099 学校・激闘・決死
ぶわり、と黒色の煙が藍疹蚯蚓から放たれる。メアは全力で後ろに跳躍し、クァトラもそれに合わせて跳躍する。その体液が周囲を腐食させているのを見る限り、ただの煙幕ではないのは明白。幸い拡散の速度は通常の煙と同程度、風が吹かなければ逃げられないほどではない。
だが、それに合わせてきらりと何かが瞬いたと思った次の瞬間には、メアの周囲で硬質なもの同士がぶつかりあう音が連続した。見ると、地面には小金色の金属片が突き刺さっており、クァトラの構えが先ほどとは異なっている。劃金霊が周囲の多面体を飛ばし、それをクァトラが斬り落とした。それを理解し、メアの額に汗が浮かぶ。
次の瞬間には、藍疹蚯蚓がその裂け目から粘液を吐いた。速度はやはりほどほど。しかし、量はメアとクァトラを余裕でずぶ濡れにできるほど。更に下がるか、横に避けるか。メアがその判断を下す前に、クァトラが一歩前に出て剣を振るった。
ひょう、と白い軌跡を残して振るわれた剣は、飛んでくる粘液に触れずに切り裂く。そして、切り裂かれた粘液は左右に分かれ、離れたところに飛び散った。
メアが思わずそれを目で追うと、いつの間にか目の前には劃金霊の本体がいた。
「え?」
本体が回転し、その円錐の先端がメアの喉を切り裂く寸前、クァトラの剣が間に挟まり、劃金霊の回転の軌道が変化する。続くクァトラの一太刀を劃金霊は滑るようにして躱し、そのまま空中の剣の間合外に浮いた。
(まったく、見えない――!)
クァトラがいなければ、劃金霊の攻撃で二回は死んでいた。藍疹蚯蚓の攻撃はまだ威力のほどを見れていないが、メアでは近づくことすらできない。
全くの足手まとい。焦るメアをよそに、クァトラはふうとため息を吐いた。
「飛ばすのは苦手なのよね。それに、こっちは硬いし。メア、どうする?」
「ど、どうとは?」
メアは自分たちを挟んできている二匹に交互に目を遣るが、二匹はクァトラの動きを警戒してか動かない。
メアがクァトラの方に一瞬視線を向けると、クァトラは心配そうな表情でメアの方を見ていた。
「ウルスちゃんのこと。追いかけたい?」
「それはっ、そうですけど! けど、その前にこの場を切り抜けるか考えないと」
「うん、なら、追いかけなさい。足止めは私に任せて。行ってきていいよ」
「そんな、いくら先輩でもこんなのを同時に相手するなんて!」
クァトラはメアの額を剣の柄で打った。痛みはない、非常に軽い一撃だったが、その衝撃はメアの頭を芯まで貫いた。
思わず額を抑えるメアに、クァトラは優しく微笑む。
「大丈夫。先輩を信じなさい。それに、ここにいてもメアにできることはないでしょ。なら、メアがやりたくて、メアしかできないことを、メアがやらなきゃ。ね」
メアは迷った。脳裏になぜかまた予言が思い浮かんだからだ。
お前は、これから大切な絆を得て、それを失う。
果たして、あれは誰のことを差しているのか。ここで、クァトラを置いていってしまっていいのだろうか。失うのは、どんな絆なのか。
だが、メアはそれを頭を振って振り払った。事実、メアはここにいても足手まといなのだし、クァトラはメアが知る限り最も強い剣士だ。この場はクァトラに任せた方が良い。
「走って!」
メアはクァトラの声に従って走り出した。いつ攻撃が飛んでくるかと警戒しながら走ったが、不思議なことにメアへは粘液も金属片も飛んでこなかった。去り際にちらりと見ると、藍疹蚯蚓の体はぶくぶくと膨張し、劃金霊の体は直方体が絡み合った複雑な立体へと変形していっている。クァトラに対して全力で対処するための形態に変化しているため、メアを追っている余裕などないのだ。メアはそう理解し、そのまま走り去った。
そして、遠目にまた振り返ると、さらに他の生命がクァトラの方に集まっているのが見えた。全力でクァトラを仕留めにかかっている。だが、もうメアは離脱してしまった。メアにはクァトラを信じることしかできない。メアは前を向き、更に走る。
ウルスが向かった先には見当がついている。キケのもとだ。そして、キケを殺す。少なくとも、本人はその気でいる。
その後は、どうするつもりなのだろうか。また、もしそうなったら、自分はどうするのだろうか。メアは何度も自問するが、答えは出なかった。
第一教育棟の端までついたが、人の気配はない。通常の災害訓練であれば校庭に火なんているのだから当然だが、剣を打ち付けあう音すら聞こえない。メアは当てが外れたかと歯噛みするが、その直後、人の声が聞こえた。
「糞餓鬼! ルールス! こっちだこっち!」
メアが声のした方、第一教育棟の敷地の端側に回り込むと、一本の木にエシューが太い縄で縛りつけられていた。周囲に他の人間はいない。
「エシュー先生! ウルスはどこに? これ解けばいいんですか?」
「馬鹿、違う! そいつは土泳鰻だ!」
メアが触った太い縄はぬめっていた。そして、非常に弾力がある。メアが顔を上げると、エシューの顔の横から鋭い牙を持った魚がメアの方を睨んでいた。
噛みつきをすんでのところで躱し、メアは剣を抜いてその首を刎ねる。幸い、硬い鱗や皮膚を持っていたりはしないようで、その首はぽんと飛んで地面を転がった。
飛び散る血を払いのけながらエシューは仏頂面で言う。
「お前、なんでこっちに来た。助かりはしたが、さっさと校庭に逃げろ」
「ウルスと話したくて。どっちに行きました?」
「もうそういう時間じゃないんだよ、ルールス。始まっちまった。そして生徒を危険にさらした。もう終わりだ。あの子は捕まえてウィダッハの警邏に引き渡す」
「でも、もう一度だけ」
食い下がろうとするメアの頬をエシューは拳で殴りつけた。そして、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「終わりなんだ! もう手遅れなんだよ! あの子は、自分でそう決めた! だから、終わりだ。諦めろ、ルールス」
膝から力が抜け、倒れ込みそうになるエシューの体をメアは受け止める。そして、背中に回して尻の下に手を当てる。担いだエシューの体は、メアの想像よりずっと軽かった。
「嫌です」
「我儘を言うな」
「嫌だ」
「なぜだ」
「友達だからです」
「たった半月だろ」
「それでもです」
「相手も同じように思ってるかはわからんぞ。お前を利用しようとしてただけかもしれない」
それをメアは否定できなかった。そして、だからこそそれを確かめたかった。会って、ウルスに問いたかった。
メアはそのまま塀に沿って歩く。
「先生はどうなんですか」
「何がだ」
「ウルスのこと、どう思ってるんですか」
「実験体だ。ただのね」
「どんなことしたんですか」
「言えるわけないだろ」
「言えないようなことしたんですね」
「言っとくが、私は大したことはしてないぞ。私にできるのは治すことだけだからな」
「じゃあ、なんで。なんで、あんなにウルスを助けようとしたんですか。自分が殺されかけてまで、庇ったんですか」
エシューがあの子と呼ぶとき、その声にはいつもどこか優しさが混じっていた。大切な我が子にわざと興味のない素振りをしているかのような、大切な友人をこっそりと懐かしんでいるかのような、そんな優しい響きがあった。
エシューは自嘲するように吐き捨てた。
「何を想像してるか知らんがね、ただの罪悪感だよ、私もキケも。私はあの子を苦しめた。キケはあの子に憎しみを植えた。だからキケは軍を辞めたし、遅れはしたが私もそうした。それだけだ。ただそれだけ」
その声には、やはり、優しさが籠っているようにメアは感じた。
そのとき、剣戟の音が聞こえた。メアはそのまま塀沿いに走る。すると、第一教育棟の端、隅の空き地で、ウルスとキケが向かい合っていた。
「ウルス!」
メアの声にウルスはぴくりと肩を揺らしたが、振り返ることはしない。正面で剣を構えるキケから目を離さない。
「俺はウルスと一緒にいたい!」
なぜなら、友達だから。それがメアの本心だ。
ウルスは違うのか? そう続くメアの問いを聞く前に、ウルスは雄たけびを上げてキケに斬りかかった。そして、二人の影が交錯する。
ウルスの一撃は鋭く、キケの重い剣ではそれを受けることができなかった。ウルスの右手の剣はキケの左腕を斬り飛ばし、左手の剣はキケの脇腹に深く食い込んだ。
言葉を失うメアの目の前で、キケの残った右腕がウルスの首を掴み、ウルスの体を持ち上げ、地面に叩きつける。反撃が来るとは思っていなかったウルスはそれに受け身を取ることはできず、地面に叩きつけられて右手から剣を離した。左手で反射的に行おうとした反撃も、キケに足で踏まれて封じられる。
そして、キケの拳がウルスの腹部に深々と打ち込まれた。ウルスは一度大きく体を痙攣させると、そのまま力なく四肢を地面に放った。
メアは叫んで駆け寄ろうとしたが、体が動かなかった。いつの間にかエシューに首を掴まれている。まるでそれだけで全身の神経をせき止められたかのように、瞬きすらできなくなっている。
辛うじて動く目を必死に動かすと、気づけば周囲には先生が集まっていた。ナッゼ先生、デューク先生、イドハ先生。ミ先生、テブチ先生、校長先生までいる。いつもの如く、武闘派が勢ぞろい。もうどうやってもウルスが逃げることはできない。逃がすこともできない。
何やら話し合いながらナッゼ先生がウルスを縛り上げ、背中に担ぐ。ウルスの顔は一瞬メアの方を向いた。そして、その虚ろな目が一瞬だけメアと交錯する。
ウルスの唇が、ゆっくりと動く。
ごめん。メア。さよなら。
そう動いた気がした。だが、それを確かめることはメアにはできなかった。
メアの体はぴくりとも動かず、ウルスが運ばれていくのを見ていることしかできなかった。




