、すべての予測は仮定に過ぎん。だからこそ、あらゆる想定をし、多くの仮定を立てていくべきなのだ」
バトムンフという、トゥルム・アフドゥから貸し出された将のひとり。その割って入った声を、エイリン・ツォルホンは嗜めるようにして遮った。
「バブガイとデドゥユムには伝えておく。バルハドルを決してひとりにするな、と。俺の考え以外にも、大王が動くようなことを想定するべしとな」
それだけ、あえて強く伝えた。
拠点の周りには、堀を一段、多く作った。攻められた際、攻城兵器を寄せ付けないためもそうだったが、騎兵を寄せないためというのが強い。それだけ、西の槍騎突撃というのは、何よりの威力がある。
まして音に聞こえたヘルブレヒトが出てきているのである。用心するに越したことはない。
三百が川沿いに、こちらに向かってきているということが入ってきた。
「赤地に黒の山羊」
伝令の叫びに、軍営に緊張が走った。
「伝令以外は一切を外に出すな。火が来てもいいよう、水を多めに用意しておけ」
「エイリン・ツォルホン殿。打って出ねば倒せんぞ」
「倒せるものがいれば、既に死んでいる男だ」
それでもバトムンフは止まらなかった。
二百ほどを伴い、バトムンフが外へ出てしまった。我軍の約半数である。無駄に死なせるわけには行かない。
「俺とドラーンで追う。若君殿は防衛を」
「わかりました。ご無事で」
シドゥルグと別れて、急いで馬に跨った。
五里。すでにぶつかっている。数もそうだが、練度で押されていた。
「バトムンフを下がらせろ。ドラーン、なんとかして前へ」
「おうさ。エイリン・ツォルホン殿は、もうお下がりあれ」
「言われずともだ。旗も顔も見えた。間違いなく、イヴィシャの黒山羊だ」
前に出てきた数、およそ百。馬の毛色は様々だが、騎士の具足はすべて黒い。そしてその先頭が、二刀の黒山羊である。それに挑みがかったものは、触れることすら許されずに斬り伏せられていた。
イヴィシャの黒山羊。時折、聞いたようなこともない音が鳴る。それが鳴るたび、人の体が宙に舞っていた。
何が起きているかは、考えたくもなかった。
少しして、ドラーンが男ひとり、抱えて戻ってきた。バトムンフである。真っ青な顔をしていた。
「申し訳ござらん、エイリン・ツォルホン殿。よもやあれほどとは」
「そういうのは後だ。とにかく逃げるぞ」
ドラーンが空馬にその身体を放り投げ、弓を構えた。威力であればバルハドルに譲るが、弦を右でも左でも引くことができるのは、誰にも真似できないことである。
来る。黒山羊。それとドラーンとの間に、三騎が割って入った。
響いたのは、正しく雷鳴だった。
「退けい」
腹から叫んでいた。
「何だ、あれは。あれが突きだというのか」
「俺もはじめて見ました。人三人、貫くでもなく吹き飛ばすとは」
「鐙は、あれは鎖か?まったく冗談のようなものが出てきたな」
「ええい、くそ親父。あの黒馬、売るべきではなかった。足くせがばっちり噛み合ってやがる」
ドラーンとふたり、汗塗れの顔で、ひたすらに馬の首を押していた。
腰を抜かしたバトムンフを引っ張りながら、それでも何とか拠点まで戻ってこれた。火矢がかけられていたが、シドゥルグが走り回っており、火が大きくなることはなかった。
「輜重は連れていなかった。あくまで妨害だ。夜まで守れば帰るはずだ」
「とにかく矢を降らせます。それで近寄らせない」
「よしきた、ドラーン。すまんが死守だ。負傷者は一箇所に。重症者は、俺がとどめを刺す」
「そんな。エイリン・ツォルホン殿。それだけは」
「シドゥルグ」
シドゥルグが青い顔で掴みかかってきた。それに対し、エイリン・ツォルホンはその胸ぐらを掴み返した。
「いいか、シドゥルグ。これが戦だ。重症者ひとりにつき、三人必要だ。それが何人いる?数えてみろ。ほんとうは、こうなった原因であるバトムンフがやるべきことだが、俺はそこまでは求めん。だから俺がやる」
シドゥルグの体は、震えていた。それを感じて、エイリン・ツォルホンは、シドゥルグの身体を投げるようにした。
「エイリン・ツォルホン殿」
背中に、声を受けた。
「私も、やります」
振り向いた。男が立っていた。目に涙を浮かべていた。
「すまんな」
背を叩いた。それで、シドゥルグからこぼれ落ちた。
出撃二百のうち、未帰還四十、負傷三十。重症は十ほど。それをシドゥルグとふたり、眠らせた。
軍議の場。骸ひとつ、持ってこられた。腹が大きくへこんでおり、口から真っ赤なものを吐き出していた。
「私は見た。突き出した剣が刺さる前に吹き飛ぶのだ。そうしてあの音が鳴る」
バトムンフが震えながら言っていた。
ざわめきはまったく収まらなかった。皆、ただひたすら壊れたように、イヴィシャの黒山羊と呟くだけである。
櫓に昇る。ドラーンたちが、別の櫓から矢を射掛けていた。ヘルブレヒトの軍勢は、遠巻きになるより他ない、という様子だった。
次の日の朝頃まで、その旗はそこにいた。
明け方、ヘルブレヒトが退いたのを確認してから、兵たちを解いた。誰もがその場にへたり込んでいた。
「赤い馬、赤い馬です」
めしを取らせ終わったあたり、伝令が駆け込んできた。その声に、おお、と安堵の声が上がった。
五十。先頭は赤い馬だった。
「おう、生きてたな」
ゼルグレイの背から、バルハドルが飛び降りてきた。かたちばかりの拝礼をした後、エイリン・ツォルホンはバルハドルに並んだ。
「急いで来てくれたみたいだ」
「お前も息子もいる。心配したぞ。イヴィシャ殿が来たというではないか」
「ドラーンが張り切ってくれた。それでなんとかだ。とんでもないじじいだな、ありゃあ」
疲れからか、笑いしか出なかった。バルハドルはそれを余裕と取ったようだった。
シドゥルグ。顔は晴れなかった。挨拶もそこそこに、死体を埋めたところでぼうっとしていた。
「人を殺させた。重症者のとどめを刺させた」
「そうか。あれにも、そういうときが来たのか」
バルハドルはそう言って、シドゥルグの横に並んだ。
しばらく、何かを話していた。そうして不意に、その頬を引っ叩いた。
それで、シドゥルグのまとっていた暗いものもなくなった。
「ひっでえ親父」
「言うなよ。俺はこういうやり方しか知らんのだ」
燃え盛る目のままで、バルハドルは今度、バトムンフのもとに向かった。
凄い音がした。バトムンフの体が、人の十人分ほど吹っ飛んでいった。
「ひっでえやつ」
「殺さないだけましだと思ってくれ」
バルハドルは、ただ不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。
3.
このままヘルブレヒトに自由に動かれては、兵の心身が持たない。どこかで一度、ヘルブレヒトとぶつかる必要がある。黙ってやられてばかりでないことを見せなくては。
拠点のひとつに、空の輜重を入れていくことにした。他の拠点からも密かに人を集め、七百程度にはなりそうだった。
「やりあっているところに、本陣から八百程度を動かそう。数だけだ。それだけ動かせる、というところを見せておく」
「相手はおよそ五百。それでも、あのイヴィシャ殿です。それぐらい動員できたほうがいい」
「狼煙ひとつ、上げてくれ。それで動かす」
トゥルム・アフドゥが、それだけ言った。バルハドルは拝礼し、その場を離れた。
「あいつ、大丈夫かね?」
着いてきていたエイリン・ツォルホンが怪訝そうに言ってきた。
「どこか浮ついているというか、現状を理解している様子が見えん。イヴィシャ殿に直接やられておきながら、集積拠点の防備を強化するなどといったことを一切やっていない」
「まあ、確かに」
「ただの愚物か。あるいは別の意図があるのか」
「別の意図とは?」
「わからん。ただ、尋常の指揮官なら、もう少し危機感を持っているはずだ。肝が太いとは違うしな」
「今はまず、眼の前のことに集中しよう、エイリン・ツォルホン。考えても結論の出ないことを考えることは、時間の浪費でしかない」
言わんとしていることは理解しているうえで、バルハドルはそうやって話を区切った。
トゥルム・アフドゥ。出会ったときから、何かがおかしいのは感じていた。それが具体的に何か、というところまでは、たどり着けていない。とにかく妙に阿り、媚びへつらうようなところがあった。
言う通りの愚物か。それとも下げた頭で舌を出しているか。どちらにせよ、そんな男を大王が前線に出すとは考えにくい。
空の輜重を入れていた拠点。四百程の軍勢が、二刻ほどの距離に現れたという。
「狼煙を。ドラーンを前に。エイリン・ツォルホンは拠点の防衛へ」
バルハドルはゼルグレイに跨った。
隊列を魚鱗に変えながら進んでいく。接敵次第、一気に突き破って離れるということをして、できるだけ損耗を抑えつつ、相手を押していきたかった。
守れば負ける。時間をかければかけるほどに。
「旗が見えんな」
一里先。数、四百。そのままぶつかりに行こうといったところで、それに気付いた。デドゥユムもそれに気付いたようだ。
いやな予感がする。
「狼煙は上げさせるな」
伝令にそれだけ告げ、馬脚を早めた。
ぶつかる。練度は高い。そう簡単に突っ切らせてはくれない。一度下がり、もう一度殴りかかる。表面が削れたところに、デドゥユムを飛び込ませた。
黒の百がいない。
「退くぞっ」
爆ぜ矢、ひとつ。
一気に翻った。駆ける。ゼルグレイの脚が早まる。バルハドルの一騎だけが、前に出ていく。
見えた。拠点。襲われている。砲に大弩まで。エイリン・ツォルホン。大丈夫か。
狼煙が、上がっている。
「赤地に黒の山羊」
聞こえた刹那、横から、何かがぶつかってきた。崩れながらも、駆け続けていく。
旗。黒の百。イヴィシャの、黒山羊。
「他のものには触れさせるなっ」
吠えながら馬首を返した。五十ほどが集まって固まった。鏑矢。これで、惹きつける。
黒山羊が翻る。正面。のそりと、動きはじめる。
一枚目。馬上槍。槍騎突撃が来る。ぶつかれば、それだけで終わる。やり過ごすこともできない。
爆ぜ矢ふたつ。ぐらついたところに、錐状になった陣形で突っ込んだ。
その先に、山羊頭の兜。ヘルブレヒト。
抜く。間に合った。一合目。ひたすらに重い。二合目。これも凌いだ。
三合目。轟音が、響く。何かが宙を舞っていた。
駆け抜ける。右腕が痺れていた。剣が、鍔の先から綺麗に無くなっていた。
痺れる指で、爆ぜ矢を番えた。なんとか放つ。それで、間合いを離した。
「ご無事か、バルハドル殿」
「ああ、なんとかな。デドゥユムは先に戻ってくれ。エイリン・ツォルホンが危ない」
「しかし、このままでは」
「大丈夫だ」
矢を番えながら。
「剣が折れた。あとは弓だけ。それなら、俺の本領だ」
それで、デドゥユムの目に火が灯った。
ゼルグレイの腹を、軽く蹴る。五十。それで動く。付かず離れずで、矢を降らせていく。槍騎突撃に気をつけつつ、間合いを計っていく。たまに爆ぜ矢を混ぜる。人はそろそろ、閃光と爆音に慣れるだろう。しかし、馬はそうそう慣れない。
十騎ほどが前に出た。山羊兜。矢の雨をものともせず、突っ込んでくる。
雷鳴。それでふたり、馬から落ちた。
反転して、矢を番える。すべて、ヘルブレヒト狙いだ。それで、向こうもこちらを標的にしてくる。
「赤羽のバルハドルはここだぞ、イヴィシャ殿」
叫んでいた。馳せ違う。剣。突きの構え。来るか。
途端、ヘルブレヒトの体勢が崩れた。剣。ない。どうする。
咆哮、ひとつ。体はゼルグレイから離れ、ヘルブレヒトに飛びついていた。
視界が回る。体のあちこちに、痛みが走る。
地面に、放り投げられていた。息が荒い。空しか見えない。
「無茶をするのう、勇者バルハドル」
視界の中、何かが差し出された。人の手。
ヘルブレヒトだった。具足の面頰を上げ、覗き込んできた。
「此度はこれまでじゃ。お主の矢も、私の鐙も品切れだ」
「矢は、まだある」
「強がるでない。痺れた腕では、矢を番えるので精一杯だろうに」
「そうでもない」
倒れたまま。
右腕。矢筒から一本、抜いた。勢いで、脇腹。貫く。
板金鎧には、突き立ちもしなかった。
「強がるなと申した」
「ああ。そうするべきだな」
差し出された、その手を取った。
立ち上がる。左足に痛み。落ちた時にひねったか。それでも、立てる。
ゼルグレイが駆け寄ってきてくれた。ひと言詫びて、その背に乗った。
ヘルブレヒトの馬。右の鐙が、引き千切れていた。
「情報が漏れていた」
馬上のヘルブレヒト。兜を取りながら。
「本陣の八百は来ない」
「左様か」
「然れども、我らも無理をした。できるのはここまでだ。次の戦場で会おう」
「息災であれ。黒山羊イヴィシャ殿」
「互いにな」
そうやって、ヘルブレヒトは馬を返していった。
しばらく、ぼうっとしていた。土埃に塗れた体に、風が心地よかった。
拠点を襲っていた勢力も、そのうちに下がっていった。エイリン・ツォルホンやドラーンも、無事なようだった。
「いやはや、イヴィシャの黒山羊ですな。あれはどうしようもない。戻るふりをして、遠巻きに見ておりましたが、バルハドル殿も無茶をなさる」
唖然といった様子で、デドゥユムが出迎えてくれた。具足には矢が何本も突き立っているが、肉には届いていないようだった。
「損害は?」
「ものの損失はない。人は、百五十程度やられた。負傷もかなりだ」
「お前の片目も、無事なようだ」
「人の後ろでがなり立てるぐらいしか、やることがない故な」
そうやって、エイリン・ツォルホンと拳を突き合わせた。
兵を見て回っているうち、軍勢ひとつ、近づいてきた。黒に青の旗である。
バルハドルはそれを立ったまま、拝礼もせずに迎えた。
「情報が漏れていたな」
馬から降り、心配そうな顔で駆け寄ってきたトゥルム・アフドゥに対し、まずはそれを突きつけた。
「何を根拠に」
「イヴィシャ殿から聞いた。狼煙を上げても、八百は来ないともな」
「遅れただけだ。私は何も」
「赤羽の一族は」
トゥルム・アフドゥの腰に下げていた剣を、バルハドルは引き抜いた。それをトゥルム・アフドゥの喉元に突きつける。
「我ら赤羽の一族は大王の軍勢。お前の軍勢ではない。それを違えるようなら、ここで死ね」
「なんと、勇者バルハドル」
「俺を利用できると思ったか、トゥルム・アフドゥ。あるいは他の者どもを。そう簡単には行くまいぞ。これ以上侮るようなら、お前の首を手土産に、オルリアントに降ってやってもいいのだぞ」
赤くなったトゥルム・アフドゥの顔の前で、剣を煌めかせさせた。それで、伸ばしていた顎髭が短くなった。トゥルム・アフドゥの顔が見る間に青くなる。
「二度はない。覚えておけ」
剣を地に突きたて、踵を返した。
トゥルム・アフドゥが何かしらの企みをしていることは、肌で感じていたことだった。おそらくは赤羽の力を削ぐなり、取り込むなりをしたかったのだろう。
そううまくは行くまいぞ、奸物風情め。俺は勇者。赤羽のバルハドルなりせば。
冬が過ぎ、春が来た。羊の様子を見るために、一度軍営を解いた。
「ここ一年、張り詰めたものが続いておりましたが、皆さま大事ないようで何よりでした」
ツェレンの家帳で、のんびりとしていた。シドゥルグの妻であるセオラも、足繁く通っているようだった。
「お前を放りだして、遠くに行ってしまっていた。何の土産もなしに帰ってきてしまって、申し訳がない」
「いいのですよ、殿とシドゥルグが無事であることが、何よりの土産でございます」
「セオラも、ここには慣れたかね?」
「はい。母さまたち皆、優しくしてくださいます」
「よかった。トアやアルミアとともに、ツェレンを支えてやっておくれ」
言うと、セオラは恥ずかしそうに頬を赤らめた。まだまだ年相応の子どもである。
外がいくらか騒がしい。おそらくトアがシドゥルグに稽古をつけているのだろう。並の角力より力が強く、その使い方が上手いのである。
ツェレンの調子が良さそうなので、セオラも伴って外に出てみた。果たしてそこには、トアに投げ飛ばされたシドゥルグが横たわっていた。
「嫁御の前で情けないぞ、シドゥルグ」
「ああくそ。トア母さま、もう一番」
「若さまは気が逸っておられます。冷静に、気の昂ぶりを抑えねば、足元がうわっつきますわよ」
「セオラの前じゃ。逸らずにはいられません」
そうやって、また投げ飛ばされる。セオラも口元を軽く押さえながら笑っていた。
「トアちゃんも張り切ってるねえ」
「お前も来ていたか、エイリン・ツォルホン」
「暇を余していてね。久しぶりにお前のかみさんたちとも顔をあわせたかった。シドゥルグのかみさんにもね」
「若君殿とは、もう呼ばんのだな」
「もう、大人だもの。俺とお前で、大人にした」
そうやって、美貌をはにかませた。
血気に逸ったバトムンフの部下たちを、楽にさせた。それを、シドゥルグは引きずっていた。
何を語るべきかは、わからなかった。人の死。乗り越えなくても、折り合いをつけるべきものを。
父がそうしたように、バルハドルはただ、その頬を張った。それで、シドゥルグの目は蘇った。
父は、あまり好いていなかった。その父と同じかたちでしか息子を導けないことを、バルハドルは悔いていた。きっと優しさだとか、そういったもので導くべきものだろうが、バルハドルにはそれをしてやるほどの度量がなかった。
あるいは赤羽の長の血ではなく、ただの遊牧の民であれば、より幸せなかたちで過ごせたのかもしれない。そう思うことは、少なくなかった。
少し離れたところで、わいわいと賑やかな声が上がっている。バブガイと肥った女。大鍋を抱えてやってきた。
「お米をいただいたので、炊き込みごはんを作ってみましたわ」
「おう、そりゃあいいね。さあ、皆。召し上がってくれ。かみさんの自慢の逸品なのだよ」
「これはこれは、ありがたい。セオラ、アルミアを呼んできてくれ。皆で食べよう」
「かしこまりました、殿。本当に美味しそうですわ」
セオラが嬉しそうな顔で、少し離れた家帳までかけていった。少しして現れた、子どもたちを連れたアルミアが、嬉しそうな声を上げた。
エイリン・ツォルホンは、肥った女が好きだった。好みの通り、妻はころんとしており、見目は正直によろしくないが、何しろこのように気立てがいい。
皿によそっためしを食う。鶏肉がごろごろ入っていて美味かった。
「イヴィシャさまのところの、ロクさんがいらっしゃいましてね。米を分けてくださいました」
バブガイ。横に並んだ。
「トゥルム・アフドゥ殿は、西と通じておられるようです」
「やはりな」
「前線に大王を引きずり出すために、工作をしておられる。それのひとつが、殿の首と」
「それを、俺がぶち壊したわけだ」
「まだまだ油断めされませぬように」
「わかった、ありがとう。まずはめしをいただこうではないか。これはほんとうに美味いぞ、奥方殿」
「まったくです。米など、久しぶりに食べました。肉の旨味を吸っていて。奥さま、まっこと美味でございますなあ」
「あらあら。バブガイ様とお殿さまにそう言っていただけるなんて、私、幸せですわ」
丸い顔がほころんだ。ツェレンも、少しずつではあるが、喜んで食べてくれている。
奸賊どもが企みを成そうと、バルハドルの知ったことではない。すべては大王と、自分自身のために。そしてこの幸せな時間のために戦っているのだ。
俺は、これを守るために戦っている。そう思えば、どんなことだって、苦ではないのだ。
4.
トゥルム・アフドゥという将軍ひとり、味方につけた。現在、バルハドルに代わって前線の指揮を取っている。ヘルブレヒトを使ってバルハドルを排そうとしたが、失敗に終わったようだ。
これもまずは第一段ということで、高稜峻は気に留めていなかった。いくつかある策のうちのひとつが上手くいかなかった、というぐらいである。
大平原は、二十万動員を視野に入れている。向こうは本拠であるから、時間に制限はない。
となれば早期決戦。それも、早めに大王を前線に引きずり出さねばならない。こちらもそうだが、結局は王の絶対的な力をもとに集合している烏合の衆である。王を叩きさえすれば、それだけで戦は片付くだろう。
「エルトゥールルの王が代わった。諸侯は大いに不満があるらしい」
マイザリウスの私室に呼ばれていた。直々の酌を、高稜峻は恭しく受け取った。
「アルケンヤールは内部紛争が落ち着かず。これで、近隣諸国の介入は考えなくてもよくなりました」
「あるいは瑞国。民衆の蜂起が続いている。これをそのまま大きくすれば、向こうさんもこちらには注力しきれまい」
「その上で、大王を俎上に上げるには」
「余が戦場に出る、だろう?」
マイザリウスの口角がつり上がった。高稜峻は何も言わず、座礼をするだけにつとめた。
「情報だけでいい。あるいは影武者。それで、釣り出せる。トゥルム・アフドゥなる将軍の反乱と併せてな」
「まさしく。赤羽のバルハドルに危機ありとならば、大王も無視はできますまい」
「英雄に頼る軍とは、そういうところが脆いものさ。所詮は個の強さだ。全体の強さではない」
「個の強さを全体のものにもできる。英雄とはまた、そういう存在です」
「それほどのものかね?赤羽のなんとかさんは」
「当代、随一」
「貴公が言うならば、そうなのだろうね」
笑いもせず、しかし微笑みながら、マイザリウスは杯を干した。
「さて、本題だ。余の真意。それをこそ、貴公は望んでいる。先ごろヘルブレヒト・イヴィシャには語ったがね。にわかに信じがたし、といった様子だったよ」
「直接、陛下にお尋ねせよ、とのことでした」
「つまりはそこまで私的な内容なのだよ。きっと誰にも理解が及ばぬものだ」
「私にそれが、理解できようものか」
「高将軍には、理解できるさ」
その目は、ひどく淀んでいた。
宮殿の奥まったところ。倉庫だろう。
閂が外される。
「陛下。これは」
目に入ってきた。高稜峻は、思わず息を呑んでいた。
骨、いや、化石。首の長いけもの。
なにより、肢が一対、多い。
「ドラゴン。いわゆる、龍だ。平原から見つかった」
その巨大な頭骨に腰を掛けながら、マイザリウスはいつもどおりの典雅な声を上げた。その前で、高稜峻は呆然と立ち尽くしていた。
「聖典に記された龍は何かの暗喩だと思われていた。天災、異民族、異国。違う。本当にいたんだ。龍と呼ばれる存在が」
「それが、これだと申されますか?」
「そうだ。そして余の目的は、これの存在を塗りつぶすことだ。龍の実在は、ミュザの実在をも意味するからだ」
「塗りつぶすとは、抹消することですな?何故に」
「殺されているからだ。ミュザの六人。ミュザの庇護者によって」
六人の王。それを思い出して、ぞっとした。
「瑞の繆沢とミュザは、同一の存在という話をされておりました」
「そうだ。ミュザを奉ずる我らとしては、それは都合が悪いことだ」
「何故に、ミュザは殺されたのですか?」
「ミュザもまた、神だったからだよ」
何を言っているかが、理解できなかった。
御使のミュザ。神代の英雄。龍を倒し、天に昇って太陽になったという存在。
それが、神と同一だったというのか。
マイザリウス。立ち上がる。呆然と立つ高稜峻の周りを歩きながら。
「龍に立ち向かい、戦い続ける姿に、ヒトは神を見出した。そうやってミュザは生きながらに祀られたが故に神となった。昔のヒトには、そうするだけの神通力が備わっていた。そしてミュザは龍神を討った。龍の神。朱き瞳の龍をだ」
ヴァーヌの聖典のはじまりに、それは記されていた。それは、高稜峻も読んで知っていた。
荒廃の刻。御使たるミュザ、朱き瞳の龍と相対し、これを斃す。おお、見よ。龍の骸。空を貫く、あの峰のうろへと棄てられれば、たちまち炎の柱となりて闇を焦がす。ミュザは柱を昇りて天へと至り、虚の闇にて輝ける陽光へと姿を変えん。これこそ、昼と夜の、はじまりである。
あれはすべて、本当に起きた出来事だというのか。
「想像を超える出来事が起きた。神たるミュザは、神たる龍を討った時、その神性を受け継いだのだ。龍の神性。神の炎。ミュザの象徴たる炎の冠をだ」
「それを、六人は恐れたと」
「違うよ?」
振り向いた。
マイザリウスは笑っていた。満面の笑みだった。
「ヒトというのは、もっと自分勝手だ。もっと傲慢で、もっと残忍だ」
肩に、手を置かれた。満面の笑みのままで。
「ミュザを殺せば、神になれる。そう思ったんだよ」
「なんと、それは」
「理屈はわからない。でも目の前でそれは成された。ミュザは龍の神性を受け継ぎ、ひとりでふたつの神になった。ならばそれを討つことで、我々もまた神になれると思い込んだのだ」
汗が目に入ったのに気付いたのは、少ししてからだった。
それでも、わからなかった。
「今、この現世には、神たるヒトは存在しない」
「失敗したんだよ」
ひどく冷たい声。背中に流れるものと同じぐらいに。
「ミュザは死んだ。しかし、ただ殺してしまった。ミュザの持っていたふたつの神性は、何処かへ散逸した。どこに行ったかなど、誰にもわからない。我々は救世の英雄を、ただ無為に裏切ってしまったのだよ」
また、頭骨に腰掛ける。その笑みは、もはや壊れたようになっていた。
「ミュザ殺し。これこそがヒトの罪。神に背いたヒトは神を失い、神に通じるための力を失った。ヒトはもう、ただの人になった」
「そして六人は、犯してしまった大罪から目を背けた。ミュザは太陽となった。あるいは繆沢という暴君となり、家臣に誅殺されたことになった。それしか選択肢が思い浮かばなかったから」
「然り。そしてヒトは自身の都合のよい歴史を記さざるをえなくなった。そのためにはヒト以外の文明すらも滅ぼした」
「人でなし、ですな?」
「よくご存知で」
口笛、ひとつ。そうして、マイザリウスはうなだれた。
「塗り潰さねばならぬ。事実が知れ渡る前に。真実という嘘で、この地を覆い尽くさねばならぬ。さもなくば人は罪を背負ってしまう。生命を救ってくれた、未来を紡いでくれた英雄を裏切ったという、罪をね」
沈んだ声。それでも、上げた顔には、炎が浮かんでいた。爆ぜた泥のような、漆黒の笑みが。
それがきっと、恐ろしかったのだろう。
「嘘とは、救済なのだ。誰にとってもそうあるはずだ。そうだろう?貴公にとっても、余にとっても。皆、幸せになりたいはずだよね?だから、そうしようよ。なあ、高将軍」
差し伸べられる手。導かれるように、誘われるように。
「さあ。ひとつ、嘘をつこう。皆が幸せになれるように」
跪き、その手を取っていた。
笑い声は、いつまでも止みはしなかった。
(つづく)
◆登場人物
【大ヴァルハリア】
高稜峻:東の国、瑞から来た老将。
ヘルブレヒト・イヴィシャ:オルリアント辺境伯領領主。
ロク:ヘルブレヒトの密偵、酒姫を束ねる。
ヨーセン:ヘルブレヒトの家臣。高稜峻の副官。
ゾンダーハ:ヘルブレヒトの副官候補。
ミヒャエル・マイザリウス:大ヴァルハリア初代皇帝。
【大平原】
バルハドル:赤羽氏の長。
シドゥルグ:バルハドルの長子。
バブガイ:赤羽氏の家令。
ドラーン:バルハドルの家臣。バブガイの子。
ツェレン:バルハドル第一夫人。シドゥルグの母。
アルミア:バルハドル第二夫人。
トア:バルハドル第三夫人。もとはツェレンの下女。
セオラ:シドゥルグ第一夫人。
エイリン・ツォルホン:バルハドルの家臣。
大王:平原で最大の勢力を誇る王。
デドゥユム:大王の軍勢の軍監で、バルハドルの副官。
トゥルム・アフドゥ:大王直属の将軍。
【その他】
ミュザ:神代の英雄。ヴァーヌ聖教の信仰対象。